5 みどろが池
信八が次に気が付いたのは、誰かにぺちぺちと頬を叩かれた時だった。
そのいささか手荒な仕草に、顔をしかめつつ、ゆっくり目を開けると、心配そうな惣兵衛さんの顔が見えた。その後ろには、夜明けの色に染まった空が見える。
「信八、気が付いたか」
からからにかわいた喉からは、声が出ない。信八がうなずいて目を瞬かせると、惣兵衛さんはほっとしたように振り返って、近くの者に呼びかけた。
「おおい、信太さんとこに誰か走れ! せがれの信八は無事だと伝えろ!」
それから、惣兵衛さんは持っていた竹筒から水を飲ませてくれた。
「三日三晩も、どうしていたんだ」
問われて、信八はきょとんとした。
「おいら、そんなに出歩いてないよ。まだ、お参りしてからすぐの夜明けでしょ?」
「もう、あれから三日も経つ。お前はそのあいだ、行方をくらましてたんだ」
なんでも、信八はお参りにいったお社から煙のように姿を消して、心配した村の衆が手分けをしてそこらじゅうを探したが、見つからなかったのだという。
「ここは?」
起き上がって、信八はあたりを見回した。ナマズと出会った、ため池のほとりだった。
「八幡下の十兵衛さん家の裏山だ。去年、ため池普請をしたばかりの、みどろが池だよ」
そう言われて、信八も驚いた。
八幡下といえば、鎮守のお社とはまるっきり反対の山の中なのだ。
自分の着物がぐっしょり濡れているのに気が付いて、信八は惣兵衛さんに飛びついた。
「惣兵衛さん、それじゃ、雨は? 雨は降ったんですか」
「今朝がた、たっぷりな。その雨の中、ぐしょ濡れの鳶丸が村に帰ってきて、一番最初に出会った若い衆の着物をくわえてぐいぐい引っ張るんだ。それで、これはもしやと思って、みんなで鳶丸の後をついてきたら、ここにたどり着いたというわけさ。……とにかく、そんな濡れた着物のままじゃあ風邪をひく。ひとまずこれに着替えて村に戻って、稗がゆでも食べながら、お前の話を聞かせてくれないか」
惣兵衛さんは穏やかに言うと、自分の半纏をぬいで、信八に渡してくれた。
◇
村の世話役の惣兵衛さん、信八の父の信太、それからお寺の和尚さんと、お隣の気のいい五郎さんとおくまさんの夫婦、みんながそろったところで、信八は、あったことを一つずつ、のこらず話した。鳶丸は、信八が帰ってきてからというもの、ぴったりとその横に張り付くようにして離れず寄り添っていた。
「不思議なこともあるもんだねえ」
ため息をついたのは、おくまさんだ。
「だがよ、みどろが池は、去年普請したばっかりだろう。堰を切れなんて、本当かい」
気のいい飲んべえ親父の、お隣の五郎さんは、怪訝そうに言った。
「でも、本当に、あの池だったんだよ。蛇篭がまだ新しかったし、景色も全部同じだもん」
信八が言うと、和尚さんがうなずいた。
「あの池は昔からあそこにあったはずなのに、田をこれまで作ってこなかったのには、それなりのいわれがあったんでしょうな。それをみんなが忘れて、ため池に普請したのを、神様が憂いておられるのかもわかりませんぞ」
「おりゃあ、難しいことはわかんねえがな、信八は嘘は言わねえよ」
おとッつぁんの信太はうなった。
「信八が見たって言うからには、ちゃあんとこの二つの眼で見てきたし、聞いたって言うからにはこの両の耳で聞いてきたんだ」
惣兵衛さんは腕を組んだ。
「信八と鳶丸が、まるっきり三日間姿をくらましていたのは確かだよ。それに、姿をくらます前に六十四度のお参りをきちんと勤めあげたのも、拝殿の白い石を見ればはっきりしている。信八の言うことを疑う必要なんか、どこにもないだろう。信八と鳶丸は神隠しにあったんだ。そして現に、雨は降った。それも、昨日の夜中から、今日の明け方にかけてたっぷりね」
「惣兵衛さん、雨は降ったんだよね。じゃあ、鳶丸は連れて行かないでしょう?」
懇願するように言った信八の頭を、惣兵衛さんはぽんぽんとふたつ撫でた。ついでに、信八の横で大人しく床に伏せて尻尾を振っている鳶丸の頭も撫でた。
「わしの名にかけて、連れて行かせないよ。これから、庄屋様とお代官様に事の仔細を奏上に行ってくる。和尚さん、一緒に来てくださいますかな」
◇
惣兵衛の話を聞いたお代官様は、ただちに触れをだした。
――みどろが池の堰を切って、今後一切、ため池として使うべからず。みどろが池は、雨の神様のご神域として、年に一度の祭りを欠かさず、また、その魚もとるべからず。池の下手に当たる沢筋でも、一切の漁を禁ずる。
それから、庄屋様の手配で、桶に一杯の白飯と、徳利に一杯のお神酒を池に沈め、雨を降らせてくれた神様にお礼参りを行った。村の衆みんなで歌を歌って、にぎやかな祭りとなった。
その年、雨は、たっぷりと田をうるおして、かつ降り過ぎず、村は久方ぶりの豊作にわいた。
刈り取った稲をはさがけにして、たっぷりのお日様に当てて乾かし、脱穀して、お代官所への年貢おさめも、村の取り分を倉にしまうのもみんな終えて、村の衆が冬支度を始めた頃だった。
大きな地揺れが、辺りを襲った。
近くのいくつかの村では、新しいため池の堰が切れて、下手の家や畑が流されたところもあったらしい。だが、信八の村では、崩れたのは、みどろが池の山際だけだった。あらかじめ堰を切って水を抜いておいたので、鉄砲水で家を流されずに済んだと、下手の沢沿いの家々はみな、ナマズの神様に感謝して、翌年のお礼参りは、もっとにぎやかに行うことになったという。
不思議なことに、みどろが池でも、その下手の沢筋でも、すんでいる魚はみな、左目に大きな傷があるのだという。それで、こっそり漁に入っても、街では傷ものと嫌われて売れず、その上、こっそり魚をとったものには色々と良くないことが降りかかったという噂が立って、みどろが池とその沢筋で魚をとるものはいなくなった。
年寄りになった信八が、孫に語って聞かせたという話である。