1 いつにない日照り
疲れた。もう、くたくただ。
たった今、足を動かすのは、田植えの時、柔らかい田んぼの中で泥に足を取られそうになりながら歩くよりも、もっとずっと重く感じた。下りの長い石段につんのめって転ばないように、慎重に下りてきたせいで、太ももの前側がぱんぱんに張っている。
信八は、きしんで動きにくい板戸を持ち上げるようにしながら開けて、小屋の中によろよろと転がり込んだ。どうせまたすぐ出ていくのだし、暗い室内を照らすように、間口から十五夜の月明りが具合よく差し込んでくるので、板戸は開けたままだ。
主を追いこすように小屋に飛び込んだ犬の鳶丸は、土間の片すみに置いた桶に駆けよって、がぶがぶと水を飲んでいる。
信八は草鞋も脱がず、上がりかまちに腰をかけてそのまま冷たい板張りの床に寝転がった。
まだ眠ってしまうわけにはいかない。
それでも、目の前の床にじかに置かれた白木の折敷を見ると、自分のやり遂げようとしていることに、胸の奥がじんわりとあたたかくなるような気がした。
折敷の上には、真っ白い小さな石が、ぽつんと置かれている。
あと一つ。
信八がこの小屋についたときには、白い石がこの折敷に山盛りに置かれていた。
そのときは、ほんの十歳の信八ひとりの身にかかっている仕事が、どれだけ大変かを見せつけられたようで、目の前が真っ暗になるような心地がしたものだ。
それでも、一つ一つ、こつこつとやっていけば、できるものなんだ。
あと、一つ。これが終われば、信八は家に帰って、薄いせんべい布団ではあるけれど、なじんだ寝床にもぐりこんで、ぬくぬく、ぐっすりと眠ることができる。
水を飲み終えた鳶丸が戸口のところで振り返り、とがった三角の耳と、くるんと巻いた尻尾を立てて、信八をじっと見つめた。
鳶丸は、毛並みのほとんどが真っ黒い犬で、白いところはわずかに尻尾の裏側と、四つ足のつま先だけだ。その鳶丸が、月の光を背にこちらを見ていると、まるで影法師がそのまま立ち上がったかのようだった。短いがふさふさと濃い毛の先と、つぶらな瞳だけが、小さく光をはじいている。
何してんです、信八ちゃん。早く行きましょうよ。
そう言われているような気がして、信八は苦笑いしながら身を起こすと、折敷の上に一つ残っていた白い石を握りしめ、粗末な藍染め木綿の着物のひざをぐっと押すようにして立ち上がった。
◇
その年の日照りは、いつになくひどかった。
六月になっても、いっこうにまとまった雨が降らない。村の近くを流れる川は、川底にへばりついたようなちょろちょろした細い流れになってしまったし、田んぼはひび割れかけ、先月植えてようやくしっかり根を張りだしたばかりの稲の葉も、こよりをよったように、細くねじれ上がり始めていた。すっかり枯れてしまう一歩手前だ。
この辺りは、他の土地よりも雨が降りにくい。そのため、近在の村々では、それぞれ力をあわせて、水不足を乗り切るための工夫を重ねてきた。
雨がどうにも降らない日が続けば、山際にある昔からの池や、小さな沢をせき止めて作られたため池から水を引いてくる。
そうした池や掘割の底にたまった泥や枯れ草をさらって岸に上げ、きれいにする、池さらいやどぶさらいも、春先、稲を作り始める直前の大切な仕事の一つに数えられているくらいだ。
ため池の数も、これまでにあるものだけでは心もとないと、山中で新しく具合のいい池やくぼ地を見つければ、もっとたくさんの水を溜められるように普請して、新たなため池を増やすように工夫もしている。村で人足を工面して、池の底を深く掘り下げたり、池から流れ出る沢をせき止めたりして水かさを増やし、岸辺には、池のへりの斜面が崩れないように、蛇篭という細長い竹かごに石を詰めたものを並べて固めるのだ。
そうした努力のせいもあって、近ごろでは水不足に悩まされることもかなり減ったと、村の年寄りたちは口々に言っていた。雨が降らない日が続いても、ため池の水を少しずつ田に流し込んで急場をしのいでいるうちに、どうにかこうにか雨が間に合うようになっていたのだ。
なのに、今年の日照りは勝手が違った。
今年はもう、頼みの綱のそうした池さえ、水取り口よりもずっと下まで水面が下がってしまって、水が取れない。
鎮守のお社で雨ごいをしたり、お寺の和尚さんにお経を読んでもらったりしたけれど、一向に雨は降らない。みんな困り果てて、あらんかぎりの伝手をたどっては、きき目があるという雨ごいのまじないを聞いて回った。
すると、少し遠い村からお嫁に来た人が、お里の方では、雨ごいのおまつりをやってもダメな時には、村の鎮守のお社に六十四度のお参りをしていたと言い出した。
それと、もっともっと昔には、雨の神様に、馬や犬を奉納することもあったらしい。
「なんでも、黒いのがいいらしいよ。逆に、長雨を止めたいときは、白い馬がいいんだってさ」
村のおかみさんたちが、井戸端で薄気味悪そうにうわさしているのを、信八も洗濯をしながら聞いていた。
「奉納ってどうやるんだい」
「それがねえ、生き血を捧げるって言うんだよ」
ひええ、と、おかみさんたちの間から悲鳴が上がった。
「それじゃあ、殺生じゃないか。仏様の罰が当たるよ」
「それがさ、血が流れると、生臭くていけないって言うんで、神様がそこらを洗い流すために雨を降らせてくださるんだってさ」
日頃から地獄耳でならしている、信八の隣家のおかみさん、おくまさんが説明すると、他のおかみさんたちは眉をひそめた。
「神様を困らせるのかい。何だか、やっぱり罰当たりな気がするねえ」
「それに、馬を奉納しちまったら、いくら雨が降ったって、その後、田畑の仕事ができないじゃないか。黒って言ったら、八幡下の十兵衛さんとこくらいだし、あの家は一頭しかいないだろう、それじゃ困るよ」
「そうだよねえ。十兵衛さんのとこじゃ、ため池普請の村役に当たって、去年はせがれも馬もかかりきりだったろ。自分ちの田んぼの世話の人手が足りなくって、ずいぶん苦労したって聞くよ。この上、あの馬まで取られるとなりゃ黙っちゃいないだろう」
信八の心臓はどきりとはねた。
信八の家には、馬はいない。だが、村でたった一匹、黒い犬を飼っているのが、信八の家なのだった。
尾の裏側と足先だけがほんの少し白いが、後は真っ黒の、鳶丸という犬だ。山ひとつ向こうの猟師の家で、名犬と誉れ高い猟犬の番の間に生まれたが、二親に似ずどうにもそそっかしい上にお調子者で、後継ぎの猟犬としてはまったくモノにならなかったらしい。
はみ出しもんあつかいされていたのを、信八の父・信太が不憫がって、イノシシやシカを畑から追い払うくらいの役には立つだろうともらってきたのだ。
信八の家に来てからも、番犬をさせれば、追い払うだけでいいシカを深追いしすぎて迷子になりかけるわ、山仕事のお供に連れて行けばムカデに鼻面を刺されるわ、みんなが飛び越えた沢に怖気づいてしまって渡れず、信八が戻っておんぶで渡してやらなければならないわ、と、残念な武勇伝には事欠かかない。
だが、とにかくいつもやる気と元気でいっぱいの、信八の大事な相棒である。
「何にしろ、生き物を殺すのはいやだねえ。六十四度参りを先にやってみるらしいから、それで降るといいんだけど」
おくまさんの言葉をキリに、おかみさんたちは黙々と洗濯に精を出し始めた。信八は、洗いあげた自分の家の洗濯物を抱えて、そっと目立たないように井戸端を離れた。