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心中失敗百合 ~A terminal of broken hearts~

作者: 湖柳小凪

 

 中途半端のまま終わってしまった恋を忘れるには、一体どうしたらいいんだろう。


 その人を思い出させるものを棄てる。

 「推せる」ものを見つける。

 環境を思いっきり変える。


 スマホで少し検索をすれば、答えは幾らでも転がっている。でもその答えの全てにしっくりこなくて、わたしの足は自然と昼休みの図書室に向いていた。ここでなら納得できる、わたしを救ってくれる答えが見つかるのではないか、という淡い期待を抱いて。でも。


「……なんかズレてる気がするんだよね。わたしたちの場合は失恋とは違うわけだし」


 小さく溜息を吐き、わたしは読みかけていた本を途中で閉じる。この本も、わたしの求めている答えを与えてくれそうもなかった。本を書棚に戻しに行こう、そう思って顔を上げた時だった。


 ふわりとカモミールが薫ったかと思うと、目の前にいた艶やかな濡羽の髪を腰のあたりまで伸ばした少女と目が合った。


 彼女の漆黒の髪を見た瞬間。ここ1か月間、色彩を失ってどこかくすんだ色をしていた視界が彼女の黒髪を中心としてみずみずしく色づいていくような感覚に襲われる。ぱっちりとした黒い睫毛、健康そうに色づいたピンク色の唇、そしてわたしと同じ2年生であることを表す、柚葉色のリボン。


 ごくり、と唾を飲み込んで彼女のことを見つめてしまう。一瞬だけ、目の前に元カノがいるようにわたしには思えてしまったから。


 でも、すぐに理性がそれを否定する。目の前にわたしの元カノがいるなんてことはありえない。彼女はもう、この世界にはいない。もっと正確に言うと、他ならないわたし自身が、彼女を死に追いやってしまったのだから。だから目の前にいる彼女は元カノそっくりの別人。そう頭ではわかっているはずなのに、わたしの目は彼女に釘付けになった。


 どれほどの間、わたしたちは見つめ合っていただろう。うっすらと汗ばんだ肌を、出力調整を間違えた強すぎるエアコンの冷風ががさつに撫でていく。窓の外から聞こえてくる蝉時雨がやたら五月蠅い。そんな沈黙を破ったのは黒髪少女の方だった。


「いきなりごめんなさい。あなたがあまりにも私の元カレに似てたものだから」


 元カノよりも少し低い、でも確かに別人の声で言われて、わたしは夢から醒めたような気分になる。

そしておもむろに黒髪少女は一枚の写真を見せてくる。そこには向日葵のような無邪気な笑みを浮かべた黒髪少女と、そんな彼女に抱き着かれてちょっと照れた表情をした、中性的な顔立ちの男子が映っていた。確かにわたしはいつもショートカットにしてるし、言われたら少し雰囲気が似てる気がしなくもない。


「女子高であるこの七浜女子高等学校に、それももうこの世にはいない元カレがいるわけもないのにね」


「もうこの世にはいないって……」


 しみじみとした表情でぽろっと漏らした彼女の言葉に、わたしはつい尋ね返してしまう。彼女のことが他人事とは思えなかったから。


「言葉通りの意味だよ。私と彼は三か月前に心中を試みたの。誰も私達のことを理解してくれなくて認めてくれない世界に嫌気がさして、逃げ出したくなっちゃった。でも、失敗しちゃって彼だけが死んで、私はこの世界に取り残されちゃった」


 心中。その言葉にわたしの胸がちくり、と痛む。それが伝わったのか


「なにか思い当る節がありそうな顔をしてるね。君も、彼氏と心中しようとして失敗して死ねなかったりでもした? もっと言うと、死に別れた恋人に私が似てたりした?」


 興味をそそられたようにわたしのことをのぞき込んでくる黒髪少女にわたしは黙り込んでしまう。


 これ以上、彼女といるのは危険だ。塞がりかけた心の傷まで抉られる。そう直観が告げる。わたしは軽く一礼をして、そそくさと図書室を出て行こうとした。その時だった。


「待って」


 彼女に呼び止められてわたしの足は、まるで操り糸を引かれたマリオネットみたいに、ぎこちなく止まってしまう。


 そして、わたしの大好きだった人を思い出させる顔を持った彼女は人を惑わせるいたずらっぽい笑みをして告げた。


「君、私に付き合ってよ。中途半端に終わってしまった恋を新しい恋で塗り潰して、忘れるために」


◇◇◇


 わたしは最初、彼女が言っている内容が全く理解できなかった。そんなわたしにお構いなしに、黒髪少女は言葉を続ける。


「私、恋で負った心の傷は新しい恋でしか癒せないと思うの。そして私は修くん——彼と死に別れたことをまだ引きづってる。このままじゃダメだ、って思ってるんだけどね。君は違う? 死に別れた彼——彼女?——のことをもう忘れて、日々を生きられてる?」


「いや、そんなことはあるわけないけど」


 わたしはあの人のことを中一の時から、ずっと思っていたんだ。そんな思いが遂に実って恋人になれたのに、最後まで両想いだったのに、『彼女の自殺』なんていう中途半端なもので終わってしまった。簡単に割り切れるはずがない。


 そんなわたしの答えに、黒髪の少女は嬉しそうに顔を綻ばせる。


「だったら利害が一致してるじゃん。私も君も、新しい恋で無理やり上塗りして見えないようにしなくちゃ、恋人のことを忘れられない。前に進めない。そんなわたし達二人で恋人ごっこをするのは合理的だと思わない?」


 元カノそっくりの少女に満面の笑みでそう迫られると、簡単に流されそうになる。けれど、わたしは必死に理性を保ってかぶりを振る。


「いや意味わかんないから! わたしはユメ先輩——わたしの彼女のことを忘れられないの。先輩を差し置いてもう新しい彼女だとか、そういうことは考えられないよ……」


 つい大きな声を出してしまうわたしに、黒髪の少女は暫くきょとんとしていた。

 それから。何を思ったのか、彼女は口元に手を当てながらくすくすと笑いだす。


「そんなの当たり前じゃん。そもそも君がいくらわたしの元カレに似てるって言ったって私たち、女の子同士だよ? 女の子同士で本当に付き合うとかありえないでしょ」


 彼女の淀みない言葉に、わたしの身体からすうっと熱が引いていくのがわかった。


「そういう趣味のある人がいることは知ってるけど、少なくともわたしは男性器のついてない人と本気で付き合うとか、生理的に無理」


 ……今こいつ、さらっとわたしとユメ先輩の関係を否定しやがったな。そう思ったけれど、口には出さなかった。理解できない人間に何を言ったところで無駄なことは経験則上わかりきってる。


「だから、あくまで恋人ごっこ。いわばこれは、私たち二人が終わってしまった恋を終わらせるための通過儀礼(イニシエーション)みたいなものだよ。お互い心中に失敗した者同士、ちょうどいいんじゃないかな」


 黒髪少女の提案を一通り聞き終わってから。


「……付き合ってられない」


 わたしの口から洩れたのはそんな本心だった。


「恋を上書きするために恋人ごっこをしたいんだったら、他の女の子でも男の子でも探せばいいじゃない。あなたのルックスだったら男女問わずに選びたい放題でしょ」


 吐き捨てるように言って、今度こそわたしは逃げるように図書室を後にした。




 翌日の昼休み。抜け出るタイミングを見失って教室に残っていたわたしのクラスには、微妙な空気が流れていた。ここ一ヶ月間、ずっとこんな調子だ。この空気の理由は他ならないわたしが原因だ。


 一ヶ月前、わたしは自分から別れ話を切り出して、一年以上付き合っていたユメ先輩と別れようとした。けれど、ユメ先輩はそれを受け入れてくれずに、恋人でなくなってもわたしにつきまとってきた。そして、遂にはよりを戻さないわたしと心中しようとした。そんな幾度にも渡る心中の試みの末、先輩はもう二度と戻れないところに一人で旅立ってしまった。わたし一人をこの世界に取り残して。


 ユメ先輩の死後、わたしは家でも、そしてクラスでも『無理心中に付き合わされた被害者』『恋人を喪ったかわいそうな女の子』として気を遣われるようになった。特に学校では先生もクラスメイトも、わたしにどう接したらいいのか困惑しているようだった。それが、この重苦しい空気の正体だった。


「椎名さんに何か話しかけた方がいいのかしら。今のままじゃ仲間外れにしているみたいだし」


「でも、椎名さんは元カノに何度も殺されかけて、それでいながら大好きだった人を喪ったばかりですのよ? いったいどんな話題を振ればいいのかしら」


 ひそひそと話す声が聞こえる。


 彼女らは稲荷山さんのグループ。典型的なギャルでこのクラスでも中心的な人たちだけれど、クラスカースト下位の女の子を虐めるどころか、わたしみたいにクラスで浮いている生徒のことを気にかけてくれる優しい人だ。稲荷山さんをはじめ、このクラスの人は優しい人ばかりだ。そんな優しさが時々、ちょっと重荷に感じられて、申し訳ない気持ちになる。


 わたしは読みかけていたソフトカバーの本に栞を挟んでから立ち上がり、稲荷山さんの方に歩み寄る。顔にはぎこちない愛想笑いを浮かべて。



「ありがとう稲荷山さん。でも、そんなに気を遣ってくれなくても、一学期と同じようにどんな話でも話しかけてくれて大丈夫だから」


 一瞬だけ「そう言われても……」と言いたげな表情になる稲荷山さん。でも次の瞬間。稲荷山さんはなんとか捻りだしたように話題を振ってくれる。


「そ、そう言えば椎名さんは最近、よく休み時間にお本を読まれていますわよね。一体どういったご本を読まれているのですの?」


「ああこれね。『完全自殺読本』って専門書で、死ぬ直前にユメ先輩がよく読んでたのを先輩のご家族から譲ってもらったの。死にたいわけでも、恋人を後追いする勇気もないくせに、ふとした瞬間に読み返しちゃうんだ。この本を読んでいたら、少しでも先輩の温もりを感じられるような気がして」


 答えながらわたしはカバーを取って本の表紙を見せる。ユメ先輩の『完全自殺読本』には沢山の付箋が貼られ、ところどころ先輩の丸っこい文字で「ここ重要!」なんて書き込みがされている。当然、ただの本だから体温を帯びているはずもない。


 恋人に戻ろうとしないわたしと『永遠』になろうとして、熱心に読み込んで心中方法を考えていたユメ先輩。そんな空回りし続ける先輩は少しかわいらしかった。結局、この本の通りに首を吊ったら先輩は死んでしまったわけだから、複雑な気持ちではある。


 そんなことを考えていると。


「……」


「……」


 さっきまでよりも更に教室の空気が重くなっていることに気づき、わたしは慌てて


「あっ、ごめん。面白くない話をしちゃったよね。でも気にしないで。わたし、もう全然平気だから!」


と無理に明るい声を出そうとする。けれど、先輩のことを考えているとどうしても少し嗚咽が混じってしまって、全然「大丈夫」には聞こえなかった。


「く、暗い話をしちゃいましたわね。こ、今度はもっと明るい話をしましょうか、恋バナとか! 椎名さんはどんな人がタイプですの?」


「い、稲荷山さん、その話題は……」


 稲荷山さんの話題のチョイスに取り巻きの人がおろおろするけれど、ユメ先輩のことを思い出して理性がうまく働いてなかったわたしは特に考えずに答えてしまう。


「うーんと、烏の羽の色みたいに艶やかな黒色の髪を腰のあたりまで伸ばしていて、わたしよりも身長が高くて包容力があって、いつも穏やかに笑っていてお姉さんみたいで、でもどこか抜けててポンコツで、わたしがちゃんと見ていてあげなくちゃ! って思えるような年上の女の子、かな。……ってあはは、これって思いっきりユメ先輩のことじゃん。わたし、まだまだ先輩のこと、全然忘れられてないんだ」


「あー、わたくしってなんでこんなに最悪な話題のチョイスしかできないのですの……。心の傷を抉るようなことをしてしまって本当にご申し訳ないですわ!」


 頭を抱えて平謝りしてくる稲荷山さん。そんな稲荷山さんにわたしは慌ててフォローを入れる。


「そんな気にしないで。わたし、本当に気にしてないし、稲荷山さんが悪気があったんじゃなくて、むしろ不器用ながらもわたしのことを元気づけようとしてくれてるんだ、ってことは分かってる。それ自体はすごく嬉しいし、感謝してる」


 悉く最適解の真逆の話題を選んでくる会話のセンスでよく女子高のクラスカーストトップを張れてるな、と純粋に疑問には思うけれど。


と、そんな時だった。


「椎名さん、図書委員の人が呼んでるよ」


 別のクラスメイトにわたしの名前が呼ばれて、凍り付いた教室の空気が一気に融ける。この最悪な雰囲気を終わらせられるならなんでも縋りつきたい、その場にいた誰もがそう思っていた。


 稲荷山さんの前から逃げるように教室の外に出ると。廊下で待っていたのは昨日の昼休みに図書室で会った黒髪少女だった。彼女からは今日もまた、ほんのりとカモミールの香りがした。


 わたしと目が合うなり。黒髪少女は面白がるように相好を崩す。


「へえっ、君ってクラスでは浮いてるんだ」


「うるさい。それより図書委員だなんて嘘を吐いてまで何しにきたの」


訝しげな表情を隠そうともせずにわたしは尋ねるけど、彼女は実にあっけらかんとしていた。


「図書委員であることは嘘なんかじゃないよ。図書委員として、貸し出し手続きもせずに図書室の蔵書を持ち出した生徒を注意しにきたの」


 そう言われてわたしはようやく思い出す。なんやかんやあってこの子に会う直前に読んでた本を返すのを忘れていた……。


 おろおろするわたしに、目の前の少女はため息を吐く。

「あなたのクラスは調べて貸し出し処理はしておいたから、2週間以内に返してくれればいいよ。あと、次からは気をつけるように」


「はい……」


 ちょっとむっとしたような表情になる黒髪少女に指摘され、わたしはしおらしく答える。そしてわたしが反省したのを確認するや否や、黒髪少女はまた楽しげに表情を弛緩させる。


「それで、これって貸し一つ、ってことだよね」


 嫌な予感がわたしの頭をよぎる。


「まあ確かに勝手に図書室の本を持ち出しちゃったのはわたしのミスだし助かったけど……何をしたら帳消しにしてくれるの?」


 恐る恐る尋ねたわたしに、黒髪少女は「よくぞ聞いてくれました!」とでも言いたげな表情で言う。


「もし私に恩義を感じてるならさ。昨日話した恋人ごっこに付き合ってよ」


 ……くると思った。


「それはさすがに対価として重すぎない?」


「名前もクラスもわからないあなたのことを調べて貸し出し処理するの、地味に大変だったんだけどなぁ」


「……」


「それに、私が君のことを元カノに重ね合わせてしまうように、君だって私のことを無意識に元カノに重ね合わせちゃうでしょ。私の全身を嘗め回すような君の視線を見てたらわかるよ。ちょっと貞操の危機すら感じるもん」


 自分でも無意識だったことを指摘されてわたしの頬はかぁっと熱くなる。わたし、そんな風に目の前の黒髪少女を見てたんだ……。


「だから、吹っ切れるまでの間だけでいいから恋人ごっこに付き合ってよ。君の元カノそっくりの私を気持ちが落ち着くまで元カノの代わりにしてみるのは、君にとってもそんな悪い話じゃないんじゃないかな?」


 そこまで言われたらわたしもそれ以上は抵抗できなかった。


「……わかった」


 観念してそう答えたわたしに、黒髪少女は満足そうに頷く。


「そう言えば名前を名乗ってなかったね。わたしは和泉すばる。君は?」


「……椎名瑠奈」


「瑠奈、か。可愛い名前だね」


 咀嚼し、噛み締めるようにわたしの名前を呟く黒髪少女——和泉すばる。そして。


「じゃあこれからは瑠奈って呼ぶね。君も、これからはわたしのことをすばる、って呼び捨てにすること! なんたって私たち、かりそめでも恋人なんだから」


 嬉しそうに顔を綻ばせながら一方的にそう宣言してくる。


 いろいろ滅茶苦茶だ。けれど、そんな彼女がユメ先輩の姿と重なって、不覚にも可愛いな、なんて思ってしまう自分がいた。




 翌日の昼休み。わたしは四限目が終わるや否や教室を抜け出した。向かうはもう使われていない旧校舎の空き教室。昨日みたいに昼休みに気まずい雰囲気になるのはごめんだ。旧校舎なら誰も知り合いはいないだろうから。


 そう思っていたけれど。


「いらっしゃい、瑠奈」


「なんでここにいるの、すばる」


 なぜかそこにはすばるが待ち構えていた。お弁当箱が入っているのか、彼岸花のあしらわれたお洒落な巾着袋を腕にかけて。


「昨日のお昼見た感じだと教室の居心地悪そうだったし、あなたの性格だと人気のない旧校舎に逃げ込むかな、と思ったの。まあどの教室に入るかまではわからなかったけど、ここまでドンピシャで当たるなんて、運命かな」


 なんとも嬉しくない運命……。


「それにしても、瑠奈っていつもこんなところでお昼食べてるの? ちょっと埃っぽい」

「文句があればクラスに帰ればいいじゃん」

 失礼なことを言ってくるすばるをジト目で見返しながら言い返すとすばるちゃんは「まあトイレの個室でお昼を食べるとかに比べたら遥かに残念度はマシだけどね」と更に失礼なことを言ってくる。やっぱこいつ、見た目だけはわたしが大好きだった女の子にそっくりだけど、中身は全然かわいくないし、ぶっちゃけ好きになれない。


「まあでも、虐めとか揶揄いとかがなくても、妙に気を遣われて居心地が悪い、ってのは少しわかるかな」


 急にしみじみとした口調で発せられたすばるの言葉にわたしは思わず彼女のことを見つめてしまう。


 そんなわたしに、すばるは自虐したような笑みを振りまいてくる。


「ほら、会った時に私も付き合ってた彼氏との心中に失敗して生き残っちゃった、って言ったじゃん? それって自分から言わなくても妙に広まって、こっちは気を遣われたくも同情されたくもないのに、へんに周囲の目が生温かいんだよね。そういうの、私も苦手で」


 その気持ちはなんか悔しいけれどすごくよく分かって、他人事には思えなかった。


「ましてや『無理矢理心中に巻き込まれた』『無理矢理迫られて孕まされて自殺せざるを得なかった』なんて根も葉もない言いがかりを言われたら感情が爆発させそうになる。私は自分の意思で彼と付き合っていくところまで行ったし、話し合って納得した上で死を選んだ。そんな私の意思が踏みにじられているような気がして、大声で叫びたくなっちゃう。まあ、ほんとにそんなことは理性が邪魔してできないんだけど」


 気づくとすばるは遠くを見つめるような目をしていた。どれだけ目を凝らしても見えるはずもない「どこか」を見つめるような目を。


「そう言えばすばるはどうやってその彼氏と付き合って、そして心中することになったの?」


 自然と口が動いて疑問を口にしてしまう。すばるのことなんて嫌いで、興味なんてなかったはずなのに。そんなわたしの疑問にすばるは「仮にでも今カノである瑠奈には話しておいた方がいいか」と前置きして話してくれた。


◇◇◇


 すばるが彼氏——秋津修二先輩と出会ったのは、すばるが高校一年生の時だった。すばるは彼氏と死別するまで陸上部に入っていた。出場した陸上部の地区大会で見かけた近所の男子校の一つ上の先輩、それが、秋津先輩だった。


 その男子校の陸上部のエースだった秋津先輩に一目惚れしたすばるはその場で告白した。その行動力の高さは今も昔も相変わらずだと思う。 


 秋津先輩はそんなすばるからの突然の告白に戸惑いながらも、どこまでもまっすぐで行動力のあるすばるに興味を持って告白を受け入れ、二人は付き合い始めた。そして同じ時を刻んでいくにつれて秋津先輩もすばるを「女の子」として好意を抱くようになり、二人は本物の相思相愛になって言った。


 付き合い始めてから約一年後。二人は気軽に超えてはいけない一線を越えて、すばるのお腹には二人の愛の結晶が宿った。


 その高校生が受け止めるには重すぎる事実に、二人は最初、当然戸惑った。避妊もして、高校生で子供を産む気なんてさらさら無かったから。けれど二人は話し合った末、たとえ高校を退学することになったとしても子供を産んで育てることを決めたという。それだけ、二人の間の愛は本物だったから。けれど。


 妊娠していることを報告されたすばるの親も、そして学校の担任も、すばるたちの決意を断固として認めずに彼女らはすばるに中絶を強いた。


 金銭的な問題・すばるの今後の人生・そして生まれてくる子供の幸せ。


 様々な要素を考慮したら『大人』として当たり前の考えだと思う。そしてそんな大人たちに、すばるは自分たちの意思や決定を無視される形で、無理矢理中絶させられた。


 こうしてすばるたちの子供は無事に堕ろされ、めでたしめでたし――と行くわけもなかった。


 すばるが中絶した後、彼女の周囲にいる大人はすばるが秋津先輩にいいように騙されて妊娠してしまったのだと、秋津先輩を悪者にしようとした。そしてそのような「ダメ男」に引っかかったすばるの軽率さを非難した。当然、周囲は二人の恋愛を認めず、無理やりにでも二人を別れさせようとした。それが何よりもすばるたちにとっては耐えられなかった。


 だから二人は、誰も自分たちの関係を認めてくれないこの世界に絶望した。二人で永遠に愛し合える世界を目指して心中と言う選択肢を択んだ——。


◇◇◇


「まあ結局、運よくと言うか運悪くというか、私だけ上手く死ねずに生きながらえちゃったんだけどね。修くんはもう二度と帰らぬ人になってしまったっていうのに。そして味方が誰もいないこの世界で、私は本当にひとりぼっちになっちゃった」


 自嘲交じりに締めるすばる。


 そんな彼女はわたしに出合い頭に「付き合って」なんて言ってきた少女とはまるで別人で、不用意に触るとまるで砂糖細工のように崩れてしまいそうな脆さを感じさせた。そんな彼女にどんな言葉をかけたらいいのか、わたしにはわからなかった。


『辛かったんだね』『頑張ったね』『その気持ち、わかるよ』


 頭に浮かんでくるそんな科白の候補はひどく薄っぺらく感じられて、間違っても口にしたくなかった。そういう薄っぺらい同情が一番苛つくことは、他ならないわたしが一番知ってるから。


 そもそもわたしは異性愛者じゃないから妊娠なんて一生縁がないし、話し合った末の心中なんて、話し合いが決裂して一方的にユメ先輩が心中を迫ってきたわたしたちのケースとは違いすぎてわかるはずがなかった。


 それでも。中途半端な言葉を掛けたくなかったのと同時に、今のすばるを目の前にして何もしないでいることもわたしにはできなかった。


 迷った挙句。わたしは砂糖細工が崩れてしまわないように恐る恐る、彼女の手に自分の手を重ねる。

うまい慰めの言葉なんてわたしには言えない。わたしにはすばるのことなんてわかってあげられない。けれど、少なくともこの世界であなたは「ひとりぼっち」なんかじゃなくてわたしがいる。そんなことを、少しでも、今にも消えてしまいそうな儚い少女に少しでも伝えたくて。


 まだまだ残暑が残る九月。わたしの手は少し汗ばんでいる。そうじゃなくてもこんな暑苦しい季節に好き同士でもない女の子二人が人肌を重ね合わせるなんてどうかしてる。わたしの手は振り払われるかも。

 

 そう覚悟していたけれど、わたしが手を重ね合わせるとすばるは何も言わずにそっと瞼を閉じる。そんな彼女の表情がほんの少しだけ和らいだように見えたのは、処暑が見せた都合のいい幻想だろうか。

 


 十分後。


「ほんと瑠奈って女たらしだよね。弱ってる時にこんなことされたら女の子同士なのに勘違いしそうになるじゃん。瑠奈の彼女さんも瑠奈に翻弄されて毎日気が気じゃなかったんだろうな」


 すばるが相変わらずの減らず口をたたいてくる。いつもならむっとするところだけれど、あんな表情を見せられた後はその軽口に安心できた。こうじゃないと調子が狂う。


けれどわたしは素直にそんなことが言えずに


「気を抜くとこっちが女の子として意識させられそうになる魔性の女のすばるにだけは言われたくないね。ほんとあんた、顔だけはいいんだから」


と憎まれ口をたたいてしまう。するとすばるは面白がるようにわたしのことをつぶらな瞳で見つめてくる。ほんと、こいつってやつは……。


 けれどすぐにわたしを見つめるのに飽きたのか、


「あーあ、修くんのことを思いだしたら気分がブルーになっちゃった。こんな気分になっちゃったのは瑠奈のせいだよ」


なんてわざとらしく言ってくる。


それについてはすばるの言う通りなので何も言い返せない……。


「だから——責任取って『恋人らしいこと』でこの気持ちをどうにか上塗りしてよ」


 挑発するような目でそんなことを言ってくるすばる。恋人の面影がある少女にそんな表情をされて、わたしはなにかに目覚めてしまいそうになる。


「……『恋人らしいこと』って、なに?」


 うなじにうっすらと浮かんだ汗を拭いながら、わたしは尋ねる。汗ばんでいる理由はきっと、九月の残暑のせいだけじゃない。


 わたしの問いにすばるは顎に人差し指をあてて可愛らしく考え込んで見せる。それからなにか思いついたのか、にやりと笑って艶めかしい口調で告げる。


「そうだ。せっかく『恋人ごっこ』をしてるんだし、キスでもしてよ。見た目だけは修くんそっくりの瑠奈に口づけしてもらったら、少しは気分も晴れるかも」


 ユメ先輩とそっくりの女の子に接吻をする……? 


 想像しただけで理性が飛びそうになる。けれどすばるはそんなわたしにお構いなしに「ほら、早く」と目を瞑って張りのある形のいい唇をわたしに向かって突き出してくる。


 ——ダメだよ。いくら似ていると言っても、目の前にいる彼女はユメ先輩とは別人。そんな女の子に口づけするなんて、ユメ先輩への裏切り以外の何物でもないよ。


 わたしの中の理性が何か言ってるけれど、暑さのせいか意識がふわふわとして、理性の声がやたらと遠く聞こえる。


 わたしは熱に浮かされたようにすばる——いや、ユメ先輩だったかな——の両肩に手を添え、自分の唇をすばるの唇にゆっくりと近づけていく。


 これまであまり意識してなかったけれど、この子の肩って思ったより華奢だったんだな。いや、ユメ先輩は背だけ妙に高いだけで触れたら崩れてしまいそうなくらい華奢だったっけ。そんなこの子が可愛らしくて、守ってあげたくなる。それに睫毛も長くて、形も綺麗。


 そんなどうでもいいことばかりが泡沫のように頭に浮かんでは消えていく。


 そしてわたしと彼女の唇同士が触れようとした、まさにその時だった。


「ごめん、やっぱ生理的に無理だわ」


 気づくと目を開いていたすばるに真顔で突き飛ばされる。


 突き飛ばされた衝撃で腰に鈍い痛みが広がる。その痛みでわたしはようやく正気に戻る。うん、取り返しのつかない過ちを犯すところだったけれど、やっぱすばるはユメ先輩とは違う。ユメ先輩はわたしを突き飛ばしたりしない。フラれても執着して一緒に死ぬことを迫ってくることはあるけど。


 そんなどこまで言ってもユメ先輩ではないすばると一線を越えなかったことに安堵する。けれど、安堵することとすばるに文句を言わないかどうかは話が別だ。


「いてててて……自分からキスを誘っていきなり突き飛ばすとかナシでしょ」


 口を尖らせて言うわたしにすばるは


「だって女の子とキスするんだ、って思うと生理的に無理だったんだから仕方ないじゃん。いくらあなたの見た目がタイプだって言っても」


と言い返してくる。


「そうかな。むしろ男の子とのキスの方がわたしは抵抗があるけど」


「それは瑠奈が変わってるだけ。フツーの女の子はキスって言ったら好きな男の子とするものなの」


 すばるの言葉にわたしはため息を吐く。やっぱりこいつは可愛くないし、ノンケとなんて一生分かり合える気がしない。


 と、その時。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴って、わたしはゼリー飲料とカロリーメイトが乱雑に詰め込まれたビニール袋に視線を落とす。ずっとすばるの話を聞いてたせいでお昼を食べるの、忘れてた……。




 次の日の昼休みは運よくというか何というか、すばるの襲撃に遭うことなく、平和に旧校舎でお昼ご飯を食べ終えることができた。


 重苦しいクラスの空気は相変わらずだけど久々に平和な一日を送れた。今日は昨日とかよりも落ち着いて「あの人」に会いに行けそう。


 今日こそは「あの人」の前で泣いたり取り乱したりせずに、笑顔のまま会えるかな。そう思いながら帰りのホームルーム後の教室で帰り支度をしていると。


「瑠奈」


 背後から話しかけられてわたしは飛び上がりそうになる。振り向くとそこにはすばるがいた。


「すばる⁉︎ 今日は昼休みに襲撃されなかったから平和なまま一日が遅れると思ったのに」


「本音がただ漏れてるよ……。今日は木曜日だから図書委員の当番があって瑠奈に会いに行けなかったの」


 恋人ごっこなんていう火傷しそうな遊びにはもう飽きてくれたと思ったのに……誠に遺憾だ。


「そんなことよりもさ、一緒に帰らない? 恋人は一緒に帰るものでしょ。私、彼が違う学校だったから、恋人とファストフード店とかに寄りながら帰るのにはちょっと憧れてたんだ」


「わたしはあなたの本物の恋人じゃないけどね」


 わたしは嘆息混じりに答える。平行してここからどうやったらすばるをあしらって一人で帰れるか、必死に思考を巡らせながら。


「瑠奈は部活とか入ってないんだよね?」


「残念ながら帰宅部だよ。そう言うすばるは陸上部はないの?」


 一縷の望みをかけてそう尋ねてみるけどすばるは


「修くんを思い出すような部活なんてやめたに決まってるじゃん」


と真顔で言ってくる。ですよね……。


「でもすばるとわたし、きっと帰りは別方向だし」


「何言ってるの。わたしの最寄駅、すばるの最寄駅の一つ前じゃん」


「なぜそんなことを知ってるの……? ちょっと怖い」


「だって私、ごっこだとはいえ瑠奈の彼女だし、それくらい調べるって。」だからさ、一緒に帰ろ」


 そう言って差し出されたすばるの小さな掌をじっと見つめながら、わたしはなおも頭を回転させる。けれど妙案は浮かんでこない。


 本当はすばるに本当のことを白状する前に諦めさせたかった。けれどここまで来たら、包み隠さずに話した上で諦めさせるしかない。


そう覚悟を決めたわたしは深く溜息を吐いてから言う。


「ごめん。それだけは勘弁してくれないかな。わたし、放課後は毎日寄るところがあるから」


 わたしの返事にすばるは目を点にする。


「そこに行くのはどうしても一人がいいの。だから……こう言うことは言いたくないんだけど、すばるがついてこられるとぶっちゃけ、迷惑」


「それって彼女さんのお墓、だよね」


 さっきまでとは更に1トーン下がった落ち着いた声で図星を突かれて、わたしの身体から血の気が引く。


「なんでわかるの……」


「なんでって、そんな泣きそうな表情で話してたら気づくよ。私たち、『心中に失敗した』って一点だけでは、似たもの同士なんだし」


 憂いを帯びた声で告げるすばる。そんな彼女からはまた、いつもの強引さはなりを潜めていた。


「……確かに好きな人のお墓に行くのに誰にも着いてきてほしくないっていう気持ちはわかるかな。私だって修くんのお墓参りする時、私たちのことを認めてくれなかった親や教師、クラスメイトが一緒に付いてきたら絶対イヤだもん」


 しみじみと話すすばるにわたしは少し安堵する。


「わかってくれて嬉しいよ。だから放課後だけは許して。昼休みならなるべく恋人ごっこに付き合ってあげられるように努力す」


「ごめん、瑠奈と『恋人ごっこ』をしてるからこそ、余計に一緒について行かせてほしい」


 すばるの言葉にわたしは目を剥く。


「なんで⁉︎ 似たもの同士だからわかるって言ってくれたじゃん」


 つい大きな声を出してしまうわたしに周囲の生徒が一斉に注目する。まだクラスにいることを忘れてた。


 そんなわたしと対照的にすばるは静かに目を閉じて言う。


「無理を言ってるのは重々わかってるつもり。けれど、瑠奈の元彼女さんだからこそ、ちゃんと挨拶をしておきたいの。たとえ『ごっこ』でも、瑠奈と付き合わせてもらってるんだ、って」


 そう語るすばるはいつになく真剣だった。こういう目をしたすばるは梃でも動かないことを、わたしはここ数日間の短いやり取りの中でも知ってしまっていた。


 わたしはもう一度溜息を吐く。結局、ユメ先輩のお墓参りにすばるを連れて行くことになってしまった。



 ユメ先輩が眠る霊園は、わたしの家の最寄駅からほど近いところにあった。


 他の墓石の並ぶ通路を脇目も振らずに進んでいって『東野家』と刻まれた墓石の前来ると。わたしはしゃがみこんで、軽く手入れを始める。


 先輩のお葬式以降毎日通っているから、本当は手入れする必要なんてないくらい綺麗だ。それでも、すばるはそんなわたしのことを何も言わなくても無言で手伝ってくれた。


 手入れを一通り終えると、すばるは空気を読んだように一歩後ずさる。それからわたしはもうこの世界にいない『彼女』に向かって話しかける。


「まだまだ暑いね。ユメ先輩は暑がりだったから、きっと今日みたいな日はぐでーっとしてたんだろうね」


言葉にしただけでユメ先輩の暑さでだらんとした表情が目の裏に浮かぶ。そのだらしないながらも愛らしい姿に、わたしの頬は自然と緩む。


「こんな暑い日にユメ先輩を動かすには怖い話で怖がらせて暑さを忘れさせなくちゃいけなかったよね。ユメ先輩は怖い話苦手だったからさ。覚えてる? デートで水族館に併設された遊園地に行って、二人で一緒に入ったお化け屋敷でのこと! あの時、先輩の方が身長も年齢も上なのにわたしにぎゅっとしがみついて、出た後も暫くわたしの服の裾を離してくれなくて。あの時の先輩もかわいかったなぁ。小さい子供みたいで」


 もしここでユメ先輩が生きていたら「る、瑠奈ちゃん!」と恥ずかしがりながら必死にわたしの話を遮ってくれただろう。


 でも、いつまで待っても先輩の声は聞こえない。聞こえてくるのは晩夏の蝉時雨と、本堂から漏れてくる木魚の音くらい。それは当たり前だ。だってユメ先輩は、もうこの世界にいないのだから。それは最初から分かり切ったことだ。なのに……。


 不意にわたしの瞳から温かいものが溢れて頬を伝い、揺らめく陽炎に波紋を広げる。


 今日もだ。今日は大好きな人の前で涙は見せない、って決めてたのに、やっぱりユメ先輩を前にして、ユメ先輩のことを思いだすと、とめどなく涙が溢れてきてしまう。そして涙と一緒に、わたしを残して永遠の眠りについてしまったユメ先輩に対する激情もまたこみ上げて、わたしの中から感情が溢れ出る。


「……ほんと、なんでわたしのことを置いてけぼりにして、勝手に死んじゃうのかなぁ。巻き込むくらいだったら、最後まで責任をもってわたしも一緒に連れて行ってよ。『先輩』でしょ、『彼女』でしょ」


 故人に対して言うことじゃないし、そこにユメ先輩が本当に眠っているわけじゃないからいくら叫んだところで意味がないことはわかり切ってる。でも、そうわかっていながらもこみ上げて、漏れ出てしまうものは止まらなかった。一度溢れ出てしまった激情は途中で止まってくれない。


「ほんと、先輩って昔っからそうだったよね。わたしよりも年上で、お姉さんなはずなのにそれは見た目だけでポンコツで、いっつもわたしにべったりで、わたしの方がお姉さんみたいで。それでいて、本当に大事なことは一人で勝手に決めて、わたしのことを待ってくれもせずに進んじゃう。ほんとずるいよ……」


 徐にわたしは肩から掛けていたスクールバックのジッパーを開けて中身に視線を落とす。


 開いた鞄の口からは『完全自殺読本』と、束ねられた黒いビニール紐が顔を覗かせていた。その二点セットは、ユメ先輩の命を奪ったものと同じもの。


 ——これで自分の首を絞めれば、わたしもユメ先輩が待っている『あっち側』に行けるんだよね。


 そう思って紐に手を伸ばすけれど、手が震えて結局、わたしはそれを掴むことすらできなかった。


 ユメ先輩に会いに逝きたい。先輩のいないこの世界で生きていたって意味がない。そう思いながらも、生物として遺伝子にプログラムされた死に対する恐怖心が邪魔をして、わたしはユメ先輩と同じ側に行くための一線を越えることができずにいた。


 そんな不甲斐ない自分が自分で嫌いになる。そんな自分に対するやりきれなさにわたしは


「——————————————————————————————」


言葉にならない叫びをあげてしまう。


 そんなわたしに対してすばるは何も言わず、ただ、ゆっくりとわたしの背中を優しくさすってくれた。わたしたちは本物の恋人でもないのに。



 それから三十分後。わたしとすばるは霊園から出てすぐのところにある喫茶店で、向かい合って座っていた。泣き止んだばかりで目元はまだ赤く腫れているけれど、涙は引いてくれた。ちょっと強すぎる店内の冷房は泣き止んだばかりの肌を刺すようで、少しだけひりひりする。


「ごめんね、取り乱しちゃって。それにすばるはユメ先輩に挨拶する予定だったのに」


「別に気にしなくていいよ。それどころじゃなかっただろうし、こっちは無理を言って勝手についてきただけだし」


 そこですばるは運ばれてきた珈琲をひと含みする。一緒に付いてきた砂糖とミルクには一切手をつけずに。


「そう言えばすばるってブラックで珈琲を飲めるんだ」


 独り言のように呟いたわたしに、すばるは不思議そうな表情をする。


「そうだけど、それがどうかした?」


 聞き返してきたすばるにわたしを首を横に振って答えずに、わたしは自分の目の前にあるクリームソーダに視線を落とす。コップの中で泡が生まれては、消えていく。


 そこはかとなく容姿はユメ先輩に似ているところがあるすばるだけれど、そういうところでもユメ先輩と対照的だと思う。先輩は子供舌で、珈琲は牛乳と砂糖をどぼどぼ入れないと飲めなかったから。そういえばユメ先輩が砂糖も牛乳も少ししか入れないわたしの珈琲を間違って飲んだ時、苦そうに顔をしかめていたっけ。


 そして、この喫茶店に来たらユメ先輩はメニューの珈琲の欄になんて目もくれず、クリームソーダを注文してたっけ。高校生になっても、子供みたいに目を輝かせて。


 そんな先輩の面影を追って、わたしは気づいたらクリームソーダを注文していた。ここでクリームソーダなんて頼んだことなんてなかったのに。


「……もしよければでいいんだけど、瑠奈と元カノさんの話を聞いてもいい? そう言えば私、瑠奈の元カノの話を聞いたことがなかったから」


 不意にすばるに聞かれて、わたしはまたクリームソーダに視線を落として逡巡する。グラスの中の氷が一つ融けてコトリ、と音を立てる。


 まあすばるにはいろいろ世話になってるし、ある意味似た者同士だし、話してもいいか。


 そう思ってわたしはぽつり、ぽつりと話し始める。わたしとユメ先輩が出会ってから死別するまでの、愚か者カップルの物語を。


◇◇◇


 わたしがユメ先輩——東野夢と出会ったのは小学校1年生の時だった。家の隣に引っ越してきた1歳年上のお姉さん、それがユメ先輩だった。


 学年はユメ先輩の方が一つ上でユメ先輩の方が背は高かったけれど、ユメ先輩は人見知りで怖がりで勉強も運動も苦手で、あまりお姉さんらしくなかった。


 それに対してわたしは、同級生の中でも少し小柄だったけれど勉強も運動もそこそこできて、歳の割にはしっかりしていた子供だったと思う。

 

 こんなわたしに何故か、と言うべきか、そんなわたしだったから、と言うべきか。ともかくユメ先輩はわたしにやたら懐いてきて、子供の頃はいつもわたしの後ろにユメ先輩がひっついてきていたような気がする。そんなユメ先輩に「ゆめちゃんの方がお姉ちゃんなんだからしっかりしなくちゃ」と口では言いながらも、自分を慕ってくれる年上の幼馴染のことがまんざらでもなかったことを、今でも朧気ながら覚えている。そんなユメ先輩のわたしに対する依存は中学に入ってからも続いた。


 そんなユメ先輩のことを「女の子」として自分が意識していて、独り占めしたいと思っていることを自覚したのは中学一年の秋のことだった。


 けれど当時のわたしは、その想いを素直に伝えられなかった。女の子同士で付き合うことは今以上に普通じゃなかったし、あくまでユメ先輩をわたしは「幼馴染」としか見ていない。そんなユメ先輩にわたしの本心を伝えたら引かれて、今の関係さえ崩れ去ってしまう。それが、わたしには何よりも怖かった。


 例え恋人同士にならなくたって先輩はずっとわたしに依存してくれてる。ユメ先輩のことをわたしは独り占めできる。だからわたしはいつまでもユメ先輩の「特別」だし、それで十分。そう自分のことを納得させて、わたしは自分の本心から逃げていた。



 その状況が一変したのはユメ先輩が卒業する間際のことだった。


 先輩が中学校を卒業する数日前。先輩は唐突に、これまで先輩とは縁遠いと勝手に思っていた県有数の進学校の名前を口にして、


「あたし、本当はここに進学するんだ」


という告白をした。そして


「これから1年間は瑠奈ちゃんも受験生だし、会ったり連絡を取るのはやめよう?」


と提案してきた。


 それを聞いた瞬間、わたしの頭は真っ白になった。これまで、先輩がわたしになんの相談もせずに自分でなにかを決めることなんてこれまでなかったのに、先輩はわたしに本当のことを隠して、勝手に進学先を決めて、進学してしまったという事実に。そして、あんなにわたしに依存してくれていた先輩の方からわたしと距離を置こうとしていることに。


 その時にこみ上げてきた感情はユメ先輩が自立したことに対する喜びよりも、ユメ先輩が自分から離れて行ってしまうことへの喪失感と焦燥感だった。


 ——先輩にわたしは、もう要らないのかな。こんなことになるなら、たとえ失敗するんだとしてもちゃんと想いを伝えて、やれることはやっておけばよかった。


 そんな不安や後悔が込み上げてくる。けれど、その場ではわたしは何も言えなかった。これは自分から動かないで現状に満足してしまっていたわたしが招いた結果だったとどこかわかってしまう自分がいたから。


 その後の1ヶ月間、わたしは先輩が卒業していなくなってしまった学校で魂の抜けたように過ごしていた。そんなわたしの心に再び火が灯ったのは、中学3年生になって最初の進路面談で七浜女子高等学校ーーユメ先輩の進学した高校を勧められた時だった。


 ユメ先輩と同じ高校に進学する。そして今度はちゃんと自分から告白して、ユメ先輩の正真正銘の「特別」になるんだ。それが、死んだように日々を消費していたわたしの『目標』になった。


 それから受験までの11ヶ月間。わたしは必死に勉強して、その結果、七浜女子高等学校に無事合格した。


 そして迎えた入学式の日。わたしは正直、初日から学校に行くのが怖かった。ユメ先輩と会っていなかった1年間でユメ先輩に彼氏ができていたらどうしよう、そうでなくても告白して拒絶されたり引かれたらどうしよう。そんな不安が胸を圧し潰して、吐きそうだった。


 それでもなんとか糊の効いた新品のブラウスに袖を通し、校門をくぐったわたしのことを櫻の木の下で待っていたのは。


「る、瑠奈ちゃん! わ、わたしと、お、お付き合いしてください……!」


わたしが身につけているのと同じ制服に真新しい二年生であることを示す緑色のリボンを付けた、黒い髪を腰のあたりまで伸ばしたわたしが大好きな女の子——ユメ先輩だった。彼女からはシャンプーなのか香水なのかわからないけれど、中学までは感じなかったカモミールの香りがほんのりとした。


 唐突なユメ先輩の告白に驚いたわたしは、呼吸の仕方を忘れたように口をぱくぱくさせていた。そして。


「……ユメ先輩、それ、本気ですか? わたしたち、女の子同士ですよ?」


 最初に出てきたのはそんなありきたりな台詞だった。わたしの言葉に先輩は早くも泣きそうになりながら目を潤ませる。


「本気も本気だよ! だってあたし、瑠奈ちゃんの彼女さんになりたくて、はじめて自分で決めて、一生懸命勉強して、この高校に入ったんだから。瑠奈ちゃんとお付き合いするには瑠奈ちゃんにいつまでも頼ってばかりじゃなくて、少しでも対等にならなくちゃいけない気がしたから」


 思いも寄らなかったユメ先輩の言葉に、わたしははっとする。それから脱力感と安堵感が遅れて追いかけてくる。先輩がわたしに内緒で名門校への進学を決めたのはわたしが嫌いになったからでも、わたしが要らなくなったからでもなかったんだ。むしろわたしのために、自分の志望校を決めてくれたんだ。そのことが、わたしには無性に嬉しかった。


「やっぱり女の子同士だし、頼りないあたしじゃダメ、かな……?」


 不安そうに瞳を揺らすユメ先輩。そんなユメ先輩にわたしは


「ダメなわけがないじゃないですか」


と首を横に振る。そして、ちょっとだけ背伸びして先輩の顔を両手でそっと押さえて、わたしはユメ先輩と見つめあったまま3年間ひた隠しにしてきた想いをぶつける。


「——ユメ先輩、わたしもずっと、あなたのことが大好きでした。だから、わたしの彼女になってください」


 ユメ先輩のふっくらとした頬にほんのりと赤みが指す。そして心から嬉しそうに大きく頷いた彼女の表情は、今でもわたしの瞼にしっかりと焼きついていて、離れない。


 それからの一年間は本当に幸せだった。


 両想いの恋人として、わたしたちはいろいろなところにデートに行った。恋人になって安心したのか、ユメ先輩はすっかり頼りなくてわたしに依存気味な、中学卒業までの彼女に戻った。けれど、そんなわたしに依存してくれるユメ先輩がわたしには嬉しかった。


 わたしたちの関係はもうずっとこのままでいい。ずっとこのままがいい。そう思っていた。けれど。



「瑠奈ちゃんと同学年になれるならあたし、留年しようかな」


 わたし達が付き合い始めてから1年後。ユメ先輩の次の受験(大学受験)が見えてきた時に志望大学の話題を振ったわたしに対するユメ先輩の答えに、わたしは唖然とした。


「そんなのダメに決まってるじゃないですか!」


 わたしは慌てて言うけれどユメ先輩はきょとんとした表情をする。


「そうかな? もしかしたら瑠奈ちゃんと同じクラスになれるかもしれなくて、そうじゃなくても瑠奈ちゃんと一緒に卒業できる。それってものすごく素敵なことじゃない? 瑠奈ちゃんはあたしと一緒じゃ嫌?」


「……嫌なわけないですし、先輩と同級生だったらどんなに良かったかな、って時々思います。思いますけど、でも、わたしのために大好きな人の貴重な1年を無駄にするなんてもっと嫌です。だって先輩にも大学で学びたいことや、やりたいことがあるずでしょ」


「ないよそんなもの。あたしは瑠奈ちゃんのために生きてるし、瑠奈ちゃんがあたしの人生の全てだもん」


 曇りのない眼で言いきられてわたしは急に悪寒を感じる。その透き通った目が大好きだったはずなのに、今日だけはそんな目が不気味に見えた。


「そんなことないでしょ。だって高校受験の時は自分でちゃんと考えて自分の進路を決めてたじゃないですか。わたしに相談もしてくれずに」


 なんとか絞り出したわたしの反論に対しても、ユメ先輩の反応は薄かった。


「あー、そんなこともあったね。でもあれも、瑠奈ちゃんだったらこの学校に進学するだろうな、って思ってたから決めただけだよ。あたしが瑠奈ちゃん以外の理由で何かを決めるわけがないじゃん」


「————!」


 迷いなく言い切るユメ先輩が怖くてなって、どうしたらいいか分からなくなる。そして――――その時のわたしは、何も言わずに逃げ出してしまった。



 それから3日間。わたしは学校にも行かずに、そして当然ユメ先輩にも会わずに自室に引きこもって、自分とユメ先輩はこれからの付き合い方について悩んでいた。そして悩みに悩んだ末。わたしはこう結論付けた。


 ——これ以上わたしはユメ先輩の隣にいちゃダメだ。これ以上近くにいるとユメ先輩が人間として引き返せなくなる。わたしは、先輩の隣を歩いていく資格がない。


 そう結論付けてからのわたしの行動は早かった方だと思う。SNSでユメ先輩に「明日の朝7時に体育倉庫裏に来てください」とメッセを送って、返事を待たずに明日に備えてベッドに入った。


 翌朝。わたしは意を決して学校に登校して先輩のことを早朝の体育倉庫裏に呼び出した。3日ぶりに登校する学校への足取りは、股関節が錆びついているかのように上手く進んでくれない。


 前にもこんなことあったな。ふとそう思って記憶の糸を手繰り寄せると、入学式の日もちょうどこんな精神状態だったことを思いだす。けれどあの日と違って、きっとこの憂鬱な感情にハッピーエンドが訪れることは、ない。


 それでもなんとか辿り着いた体育倉庫裏は、まだどこの部活の朝練も始まっていないせいか、静まり返っていた。倉庫の脇に植えられた朝顔は蔦を樋に絡ませ、瑠璃色の花弁を朝露で濡らしている。そんな体育倉庫裏に緊張した面持ちで現れたユメ先輩は、たった数日しか会ってなかったのに、心なしかほっそりとしているように見えた。


 やってくるなり先輩は


「3日も無断で学校休むし、全然SNSも返信してくれないし、ほんとに心配したんだからね!」


目元に涙を溜めたまま、我慢できずにわたしに腕を絡ませてくる。今日もまた、先輩からは仄かにカモミールの香りが微かに薫る。高校に入って、お付き合いし始めてからいつもユメ先輩の香りだと本能が認識していた匂い。そんな大好きだった匂いが今は、やたらとわたしの心をかき乱してくる。


 けれどわたしはこみ上げてくる感情を全て押し殺し、「先輩、ちょっと暑苦しいです」と無感情を装いながらぼそっと呟く。すると、先輩は慌ててわたしの腕に回していた腕を離してくる。


「ごめんごめん。それにしてもこんなところに呼び出すなんて……なにか大事な話がある、ってことだよね?」


 どこかそわそわとして言うユメ先輩。


 確かに、大切な話がある。大事な話は早ければ早いほどいい。


 そう思ったわたしは、新緑の香りを含んだ7月の空気を肺いっぱいに深く吸い込み、彼女のことをまっすぐ見つめて結論だけを端的に叩きつける。


「ユメ先輩。わたしたち、別れましょう?」

 わたしの絞り出すような告白を聞いた瞬間。先輩の瞳孔が広がる。数秒後、彼女の目からハイライトが消える。


「えっ、ど、どういうことかな……。ごめん、瑠奈ちゃんの言ってること、全然わかんない」


「……文字通りの意味ですよ。先輩とわたしは恋人としての関係を解消して、幼馴染としても距離を取ろうって提案してるんです。これ以上言わせないでください」


 突き放すようにわたしが言うと。ユメ先輩の頬にほろりと涙が伝う。


「な、なんで⁉︎ 瑠奈ちゃん、あたしのことが嫌いになっちゃったの……って、そうだよね。あたし、お姉ちゃんで先輩なのに頼りないし、しっかり者の瑠奈ちゃんの彼女さんに相応しくないよね……」


 目を潤ませながら自嘲を浮かべるユメ先輩のことを直視していられなくて、わたしは口を噤んで俯く。そんなわたしに、先輩はなおも言い縋ってくる。


「でも! もう一度だけチャンスをくれないかな? あたし、ダメなところは直して瑠奈ちゃんの理想の彼女になれるように頑張るからさぁ!」


 ユメ先輩の悲痛な叫びにわたしは下唇を噛む。もうわたしだっていい加減に限界だった。


「……もういい加減にしてくださいよ! 別にユメ先輩のことが嫌いになるわけないじゃないですか。本当は別れたくないに決まってるじゃないですか。でも……わたしは先輩と一緒にいる資格なんてないんですよ。先輩がわたしと一緒にいたら、先輩はダメになって、一人じゃ生きていけなくなっちゃう」


 激情任せに吐き出した本音。でも、そんなものは先輩には響かない。


「別にいいじゃん! 瑠奈ちゃんと一緒にいられるならいくらダメになったってそれとも、ダメダメになったあたしのこと、瑠奈ちゃんは嫌い?」


 先輩の質問にわたしは一瞬臆する。けれど。


「……そんなことないです。けれど、わたしがイヤなんです、先輩の人生を自分といるせいで狂わせてしまうのは。わたしに依存して、先輩がダメ人間になっちゃうのはきっと先輩にとって「幸せ」なことじゃない。だから、世界で誰よりもあなたのことが大好きだから、あなたには幸せになってほしくて、別れようと言ってるんです! わかってくださいよ……」


 涙ぐみながらの渾身の訴えを続ける。けれど、それすら先輩の心には届いてくれなかった。


「わからないよ! 瑠奈ちゃんの言っていること、全っ然わかんない! なんで大好き同士なのに一緒にいちゃいけないの? 今日の瑠奈ちゃん、ちょっとおかしいよ……」


「だからぁ!」


 先輩のことが大好きだからこそ相手のことを思って身を引こうとしているわたしと、わたしのことが大好きだからこそいつまでも一緒に居ようとする先輩。


 わたしたちはお互いがお互いのことが大好きなはずなのに、どこまでも平行線だった。そしてその日はお互いに涙で顔をぐちゃぐちゃにしてお互いの主張をぶつけ合いながら、話は平行線のまま終わった。



 それからは悪夢のようだった。先輩のことをいくら言葉で説得しようとしても無駄だと悟ったわたしは悲痛な叫びを上げる自分の本当の気持ちに無理やり蓋をして物理的に先輩から距離を取り、各種の連絡先もブロックして先輩との関係の一切を絶とうとした。けれど、わたしは先輩から距離を取ろうとすればするほど先輩は執拗にわたしのことを付け回し、絡んできた。それは見る人から見ればストーカーだったのかもしれない。


「あたしと別れたいって嘘だよね?」

「あたしは瑠奈ちゃんがいないと生きていけないし、瑠奈ちゃんがないと生きていく意味もないの!」


 一学期が終わって夏休みになっても付きまとって、大好きだった声で、泣きそうになりながら訴えてくる先輩。けれどわたしはそんな言葉に耳をふさいで、徹底的に先輩のことを無視しようとした。これを続けていればせめて夏休みが終わるくらいの頃にはさすがの先輩だってわたしのことを嫌いになって、諦めてくれるだろうと信じて。


 でも、わたしの態度は却ってユメ先輩のわたしへの依存や執着をエスカレートさせた。そして遂にユメ先輩は「瑠奈ちゃんと一緒に生きられないくらいなら、瑠奈ちゃんと無理やり一緒に死ぬ!」なんて言い出すようになった。


 感電・投身・入水・服毒。


 『完全自殺読本』片手にユメ先輩は様々な方法でわたしとの心中を図ろうとしてきた。けれどその度に、根が怖がりなユメ先輩は結局最後は一線を越えることができず、心中失敗を繰り返してばかりだった。そんなユメ先輩に呆れながらも、「可愛いな」と思いながら好きなままで居続けてしまう自分がどこかにいた。そしてそんな日々もいつまでも続かずに、一通りの自殺方法を試したらさすがの先輩も諦めてくれるだろう。そんな希望的観測を抱いている自分もまた、確かにいた。けれど。


 夏休みが始まってから二週間ほどたったある日。わたしと首吊り心中を図ろうとしたユメ先輩は、誰よりも先輩の幸せを祈っていたわたしを残してあっさりと一人で旅立ってしまった。もう二度と生きては会うことのできない、遠い遠い彼岸へと。


◇◇◇


「……わたしがこれまで先輩のことを甘やかし続けた。そんな彼女との関係に耐えられなくなって自分から振ったことで先輩を追い詰めて、先輩は死を選ぶしかなくなった。だから、ユメ先輩はわたしが死に追いやったようなものなの」


 話を一通り終えて、わたしは小さく吐息する。これまでこんな話をできる相手はいなかったし、話そうとしても「でも結局、東野夢って彼女がだらしなかったからいけなかったんでしょ」と心無い言葉で遮られて、最後まで話せたことなんてなかった。


 けれど、すばるはわたしの思いを理解してくれたかどうかは置いておくとしても、最後までわたしの話を受け止めてくれた。それだけで、少し胸のつかえがとれた気がした。


 そんなことを思っていると。


「やっぱり私たちってどこかで似てる。私も、私が孕まなければ、修くんとわたしは追い詰められることなんてなかったもん」


 ぽつり、とすばるが感想を呟く。


「それはさすがに自分を責めすぎじゃない? 二人はちゃんと避妊したんでしょ。だったらそれはすばるが責任を感じることじゃ」


「少なくとも私はそう思えない。いくら私が瑠奈は考えすぎで、瑠奈は悪くない、と私が言い張っても瑠奈がそれを認めないのと同じで、これは自分自身が納得できるかの問題だから」


 わたしの言葉を遮ってぴしゃりと言われて、わたしははっとする。


 そっか、すばるもわたしも同じだったんだ。他ならない自分自身がそうだったから。多くの人が先輩の死に責任を感じるわたしに「瑠奈は悪くない」と言ってくれた。でも、肝心のわたし自身は納得できるはずもなかった。その気づきが、なぜだか無性に嬉しくなる。無理やり例えるならば、無人島だと思っていた漂流先で同じ日本人に出会えたみたいな、そんな気持ちだった。


「だから、あまり自分に責任を感じすぎる必要はない、とか無責任な科白は私だけは言わないよ。けれど、好きな人を後追いして自殺するんじゃない限りは、自分の気持ちや後悔になんとか納得させて、進んでいくしかないんじゃないのかな。そのための協力だったら惜しまないよ。だって私たち、そのために付き合ってるんだし。だから——ん」


 そう言って両手を大きく広げてくるすばるにわたしは怪訝な表情になる。


「いきなりどうしたのすばる。夏の暑さでおかしくなったの?」


「そう言うことじゃなくて! 仮にも恋人ごっこの『彼女』として、そして似た者同士の仲間として、泣きたいときは胸くらい貸してあげるから、いつでも飛び込んできなさい、ってこと」


 意図が伝わらなかったことに対して不満げに頬を膨らませるすばるにわたしは暫くぽかんとしていた。それから、すばるの言わんとしていることがようやく理解できた瞬間、わたしはつい口元に手をあてて笑ってしまう。そんなわたしに、すばるはさらに不機嫌そうな表情になる。


「なに笑ってるのよ」


「いや、だってすばるがほんとの彼女みたいにわたしに優しくしてくれるのが、なんだかこれまでのすばるからすると想像できないというか、解釈違いというか」


「なにをぉ! せっかく人が傷心の女の子のために『彼女』を演じてあげようとしてるのに」


「ははは、ごめんって」


 すばるとじゃれつきあいながらも、わたしの心の中になんとも言えない心地良さが広がっていく。それは、ユメ先輩の隣にいた時に感じていた心地よさとは確かに異質で、でも、上手く言葉にできないけれど「悪くないな」と思えるものだった。


 そんな偽物の恋人であるわたしたちをカウンター席に生けられた五輪の薔薇が物言わず見守っている。その薔薇の色は、あまり見かけない涼やかなライトグリーンをしていた。




 一週間をようやく乗り切った土曜日の朝。わたしはすばるとバス停で待ち合わせをしていた。


 朝から強い太陽に陽射しにうっすらと額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。なんでこんなところで待ち合わせをしているのか。それは昨日の昼休みに一緒にお昼ご飯を食べている時、「恋人ごっこしてるんだから土日のどっちかはデートしようよ」なんてことをすばるが言い出したからだった。


 会ったばかりの月曜日とかだったらきっとそんな提案、断っていた。けれど出会ってからの1週間、一緒に昼休みや放課後に同じ時を重ねて、お互いの元カレ・元カノについて打ち明け合っていくうちにすばると二人きりでいる時間も悪くないな、と思うようになり出していた。だからすばるからのデートの提案があった時、わたしは二つ返事で承諾した。


 もう7年使い込んだ腕時計に視線を落とすと、まだ待ち合わせ時間までに十分ほどある。時間もあるし、そう思ってわたしは久しぶりに由芽先輩の遺した『完全自殺読本』を開く。


 ——この本を開くのもなんか久しぶり。って、この一週間、ずっとすばるに振り回されてて、本を開く機会なんてあんまりなかったからか。


 そう思うと自然と頬が緩んでしまう。と、その時。


「瑠奈、なににやついてるの? ちょっとキモい」


 いきなりすばるに背後から話しかけられ、わたしは本を取り落しそうになる。


「す、すばる!」


「まあ瑠奈がちょっと危ない人っぽいのはいつものことか。——そんなことより、瑠奈も『完全自殺読本』、読むんだね」


 わたしがいつも危ないひとだとかいう聞き捨てならない科白を「そんなこと」で片づけたすばるはわたしの開いていた本をのぞき込んでくる。


「私と修くんも心中する前に一緒に読み込んだわ。どの自殺方法が最も確実に、二人で永遠になれるかを話し合っているあの日々は楽しかったなぁ」


 うっとりとした表情で語るすばる。


「付箋もマーカーもたくさん付いてるし、めちゃくちゃ読み込んでるじゃん」


「いや、わたしが読み込んだというか……そもそもこれ、ユメ先輩の遺品だし」


「なるほどね。でも、瑠奈だって少しぐらいはこの本の内容についてユメさんと話したんじゃない? ガス中毒・電車への飛び込み・焼身は遺された家族に課せられる弁償額が大変なことになるから、真っ先に実行する選択肢から除いた、とか」


 すばるの言葉にわたしはつい身を乗り出して同意してしまう。


「わかる! 電車の飛び込みは遅延の影響とかで鉄道会社に数千万円以上の弁償をしなくちゃいけないし、ガス死はそのガスがアパートとかの隣の部屋に入り込んで関係のない隣人まで巻き込んで殺してしまった事例もある。放火に至っては他の住人も火に巻き込まれたり隣の建造物に燃え移る恐れがあるから刑法第一〇八条で現住建造物に火をつけた時点で一発アウト・犯罪成立。ここら辺はよっぽど死ぬときぐらい社会全体・家族に迷惑を掛けたいとかじゃないと選べない、ってユメ先輩も言ってたなぁ」


「だから結局首吊り・服毒・投身・入水とかベタな方法になっちゃうんだよね。入水は死ぬまでが大分苦しいから気合い入れないとできないし、投身自殺も落下地点に巻き込んじゃう人がいないかの確認は必須だけど」


「そういえばすばるたちはどんな自殺方法を選んだんだっけ?」


「身投げだよ。真夜中にビルの八階から飛び降りて」


「ビルの八階って言うとまあ即死できるだろう、って言われてるラインだよね。建物の三階、地上高さ十メートル程度だと、文献によればせいぜい致死率は六割だとか言われることもあるし、少なくともよっぽど運がよくなければ即死はできない」


「そう思うじゃん。私、当たり所が悪くて即死できるどころか助かっちゃって、全治数か月の大怪我を負っただけで生きながらえちゃったんだよね。修二くんは向こうの世界に逝ってしまったっていうのに」


 バスを待ちながらキャッキャキャッキャと自殺方法で盛り上がるわたしたち。女子高生二人が外で自殺方法の話で盛り上がるって傍目から見たらそうなんだろう、という気はするけれど、まあ別にいいか、と言う気もする。今までこんな話題で盛り上がれる人なんて誰もいなかったし。


 ——いや、『誰もいなかった』は嘘か。


 ふとわたしの脳裏にユメ先輩と過ごした日々の記憶が蘇る。


 わたしとの心中を勝手に決めたユメ先輩は時々、わたしは死ぬことに承諾していないのにも関わらず、「瑠奈ちゃんはどんな方法で死にたい?」なんて聞いてきて、目を輝かせながら完全自殺読本に視線を走らせていた。それが、 わたしにフラれて以来、その時だけは唯一、ユメ先輩が微笑みを見せてくれた瞬間瞬間だった。


 そんな先輩にわたしは呆れ交じりに


「わたし、そもそも死にたいと思ってないんですけど」


とよく言ったっけ。でも、口ではそう言いながらそんな先輩との会話を確かにわたしは楽しんでいた。


 その思い出を思い出した途端、わたしの胸はちくり、と痛んだ。たとえユメ先輩そっくりの女の子と自殺方法の話で盛り上がっても、ユメ先輩を失くした喪失感は上塗りなんてされないし、消えることはない。わたしは一生、ユメ先輩のことが忘れられないんだと思う。


 ただ、一人で完全自殺読本を読み返してユメ先輩のことを思い出しては喪失感に浸っている時よりも明らかに心が軽くなっている自分がいた。それはきっと、今のわたしの隣にはユメ先輩の代わりではなくともすばるがいるから。すばるがいて、根っこの部分ではわたしと分かり合ってくれるから。


 わたしは彼女のことを女の子として意識することはできないし、あくまで彼女は仮の彼女。ユメ先輩の代わりにはなってくれない。でも、恋人ではないけれどわたしのことを部分的に「わかって」くれる人がいる、わたしはユメ先輩を喪ってもひとりぼっちじゃない。そう、すばるは思い出させてくれた。それはユメ先輩を喪って憔悴しきってくれたわたしの乾ききった心を確実に潤してくれた。


 ——ちょっと癪だけど、この1週間ですばるからもらったものは確実にある。ちょっとはその恩返しをしてあげなくちゃね。


 そう思ったわたしは徐にすばるの手の指に自分の指を絡ませる。所謂恋人つなぎってやつだ。


 わたしの突然の行動にすばるの頬に一瞬朱がさし、それから作ったような迷惑そうな表情で


「なに、この手」


と聞いてくる。そんなすばるに対してわたしは澄ました顔で言う。


「デートならこっちの方がデートらしいでしょ。あっ、ちょうどバスが来た。行こ」


 すばるに対するこれまでのお礼としてできる範囲で恋人のふりをしてデートをしてあげる。そんな本音は、照れくさくて口にはできなかった。



 今日のデートプランはユメ先輩との初めてのデートで回ったコースをなぞることにした。県内有数の水族館に行って、水族館に併設されている遊園地や植物園を巡る、シンプルなコース。


 薄暗い館内をすばると隣り合って進む。わたしにとってはここの水族館の展示は2回目であることもあって、特に目新しさは感じなかった。でも、今回がはじめてのすばるにとっては目新しいようで、表情をころころ変えながら水槽に見入るすばるは見ていてちょっと面白い。


 そんな風に水族館の展示を順番に見て行っていると、ちょうどお昼時になった。わたしがどこかのレストランに入ろうとすると。


「瑠奈。今日お弁当を作ってきたんだけど……よかったら一緒に食べない?」


 瑠奈が唐突にそんな提案をしてくる。


「そんな気を遣ってくれなくてよかったのに」


 わたしの言葉にすばるはゆっくりと首を横に振る。


「これは私がデートっぽいことをしたからやっただけだし、別にいいの。私が修くんとデートする時は必ずお弁当は手作りしてたから」


 その気持ちを無下にするわけにもいかないので、わたしたちは木陰のついた芝生に座ってお弁当を食べることにした。


 すばるが用意してきたお弁当はだいぶ豪勢だった。五段に積まれた重箱には、おにぎり・お稲荷さん・唐揚げ・卵焼き・たこさんウィンナー・ポテトサラダ・フルーツと言った、定番のお弁当メニューがぎっしりと詰め込まれていて、その一品一品が絶品だった。ただ……。


「うん、そろそろお腹いっぱい……」


 それまでは頑張って完食を目指していたけれど、四段目の途中でわたしは敗北を悟って箸を置く。うん、この量はさすがに女子高生二人で食べきれる量ではない。人生諦めも肝心だよね。そう軽く考えていると。


「えっ……」


 すばるは思考がフリーズしたように固まる。それから


「あ、そ、そうだよね。瑠奈は女の子だし、別に体育会系だとか食いしん坊だとか、そういうキャラでもないし。なに当たり前のこと忘れて準備してきちゃったんだろ」


 彼女の目元が煌めく。その涙に、わたしはすぐにとある可能性に思い至る。


「……もしかしてすばる、わたしのことを無意識に彼氏さん——秋津先輩と重ね合わせちゃってた?」


 わたしの言葉に、すばるはとめどなく溢れてくる涙を手の甲で必死に拭いながら頷いてくる。


「瑠奈は修くんじゃない。ぱっと見の雰囲気が近いだけで性別も、性格も、まるで違う。そんなこと、最初から分かりきってて、忘れたことなんてないはずだったのに……妙に話が合って、こっちがしてほしいことを口にしなくてもしてくれて、でも私にだけは人には言えない悩みを打ち明けてくれたりすると、ついつい勘違いしちゃう。勘違いしたくなっちゃう。ごめん。他人と、しかも男の子と間違われるとか迷惑だよね……」


 らしくもなくしおらしくなるすばるにわたしははっとする。


 『完全自殺読本』の話題やお互いの元カレ・元カノについて打ち明け合ったこと、今日の水族館でのエスコート。


 わたしたちが重ねてきた時間の一つ一つで、わたしはすばるはユメ先輩とは別人だと確信を強めて、けれど別人としてそれでも隣にいるのが心地よいと感じ始めていた日々。けれどそんなわたしと対照的に、すばるはわたしと一緒の時を重ねれば重ねるほど、わたしと秋津先輩のことを混同していたのかもしれない。


「いや迷惑ってことはないよ。わたしだってふとした瞬間にすばるとユメ先輩を重ね合わせちゃうことがあるし。それは仕方な」


「これ以上優しくしないでよ!」


 何を言えばいいか分からなくとも何か言わなくちゃ、と思って口から出た言葉は、すばるの突き放すような叫びに呆気なくかき消される。気づくとなぜか、彼女の身体は小刻みに震えていた。


「……これ以上優しくされると、もっともっと甘えたくなっちゃう。いつまでも修くんのことを忘れられずに、瑠奈に修くんの代わりをさせたくなっちゃう。わたしは自分がいつまでも修くんのことを忘れられないことも、瑠奈に迷惑をかけることもイヤなの」


 小刻みに震えるすばるの姿にわたしはどこか既視感を抱く。この既視感の正体はなんだっけ、と記憶を辿って気づいた。それはわたしの話をどこまでもわかってくれなかった「わからずや」のユメ先輩であり、大好きな人のためを思うからこそ距離を取ろうと苦悶する数週間前の愚かなわたしに似てるんだ。


 けれど、それと同時に思う。ユメ先輩に似ているところもわたしに似ているところもあるけれど、目の前にいる少女はユメ先輩でもなければわたし自身でもない。『和泉すばる』という、れっきとした一人の独立した女の子だ。


 そんな彼女の気持ちをほんの少しでもいいから軽くしてあげたい。中途半端に終わってしまった恋を新たな恋人として「上塗り」も「塗りつぶす」こともしてくれなくても、わたしの気持ちをすばるが軽くしてくれたように。


 そう思ったわたしは目の前で泣きじゃくるすばるの言葉の途中で――――――無理やり唇を奪った。


 いきなり口づけされてすばるの涙が一瞬にして止まる。彼女は目を丸くし、それからわたしを引きはがそうとじたばたと暴れてくる。さすが元体育会系、無駄に力があって今にも力負けしそう。


 けれど、わたしだって負けるわけにはいかなかった。荒療治だってことは分かってる。けれど、この程度で終わらせちゃ何も解決しない。目の前にいる黒髪の少女(すばる)のためにも、そしてわたし自身のエゴのためにも。


 そう思ったわたしはバードキスで終わらせずに無理やりすばるの舌に自分の舌を絡ませる。交わるわたしとすばるの唾液。それは、気持ちよさよりも気持ち悪さの方が先行する。けれどわたしは頬を赤らめるすばるから視線を離さずにキスを続ける。そして。


「ぷはっ、い、いきなり何するのよ! セクハラで訴えるわよ!」


 元陸上部の馬鹿力で引き剥がされて、わたしは芝生の上に転がされる。けれどわたしは口元の唾液を手の甲で拭いながらすぐに立ち上がってすばるのことをまっすぐ睨みつける。


「別にいいよ! ついでにわたしの胸も触る? わたし、そこまで大きくないけど別にまな板ってわけじゃないよ。少なくとも女の子として見てもらえるくらいには!」


「うわっ、別の女の子に自分の胸を触らせようとするなんて。これだからレズビアンのことは苦手なのよ」


「別にわたしがレズビアンなのは関係ないし、女の子が好きだからって女の子だったら誰彼構わずキスしたり敏感なところを触らせたりしたいわけじゃないわよ。普通に好きじゃない女の子に胸を触られたりしたら不快だし」


「だったら私が元カノさんにそっくりだからそういうことをしたくなったってわけ?」


「そんなんじゃない! わたしは今、ユメ先輩とじゃなくてすばるのことを見て、すばると話してるの!」


 わたしの言葉にすばるは唖然とする。


「それってまさか……瑠奈、わたしのことを女の子として本気で好きになっちゃったわけ? そういうの、余計に迷惑なんだけど」


「そんな訳ないじゃん! すばるはルックスだけで、中身は彼女としてはわたしの好みと全然違う。赤点もいいところだよ、赤点!」


 わたしに葉に衣着せぬ言い方にまたすばるの頭にかっと血が上る。


「じゃあなんで好きでもない私に無理やりディープキスなんてしたのよ?」


「ほんとはわたしだって恋愛的な意味で好きじゃない人とキスなんてしたくなかったよ。すばるのことは恋愛対象として見れないから! でも、そうまでして体に刻み込まないと、とすばるはわたしと秋津先輩が似ても似つかないってことを理解してくれないじゃん。いつまでもわたしと秋津先輩のことを重ね合わせて、勝手に落ち込むじゃん。そんなすばるを見続けるのはわたしがイヤなの。すばるは、既にわたしにとって特別で、大切な女の子だから」


 わたしの告白に、すばるはぽかんとする。そんなすばるの手を無理やり取って、わたしは無理やり自分の胸のあたりをそっとなぞらせる。恋愛対象として見れない女の子に際どい所を触らせるのは少し気持ち悪い。けれど、大切な女の子のためならば少しぐらいは平気だ。減るものじゃないし。


 それから。わたしは静かな口調になってすばるに問いかける。


「これでもまだ、すばるはわたしを秋津先輩として見られる?」


 わたしの問いに、すばるは小さくかぶりを振る。そんなすばるに、わたしはちょっと安堵する。


「なら、これからお節介を焼いても優しくしても、もう『勘違い』しないよね」


「……なんでそんなにわたしに優しくしてくれるの? 瑠奈はわたしの『恋愛ごっこ』に無理やり巻き込まれただけなのに」


 わたしの問いに答えず、しおらしくなったすばるが尋ねてくる。


「なんでって、さっきも言った通りだよ。もう既にすばるはわたしにとって特別で、大切な女の子になっちゃったから。恋愛的な意味じゃないけどね」


 それからわたしは突き抜けるような青空を見上げながらすばると出会ってからのことを思い出す。


 すばると出会ってからまだたったの1週間しか経ってない。けれど、その1週間は、ユメ先輩と死別して以来、時を刻むことを忘れた、錆びついた古時計のようだったわたしを叩き起こすには十分くらい刺激的だった。


 すばるとの出会いで、ユメ先輩と死別して以来色褪せて見えていた世界が再び、みずみずしく色づいた。ちょっと強引だったけれど、その強引さが、モノクロの一枚絵の中で止まっていたわたしの物語を、再びアニメーションにしてくれた。


「最初は、はっきり言って迷惑だった。けれど、なんだかんだですばると同じ時を過ごしていくうちにすばるの隣が、ユメ先輩との隣とは違う意味で居心地がいいな、って思ってる自分がいた。それは性格も好みも正反対だけど、『本気で愛した人との心中に失敗した』という一点がわたしとすばるで重なっていたから。そんなことを共感してくれる人なんて誰もいなかった。すばるの前だけでは気を遣ったり気を遣われたりせずに、ありのままの自分で居られた。そういう意味で、すばるはわたしにとっての『特別』になっちゃったの」


「……無理やり巻き込まれておきながらそんな風に思うなんて、瑠奈って変わってるね」


「あはは、そうかも。でも、それはそれとして。すばるはどうなの? すばるの中でわたしは、まだ秋津先輩のことを忘れるための踏み台でしかないの?」


 わたしに迫られてすばるは答えに迷っているように瞳を揺らす。それから。


 深く深呼吸して、すばるはまっすぐにわたしのことを見つめて、告げる。


「私も瑠奈と同じ。最初は打算で始まった関係だったけれど、一緒に時を刻んで、お互いの話をしていくうちに、瑠奈って私と同じだな、瑠奈だけなら私のことを理解してくれるな、と思って、いつの間にかあなたの横っていう居心地の良い場所に甘えてしまっていた。でもそれは、恋人の隣とも、ましてや修くんの隣とも、違うんだよね。違うってわかって、恋愛的な意味とは違う意味で瑠奈のことを大切に思っていることに気づけたからこそ、はっきりと瑠奈を修くんと分けたい。だから——椎名瑠奈さん。私との恋人ごっこはここでピリオドを打ってくれませんか。私から告白しておいて図々しいのは分かっていますけれど」


 フラれた。


 けれど、フッた方にもフラれた方も、驚くほど清々しい表情をしていた。だって最初から恋人なんてわたしたちの関係は()()()だったから。わたしたちにはお互いに別々の忘れられない、今はいない恋人がいる。互いに相手のことがある意味好きになれなくて、でも他の人にはない()()を感じてしまう。そんなわたしたちを繋ぐのは()()であるはずがない。


 それから。すばるは再び大きく深呼吸をしてから、もう一つの告白をする。


「それで椎名瑠奈さん。フッておいてあれだけど……これからも、お互いの中途半端に終わってしまった恋の傷が癒えるまで、あなたの隣にいさせてくれませんか? 置いて行かれた、心中失敗仲間として」


 その告白に、わたしは満面の笑みを浮かべて大きく頷く。


「もちろん!」


 傷の舐めあいだけしていても前には進めないこともある。でも、似た者同士の傷の舐めあいでないと癒えない傷だってある。


 心中に一人だけ失敗して、最後まで両想いだったのに中途半端に終わってしまった恋はそのような類のものなのか。その答えは、わたしにはまだわからない。けれど今は、中途半端に終わってしまった恋を自分の中で昇華するために、ある意味大嫌いで一生分かり合える気になれないけれど、でもある意味世界で誰よりもわたしのことをわかってくれる人と、一緒に歩む中で考えて生きたい。少なくとも今は、そう思う。


◇◇◇


 お弁当を片付けた後。わたしとすばるは一旦水族館内のショップに戻って、おのおのお土産を物色していた。


 わたしが購入した全長五十センチの大ボリュームを誇るオオサンショウウオのぬいぐるみをほくほく顔で抱きしめていると、すばるはジト目でわたしのことを見つめてくる。


「なにそれ。ちょっとリアルすぎてキモい……」


「すばる、この可愛さが分からないなんて、なんてかわいそうな女の子なの? この優しそうな瞳とか、頭のぽつぽつとか、めちゃくちゃチャーミングじゃん。それにこの日本固有種の独特のオオサンショウウオならではの模様がいいんじゃん。ちゃんと京大が監修してるし」


 あまりの可愛さにわたしがオオサンショウウオくん(今そう命名した)に頬ずりしてしまうけれど、すばるの表情は硬いまま。解せぬ……。


「そう言うすばるは何買ったの……って、黄色いカエルの手乗りフィギュア?」


「そう。水槽前の解説のところで致死性の毒を体内で作り出すって書いてあって、自殺したくなったとき用に一家に一匹欲しいな、って思ったことが印象に残ってたから。本当は本物を売ってほしいけれど、そういうわけにはいかないのでしょうから、せめてもの慰みに」


「あっ、それ思った!」


 ふとした瞬間に自殺トークで盛り上がるわたしたち。周囲の人はぎょっとしていたような気がするけれど、こういう話が気軽にできるのはわたしたちらしくて割と好きだ。



 ショップを後にした後、わたしたちは水路を中心とした屋外の庭園を歩いていた。小川のせせらぎが涼しさを感じさせてくれる。


「そういえば、私と瑠奈の関係性に名前を付けるとしたら、どんな名前になるんだろうね。恋人ではないし、友達、って言うのも少し違う気がするし」


「そうだね……」


 不意にすばるがそんな疑問を口にして、わたしは立ち止まって考え込む。


と、その時。わたしの視界に、森の中に植えられた白い花が入ってくる。植物名の書かれたプレートを見るとそこには「シロユリ」と書かれていた。


 そういえば女の子同士の親密な関係を百合の花に例えられることがあるんだっけ。ふとそんなことを頭を過った次の瞬間、わたしの中にとある名前が浮かぶ。


「すばる。わたし、いい名前思いついたかも」


 そう思ってすばるの方を振り返ると、すばるもすばるで何か思いついたかのようにニヤニヤしている。


「お互いに何か思いついたみたいね。じゃあ、せーので一斉に言い合おうか」


「うん」


 わたしの提案にすばるは嬉しそうに頷いてくる。


「じゃあ行くよ。せーの」


 そこでわたし達は肺に、澄み切った森林の空気を吸い込んでから告げる。


 好きな人のタイプも、性的指向も何もかも違う。けれど、お互いに大切な人と一緒に死のうとしながら死にきれずに逝き損なってしまった、だからこそ、誰よりも互いのことがわかってしまう。中途半端に恋が終わってしまった少女二人の関係に相応しい名を。


「「心中失敗百合」」



                                    『心中失敗百合』完


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