2 六十四度のお参り
数日後、村の寄り合いで、六十四度参りをだれがやるか、という話になった。足の悪い父の代わりに寄り合いに加わっていた信八は、思い切って手を挙げた。
十五夜の夜中に、月明りを頼りに、村の鎮守のお社の拝殿まで長い石段を上がってお参りし、また、石段下の御詰め所に戻るのを六十四度繰り返す、大変なお勤めだ。それも、一晩のうちにやってしまわないと、霊験が薄くなってしまうのだという。
よくあるお百度参りではなく、六十四度なのは、お米の八人の神様にそれぞれ八度ずつお参りをする、という意味なのだそうだ。お米作りには、八十八の手間がかかる、だから米という漢字は八十八を組み合わせてできたものだし、お参りも八という数字にちなむのがいいらしい。そういう遠い村の言い伝えを、村の世話役、惣兵衛さんは説明してくれた。
「信太さんとこの信八か。まだ子どもじゃねえか。務まるのかい」
誰かがあげた声に、信八は、自分でも不安になる気持ちを抑え込んで、できるかぎり元気よく答えた。
「おかみさんたちは子守りもあるし、男衆は朝から野良仕事もあるでしょう。おいらなら身軽だし、足腰も丈夫だもん。ちょっと休めば、野良にも出られるよ」
信八は、まだ十になったばかりだ。それでも、おっかさんが亡くなった後、家のことをよく手伝って、腕の力こそまだ弱いがこまごまと立ち働き、一人前に近い仕事をしているので、村の大人たちも一目置いていた。
「それでも、信八ちゃん一人じゃあ危ないよ」
隣のおくまおばさんが心配して言ってくれたけれど、惣兵衛さんは首を横に振った。
「これは一人でやらねばならねえんだ。そういうまじないだそうだ。信八が一人で行けないなら、別の人に頼まねえと」
「おいらがやるよ」
信八はきっと口を結んだ。
「人が一人ならいいんでしょう。犬の鳶丸についてきてもらうから、危なくないよ。そのかわり、一生懸命お願いして、雨を降らせてもらうから、鳶丸の命だけは助けてください」
寄合所の床に手をついて頭を下げた信八に、村の衆は顔を見合わせた。
「信八や、何も俺たちだって、いけにえなんてまじないはやりたくないんだ」
惣兵衛さんは悲しそうに言うと、大きくうなずいた。
「よし、信八に任せよう。信八、よくよく神様にお頼み申し上げるんだぞ」
昼間の仕事に加えて、大変な夜中のお参りのお役が回ってくるのではないかと、戦々恐々としていた村の衆は、ほっと胸をなでおろしたようだった。
◇
お参りを行う、十五夜の夕方。
村の衆は、伝え聞いた作法に従って、石段下の御詰め所に必要なものを用意してくれた。氏神様にお供えするお神酒を大きな徳利につめたのと、神様のための清いお椀、それに、まっさらの半紙にきちんと包んだ塩、清めの火打石を、信八が背負っていけるように大きな革袋につめてある。
信八が背負ってみると、小さな身体に革袋は大きすぎて、袋の底が地面を掃いてしまいそうだった。それを見たおくまおばさんは、そっとため息をついて、すまないねえ、と信八にだけ聞こえる声で呟きながら、巾着になっている革袋のひものたるみをぎゅっと結んで長さを詰めて、どうにかこうにか、合うようにしてくれた。
信八の父、信太は、はじめは信八がお参りに行くのは反対で、自分が行くと言い張った。でも信太自身が、おととし山仕事の時に足を痛めて、とてもではないが六十四度のお参りを一晩に終えられる身体ではない。信八と一緒に惣兵衛さんが説得してくれて、どうにか、しぶしぶ、うなずいたのだった。
そんな信太は、字も書けないしそろばんもできない信八が、万が一にも六十四度を数えそこなって、数足らずで願掛けが成就しなかったら大変だ、と、特別な準備をしてくれた。それが、折敷に山盛りの白い石だった。
「いいか、この白い石はきっかり六十四個ある。惣兵衛さんにもお願いして、大人が三人がかりで、繰り返し数えたから間違いない」
父は折敷を指し示して、信八に言った。
「お前は、この石を一つずつ持って、ご拝殿に上がるんだ。お参りするたびに一つ、ご拝殿に石を置いてくる。そうやって、折敷の石がすっかりなくなったら、それで六十四度だ。そしたら、すぐに帰ってこい」
自分から行くと言ったものの、白木の折敷の上に六十四個積まれた石はあまりに多くて、信八は声もなくうなずいたのだった。
責任重大だ。でも、ちゃあんとお参りして、雨を降らせてもらわなくちゃならない。そうして、小さな体で吠えまくって、いつもおいらとおとッつぁん、それから家の畑を守ってくれている鳶丸を、おいらが守ってやらなくちゃならないんだ。
信八は、山盛りの真っ白い石を見つめながら、心の中でぎゅっと帯を締め直すように、そう誓ったのだった。
◇
信八は、最後の一つの石を握りしめ、鎮守のお社の長い長い石段を、一段一段踏みしめるようにして、上がっていった。
これで六十四度目だ。だが、足を止めて空を振り仰げば、信八を照らす十五夜お月様の明かりはあまりにも澄んでいて、星もたくさん光って見えた。雨雲の一つも見当たらない。
最後の白い石を折敷から手に取ったときに信八の小さな胸をふくらませていた、あと少しでお参りが完成するんだという達成感は、見る見るうちにしぼんでいった。
六十四度のお参りを踏んだからって、それだけでは何もならない。雨が降らなくては、意味がないのだ。
これでもしも、降らなかったら。
口ではいやだいやだと言っていても、他に方法が残っていないとなれば、村の衆は、鳶丸を雨の神様に上げてしまうだろうか。少なくとも、田畑の仕事に、ため池普請にと、毎日働いている十兵衛さんのところの黒馬よりも、村のお役にはあまり立っていない鳶丸のほうに、先にお声がかかるだろう。
そう考えると、晴れ渡った夜空とは裏腹に、信八の心には真っ黒い雲がもくもくとおおいかぶさってくるようだった。
そんな信八の心中など知らぬげに、鳶丸はひょいひょいとあたりを跳ね回っては、やれ、とかげを見つけたのととびかかり、逃げられては悔しそうに小さく吠え、まるで夜中の散歩を楽しんでいるような風情だ。とても、信八と一緒に六十三度もこの石段を往復しているようにはとても見えないくらい、はつらつとしている。今だって、だっと石段を駆け上がっては立ち止まり、信八のほうを振り返って、じっと見つめてくる。
信八ちゃん、早く早く。
そう言われているような気がする。
「鳶丸は元気だなあ。落ち着きがなくてあちこち跳び回るから鳶丸って、良く名付けたもんだよ」
信八は口をとがらせてひとりごちた。それから、考えても仕方のないことは頭の隅に追いやって、鳶丸の後につづいて、再び慎重に石段を上りはじめた。
◇
信八は石段の上までたどりつくと、これまで六十三度繰り返してきたとおりに火打石で身を清めてから拝殿に上がった。特に心をこめて、最後の一度のお参りを済ませ、握りしめていた白い小石を、お供え物の前に積んでいた小石の山のてっぺんにのせた。
もちろん、何も変わったことは起こらなかった。天を割って稲光が走るとか、一天にわかにかきくもり、たらいをひっくり返したような雨が降るとか、そんなことを期待していたわけではない。
それでも、信八の気持ちは沈んだ。
もう、信八にできることは何もない。後は神様のお心一つだ。
信八はお供えしていたお神酒を、丁寧に椀から徳利に戻した。塩も半紙にきちんと包み直す。酒や塩は、神様もお好きだけれど、山の獣も引き寄せてしまう。獣たちが味を占めると、何もないときでも拝殿を漁りにくるようになってしまうので、全て持ち帰るように惣兵衛さんから言われていた。
栓が固くしまっているのを確かめるつもりで徳利を揺すると、中で酒がたぷたぷと音を立てた。
その音を聞くと、どうにも喉が渇いてたまらなくなった。信八は、革袋の中におくまおばさんが忍ばせておいてくれた竹筒から、水を飲んだ。大事に少しずつ飲んできたけれど、最後の一口は、信八のカラカラの口の中をわずかに湿らせる程度の量しか残っていなかった。
信八は、もやもやと寄る辺ない気持ちのまま、空っぽの竹筒をしまった。道具一式をまとめた革袋を背負って拝殿を出ると、高床に造られたお社の下で待っていた鳶丸が走り出てきた。
おかえりなさい、信八ちゃん。
鳶丸がそう言っているかのように、嬉しそうにわんと一声鳴いたときだった。
不意に、横合いのやぶでがさがさと大きな音がした。
信八の心臓は、喉から飛び出しそうになった。
イノシシだろうか。カモシカかもしれない。
どちらも、突進してくれば命に関わる。鳶丸を近づかせてはいけない。
とっさに信八は大声を上げた。
「鳶丸!」
呼んだらすぐに戻ってくるよう、信八も信八の父も、いつも鳶丸には口を酸っぱくして言っていた。なのに、鳶丸ときたらてんで言うことを聞いたためしがないのだ。
そのときも鳶丸は、信八の声などまるで聞こえなかったように、ぱっと耳を立てて音のした方を振り返り、しっぽをぴんとあげると、一目散にやぶに飛び込んだ。
「鳶丸! 戻ってこい!」
信八は必死に呼び掛けたが、鳶丸がやぶを漕ぐ音はあっという間に遠ざかっていく。
「もう! 置いていかないでよ、鳶丸!」
このまま、鳶丸が行方不明になっては困る。
それに、鳶丸が見えなくなってしまうと、夜の山はあっという間にその恐ろしさをまして、信八にのし掛かってくるようだった。
信八はあわてて、鳶丸を追いかけた。
お米一粒に宿る神様の人数には日本全国、あちこちで色々な考え方がありますが、七人(七柱)という言い伝えが多いようです。多いものでは、八十八という説も。信八の住んでいるあたりでは、八と言い伝えられているようですね。