ワインと檸檬
物語は芸術家萌美の娘彩夏と誠の息子が異母姉弟であることから始まる。20年前萌美と誠は結婚を前提に同居していたが卒業前に萌美は彩夏を身籠ったままその事実を誠に知らせず別れてしまう。20年後別々の世界を生きるが運命の糸は双方の子供を引き合わせ、結婚しようと話は進展していく。しかし、異母姉弟ということが分かり二人は四国曹洞宗修行道場の瑞応寺で別れるがその後翔太は死を選択する。誠は妻の瑞菜から翔太は学生時代からの高橋の子であって誠の子供ではないことを告白するが、その事実を知った萌美は美術館の壁画を完成させると同時に疲労から倒れてしまう。物語はその後意外な展開をしていくが家族愛を同郷のルポライターが経緯を告白していく。「何故萌美は妊娠していることを話さなかったのか」。たった1年の同居が20年後再会するまで伏せていた事実を解明していく。物語はNoteとして始まるがそれぞれにライターの視点を書き加えていった。ただその事実を知っているのは「ワインと檸檬」の油彩だけだった。
ワインと檸檬
―あるルポライターの告白― 伊東住雄
愛する者のために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、
反対に、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。
三木 清「人生論ノート」
プロローグ
―ルポライターの視点 NO.1―
「芸術って幸福な時に描けれる?孤独で不幸な時にしか描くことは出来ないよ。こんな割の合わないものはないわ。考えてみたらそういう時の作品を買ってくださいって云うのは何か惨めったらしく馬鹿馬鹿しい。芸術家なんて自己満足で本当につまらない」
僕は萌美とは高校時代からの友人で現在ルポライターをしているが、この話の中には出て来ないが、敢えて書かなかったと云うのが正直なところだ。それは彼女が愛おしく悔しくて第三者の立場で視点として書き残そうと思ったからだ。彼女が四国の実家に帰ってきた時、僕がルポライターの端くれだったと云うこともあってそれなりに聞き、取材に出向き書き溜めて来たが壮絶な彼女の人生は凡そ信頼とは脆く挫折や憎悪、裏切りなど限りない負の連鎖の中を壮絶な人生を生き延び家族愛を抱きしめ戦った近藤萌美の人生そのものだった。
彼女は幼い頃から病弱で信仰の世界に両親が熱心だったと云うこともあって萌美の娘彩夏もそれなりの影響を受け、絵画の根底に流れているのは家族であり血の絆だ。その主題の中で彼女は学生時代からすでに引手あまたで美術界の新しい新時代の寵児と持て囃され有名だったことには違いはない。
僕が本格的に彼女と接触をするようになったのは彼女が大学を卒業して三十歳の秋頃だった。当時彼女は実家に戻り非常勤講師で高松の私立高校に赴任をして何とか生活を食い繋いでいたが、その厳しい中すさまじい彼女の生命力は目を見張るものだった。経った一年しか彼と生活しなかったとしてもそれを心の支えに生きていくことは非常にある意味古風な考えで、そんな馬鹿げたことは今では真面目に考えていること事態滑稽な話だが、こう云う索漠とした時代の中でもレトロな懐古主義的な一年間でも生涯の人との心象風景を拠り所に模索しながら人生を生きてきたのが近藤萌美という女性だった。ガラス細工のような繊細な心を持った萌美は本当の大馬鹿なのかどうか僕には分からないが、云えることは彼女の絵は何時までも人々の心を癒しきっと記憶に残る。二十年前の萌美の人生の断片は娘の彩夏の人生に何故か重なり、自分の過去の傷を絵画という手段で身を削り守ってきた。この話は余りにも萌美の二十年前の話と娘の彩夏とが二重奏のように重なる。僕は懐古的なことを批判し、あるいは賛美するのでもなくただ近藤萌美の生き様をここに書いて置きたかった。原則的に芸術家と子育ての両立で格差社会の中で息詰まる戦いの中を、明確に答えを打ち出した女性として近藤萌美の一生をここに告白した。そういう意味で芸術の世界は不幸や苦悩の戦いの中でしか描けないと僕もまた真に思っている一人だ。
Note1 別離
四国八十八ケ所三十七番札所瑞応寺は、満開の桜の花びらが風に散り参道が絨毯のように敷き詰められている。彩夏は翔太と一緒に大銀杏で有名なこの寺の桜の道を黙ってゆっくりと歩き山門の扉を潜った。
彩夏と翔太は父親の誠が翔太を迎えに来る間人口十二万人ほどの新居浜市南部にある山根町の瑞応寺に出かけた。森に囲まれたここは禅寺で樹齢八百年の大銀杏の木が有名な曹洞宗の寺院だ。実家から車で二十分も走れば並木道があって冬には雲水といわれる修行僧が山門に繋がる通路に散った花びらを丁寧に掃除している姿が目に付く。
境内に入ると最初に広い庭が目に入った。左には板塀の通路があってそれは禅を組むため雲水が行き来する渡り廊下であった。そして次に目に付いたのが釣鐘の側に話に聞いていた大きな銀杏の木の高さに驚いた。樹高二十五メートルの銀杏の木だ。彩夏と二人はその場所に引き付けられるように釣鐘の隣のベンチに腰掛け話をした。
辺りは静かで時折数人の近所の子供たちが声をたてて遊んでいる姿を見つめながら彩夏は声を押し殺し切り出した。
「翔太とは姉弟になるみたいだから別れよう・・・・・・」
「そんなの卑怯だよ。何で俺たちは結婚できないのだよ。母親が違うということだけで俺たちは結婚できないというのは余りにも理不尽だし結婚したっていいじゃないか。俺たちの問題なのだから彩夏さえよければいいじゃないか。俺は別れるなんて嫌だ」
「別れよう、姉弟だから血が一緒だから気が合ったのだね。でも今までのような生活をしているとまた同じような関係が続いてしまう。もう知った以上は終わりよ。姉弟だからいつまでも繋がりを持つ選択もあるけど恋人としては一度ここで清算しよう」
「嫌だよ、親が昔恋人同士で彩夏が生まれ、それを知らずに結婚したパパたちは俺を産んだ。でもこの事実はある種の事件じゃないか。二十年も経って歴史の残骸の欠片のようなものが生き返って息を吹き返す、そんな感じだ」
「そのことについては私も同じよ。でも今まで私はママと二人で暮らしてきたの。これからも二人でそうしていくと思う。もう男の人は信用が出来ない。翔太が此処に来る前に私はママに無断で家を出たの。何故かママの生まれた処を幼い時以来なので明確ではなかったけどその世界に浸かってみたかった。でもそこにはママの絵の原点になる護摩堂の世界があっただけだった」
「護摩堂?」
「そうよ、護摩堂と云って経を唱えながら護摩木に願いを書いてそれを燃やす教寺よ。火は天井まで燃え盛り住職や信者は一心に心を集中してお大師さんに願うの。私のママは体が弱くそこで祈祷してもらうことで何とか命は助かりその後病院に入院して回復した。もう少し遅いと大変なことになっていたそうなの。だから私はその時入り口に大きなのぼりが二つ建てられていた「南無大師遍照金剛」という文字は何時しか覚えていた。今回の家出はそういう意味では過去に遡り私自身ママの過去を確認したかったの。それは翔太との別れを心に決めたからなのよ。辛かったけど仕方がないことは諦めるしかない。誰を責めても事実は変わらないのなら事実を捻じ曲げるか避けるかしか方法はないのよ。だから私は翔太と別れる方を選択したの」
翔太は静寂の中項垂れていたが突然立ち上がり発狂するような大声で叫んだ。
「嫌だ!」
境内で遠くにいる子供がこちらを向いて黙ってしまった。彩夏はその姿を見てその子供が自分のような気がした。子供の視線、心が彩夏に乗り移ってしまったような気がしたのだ。翔太は拳でベンチの板を流れる涙を拭きもせず何度も何度も殴りつけていた。彼の手は裂け拳から血がいつしか流れていた。彩夏は翔太のその手を握り話したが、翔太は納得がいかない顔をして彩夏を見つめ両手で顔を覆った。二人の前を桜の花びらが気持ちとは反対に軽やかに風に舞った。
「別れたくない・・・・・・」
「仕方ないじゃない。戸籍が違っても実際の血縁関係だとすればやはり一緒になることは難しいよ。私も翔太のことは好きだし別れたくないけど姉弟で居られるのだから。元を正せばママと翔太のパパとの経緯からこうなったのだから恨みたいよ」
翔太は別れることには納得がいかない。別れる選択肢があるならば別れない選択肢もある筈だから過去を引きずって現実に被せることは卑怯なことだ。二人の親は別れる選択肢を選んだことは仕方がないとしても自分たちの子供にまで転嫁させることは不条理だと云った。彩夏は実際翔太の父親を憎んだ。自分の母と別れなければこのようなことにはならなかったはずなのにと考えていることは彩夏には痛いほど分っていた。運命の悪戯でこの様な事が起こり二人は結婚を意識しながら別れなくてはいけないという辛い選択を意識せざる得なくなった。彩夏は翔太の手を握ると温かいその手は逆にぐっと握り返し、唇を求めてきたがそっと手で唇を抑え我慢をさせた。今までは何の抵抗もなく受け入れていたことがある日を境に出来なくなった。彩夏は先日護摩堂に行ったことが何故かこの瑞応寺の庭を眺めていると何度も思い出されるのだった。きっとあの時自分は護摩を焚いた訳ではないがそれに近いものがあったのではないだろうか。「南無大師遍照金剛」と書かれたのぼりの旗がパタパタと音を立て揺れている風景が浮かんできた。
「彩夏、海外に逃げよう。一緒に逃げようよ」
「駄目よ。今でも随分迷惑かけているのにこれ以上迷惑を掛けたら大変なことになるわ」
長い沈黙の後ぽつりと彩夏が云った。
「そろそろ帰ろうか・・・・・・。もう来ているかもしれないよ」
瑞応寺は春の陽射しを浴び別世界のように静寂を保っていた。広場に散った桜の花びらが余計心の傷に追い打ちをかけた。二人の前に紙屑が風に吹かれ転がってきたが、何かこれで終わりだというようにカサッと小さなケジメのような音を立てた。
彩夏が実家に来ていることを聞いた萌美は急遽、岐阜から実家に帰って彩夏が家出同然に飛び出し今まで連絡を断っていた理由を一部始終聞いた。大方彩夏の話は萌美には理解が出来たが、半面逞しくなった娘をみて嬉しさと不安が交錯する自分自身が複雑な思いに駆られた。
瑞応寺から二人が帰って暫くすると翔太の父親がグレー系のレンタカーを借りたのかホンダの車に乗ってやってきた。彩夏は誠の眼を正面から見る事を避けている。今までは翔太の父親ということで何も思わなかったが自分の父親となると無性に腹が立ち、そしてなんて勝手な男だろうかと考えているように萌美には彩夏の顔は映って見えた。今まで幼い時から父親に会いたいという憧れの気持ちが誠という父親を知ってから何時しか憎悪に変わったに違いない。彩夏は翔太の家で何度か会ってはいるがこんな妙な異質な感情を持つのは初めてだった。人が憎いと初めて思ったとも云った。
誠と翔太が萌美と祖父母に向かい、ご迷惑かけましたと云って車に乗ろうとした時だった。彩夏が玄関の戸を思いきり開けて、素足で走り込み誠と翔太の前に立ち塞がった。
「私はあなたを自分の父親なんて認めない。絶対会いたくもないし私とママを見捨てた男なんて会いたくない。私の体にあなたの血が流れているかと思うと悔しくてたまらない。翔太とも今日別れたわ。本当は翔太と結婚する約束していたのよ。あなたがママと約束したようにね。でも私は妊娠しなくて済んだ。しかし、ママはあなたの子を宿した。それが私だった。私は今までどれほど自分の父親のことを考えたことか・・・・・・」
「彩夏止めなさい!」
慌てて萌美は彩夏を抱きしめ言葉を遮った。彩夏は今まで我慢していたことや翔太とのことがどうして自分たちを引き裂くようになるのかと激しく詰め寄った。萌美は彩夏を止めようとしたが萌美の手を振り払い涙ながら尚も続けた。
「どんなことがあっても私はあなたを父親とは思わない。どれほど私たちはママと二人で苦労をして肩を寄せ合い過ごしてきたかあなたは知らない。翔太は結局私の弟ということになったけどそれでもどうしてこんなことになるのか不思議でならない。私はママが高松で美術の講師をしていた時一人で夜遅くまで本を見て悔しさを押し殺し過ごした。夜の十二時を越えてもママは帰っては来なかった。仕事で遅くなって私のことまで手が回らなかった。でも私たちは喧嘩もせず仲良く耐え忍んできた。随分恨んだわ。ママからは私の父親は私が生まれる前に別れたから居ないも同然だよと教えられてきた。私もそういう気持ちでいたけど事実を知った以上これだけは云っておきたい。もう金輪際私たちの前に顔を出さないで。私は決してあなたを父親とは認めない」
「彩夏ちゃんそこまで云わなくてもいいじゃないか。パパは知らなかったのだから。もう俺たちは終りだし多分会わないだろうから云っておくけど俺は彩夏ちゃんのことを姉だなんて考えない。いつまでも今までと同じだよ」
「彩夏ちゃん本当にごめんね。彼女にも謝ったけどもいい方法が見つからないから謝るしかない。ご両親にまで辛い思いをさせて申し訳ないです。もともとは彼女と結婚の許しを貰うために二十年前にお伺いしたのですが、再会がこのようなお恥ずかしい結果で本当に私のために皆様にご迷惑をお掛けしてしまいました」
「そうですか。彩夏の父親があなただということは薄々感じてはいましたが知りませんでした。萌美が心配させてはいけないと思い今迄二十年間云わなかったのでしょう。これも運命かと思いますが受け入れなくてはいけない事実は辛いですね。本来はみんな家族だったのですから」
父はそう云って頭を下げた。
「お父さん、お母さん今まで黙っていてごめんなさい」
萌美は髪を掻き揚げ涙を拭いながら頭を垂れた。
誠は黙って深々と頭を下げ車に乗った。翔太は彩夏の顔をじっと見つめた後何かを振り切るように車の助手席に乗りドアを思い切り閉めた。車は細い道をゆっくりと国道に向かって進んで行く。その後ろ姿をじっと見つめている彩夏を萌美は隣で肩を抱きしめて見えなくなるまで見送り、車はいつしか田園地帯の中に消えていった。
萌美は彩夏が家出をしてからの一週間は予測以上の速さで話が展開していき、萌美も彩夏も互いに傷つきこれからどう進めばいいのか誰もが離れていくことが寂しく将来に対し自信を喪失していた。
三月とはいえ四国地方は暖かく荒む心とは逆に、都会と違い田園地帯の静けさは萌美の心を余計冷たくし孤独にしていく。萌美は今までのことを思い浮かべながらどうしてこのようなことになったのだろうかと、信じられないことが負の連鎖となり追い打ちをかけるように二人に責めて来ることに腹立たしさと悔しさを感じた。何時しか気が付けばもう朝日が射し込み母親が台所で朝食の用意をしているのが分かった。萌美は洋服を着て手伝いの用意をしてベッドから彩夏の寝顔を見ながら起き上がった。
―ルポライターの視点NO.2―
僕は最初にこの彩夏と翔太の話から書いておこうと思った。それはこの話の根幹を動かすテーマだと考えたからだ。彩夏はこの後詳細を萌美に語っていくが瑞応寺での別れが事件の引き金になったという訳ではない。「誠を父親と認めない」という彩夏の気持ちは瑞応寺の別れの寂しさと繋がりのある血の問題が絡まって事件の原因は今から二十年前の萌美と誠の大学時代に遡る。このレポートNO.1は非常にポイントとして今後を左右していくが「何故?」このようになったのか僕はレポートを続けながらいつも疑問に思う。
萌美と彩夏、誠と翔太の四人の構図は意外な展開を見せていくが、家族とは、切るに切れない血の繋がりとは何なのか、この萌美の家族を追って考えさせられることになる。格差の広がり新自由主義が蔓延り自分の気持ちに選択肢を合わせていくことが本当の自由というものであるなら秩序などというものは必要ない。彩夏は自分の父親を愚弄したが萌美と二人で過ごした二十年間を大事に引き出しに仕舞っておきたかったのだ。だがその原因は学生時代の二十年前に遡らなくては理解が出来ない。このことは人の生き方が自由であるがゆえに才能がある方向に進むことが、自然なことで楽な確かなことだと分かる。負の確認が作品を産み次の作品へと弾みになったことは事実だ。だがレポートを書くにつれ疑問に思うことは「何故、萌美は妊娠したことを誠に告げなかったのか?」この謎は将に謎でしかない。この事件の神髄はこの一言によるのではないだろうか。
幼い頃、萌美は体が弱く両親はあちこちいい話があれば足を運んだそうだ。しかし、決定的な治療はなく病名は小児麻痺になる直前であったと云う事が分かった。たまたま母親が看護師の資格を持っていて体調の変化の異常性に気が付くのが早かったという事が彼女の危機を救ったのだろう。両親は自分たちに出来る最後のことは神に祈ることしかないという思いで護摩堂に日参し護摩を焚いたと述べていた。そう云う中で健全な体を貰った萌美は全ての原点はこの護摩堂であってその中から派生する宗教的な考えや物の見方が変化してきたことは事実だ。僕はこの萌美の原点はこの神秘的な護摩堂にあり、また何故妊娠を告げなかったのかという問題提起をするしか方法がなかった。このストーリーの冒頭の部分を最重要ポイントに挙げたが次のnoteではその事実を忠実に回顧したい。
基本的に毎週作者の同級生のルポライターが書いていきます。次回は月末までには発表します。




