4 約束
椀の湯がすっかり泥でにごったころ、ナマズは大きく伸びをした。
――はあ、いい湯であった。
固まった泥を洗い落して、見た目にもすっきりしたのに、なぜだかナマズは泥山の中から這い出てきたときより、一回り大きくなって見えた。
――どうじゃ、こうして久方ぶりに湯に入ってさっぱりすると、こう、一杯やりとうなるのう。
ナマズは丸い胸びれを器用に動かして、くい、と傾ける仕草をする。
「お水? 持ってきたのは飲んじゃったから、もうないよ。池の水でいいなら汲んでくるけど」
信八が首をかしげると、ナマズは舌打ちした。
――これだから、若いもんはいかん。風呂の後に一杯と言ったら、さの字がつくアレに決まっておるだろう。
「さのつく? おさゆ?」
――ええい、察しの悪いやつじゃ。湯水から離れんかい。そこに、あるじゃろう! 徳利が!
「おみきだよ、これ」
――お神酒は「さけ」じゃろがいっ!!
ぜえぜえと肩で息をしている。
しゃべるナマズのくせに、飲んべえの隣のおじさんのようなことを言うので、信八は笑ってしまった。信八の父は下戸で、酒は一切たしなまない口なので、気が付かなかったのだ。
「お神酒はちゃんと持って帰らないと、おいらが惣兵衛さんに怒られちゃう。ほんの少しだよ」
信八は池の端に生えていた椿の葉を一枚折り取って、ナマズの前に置くと、徳利からそうっと酒をニ、三滴注いだ。
待ちかねていたようにナマズはひげだらけの口を即席の盃によせると、うまそうにすすった。
――はあ、生き返るのう。極楽、極楽。
「それじゃあ、生き返るどころか、往生しちゃってるじゃん。極楽、まだ行っちゃだめだよ」
――こざかしいことを言うでない、小童。ほれ、盃がもう、空っぽじゃ。次を注がんかい。
「少しって言ったじゃないか。あんまり減ってたら、惣兵衛さんに怒られちゃうってば」
――お前の村の衆は、わしの目を傷つけておいて、詫びの酒すらケチるんかいのう。つまらんやつらじゃのう。
ケチるも何も、片目をケガしたナマズが、詫びに酒をよこせと言って、注いだそばから飲みほしたなんて、どの大人に言っても絶対に信じてもらえない気がする。
「もう、しょうがないなあ。もうちょっとだけだよ。大人たちには、お社でちょっとだけこぼしちゃったって言うから」
一杯、また一杯と、乞われるままにナマズに酒を飲ませているうちに、ナマズはずんずんと大きくなっていった。さっきまでは、両の手の上にしっかり乗るくらいの大きさだったのに、しまいには、犬の鳶丸よりも大きい、二歳か三歳の子どもくらいの大きさになってしまった。
すっかり化け物じみている。だが、酒を催促する様はそれこそ、おかわりをねだる子どものようで、ちっとも怖くなかった。怖くないのはいいのだが、駄々をこねるのでたちが悪い。止めどころが分からなくて、ずいぶんたくさんの酒を飲ませてしまった。
信八は、心配になって、すっかり軽くなった徳利を揺すってみた。お社ではたぷりたぷりと音を立てていた徳利が、もう、ぴちゃりとすら言わない。ひえっと思って、椿の葉の上でそっと傾けながらのぞきこんでみると、最後のひとしずくがぽたりと落ちた。
ナマズ、全部飲んでしまったのか。
惣兵衛さんに何と言い訳しようかと、信八が眉根を寄せていると、最後の一滴もあっという間にうまそうになめつくしたナマズは、上機嫌で言った。
――やれ、楽しや。そうじゃ、小童。歌でも歌わんかい。ほれ、そこの犬も、何ぞ、芸でもせい。
もう、こうなれば破れかぶれだ。
信八は知っている数少ない歌を歌い始めた。村で、みんなで一緒に仕事をするときに歌うものだ。
「どっこいしょ、どっこいしょ。重い鍬でも持ち上げろ。よいせのこらしょ、もっこをかついで、運び出せ……」
――おお、池さらいの時の歌じゃな。知っておるぞ。
はっとして、信八は歌うのをやめた。池さらいのとき、ナマズは目に大けがをしたのだ。そんな歌を聞かせては、せっかくの一杯機嫌が、だいなしになるのではないか。
ナマズはじれたように言った。
――続けんかい。にぎやかで楽しい歌じゃ。わしは好きじゃぞ。
半信半疑で信八が続きを歌い始めると、ナマズは、ひれを器用に打ち合わせて、手拍子を取った。
――やれ、楽しいのう。それ、そこの犬も楽しかろう。
わん、と鳶丸は返事をするように吠えると、ぴょんぴょんと辺りを跳び回った。その様子に、信八の心もすこしずつほぐれてきた。
信八は、歌は三つしか知らない。はじめに歌った、力合わせの歌。それから、秋の祭りにも歌う、稲刈り歌。もう一つは、村が総出で田植えをするときと、すべて植え終わってから豊作を願ってみんなでやるサナブリというお祭りで歌う、田植え歌だ。
繰り返し何度同じ歌を歌っても、ナマズは一向に気にせず、でっぷりした白い腹をたぷたぷと揺すっては、楽しそうに手拍子をしたり、尾びれを振ったりした。
「それじゃあ、とっておきを見せてあげるよ」
信八はふと思いつくと、口笛で鳶丸に合図した。
お調子者でそそっかしい鳶丸にも、実は一つだけ特技があるのだ。
信八の口笛を聞くと鳶丸はぎゅっと身を縮めて力をため、ひょいっととんぼ返りをしてみせた。
脅しにもならなければ、誰かの腹を満たすわけでもない、何の役にもたたない鳶丸の特技である。ここでナマズのなぐさめになれば、またくだらないことばかり覚えて、と村の衆に笑われていた鳶丸も報われるというものだ。
案の定、ナマズは大笑いして喜んだ。
――やれ、とんだ軽業じゃのう。いいぞ、もっとじゃ!
お客に受けたのがわかるのか、鳶丸も誇らしげに、前に後ろにと何度もとんぼを切った。
大笑いしているうちに、ナマズはもっともっと大きくなっていった。今ではもう、信八とほとんど変わらないくらいの大ナマズだ。
ぴかぴかと金色に光りながら、ナマズは満足そうに言った。
――やれ、楽しや。こんなに笑うたのは久方ぶりじゃ。小童も、犬も、また来い。次はわしが馳走するぞ。
また、次。そう考えるやいなや、ナマズと一緒に笑って軽くなっていた信八の気持ちは、冷や水を浴びせられたようにしゅっとしぼんだ。
「来れたらね。だめかもしれない」
つんと鼻の奥が痛くなる。
――なぜじゃ。
じれったそうにナマズに問われて、信八は半べそをかきながら答えた。
「雨が降らないと、みんなが困るんだ。それで、おいら、お参りに来てたんだ。だけど、おいらのお参りがダメで、やっぱり雨が降らなけりゃ、つぎは、雨の神様に黒い犬を、鳶丸をお供えしなくちゃいけないかもしれないって。生き血をお供えして、雨を降らしてもらうって言ってるんだ。おいらは絶対にいやなんだけど」
――なんと野蛮な。おろかなことじゃのう。
ナマズは怒ったように口をへの字にすると、胸びれを腹の前で器用に組んだ。
――小童、名は何と言う。
「おいらかい。おいらは、信八だ」
――信八、よく聞きよれ。村の衆に言うんじゃ。ここの池に、水を多く貯めちゃならん。作った堰を切って水を流せ。昔の通りに直すのじゃ。ここの魚もとってはならん。ここの池と、沢筋に近づくのを止めろ。その代わり、わしが雨を降らしてやる。犬の捧げものなど無用じゃ。
思いがけないことを言われて、信八は、にじんでいた涙を手の甲でごしごしぬぐうと、ナマズを見た。ナマズは今や、目もくらみそうなほどまばゆく金色に光っていた。
「雨を降らすって、それじゃあ、まるで神様みたいだ。ナマズ、そんなに偉いの」
――わしはこの辺りの、雨と地揺れを司っておる。少々油断して、陸に揚げられてしまったがのう。
がっはがっはと笑う様は、やっぱり、飲んべえのおじさんのようだ。それでも、そのぴかぴか光る身体は本当に神様のようで、信八はまぶしさのあまり目を閉じ、自然に手を合わせていた。
「どうぞ、おたのもうします。雨をお恵みください」
――信八。約束を忘れるでないぞ。それから、年に一度は、酒を持ってみなで遊びに来い。やはりにぎやかなのはいいのう。ゆかいじゃ。
次の瞬間、信八の肩と頬に、大粒の雨が当たった。
その後のことを、信八は覚えていない。