バスタブ放浪記
いつも通りのお風呂の時間
ぶくぶく、ぶくぶく、
湯船の中、息を吐き切っては顔を上げ、またつける。
海の中にいるみたいで心地いいんだこれが。
なんかさ、水の中にいると、普段触れられない空気も柔らかく頬を撫でてくれるし、髪の毛もふわんと浮いて素敵に見える。ぼくはそんな時間が好き。
今日はずっとやりたかったことをやる。
いつも潜る浴槽の真ん中、小さな亀裂があるんだ。
一度思い切って、めくったことがある。そしたらさ、ふふ。ここだけの秘密なんだけど。
見えたんだよ、珊瑚礁の海が。それも昔の海、図鑑で見た大きな生き物が泳いでた。今日は、それを、みに行く!
おっとそのまえに。息が長く続く魔法の薬を飲まなきゃいけない。
ごくん。
よし。僕はバスタブに顔をつけて、いつもより深く潜った。亀裂に指を捩じ込ませて広げて、体を押し込む。ぎゅーっとつぶれてしまいそうになりながら足先までが抜け、大きな空間に体が解き放たれた。
がぽん、
なんて、綺麗なんだろう。
海なのに、底には緑が生きていて、上に伸びた海藻が波に合わせて揺れている。どこからともなくさす木漏れ日には、小さな魚たちが群がっている。
あ〜あ、もっとちゃんと図鑑を見とけばよかった!
文句を垂れながら足を動かして水を蹴る。体は自在に動いて、魚たちの頬に触れて遊んだ。それからベルーガと手を繋ぎイワシの群れの真ん中を抜け、マンタの背中に乗せてもらった。恥ずかしがりなヤドカリとのじゃんけんは僕の全勝。
帰りたく無いなあ。
呟いてみたら、さーっと周りの魚たちがいなくなっていく。
「どうしたの?もう帰る時間なの?」
問いかけを投げ、名残惜しげに手のひらを下ろした、その指先に。
ざらり。
鮫肌が触れた。
雑に生え替わり、内側へと何枚も何枚も連なった鋭い歯。焦点の無い白く濁った目がこちらをみていた。
ばくん!
目を合わせたのも束の間、大きな口が僕の胴体に噛みついた。そのまま揺さぶられ、もくもくと煙のような血が昇っていく。
やめて!やめて!やめて!
僕は夢中で叫んだ。食べられてしまう、怖い、怖い。
もがくうちに、腹の中に匿っていたはずの薬が口からぽろりと出かけていく。待ってよそれが無いとダメなのに。
僕の声なんて届くはずもなく、鮫の歯は肉を掴んだまま、猛スピードで浴槽の底に突進した。元に戻りかけてきた亀裂はみるみる大きくなり、僕の体を硬いプラスチックにめり込ませた。肋の隙間や肩甲骨が軋み、ひとの形をやめていくのが、わかる。
死にたくない。
『聡!聡!!!起きて!!ねえ!!!』
ゆったりと身体が、揺さぶられる。
随分優しい鮫だなあと、重すぎる頭で思考をまわしながら手を伸ばす。柔らかい髪と、温かい水滴。
『よかった、よかった、.. ごめんね。ごめんなさい。』
何が?何がよかったのだろうか、何がごめんなさいなの?そっか、うん。よくわからないけど、僕もごめんなさい。ごめんなさい、また何かやらかしてしまったんだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい。
お風呂の時間、