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嬉ションしないでくださいね、殿下!

作者: 神田義一

 ガラン、と棚に置かれたスライムフードの袋が空気を吐いた。

 ドッグフード、キャットフード、そして……スライム専用フード。



「ほとんど粘土みたいな色合いだけど、これが無いとぷにちゃんが不機嫌になるのよね」



 ここは私が営む、小さな小さなペットショップ。

 通りに面した角地の、苔むした石壁の一角──もとは物置だったところを手作りで改装して、こうして十年。店というにはおこがましいけど、私と動物たちにとってはれっきとした「城」であり「居場所」。


 とはいえ、狭さは誤魔化しようもないわ。

 床には檻というより“柵”程度の囲いが並び、子犬たちがキャンキャンわふわふと駆け回っている。活気はある。うるさいくらい。


 さて、子猫ちゃんたちは?

 あら……全員寝てるわ。


 さすが“寝る子”から来てるってだけあるわね。あいつら本当に起きる気があるのかしら。餌の時間でも寝ぼけ眼で寄ってくるのが関の山。まったくもう。


 ──そして



「いや〜ん、ぷにちゃんは今日もかわいいわねぇ〜〜! ぷにぷにで、ひんやりしてて……夏にぴったりの抱き枕だわ……!」


「ぷにぃ!」



 ゲージの中で控えめに跳ねるのは、うちの看板スライムのぷにちゃん。名前は見たまんま。

 まぁ、商品でもあるので、変に凝った名前を付けすぎるのもよくないしね。


 ぷにちゃんは不思議と体温が低くて、触るとひんやり。しかももちもちとした弾力がクセになるのよね。抱き枕というか、半分アイスノン、半分癒やし。最近ちょっと大きくなってきてる気もするけど、それはそれで抱きがいがあるわ。


 私は慎重にゲージを開けて、ぷにちゃんの表面を布で拭っていく。汚れがつくとすぐ体の透明度が落ちるから、手入れは欠かせない。



「よしよし、今日もつやつやよ〜。さすが私のぷにちゃん。ご飯もちょっと増やしとくね。いっぱい食べて早くいいご主人様が見つかるといいね!」


「ぷにゅっ」



 とろけるような声が返ってきた。

 あぁ、癒やされる……この時間のために生きてる気がするわ……。



 ◆ ◆ ◆



 ──さて、改めて自己紹介しておこうかしら。


 我が家、リュベルネ・ドルドワ子爵家は、一応貴族だけれど──貴族界の末席中の末席。

 要は、“貴族”という肩書きだけをギリギリ維持しているギリ貧家系。家計は風前の灯。


 着るものは一昨年のドレスの裾を詰め直して、外出時は魔獣皮の古いマントで誤魔化す。貴族の嗜み? そんなものより今月の飼料代の方が大事に決まってるじゃない。


 でも私は、だからこそ動いたのよ。

 貴族の威厳にすがるより、自分の手で立ち上がる方がずっと尊いと思ったの。


 十年前、ちょうど十歳だった私が王都を飛び出して始めたのがこのペットショップ。最初はほとんどお小遣いレベルだったけど、今じゃ町の住民にだって「動物のことならドルドワ店長」と呼ばれるようになった。



『オーナ〜! オーナー〜〜!』



 ……ん? 今、何か聞こえた?

 いやいや気のせいよ。今はぷにちゃんとの至福タイム。余計な雑音には耳を貸さない主義。


 ──しかし



『エレオノーレ〜〜!』


「うるっさいわね! 名前で呼ぶんじゃないわよっ!」



 あまりにしつこかったので、思わず声を張り上げた。


 振り返った先には、一匹の犬が座っていた。

 雑種で、でっかくて、尻尾もぶっとい。暇さえあればこうして私に話しかけてくる。


 名はなし。通称「じい」。

 年齢は推定十歳。私が店を始めたその年に、野良として瀕死で保護して以来の付き合いだ。



『なぁ、なぜ俺だけゲージの外に転がされてるんだ? 他の連中は柵の中でゆったり寝たりみんなで遊んだりしてるのに、俺だけ壁の隅なのはどういうこと?』


「前から言ってるでしょ。アンタでかすぎて、入るゲージがないのよ。子犬たちもアンタにビビるし」


『それはそうか……十年売れ残ってしまったもんな、俺』



 ため息混じりの「わふ」。

 でも不思議なことに、私にはコイツの言いたいことが分かる。言葉じゃなくて、まるで脳に直接届くような感覚。十年も一緒にいたら、もう意思疎通できる域まで達しちゃったのよね……。


 つくづく、動物って不思議だわ。



『でも、リードで繋がれてもいないのは一体何故だ? 逃げようと思えば逃げられるんだが?』


「はいはい、勝手に逃げて保健所行ってらっしゃい」


『……見捨てられてる、と。……そういうの、グサッとくる』



 耳をぺたりと倒して項垂れるじい。

 あーもう、なんなのよその“僕は可哀想です”って顔は! わざとでしょ絶対。

 なんでこう犬って、「僕はこんなにかわいいのに何故酷いことされるんだろう」って顔できるんだろ。

 被害者ヅラ得意よね。



「もうわかったわよ! ごめんね、ご飯早めにあげるから! 機嫌直して、ほらっ」



 袋からドッグフードを皿に移す音が鳴った瞬間──

 じいの口元から、よだれがつーっと……。

 鼻息荒く前足をガタガタさせた次の瞬間、飛びつくように餌にかぶりついた。


 そして──ちょろろろろろ。



「ちょっと! また嬉ションしたでしょ!」



 床に広がるぬるっとした水たまり。

 あぁもう、十年経ってもこれだけは変わらない!



「アンタねぇ、誰がそれ片付けると思ってんの⁉︎」


『すまんな……でも最近は、もう嬉しくなくても出るんだ……』


「完全に老化じゃないの……もう、売れ残りどころか“保護対象”よ……」



 ──まったく、情けな……いや、年を重ねれば誰だってそうなるわよね。人間だって加齢で尿意コントロール怪しくなるし。うん、これは仕方ない。しょうがない……けどさぁ……!


 わふわふわふっ! 


 ドッグフードがまるで滝のごとく吸い込まれていく様子を、私は呆然と見つめた。

 さっき皿に盛った分、普通の成犬なら三食ぶんあるはずなのに……今じゃもう底が見えてる。咀嚼? そんなものは存在しない。喉奥にそのまま直行してる勢い。



「……どんだけ食べるのよ、アンタ」



 じいは大型雑種だ。

 つまり胃袋のスケールも桁違い。ドッグフードの袋が一週間もたないって何よ。

 商品に餌代で穀潰されるペットショップって、経営としてどうなのよ──ほんと、洒落にならないんだけど。


 でも……まぁ、その満足そうな顔を見ると、つい「まぁいっか」って気持ちになっちゃうのよね。

 飼ってるワケじゃないけど、飼い主心理ってほんと甘い。



「黙って食べてたら可愛いのにね──」



 撫でようと、そっと手を伸ばした瞬間──



「ヴッ!」



 牙が剥き出しになった。目がギラついた。



『俺は頭を触られるのが嫌いだ』



 びくりと手を引っ込める。

 くそっ、心臓に悪いったらない。



「……前言撤回。やっぱ可愛くないわ、アンタ」


『はっ。見た目で判断するのは悪い癖だぞ。触られたくないものは触られたくない。個性を尊重しろ』


「アンタねぇ! 頭撫でられるのが嫌いな犬なんてそうそういないわよ⁉︎ そういうところが売れ残る原因なのよ!」


『ええい、嫌なものは嫌なんだから仕方ないだろ。それに、十年も売れ残ったことを犬のせいにするのはフェアじゃない。エレオノーレの営業努力不足の方が問題なんじゃないのか?』


「ううっ……」



 ……言い返せない。


 営業努力。まさに耳が痛い。たしかに、売れないことを犬のせいにする奴がどこにいる?

 お得意様はいても、経営が爆上がりしたわけじゃない。


 こいつの言うことは正しい。



「ごめ──」


『それに、お前だって子爵令嬢のくせに二十歳になっても婚約者の一人もおらずに売れ残ってるじゃないか。偉そうなことを言うな』


「──ぷっちーん」


『プリーン』


「んがあああああああああッ!! この犬ほんと嫌い!! 誰かこの駄犬買ってぇぇぇぇ!! ていうかプリンとか、食べさせたこともないのにどこで覚えてきたのよッ⁉︎」


『昨日窓の外にいた野良猫が言ってた。ぷっちんするとケースからプリンと出てくる菓子が発売されたと』


「猫ぉぉぉぉぉぉ……!」



 地団駄を踏んでいたそのとき──


 ガララン、と扉が開いた。



「あ、い、いらっしゃいませっ……」



 私は反射的にピシッと背筋を伸ばした。

 反射的に、声のトーンを三段階ほど上げる。


 現れたのは、整った顔立ちの青年だった。

 仕立てのいいグレーの上着、淡い金の刺繍。歩き方まで品がある。彼の名は──



「リオネル様、来ていただけたんですね! ありがとうございますぅ!」


「やあ、どうも。先日話していた時から気になってね……」



 その声も、まるで熟成されたヴィンテージワインのように深く柔らかい。

 ふにゃっと心が溶けそうになる。


 ──リオネル・ヴェルシュ侯爵子息様。

 少し前、とある茶会に招かれた時に偶然席が近くなって、それがご縁の始まりだった。


 あの時、貧乏子爵家からの参加なんて正直肩身が狭かったけど、リオネル様はそんな私にも気さくに声をかけてくださって……つい嬉しくなって、ぽろっと「実はペットショップをやっているんです」と話してしまったのよね。


 そして話題は、十年前に拾った犬──「じい」の話へと進み、私が「こいつがまた変に生意気で……もう売ってやるー! って思って始まったようなもんなんですよ」なんて、冗談交じりに言った瞬間。リオネル様の目が、ふっと鋭く光ったのよ。



『じゃあ、今度行かせてもらおうかな』



 ──あの一言からの今日、なのだ。



「ふふ、僕も動物は好きでね」



 そう言って微笑んだリオネル様の横顔に、胸がきゅんと高鳴った。


 見たか、じい。

 私だって売れ残ってるかもしれないけど、恋してないわけじゃないんだから。


 貴族の中では珍しい、動物好きで気さくな方。しかも若くして出世頭。たしか今は新王直属の【財務参謀院】の筆頭書記官──一国の財布を預かるポジションに就いてるとか。すごすぎて正直よくわからないけど、とにかくとんでもなく立派な人なのは間違いない。


 それを察したのか、子犬たちはすでに群がり始めていた。

 尻尾を全力で振りながら、「選んで選んで」と全身でアピールしている。ああ、商売上手ねキミたち。売る側が見習わなきゃって思うレベルよ。



「この子なんてどうですかっ? 最近入ったばかりなんです。甘えん坊だけど頭も良くて、言うこともちゃんと聞くんですよ!」


「わふぅ!」



 食パンのようなフォルムの子犬をひょいと抱き上げて、そっと彼の前に差し出した。


 リオネル様の大きな手が、子犬の額を優しく撫でる。

 その指先は繊細で、まるで高価な硝子細工を扱うような丁寧さだった。



「あぁ、いい毛並みだね」


「毛並み?」



 そう言ったきり、あまり興味もなさそうに店内を見渡すリオネル様。

 そして彼の視線が止まったのは──そう、店の隅で寝転がっていた一匹の老犬。


 他の犬たちがリオネル様にアピールしているというのに、あいつってば、まったく何もしない。いやむしろ、微妙に殺気めいた空気まで醸し出してる。なに? 牙の角度とかで無意識にマウントでも取ってんの?



「ところで、こないだ言っていた、十年前からいる犬は彼のことかい?」


「え? え、えぇ。まぁ……おじいちゃんになってきましたし、もう売り物として見てるわけじゃないんですけど……」



 私がそう答えると、リオネル様の口元がふっと釣り上がった。

 なんだか、妙に……楽しそうな笑顔。あれ、気に入っちゃった?



「えっと……侯爵子息様ならば、もっと品のある犬種などの方がよろしいのでは……? 悪いとは言いませんけど、その……お世話も結構、大変ですよ?」


「いや、ふふ……わかった。今日のところは帰らせてもらうよ。また明日、改めて準備してから来るよ」


「あっ、はい! かしこまりました!」



 準備って何⁉︎ 餌? ゲージ? 

 っていうか、もしかしてじいをお迎えする気満々⁉︎



「……ああ、それと。あの老犬は、それまでには売らないでくれ。……まぁ、売れるとは思えないけどね」


「っ……かしこまりましたっ!」



 ぱたん、と扉が閉まり、再び静寂が戻る。


 はぁ〜〜かっこよかった。

 なによ、イケメンで地位もあって、子犬にまで優しくできるなんて、完璧じゃないの。

 あんな人に見初められてお嫁に行けたら──なんて、つい考えてしまう。


 ……でも、まだ数回しか会ってないし、こんな貧乏令嬢が営んでる小さな店にわざわざ来てくれただけで舞い上がるなんて……うーん、変かな……でも、でも……!



「…………」



 甘ったるい思考に頭がとろけかけていたそのとき、視界の端で、影がぴくりと動いた。


 じいだ。

 彼はずっと、扉が閉まるまでリオネル様の背中を睨みつけていた。 



「なによ、じい。その顔……せっかく売れるかもしれないチャンスだったのに、もうちょっと愛想良くしておけば即決だったかもしれないのに」


『……いや。アイツに飼われるくらいなら、死んだ方がマシだ』


「……は?」



 思わず、間の抜けた声が漏れた。



「なに言ってんのよ。彼、かっこいいじゃない。立場もあって、動物も好きそうだし、あんな人に飼われたら──」


『アイツは五年前の王権交代で生まれた新王が設立した【財務参謀院】の筆頭書記官だろう。裏じゃ“金食い虫”とか、“庶民狩り”なんて呼ばれてるらしいな』


「え、でもそんな……リオネル様が?」


『お前が未だに貧乏子爵のままなのも、新王とアイツが税制を弄った結果だろ。現に今、消費税いくらになった?』


「…………二〇%」


『ほら見ろ。俺の値段も最近まで一一〇〇〇ゴールドだったのに、今じゃ一二〇〇〇ゴールドだ。つまり、俺が売れないのもアイツのせい。そういうことだ』


「……なんでそんな細かい事情まで知ってんのよ」


『ゲージの下に敷かれてる新聞、毎日読んでいるからな』


「なんで犬が新聞読めるのよ⁉︎」



 鼻を鳴らしてそっぽを向いたじいは、低く、しかしはっきりと呟いた。

 まぁ……確かに私がペットショップを始めた頃はもう少し物価も安くて、税金だってそんなに多く取られなかった。

 今の売り上げを十年前の感覚で手取りに出来るなら、もうちょっと良い店に改装できたなぁなんて考えたりすることもあった。


 十年前──当時、王国には、希望の星とまで呼ばれた王太子がいた。


 その名は──ジグリス・エル・ファルネリア殿下。

 父である現退位王の次男であり、生まれながらの“次期国王候補”とまで言われていた。


 聡明で、文武両道で、庶民の声にも耳を傾ける寛容さを持ち、しかも顔までいいときた。

 まさに絵に描いたような理想の王子様で、民の誰もが「この人が王になれば、きっと王国は変わる」と信じて疑わなかった。


 ……けれど。


 ある日、突如として姿を消した。

 騎士団も宰相も、国中が血眼になって捜索したけれど、彼の消息は最後まで掴めなかった。

 暗殺説、国外逃亡、内乱の火種を恐れた王家による隠蔽……噂は色々と飛び交ったけど、結局なにも証拠は出なかった。


 そして五年前。


 退位王が病により王座を降り、その座に就いたのは……

 あの“希望の王太子”の兄、ユリウス・エル・ファルネリア。


 ジグリス殿下と正反対のタイプで、感情を表に出さず、必要と判断したら冷徹な手を躊躇なく打つ実務家タイプ。

 彼が打ち出した財政改革はたしかに一部で成果を出してはいるけれど、それに伴って生まれた格差と税負担は、明らかに貧民層にとっては過酷なものになっていた。


 私の家が“名ばかり貴族”であり続けているのも、実はそうした政策が原因だったりもする。



『俺だったら……もっとまともな王国にする』


「……はぁ? 犬のくせに何言ってんのよ」


『民を疲弊させない税制度に、商人たちと農村の流通を効率化して、国全体の底上げを図る。

 王城内部の無駄な支出を削減して、余剰金は教育と医療に回す。

 んで、動物を買うのに消費税二〇%とかいうふざけた項目は即時撤廃する。

 犬だからこそ分かる。本物の“忠義”ってやつを見せてやるのさ』


「…………」



 ──いやいやいやいやいや。


 なんでそんな詳細に、現政権の矛盾を突けるのよ!?

 ああもう、ほんとに何なのよこの犬。



「もう、二〇%でもなんでも、売れるならいいじゃない。アンタ、ずっと“誰かに飼われたい”って言ってたし。次リオネル様が来た時は、ちゃんとアピールしなさいよ。アンタのその態度見たら、いくら温厚な人でも気が変わっちゃうかもしれないし──」


『…………いやだ』


「は?」


『……他の者に売られたい。あいつだけは、いやだ』


「わがまま言わないでよ。もう売らないようにって言われてるし、そんなこと──」


『契約を交わしたワケではないだろう? それに、犬側にも“主人を選ぶ権利”はあるはずだ!』



 ……たしかに、変な人には私も売りたくないけど……。

 でも、そんなに嫌なものかね? 決して悪そうな人じゃないのに。


 だけど、その真剣な眼差しに、私はふと、少しだけ胸を突かれた。


 ……まぁ、犬にも選ぶ自由があっていい……か。



「……はぁ、しょうがないわね。じゃあせめて、売れる努力くらいしなさいよね。今度こそ、ちゃんとアピールして」


『うむ。期限は今日までとあれば全力だ』



 ◆ ◆ ◆



 ──というわけで、我がペットショップ・ドルドワの裏企画、

 “老犬じい☆売却大作戦”が、ついに火蓋を切った。

 ……言い出したのは本人(本犬)だけど。


 正直、売れるかどうかは半信半疑だった。

 いや、三分の一信七分の疑くらい。


 でも一応は努力するつもりよ? 店主としては、やっぱり全ての動物にチャンスを与えたいし。


 とはいえ──



『なぁ、前々から思ってたんだが、何故他のやつらの表示札には《人気NOワン! トイプゥ》だの、《毎日が大冒険! ドックスフント》だのと魅力的なフレーズが踊っているのに……俺の札には《雑種》の二文字しかないのだ?』



 ……うぐっ。


 言い返せないわ。というか、やっぱ思ってたのね、それ。


 いや、わかってるのよ。キャッチコピーって重要。購買意欲に直結するのも百も承知。

 でもアンタに合うキャッチって、ほんと難しいのよ……。



「しょ、しょーがないじゃない。アンタ雑種だし……」



 あ、やば。口が滑った。

 じいがじとぉ〜っと私を見ている。



『……雑種にも、希望はあるのに……』


「も、もう! わかったわよ! じゃあアンタは何て書かれたいのよ!」



 ぐいっと立て看板用のペンを持ってきて、白紙のプレートを構える。



『ふむ……では……【あなたの傍に話し相手! 喋る珍種!】』


「嫌でしょそれ⁉︎ っていうか、喋れるの私だけだし‼︎ お客さんに話しかけたらただの吠えてる犬じゃない‼︎」


『じゃあ……【現国王を引き摺り下ろせ! 政治犬!】』


「国に喧嘩売らないで⁉︎ 下手すりゃ店ごと飛ぶわよ!?」


『【ペットに慈悲を! 消費税反対犬!】』


「何がしたいの!? 訴えたい方向性が犬からどんどん逸れてるのよ!」



 途中から怒鳴り気味だったけど、本人(犬)はむしろ誇らしげだった。

 そろそろ選挙に出そうな勢いよ、この老犬。


 はぁ、なんかもうめんどくさくなってきたわね。



「……はい、これでいいのね」



 私は半ばヤケクソ気味に、プレートに殴り書きした。



 ──【増税反対! 物知り犬】──



 書いたあとで、売れなさそうな文字列だなって思ったけど、もういいや。

 じいも、書き終わった看板をしばらくじぃっと見つめたあと、そっと目を逸らして、



『……言わなきゃよかった』



 っていうテンプレートのような反省顔をしていた。

 いや、だから真面目に考えなさいよ。言い出しっぺはアンタなんだから。



 ◆ ◆ ◆



 ……で、結果どうだったかというと。


 夕方になっても、売れなかった。



「じゃあ、ぷにちゃ──じゃなかった、ペット用スライムのゲージもご用意しますね!」


「そうねぇ! スライムって飼ったことないから、ほんと楽しみだわ! 店員さんもすっごく丁寧に教えてくれるし!」


「えぇ、まさかトイプゥと一緒に飼っていただけるなんて。ありがとうございます。よかったね〜トイプゥちゃん!」


「わふ!」



 マダム客がキャッキャと楽しげに退店していく。両手にはリボン付きのケージ。中にはころんとしたトイプゥと、ぷるぷる震えるぷにちゃんが同居している。


 ……あぁ、ぷにちゃん、今こそ別れ目……可愛かったわ。元気でね……。


 そしてその様子を、隅の壁際で見る一匹の犬──じい。


 項垂れてる。

 あからさまにショック受けてる。

 耳がぺたんと垂れて、尻尾がまるでしおれた雑草みたいになってる。


 看板には、まだ例の文言が燦然と輝いている。


 ──【増税反対! 物知り犬 五〇〇〇G】──


 うん。心は痛むけど、そりゃ売れんわ。 


 しかも、あの後じい本人が「今の情勢で高価格は好まれない」とか言い出して、自ら値段を一二〇〇〇ゴールドから五〇〇〇ゴールドに値下げ。しかも「税込価格に見えるように」とかよくわからない主張まで通して、まるで庶民派アピールでも始めたかのような売り文句に変貌した。

 ちなみにトイプゥとぷにちゃんは二匹合わせて四〇〇〇〇〇ゴールドである。八〇倍である。


 それでも結果、余計に売れなかった。なんかこう、色々と胡散臭くなった結果である。



「……アンタねぇ。自分で価格交渉して、自分で私に看板書かせて、自分で庶民層向け営業仕掛けて、これでもまだ“ペット”として売れると思ったの?」


『くっ……客層の分析が甘かったか……』


「分析の前に、キャラ迷走してるって気づいて⁉︎」



 はぁ、と大きなため息をついて、私はじいの隣に腰を落とした。

 夕焼けが、苔むした窓ガラスに反射して、店の中をオレンジに染める。



『……なぁ』



 ぽつりと、静かな声が耳に届く。



『俺は……誰にも必要とされてないのかな』



 その言葉に、思わず振り返ってしまった。


 老犬の目が、どこか濁っていた。

 曇天のような瞳に映るのは、売れなかった自分の存在そのもの。 


 売れ残り。

 十年間、ただ一度も選ばれなかった犬。

 人間なら、婚期を逃した哀れな女のレッテルを貼られるような──そんな風に。



「……いらなくなんて、あるわけないじゃない」



 そっと手を伸ばし、その大きな背中を、ぽん、と軽く叩いた。



「私はアンタを十年もそばに置いてたのよ。それって、必要とされてるってことじゃない?」


『……それは、俺が商品だからだろう?』


「あはは、商品としか見てない犬を十年も置くワケないじゃない。今更五〇〇〇Gで売れても大赤字よ」


『じゃあ、情で置いてもらってたワケだ』


「……違うわ。アンタが、大切な家族だからよ」



 ……私が十歳のとき、初めて拾った命だった。

 ペットショップをやろうと決意したのも、アンタがいたから。


 だから、きっと売れなくても──

 いや、売れなかったからこそ、特別なのよ。



「しょーがないわね。どうしてもイヤなら、断ってあげるわ。私が引き取るって言ってあげる」


『…………』


「だから、元気出しなさい。あなたはちゃんと、私に必要な子よ」


『……そうか。ありがとう』



 小さく、静かな「わふ」が聞こえた。

 私は微笑んで、そのまま背中を撫で続ける。


 ──そして、扉のベルが、再び鳴った。



「……え?」



 夕暮れのオレンジの中に、影が差す。

 逆光で顔は見えないけど、間違いない。


 あの佇まい。あの気配。

 扉の向こうにいたのは──



「……やあ、来たよ。少々時間が早くなってしまったが、こちらも待ち遠しくてね」



 扉の向こうから歩み出てきたのは、リオネル・ヴェルシュ侯爵子息様。

 その声はいつもどおり柔らかく、気品と知性に満ちていたはずだった。けれど──その隣に立つ、もう一人の男の存在が、すべての空気を変えた。



「…………え……」



 金で縁取られた黒のマント。氷のように整った顔立ちと、鋼鉄のような眼差し。

 その男を、私は知らないはずなのに──否、知っていた。


 王都の通貨に刻まれた肖像と寸分違わぬその人。



「ユ、ユリウス陛下……?」



 国王陛下。現ファルネリア王国の頂点。

 貧乏子爵令嬢である私には、本来なら一生出会えることすらない存在。



「ふふ……さすがだな、リオネル。例の犬、確かにここにいたか」


『──……』



 じいが、うなり声を漏らす。

 その牙は剥き出しになり、背中の毛が総毛立っていた。



「まさか……まさか陛下が、じいをお求めに……?」



 自分でも信じられない言葉が、口から滑り出ていた。

 リオネル様が目を細めてじいのプレートを見つめた後、肩をすくめるように笑う。



「増税反対犬? ククク、よほど売れたかったとらしいな。我々以外の誰かに」



 朝、あれほど優しげだったリオネル様が、今は──下卑た笑みを浮かべている。

 まるで、仮面を剥いだ道化のように。



「おお……我が弟ジグリスよ」



 ユリウス陛下が、にやりと唇を歪めた。



「随分と必死だったようだなぁ。そのような情けない姿になって尚、呪いを解こうと抗っていたのか?」


『──っ』



 じいの唸り声が一層低く、鋭くなる。

 その名を出された瞬間、私は何かが胸の奥でひっかかるのを感じた。



「……ジグリス? それって……」


「ふふ、わからんか? 十年前、王太子として讃えられながら突如姿を消した──あの“希望の王子”さ」



 リオネル様が、くるくると指を回しながら、陛下に続いて語り出す。



「第一王子である陛下は、何もかもご自身を上回る能力を持つ弟・ジグリス殿下が次代の王になることを嫌い……とある禁術を用い、彼を“犬”へと変えたのだよ」


「なっ……⁉︎」



 言葉を失う。

 犬? 禁術? まさか……まさかそんな……。



「だが、ジグリス殿下は逃げた。呪われたその身で、王城を、そして我らの目を掻い潜り、姿を消した。

 ……まさか逃げ込んだ先が、この場末のペットショップだったとはね」



 リオネル様の目が細められ、口角が上がる。



「十年前、君が拾った“変な犬”──それが、我々の探し続けていたジグリス殿下だったのです」



 頭を抱えたくなる。


 そんなバカな話──と否定したかった。

 でも、私の腕の中で寝ていた、あの犬の目は、たしかに──人の心を知るような深い光を湛えていた気がしなくもない。


 だって、じいはあまりにも犬離れした存在だったから。



「さて、店主よ」



 ユリウス陛下が、ひとつ笑う。

 その笑みは優雅で、けれど冷たいナイフのように鋭い。



「そういうわけで、この犬は元々、私の家族なのだ。だから引き取らせてもらう。そうだな……世話をしてもらった礼に金なら払おう。特別だ。言い値で買ってやる」


「……っ、あ、あの、その……」



 私は慌てて口を開いた。

 喉がひりついて、言葉が上手く出てこない。それでも、言わなければならなかった。



「その子は……私が、引き取ることにしたんです。……尿漏れも酷くて、もう、売り物にするわけには……」



 ──けれど、私の言葉を聞いた陛下とリオネル様は、数秒きょとんとした後で、



「「……ふはははっ、あーっはっははは!」」



 声を揃えて爆笑した



「そんなことは関係ないのです。この犬は、もともと陛下の“家族”なのですから。貴女が今更どうこう言える権利は持ち合わせていない」



 背筋が凍る。

 私は、胸を押さえて、微かに震えた。



「それに、呪われているとは言え解く方法はある。まぁ、にわかには信じがたいが、その犬は誰かに飼われることで呪いを解こうとしているのは見ればわかる。故に、放っておくことは出来ない。手元に置き、監視しておくのが一番だろう」



 それを言いながら、リオネル様は私に大量の金貨が入った包みを差し出した。

 煌めく厚み。指先が震えた。視線が勝手に吸い寄せられるほどの、圧倒的な重さ。



「というわけで、ドルドワ子爵令嬢。交渉といこうじゃないか。なぁに、心配することはない。城の中ではある程度自由は与えてやるし、処分するわけでもない。陛下も、ジグリス様を飼う良き主人になられるだろう」


「…………っ」



 従うしかない。

 じいが本当に王子だったとしても。……今はただの犬。私を守る手立てなどあるはずもない。


 ここで断れば、私は「反逆者」として扱われるだろう。

 貧乏子爵家など、政敵を潰す理由としてはちょうどいい。誰も庇ってはくれない。


 けれど──



「……どうした? 黙っていてはわからん。それとも、まだ足りないか? 貧乏子爵には、過ぎた金額だと思うが」



 リオネル様の、どこまでも甘い声。

 ──私が好きになったその声は、もう真っ黒な絶望に塗りつぶされている。


 陛下の側近が、一歩前に出た。

 手には──首輪、とは到底言えない鉄製の拘束具。まるで囚人の首に嵌めるためのそれ。

 今からじいに嵌められるソレに、私は思わず声を上げてしまった。



「あ、あのっ……」


『やめろ、エレオノーレ』



 私が何を言うのか察したのか、じいが唸り声を上げて制す。

 けれど、もうその足は動かない。牙も、震えていた。



『……エレオノーレ、何もするな。……妙なことをすれば、君まで何をされるかわかったものじゃない』


 

 これから兄に"飼われる"逃げ場のない犬となることを分かっていながら、それでもじいは私へ気を使ってくれていた。

 どこまでも、優しい瞳で『迷惑かけたな。俺のことは忘れてくれ』と言わんばかりに。


 ──それでも。



『エレオノーレ⁉︎』



 私は、リオネルの差し出す金貨も、陛下の嘲笑も、じいの思いやりすらもすべて無視して。

 静かにじいと彼らのあいだに、そっと立ち塞がった。



「……なんだ? 店主よ」



 冷たい声が飛ぶ。

 震えた。けれど、目をそらさず、拳をぎゅっと握って──



「こ……こここの、子は……あ、あなた達のような人には、う、売れません!」


「……は?」



 不快そうに眉を寄せるユリウス陛下。


 声が震える。

 喉の奥が乾いて、うまく息すらできなかった。

 けれど私は、震える両脚を必死に支えながら、身分不相応にもかかわらず、王に立ち塞がる。



「こ、この子はただの老犬です! そ、そんな首輪でもないもので乱暴しないでください!

 お金なんていりません! あなたたちのように、動物に乱暴しようとする人には、絶対、ゆ……ゆ許しません!」



 私は、震える足で立ち塞がり、彼らの前に、じいの前に立つ。


 貧乏子爵令嬢のくせに。

 王とその側近たちを前にして、こんなにも不遜な態度をとっているだなんて。

 わかってる、わかってるわよ、頭では。


 ──でも、これだけは譲れなかった。



「ふふ、ふはははっ、何度言わせる。これは、ただの犬ではない。それに、そんな犬を守るために己の身分までも投げ出してどうする?」


「さぁ、そこをどけ、エレオノーレ嬢」



 ユリウス陛下が、わずかに顎を引く。

 その合図一つで、側近たちが──剣を帯びた兵士たちが、私の方へと歩みを進めてくる。



『やめろ、エレオノーレ!』



 じいの声が、私の背後から響く。



『もう関わるな! ……お前が何をしようと、もうどうにもならん。お前だけでも……っ』


「うるさいっ!!」



 私は、振り返って、じいをぎゅっと抱きしめた。


 その身体は、いつもよりずっと震えていて、あたたかくて、苦しそうに唸っていて……でも、それでも私は、両腕を絶対に緩めなかった。



「私は……私は、ペットショップのオーナーよ!」


「乱暴な人に売る動物なんて──一匹たりともいないわ!!」



「やれやれ」とでも言いたげなユリウス王の合図で、兵士の一人が鞘から剣を抜いた。

 金属の刃が光を跳ね返し、私に"罰"を与えるべく差し迫る。



『エレオノーレ!! 頼む!! 離れてくれ!!』


「うるさい!!」



 私は叫んだ。

 心の底から、魂ごと振り絞るように。



「王子だかなんだか知ったもんですかッ!! じいはこれからもずーっと一緒に暮らす、私の大切な家族なのよッ!!」



 ぎゅっ──と、全身の力を込めて、私はじいを抱きしめた。


 その瞬間。



 ──光が爆ぜた。



 店の空気が弾け飛び、窓ガラスがビリビリと震える。

 オレンジに染まっていた空間が、閃光に照らされ、眩しすぎて、私は目を閉じた。


 あたたかい。

 眩しいほどの光に包まれて、私は──なぜか、涙が出そうになった。


 それは呪いの解呪。

 十年の孤独と、痛みと、祈りが溶けていく音。


 やがて、静寂が戻った。

 私は、おそるおそる目を開ける。

 そこには、私の腕の中にいたはずの老犬はいなかった。


 代わりに、輝く金の髪を背に垂らし、抜けるように白い肌をさらした、一糸まとわぬ青年が、膝をついてこちらを見上げていた。


 その瞳は深く、傷を抱えて、それでも強さを秘めていた。

 顔立ちは端正で──否、“美しい”という言葉でしか形容できないほどに整っている。



「────あ」


 

 私は、何も考えられなかった。


 ただ、見とれていた。

 思考も言葉も、全てが泡になって浮かんで消えていった。


 腕の中にいた、あの温かな毛玉はもういない。

 代わりにいるのは──



「……ありがとう、エレオノーレ」



 声は、記憶の中で何度も聞いた低い唸り声ではない。

 端正で、よく通る、心を震わせる響き。


 胸の奥で、何かがぱちんとはじけた。


 ──これが、“じい”……?


 思考が追いつく前に、空気が切り裂かれた。



「捕らえろッ!! 処刑だッ!!」



 ユリウス陛下の怒号が響き、兵士たちが一斉に剣を抜く。リオネル様の目も、冷たく光った。



「──……」


 

 そこからはもう、一瞬の出来事だった。


 ジグリスは全裸のまま、滑るような速さで距離を詰め、兵士の一人の剣を奪う。

 刃を抜かず、そのまま柄で側頭部を打ち──沈む影。

 次いで、後ろの二人の喉を小さく突き、呼吸を奪って気絶させる。


 一閃ごとに、金の髪が弧を描く。

 剣が舞い、兵士が倒れ、金属が床に散らばっていく。



「ば、馬鹿な……!」



 リオネルの声が震えた。


 ──そうだ。聞いたことがある。

 確か十年前に消えたジグリス殿下は、幼くして騎士団長すら圧倒する剣技を持っていたと。


 最後にユリウス陛下とリオネルをまとめて柄で打ち据え、床へ沈める。

 残った兵士は、一歩も踏み出せなかった。


 店内は、一瞬で静まり返った。


 ……全員、無力化。全裸で。


 ジグリスは、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。



「……エレオノーレ。君のおかげで元に戻れた。本当に感謝する」



 長いまつ毛が影を落とす。

 なんだこれ、夢? 呼吸がうまくできない。



「わ、私の……?」


「ああ。呪いを解く条件は、“永遠を紡ぐような寵愛”を受けることだった。老犬になった俺を、ずっと一緒にいると言って抱きしめてくれた──あの瞬間に、条件は満たされたんだ。本当は、誰かに飼ってもらってから解くつもりだったがね……はは」



 そう言って、なぜか私の頭に手を置き、謎になでなでされる。

 全身の力が抜けそうになるので止めてほしかったけど、なんでか私は身を委ねた。


 ──しかし。


 床一面に散らばる、王と側近と兵士。そして全裸の王。



「どうすんのこれ。私、明日には磔かもって覚悟しはじめてるけど?」


「大丈夫」



 ジグリスはすっと立ち上がり、つかつかとユリウスの方へ歩くと、ためらいゼロで王のマントを剥ぎ取った。



「兄上の衣は、国のために使わせてもらおう」



 ジグリスは黒地に金縁のマントを肩に流し、上着もシャツも、下衣も、靴まで迷いなく奪って着込んでいく。

 王は下着姿のままで運搬モードへ。目に優しい配慮。たぶん。



「……王様みたい」



 口から勝手に出た。美形は何を着ても似合う。王の服ならなおさら。


 ジグリスは顎を引いて私を見ると、軽く微笑んだ。そして、気絶者一行をひょいひょい運んで店先の馬車へ。人を積むスピードが引っ越し屋のそれ。



「……どうするの?」


「人間に戻ったからには、君ともっと話したい。けれど今は──兄上を王城へ“安全に”お送りしなきゃならないからね。それに……やりたいこともある。言ったろう? 国を変えたいって」


「えっ?」



 彼の口から出たのは、別れの言葉だった。

 思考が一瞬止まって、口だけがぽかんと開く。彼はもう御者台に片足をかけていて、当たり前みたいに“行く側”の人だった。



「ま、待って……!」



 やっと声が出た。自分でも驚くほど小さい声。

 彼はちらりとこちらを見て、困らせない程度の微笑を一枚だけ私に置いていく。



「全部終わったら、必ず迎えに来る」



 それだけ言って、手綱が軽く鳴った。蹄鉄が石畳を刻む。車輪が回る。夕暮れが、ゆっくり遠ざかっていく。


 私は店先に立ち尽くしたまま、何一つ気の利いたことが言えない。扉のベルが風に揺れて、ちりん、と鳴った。たぶん今日いちばん長く鳴った。


 意味なんて、わからなかった。

 ただ胸の奥で、何かがコロンと音を立てた。


 夢みたいな一日はそこで幕を閉じ、翌朝、店の隅に“じい”はいないことを確認して、ようやく私は夢じゃないことを確信した。

 皿も、古い毛布も、空っぽ。

 その日からは、私はもう、笑顔で仕事ができなくなってしまった。



 ◆ ◆ ◆



 一年が、過ぎた。


 じいのいない私の店は、すぐに“音”が痩せた。

 子犬のわふわふも、子猫のすぅすぅもあるのに、風の通り道が一本足りない──そんな感じ。

 私は看板をそっと外し、柵や餌皿を磨き切って、鍵を返した。


 私は王都に戻った。

 石畳の上に部屋を借り、朝はパンの匂い、昼は役所通りの喧騒、夜は酒場の歌で眠る。生活は質素で、でも昔より胸いっぱい息が吸えた。

 だって、毎日どこかの角で“彼の噂”が育っていったから。


 失踪した王太子ジグリスが帰還。

 ユリウス王の横暴が次々告発。

 “あの日”の出来事を描いた風刺絵が壁に貼られ、辻広場では道化が寸劇をやる。


 ──「裸で気絶する王などいるものか」


 民衆は一瞬静まり、次に爆笑し、最後に「確かにな」と頷いた。

 裸で出てきたのはジグリスの方なんだけど……っていうツッコミは、私の中で閉まっておく。


 王都は目に見えて変わりはじめた。

 税は二〇%から一〇%へ、さらに半年で五%に。生活必需品は非課税。

 動物保護院が発足し、虐待の罰は重く、保護と譲渡は手厚く。

 家畜・魔獣の許可は一本化、ひと月かかった手続きが三日で済むように。

 交易路に常設の警邏がつき、関所の袖の下は摘発、賄賂は“昔話”になりつつある。

 農村には最低買い入れ価格が宣言され、飢饉には備蓄が即座に解かれる。

 読み書き算術の無償講が町角に増え、巡回医師団が季節ごとに回る。

 王城の宴は半分に、浮いた金は孤児院と病院へ。

 ──紙面の活字一つ一つが、じいが床でぼやいていた「まともな王国」のメモに、どんどん重なっていった。



「頑張ったんだね、じい」



 もちろん、ユリウス陛下は最後まで抵抗したらしい。

 勅令は遅延され、評議は引き延ばされ、王家派の貴族は陰で繋がって、あらゆる“砂”を機械に投げ込んだ。

 けれど“裸で気絶する王などいるものか”の一文が広がった日を境に、潮は完全に引いた。

 正論は火で、そして笑いは水だ。火で炙られ、水で冷め、残ったのは、ただひとつの事実。

 ──「誰が見ても今、王の座はジグリスにある」



 ◆ ◆ ◆



 戴冠式の日。

 王城前広場は、青い旗と歌と祈りで膨れ上がっていた。

 鐘は雲を震わせ、角笛は空を洗う。石段は磨き上げられ、金の装飾は朝日を砕いて町並みにばら撒く。

 “王妃の席”は、用意されていなかった。空白という名の花瓶が、舞台の端にぽつんと置かれているような、そんな気配。


 私は民衆の中にいた。

 肩が触れ合い、息が重なり、誰もが少し背伸びして、少し涙ぐんでいた。

 遠い。遠すぎる。けれど見える。黒と金のマントが石段の上を進み、金の髪が旗の青を縫っていく。


 そして──目が、合った。


「あーー!!」

「え?」


 指、さされた。しかも王の人差し指で。

 次の瞬間、彼はずかずかと人波を跳ね除けて降りてくる。侍臣が青ざめて止める。「王よ!」「陛下!?」と四方八方から腕が伸びるが、お構いなし。私の前でぴたりと止まると、その手が私の手をがしっと掴んだ。



「ちょ、ちょ、ちょっと!? いま式の途中じゃ──」


「迎えに行ったのに!」


「…………え、来てたの!?」


「ペットショップはもぬけの殻だった。『必ず迎えに来る』と言ったのに、なぜいなくなる!? 私は門前で“待て”をされていた犬の気持ちを味わったぞ!」


「だ、だって……じいがいないと、あの店にいるのが寂しくて……! 出て行くのも早かったし、お別れも一瞬だったから……なんか、捨てられたみたいで……」


「……む。そうか。──そうだな。すまない」



 強く握っていた手の力が、少しだけ柔らかくなる。



「だが、お前が俺の隣からいなくなるのは許さない」


「な、なんでっ。そもそも、わ、わたし、あなたとじゃ釣り合わないし!」


「お前が“ずーっと一緒”だと言い出したんだろう? こちらを夢中にさせておいて、私を捨てるのか?」


「ず、ずるい言い方しないでよ!」


「お前より偉いからな」



 そのまま私は引きずられ――いえ、手を引かれて石段の下へ。足が震えているのに、体はちゃんとついていく。心臓が鐘の代わりを始めた。


 司式官が高らかに告げる。「即位の宣誓を──」


 ジグリスは一歩、前に出て、掌を掲げた。

 そして、王の声で、けれどひとりの人の名前として、はっきりと言う。



「エレオノーレ・ドルドワ。前へ」



 空気がひゅっと細くなる。群衆が二手に割れ、私の足も、勝手に前へ。石段の陰影が、息づく生き物みたいに近づいてくる。


 彼は私に向き直ると、ほんのわずかに視線を落とした。



「お前だけが──いや、君だけが、私の“なくなった十年”を知っている。君が俺を愛してくれたから、国は変わり、俺は再び民の前に立つことが出来ている」


「──────」



 喉が熱くなる。広場のざわめきが遠のく。



「愛している。これからも、ずっと一緒にいてくれ」


「そ、そんな……貧乏子爵なんかをそばに留め置いちゃダメですよ……!」



 変な敬語が出て、自分で自分にコケそうになる。

 けれど彼は笑って受け止めた。あの、何度も私を助けてくれた、やわらかい笑みで。

 だから、私はもうこの人のものなんだと自覚させられて、わがままをありったけ言ってやることにする。



「私、動物をたくさん飼いたい」


「好きなだけ飼え」


「嫉妬しない?」


「するわけないだろう」



 くす、と笑いがこぼれる。涙も、ついでにこぼれる。彼の指がそっと目尻に触れて、熱を拭った。

 私は、彼の腕に、自分の腕を絡める。もう、離す気はない、と腕で語る。


 歓声が、沸き起こった。

 旗が踊り、角笛が天を裂く。私は彼と並んで、広場に手を振った。届くはずのない距離にまで、届いてしまう気がした。


 ──十年、一緒にいて……。今度はずっと、あなたの隣で添い遂げる。


 顔を向けると、彼も視線に気づいて、やさしい笑みをくれる。

 なんだかどうしようもなく恥ずかしくて、急に幸せが訪れて、私はつい目を逸らした。



「……なんだ?」


「なんでもないっ! もう、ご飯をあげても嬉ションしないでくださいね、殿下! と思っただけ!」


「陛下だ!」


「そっちなの⁉︎」


「ええい、嬉ションなどもするか! 不敬な女だ、しっかりとベッドで躾けてやろう。何もできずにただ垂れ流してしまう惨めな犬の気分を、お前に教えてやる」


「はわ、わわわわわ、ななな何を言ってるのか……意味が……」


「なぁに、今晩にでもわかるさ。犬の十年は長く何をする気にもならなかったが、人に帰ってみると、いろんな欲も一緒に帰ってきたようでな」


「い、いやらしい! スケベ‼︎」



 笑いが波のように広がり、鐘がもう一度鳴った。

 私は、腕を絡めたまま、胸の奥で小さく頷いた。



 ◆ ◆ ◆



 こうして──ジグリス・エル・ファルネリアは国王として王座に就き、エレオノーレ・ドルドワは王妃及び王国動物保護院の総監として、“王のいちばん近い席”に座した。

 二人は、忙しなく変わっていく王都のまっただなかで、それでも肩を並べて笑い合い、時に言い合い、時に黙って手を握りながら、長い季節をともに歩んでいった。


 王宮の中庭には小さな保護舎が造られ、子犬のわふわふと子猫のすぅすぅ、たまにスライムの「ぷにゅ」が重なって、今日も可愛い鳴き声が響く。

 陛下が“嬉ション”することは──もちろん一度もなかったが、王妃と過ごす夜はたいてい洗濯日になり、翌朝侍女がシーツを抱えるたび、陛下が冗談めかして「妻が嬉ションしただけだ」などと言うものだから、王妃は顔を真っ赤にして小さな拳でぽこぽこと陛下の頬を抗議し、侍女長は「本日も晴天」とだけ日誌に記したという。


 めでたし、めでたし。

 そして王宮は今日もまた、命の音で満ちている。



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