そのせんのむこうがわに
死ぬと透明になって消えてしまう世界。終わりが訪れない人の物語。
その人は、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた。
病院の一番奥、静かな静かな片隅で、あまり入り込まない日差しに照らされて、透けた体をキラキラと輝かせていた。
「いらっしゃい」
ノックの後、そっと戸を開けると、ベッドの上のヤスラさんから僅かに掠れた声がかけられる。
「お邪魔します」
「あぁ、ウキさんだったんですね」
少しだけトーンの明るくなった穏やかな声に、ちり、と胸が痛んだ。
この場所を訪れる人は、ほとんどいない。
元は、とても明るい人だったと聞いている。
明るく、朗らかで、友人も多く、家族にも愛され、非の打ちどころのないような人。順風満帆とも言える人生を送っていたその人を、若くして病魔が襲った。
懸命の治療の甲斐もなく病は進行を続け、ついに余命宣告を受けるに至ってしまったのだ。
そこまでは、よくある不幸な物語だったのだけれど。
余命宣告を受ける。すなわち、体の外側が半ばほど透けてしまってから、その人の病は、通常ではありえない動きを見せるようになった。
半ばまで体の透けた人がその後回復することはまずなく、長くとも一年程度で死に至る。
あるいは、ごく稀ながら奇跡的に回復することもある。透明になった体が色を取り戻すのだ。
通常ならば前者、ほんの僅かな確率で後者。
余命宣告を受けた人が辿る道は、そのどちらかだった。普通ならば。
「視力に何か変化はありますか?」
私の言葉に、ヤスラさんは首を振る。ヤスラさん越しに、向こう側の風景が揺らめいて、ある種の幻想的な風景を作り出していた。
「いいえ。物の輪郭がうっすら見えることに、変わりはありません」
「音も聞こえているみたいですね」
「はい。特に変化は感じませんね」
発する声も、この人に最初に会った時に聞いた、僅かに掠れた声から変化がない。
指で物を掴むことはできないが、掌で包み込むように持つことは出来る。それも、もうずっと変化のないことだった。
私がこの人に出会ったのは三年前。その時から、否、その数年前から、この人は時を止めている。
物が掴み辛くなり、目もほとんど見えなくなり、あとは声が出せなくなるか、耳が聞こえなくなるか、という時期に、この人の病は動きを止めてしまったらしかった。
らしい、というのは、最早病巣も何も見えなくなってしまっていて、診断をすることが不可能だからだ。
見たことのない症状の患者がいる、と紹介されて初めて会った時、その人の口から零れたのは、どうすれば死ぬことができるのだろうか。という言葉だった。
死を目前にした者たち特有の、穏やかに微笑みを浮かべたように見える顔で。死を受け入れ、あとはその時を待つばかりの顔で。その人は死を求めていた。
回復する可能性もありますよ。と答えた私に、それはないと思う。と、やはり穏やかすぎる声色で、その人は応じたのだった。
「先生。せんせ。ウキ先生」
「っ、あ、あぁ。すみません。少しぼうっとしていました」
少し思考に沈みすぎていたらしい。声を掛けられて、私は我に返った。
「お忙しいのですよね?いつもすみません」
そんなことはないのですが。と答えながら、私はヤスラさんの腕から機械を外す。いつも通り、一部が測定不能で、一部は辛うじて生きていることが分かる、ぎりぎりの数値。
医者と共に行動することも多く、ひっくるめて「先生」と呼ばれることも多いが、私は技師に過ぎない。資格の性質上、ある種類の薬を処方することはできるけれど、治療を行うことはできない。
「痛みはありませんか」
「えぇ。おかげさまで」
ヤスラさんが微笑む。
私がここに来るようになったのは、それを求められたからだった。
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「痛みが引かないんです」
横たわった半透明のその人の言葉に、事前に状況を聞いていたにも関わらず、私は驚きを隠せなかった。
「痛い、ん、ですか」
「はい。……心臓、というか、胸の辺りが引き裂かれそうな痛みと、体がばらばらになりそうな痛みが、ずっと続いています」
ほぼ見えていないという目が、胸の辺りを見るように伏せられて、指先の消えかけている手が、胸の辺りをさするように動く。
強烈な痛みを感じているようにはとても思えない表情で、その人は激痛を訴えたのだった。
「それは、いつから」
痛みを訴える患者に、いつもするように機械を取り付けながら、私はいつものように問いかける。
機械が取り付けられることに、ほんの少し安堵しながら。
「余命宣告を受けて、何ヶ月か経った頃でしょうか。最初はさほどでもなかったのですが、これ程痛みを感じるのはおかしいのじゃないかな、と思ったときには、もうこの状態でした。……余命宣告を受ける以前、私の体が透明になり始めた頃までは、似たような痛みがあることも時々あったのですが」
「余命宣告前の痛みと、現在の痛みに差はありますか」
本来、こんなに穏やかに状態を説明できるような状況ではないだろう。言葉の通りの痛みを感じているならば。普通なら。
機械がいくつかの数値を吐き出さないのを眺めつつ、問いかけを続ける。
「……以前の痛みをそれほど良くは覚えていないのですが、以前はこんなに、体がばらばらになるようなものではなかった気がします」
機械の吐き出す数値と、患者にこれまで投与された薬のリストを眺めながら、私はいくつかの鎮痛剤を取り出した。
体が透明になり始めた時、一割程度の確率で、痛みを訴える人たちがいる。
大抵はそれまでの病による痛みとは違う種類の痛みで、そのため、ずっと治療に耐えてきたような人たちでも、この痛みは耐え難く感じることが多いらしい。
体の消える際、その消え方によっては痛みを伴ってしまうということなのだろう。と考えられている。
その特殊な痛みを取り除くために、私たちが存在する。その人のそれまでの治療歴や、専用の機械によって分かる数値を分析して、痛みを取り除くために必要な薬を処方するのが私の仕事だった。
「あぁ、すごい。……随分楽になるものなんですね。ありがとうございます」
「いえ、これが仕事ですから」
なるべく平静な口調を作りながら、私は安堵の息を吐く。
本来ならば透明度が増す程痛みは弱くなっていくもので、これ程機械の反応がなくなってから痛むという事例に行き当たったのは初めてのことだった。だから、処方した薬の種類は半ば勘だったのだ。
「こんな仕事をしている方がいらっしゃるとは知りませんでした。もっと早く伝えておけば良かったな」
「珍しい症例ですから。……随分長く傷んだのではないですか?」
「そうですね。ずっととても痛かったんですが、我慢はできましたので。迷惑をかけるのも悪いかと思って、言わないようにしていたんです」
そう言って、その人は微笑んだ。
おそらく、痛みが生じてそれが激痛に変わった頃には、この人の状況は異常だったのだろう。そういう風に扱われていたのだろう。それを思えば心が痛んだ。
「これからは私が対応できますから。違和感などがあればおっしゃって下さい。痛みに変化があれば、処方する薬も変えなければなりませんので」
「はい。ありがとうございます」
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あれからもう、三年。私が一人の患者と関わるのは、最大でも数ヶ月であることを考えると、信じられないほど長い時間、この人と関わってきた。
「ヤスラさん」
「はい」
いつだって、患者と関わり始めた時が一番彼らが元気でいる時で、少しずつ弱って、色んな事に鈍くなっていく所をずっと見てきた。別れる時には皆、一様に穏やかな顔になっていて、それから幾月もしない間にいなくなってしまう。大抵は私の知らない所ではあったけれど。
「次に来るときには、何か持ってきましょうか。欲しいものはありませんか?」
「本当ですか?ありがたいですねぇ。何にしましょう」
私は、患者との距離をできる限り近く取るようにしていた。患者に気安くいてもらうことで、変化に気づきやすいように、そして少しの違和感でも伝えてもらえるように。
それで時折、患者の好物などをお土産に持参することもあった。土産を持って来た時の反応も、時を経るに従って徐々に鈍くなっていく。それも判断を助ける基準の一つだった。
そうやって少しずつ、死に近づいていく人たちを、ずっと見続けてきた。
「何か綺麗な花でも持ってきてもらおうかなぁ。色の強くて、匂いも強いものがいいですね」
「花、ですか」
「はい。ウキさんは、花は好きですか?」
この人は、最初に訪れた時からずっと、穏やかで、静かで、まるですぐにでも消えてしまいそうだった。
その印象はずっと変わらないけれど、最初に感じていたよりもずっと明るい人だということを、今は知っている。
思えば随分と、関係が密になってしまったものだ。おそらく今のこの人を、一番知っているのは私だろう。
「どうでしょう。綺麗だと思うことはありますけど、あまり詳しくはないですね。もし好きな花があれば、それをお持ちしますが」
「私の好きだった花は、今の私にはほとんど分からないと思うので。違う花の方がいいですね」
「…色も匂いも強い花ですね」
病院の片隅。急変の可能性もほぼなく、出来る治療も全くないからほとんど見回りにも来ない場所。
家族も、異常な状態になってしまったこの人をどう扱っていいものか分からないらしく、ほとんど見舞いに来ることもなく、放置したような状態らしい。
きっとそれまでは、人に囲まれているような人だったはずなのに。今は、ただ、一人。
そのことを、何でもないように受け入れているこの人が、寂しい。
「全然思いつかないので、花屋さんに行って相談してみます」
「ふふ、お手数をお掛けします」
小さく笑うヤスラさんの動きに合わせて、髪の毛がさらりと揺れる。
毛先に行くに従って、透明になっている長い髪。長く患っている間に傷んでしまったに違いないのだけれど、透明度を増した現在では、いっそ泣きそうな程に儚く美しい。
もしも、それに触れることを許されるなら。
「……ヤスラさん」
「はい」
「花は、薔薇でもいいですか?」
「薔薇ですか。確かに色鮮やかなものも多いし、良い匂いがしますね。とても素敵だと思います」
ヤスラさんが、柔らかく微笑む。
「真赤な薔薇を、えっと、確か、三本」
「赤ですか。……三本?」
ヤスラさんが首を傾げて、何かを思い出すように視線が宙に浮く。
「ヤスラさん、花言葉は詳しいですか?私はそれ程ではないんですけど」
「私もそれほど詳しくは。…でも、えっ」
花言葉、と呟いたヤスラさんが、目を丸くしてこちらを見る。視線が合うことはないけれど。
「えっとあの、確認、なんですが」
「はい」
「三本の薔薇の花言葉は、ご存じ、だということですか」
「はい。かろうじて」
ヤスラさんの透けた頬に、血液が集まるのが見える。
半透明のこちら側が、赤く染まっていく。
三本の薔薇の花言葉は「告白」とか、「愛しています」とかだったはずだ。私の知っている、ほとんど唯一の花言葉。技師が患者に持ってくるのに、ふさわしいものではない。意味を知っているならなおさら。
はたしてこの人は、私がこの線を踏み越えることを、許してくれるだろうか。
「あの、あのウキさん」
「はい」
「本気でおっしゃっていますか」
「生憎私は冗談の言える性格ではなくて」
「私、死ぬのを待つばかりなんですけど」
「存じています。もって半年、という位でしょうか。半年を何度繰り返すかは分かりませんが」
「まぁそう、そうですが。……えぇと、回復の見込みもなくて」
「それは私には分からないことですが、何年もこの状態なので、その可能性はあるのかもしれません」
「つまりその…。私はあなたに、何もしてあげることができないんですが」
「……何かしたい。と、思ってくださるんですか?」
「え、あ、いえ。えっと……」
ヤスラさんが絶句して、さ迷わせた視線が一瞬私と交わる。
それに気づくことができるのは、私の方だけなのだけど。
「……私の仕事は、苦痛を感じている人からそれを取り除くものですから、場合によっては暴れる人を抑え込むようなことも必要なんです。私は非力だから、弾き飛ばされて怪我をすることも多くて、時には自分に痛み止めが必要なんじゃないかって思うこともあります」
「…そうなんですか?…あの、今も?」
「痣がなくなることはほとんどないですね。…それにね、私にできることは、患者さんの痛みを取り除いてあげることだけなんです。治療ができるわけではないし、薬によっては命を縮めるようなものもありますから、死神、だなんて呼ばれることもあったりします」
「そんな、ことが、あるんですか」
「耐え難い痛みを取り除いたって、手放しで感謝されるのは最初だけです。痛みが消えれば、心に余裕が生まれてしまう。そうすれば、目の前にあるのはひたすら死に向かっていく自分の姿ですから。やっぱり死ぬことは怖いし、その辺りの気持ちに整理がつけられる状態になる頃には、私はお役御免ですからね。詰られるようなことの方が多いんです。実は」
「それは、大変なんですね……」
「そういうものであることは分かっているので、あまり気にしてはいないんです。仕方のないことですから。でもだから、ヤスラさんに会うのが、楽しみになってしまいました」
「……それは、でも、私がこういう状態だからで、普通の人と同じような状況なら、きっと同じようにしてしまっていただろうと思いますから」
「えぇ、そうなのかもしれません。……だけど、私が出会ったのは、今のこのヤスラさんなので。きっとずっと痛くてたまらなかったはずなのに、ずっと口に出さずに耐え続けていて、私が来る度に感謝の言葉をくれて、楽しい時間を過ごさせてくれたヤスラさんなので」
「でもあの、でも、私では、やはり、ウキさんに、何も良いことがないのでは」
「ヤスラさん」
困った顔になってしまったその人に、震えるほど喜んでいることを知られたら、さすがに怒られてしまうだろうか。
「気のせいでなければ、さっきからずっと、ヤスラさんの事情しか聞いていないようなんですが」
「え、あ、えっ……」
「私の何かが嫌だ、とはおっしゃらないんですか?」
「それは、だって、その……」
「無理だ、とおっしゃって頂ければ、私はそれでも構わないんですが。患者と技師の枠を踏み越えないでくれ。とか」
「そんな。…そんな、ことは…」
ヤスラさんが両手を持ち上げて、顔を覆う。
半透明の手は、その人の表情も何もかもを、ほとんど隠してはいないけれど。
ふるふると小さく体が揺れて、髪の毛も一緒にさらさらと揺れる。
「……素敵な。すごく綺麗で、すごくいい匂いのする薔薇を、持ってきてください。そしたら、そしたら受け取ります」
やがて、一度口を引き結んだヤスラさんが口を開いて、零れ出てきた言葉に私の心臓は音を立てた。
「本当ですか!」
「すごく素敵だと思えるものじゃないと受け取りませんからね」
「分かりました。探します!」
半ば跳ねながら言う私に、半透明の掌の向こう側にある唇が、小さく笑みの形を作る。
私から見えているのだと、気づいているのかいないのか、その表情はまるでもう、答えが決まっているようで。
私は声に喜びが混じってしまいそうなのを、抑えるのに苦心した。
その人は、いつも穏やかに微笑んでいた。
穏やかに、嬉しそうに、いつだって私を迎えてくれた。たった一人で。
死を待つばかりの状態が長く続いて、少しずつ周りから人がいなくなっていく不安も恐怖も寂しさも、きっと抱えているだろうに、全てを穏やかに受け入れている人だった。
常に穏やかなその人が、小さな笑い声をあげることがあるのを知っている。
私の不用意な言葉に対して、不満を顔に上らせることがあるのを知っている。
今のこの人のことを、誰よりも知っているのはきっと私だ。
患者と技師と、その人の痛みがなければ繋がることなどなかった関係だった。
そこには確かに線が引かれていて、決して踏み越えてはいけないはずだった。
その線の存在を、よくよく知っていたはずだった。だというのに。
笑い声を聞きたくなって、喜ぶ顔を見たくなって、怒られることすら嬉しくて。もっと色んな顔を見せてくれないかと思うようになった。
別の関係性を、作りたくなってしまった。
そして、もしも叶うなら、いつか、最後の半年を迎えるだろうその人に、口がきけなくなっても、耳が聞こえなくなっても、最期のその瞬間まで寄り添うことを許されたなら。
それはこの上ない幸福だろうと、そう、思うのだ。
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その人は、優しい声の人だった。
病院の片隅の、忘れられたようなこの場所を訪ねてくれるその人は、いつだって気遣ってくれ、柔らかく笑い声をあげ、私のどんな話でも、楽しげに聞いてくれる人だった。
仕事で来てくれているのだから、気遣ってくれるのなんて当たり前なのに、その人の優しさが心地よくて、私はその人が来るのを、いつの間にか心待ちにするようになっていた。
自分の状況がおかしなものであることは、自分が一番分かっていた。
見舞いに来てくれる人たちの声色が、段々困惑したものに変わっていくことにも、様子を見に来てくれる人たちの声色が、段々色を無くしていくことにも気づいていた。
そういうことに気づくたび、私の心はほんの少しだけ波打つ。あとは死ぬのを待つばかりで、全てを受け入れていたはずの心が、まだ生きているのだと言わんばかりに、力なくも確実に波を立てるのだ。
やがてそれらが当たり前のことになって、再び全てを諦めたその時に、その人はやって来た。何となく口にした、体が痛むという言葉をきっかけに、その人はやって来た。
優しい声と口調で私の状況を聞き取った後に処方された薬は、驚くほどよく効いた。我慢できるからと放置していた痛みがどれほど辛いものだったか、改めて思い知らされる位だった。
その人は、声と同じに、とても優しい人だった。
薬はきちんと効いているのか。体調に変わった所はないか。状態に変化はないか。いつだって何の変わりもない私の体を、それはそれは丁寧に扱ってくれた。
腕に取り付けて使用する機械が問題なく私の腕を収めるとき、安心したように息を吐くことに気づいていた。
耳が聞こえて、声が出せることに、いつも喜んでくれていることに気づいていた。
多分私が自分自身に感じているよりもずっと強く、私が生きていることを喜んでくれる人だった。
きっとその人は仕事で関わる相手には誰にだって同じように丁寧に接するのだ。決して自分が特別に扱われているわけではない。そう分かっていながら、私はいつしか不相応な望みを抱くようになった。
いつか、ぴたりと時を止めていた私の体が動き出して、本当に最後の半年を迎える時、体が痛むことはなくなった後にも、この人が会いに来てくれないかと。
きっとすぐに話もできなくなって、何も分からなくなってしまうに違いないけれどもそれでも。
そしてもし。そして、もし。
まるでプロポーズめいたその言葉を。決して言えないその言葉を心の中に潜ませて。私は今日も、その人が来るのを待っている。