当然の結果
恋愛のつもりで書き始め、これってホラーじゃね?となり、ヒューマンドラマに落ち着きました。
男爵令嬢と王子様の恋。
貴族の通う学園ではラブロマンスに事欠かない。
婚約者がいようとも、学生のうちだけは身分にとらわれず自由を満喫するのが慣例というか風習というか、暗黙の了解だった。
「マリーローズ・プランタン公爵令嬢! 私ジェームズ・エテは王太子の名において、そなたとの婚約を破棄する!」
しかし、婚約破棄となれば話は別である。
「……殿下」
歌劇の主人公にでもなったつもりでいるのか、エミール・オトンヌ男爵令嬢を腕に抱いて睨みつけてくるジェームズに、マリーローズは堪えきれずに盛大なため息を吐いた。
まさかの宣言にマリーローズの父であるプランタン公爵と、母の公爵夫人が血相を変えてやってくる。
卒業パーティの最中、学園長の祝辞が終わり、開会の乾杯直後の暴挙であった。
マリーローズはコルセットの締め付けだけではなく全身から血の気が引くのを感じ、震える足を鼓舞した。心臓が引き裂かれるように痛かった。
「理由を……お聞かせくださいませ」
「見てわからないのか? 私はエミールという真実の愛を見つけたのだ! そのエミールを、そなたは身分を笠に着て貶めたな。そのような非道な女を未来の王妃にするわけにはいかないっ!」
「当然の忠告をしたまでですわ。不幸になるのがわかっていて、みすみす見逃すわけにはまいりません」
マリーローズの言葉に、何人かの令嬢が同意を示した。いずれも高位貴族の令嬢である。
ラブロマンスが暗黙の了解なのは、いずれ別れることが決まっているからだった。だが、なかにはジェームズのように、悲恋に酔ったあげくに婚約を破棄する者も現れる。思いつめた末に駆け落ち、ということも過去には起きていた。
それでも卒業パーティで婚約破棄を叫ぶのはこれが初である。ここまでする前に、普通は誰かしらに相談して円満解決を図るものだ。
「っ、不幸だと? エミールを不幸にしたのはそなたであろう!」
真実の愛を不幸と言いきられたジェームズが激昂した。
「いいえ、殿下です」
マリーローズはきっぱりと叩き落とす。
「殿下が、彼女を、不幸にするのです」
エミールがせめて伯爵令嬢であれば、マリーローズは放っておいただろう。派閥と門閥の関係もあるが政略結婚としては成り立つ。しかしエミールは貴族の中では最下層の男爵令嬢だ。どうしようもない。
暗黙の了解を破ってまでエミールに苦言を呈し、時に周囲を煽って嫌がらせまがいのことをしたのは、真実エミールを思ってのことだった。
彼女との恋に溺れる前のジェームズであればその理由を理解してくれただろうが、今の盲目状態の彼にはマリーローズが憎い恋敵を排除しようとしたとしか見えないらしい。顔を真っ赤にして怒りに震えている。
「……エミールに今までのことを謝罪すれば婚約破棄だけで済ませてやろうと思っていたが――」
「あら? 逆でしょう、ジェームズ」
低く暗いジェームズの言葉を、涼やかな声が遮った。
「は、母上……!?」
「二年間も所かまわず人目もはばからず浮気をしていたお前たちを、婚約破棄だけでマリーローズが許してあげるのよ」
ジェームズの母、マリーグレース王妃のお出ましである。
ゆったりとした足取りで近づいてくる、この事態に動揺の欠片もないマリーグレースに、マリーローズはハッとして表情を取り繕うと礼を取った。同時に両親と、他の出席者も王妃に礼を取って畏まる。
「おそれながら、王妃殿下」
「ええ、そうね、ジェニファー。婚約破棄だけではやさしすぎるわ。これまでマリーローズにかかった費用をジェームズの個人資産から返還させます。またマリーローズの結婚については王家も責任を持ちましょう」
マリーローズの母が声をかけると阿吽の呼吸で流れるようにマリーローズへの賠償が決まった。
このことからもわかるとおり、マリーローズの母ジェニファーとジェームズの母マリーグレースは親友の間柄である。互いの子供に互いを連想させる名前をつけるくらいだから相当だ。
そもそもマリーローズとジェームズの婚約からして、同時期に妊娠した二人が男と女だったら結婚させましょう、と夢見た結果結ばれたものである。二人の夫が嫉妬するほどジェニファーとマリーグレースは親密な仲だった。
「ま、待ってください母上! マリーローズにかかった費用をなぜ返還するのですか!? こちらから請求すべきでは……」
「あら……まだ言うの。お前の醜聞でいつまで祝賀を中断するつもりなのかしら」
「醜聞だなんて、そんな……」
絶対の味方だと思っていた母親の厳しい言葉にジェームズが蒼ざめる。さすがに不利を悟ったのか、今まで黙っていたエミールがジェームズの腕にしがみついて声を張り上げた。
「お、王妃様、聞いてください! マリーローズさんは酷い人なんですっ」
王妃とマリーローズ、プランタン公爵家に対する無礼に場がざわめいた。
公爵夫人でさえ王妃に声掛けするのに許しを得るのに、こともあろうにエミールは許可をとることなく、しかもマリーローズを「さん」呼びした。
「男爵令嬢ごときがジェーに近づくなとか、身の程を知れとか、ひどいことばっかり言って!」
「……そう、それで?」
王妃が聞く姿勢になったことに勇気を得たエミールが目を輝かせる。反対に会場は静まり返った。
「そ、それだけじゃありません。わざとドレスを汚して恥をかかせたり、取り巻きの人たちに足止めさせてジェーとの待ち合わせに遅刻させたり……!」
「ふぅん?」
「一番ひどいのは、死にたくなければジェーと別れろって言って来たんです! これって脅迫ですよね!?」
「それだけ?」
「え……それだけって……」
「具体的に手を出されたわけではないのよね? 生きているのだし」
さも残念そうな王妃にエミールは目を剝いた。ジェームズも驚愕の表情で母を凝視する。
マリーグレースはそんな息子と浮気相手を一瞥すると、静かにマリーローズに歩み寄った。
「おやさしいことね、マリーローズ」
「申し訳ございません、王妃様」
マリーグレースが手を伸ばすとプランタン公爵が娘から離れて場を譲った。ジェニファーはマリーローズに寄り添っている。
「いつものように呼んでちょうだい、かわいいローズ。やさしいあなたにそのようなことをさせてしまった、わたくしが愚かだったの」
マリーグレースがそっとマリーローズを抱きしめた。
「グレースおかあさま……っ。わたくし、わたくし……っ」
マリーローズの目が潤んだ。
淑女らしく人前で泣かないよう懸命に堪えているのがいっそう憐れだった。マリーローズはまだ十六歳の少女なのだ。
「いいのよ。ローズはよく頑張ったわ。あとはわたくしに任せてちょうだい」
生まれた時からの婚約者で、男女として意識するのは、ジェームズにもマリーローズにも難しかったのかもしれない。特にマリーローズは恋する以前に『未来の王妃』の重圧に耐えなければならなかった。
その重圧を身をもって知るマリーグレースは、親友の娘というだけではなく、マリーローズに寄り添い、励ましていた。
ジェームズにはそれが寂しかったのかもしれなかった。母をマリーローズにとられた思いが心のどこかにわだかまりを作っていったのだろう。今もマリーローズを抱きしめる母を悔しげに見ていた。
「ジェニファー、プランタン公爵。あとはわたくしに任せて。ローズを別室で休ませてあげて」
「ありがとう存じます」
プランタン公爵が頭を下げた。ジェニファーがマリーローズの背を擦りながら踵を返すと、王妃を前に近づけなかった取り巻きの令嬢たちが心配そうに娘を取り囲んでいた。
「ローズ」
母の声に顔を上げたマリーローズは、親しい者たちの気づかいに、とうとう涙を零した。
「みなさま……」
「マリーローズ様っ」
ジェニファーがうなずいて一歩離れたのを見た取り巻き――友人たちが次々マリーローズに駆け寄った。
「わたくし、失恋してしまいましたわ」
ほろり、ほろり、と涙を零して失恋の痛みに笑うマリーローズに、周囲が息を呑んだ。
「マリーローズ様はご立派でしたわ。いつも、いつだって」
一人が涙ぐみながら言ったのを皮切りに、令嬢たちが口々にマリーローズを慰める。
「ええ、マリーローズ様はなにも間違っておりません」
「おいたわしい。物の道理もわからぬ者に翻弄されて……」
「なにか、お力になれることがあればおっしゃってくださいませ」
「マリーローズ様の名誉が傷つかぬよう、我が家としても尽力することをお約束いたしますわ」
令嬢たちだけではなく、驚くことにジェームズの側近だった令息たちまでそこに加わった。
「申し訳ありません! 私どもの力が及ばず……!」
「何度も殿下をお諌めしたのですが聞き入れてはくださいませんでした」
「たとえ王太子妃、王妃にならずとも我々はプランタン公爵令嬢のお味方でございます」
いずれも高位貴族、国の要職に就いている家柄の嫡男だ。ジェームズとエミールが上手くいくはずがないと度々諌めてきていた。学生の間だけの、自由恋愛。そんな建前で、婚約者を傷つけてもかまわないとするには、あまりにも身勝手がすぎる、と。
いずれ国王となるジェームズの心無い行動を、側近の立場の若者たちはなんとか止めようとしていたのだ。
「な……っ。お、お前たち……」
ジェームズは愕然となった。たしかに諌められてはいた。マリーローズの気持ちを考えろ、と言われていた。だからジェームズは彼らに相談せず、独断で婚約破棄を決行したのだ。
しかし彼らは幼い頃から自分に付いてくれている側近なのだ。今はだめでも、自分が選んだ女性を結局は認めてくれるだろうと――祝福してくれるだろうと甘い考えを持っていた。
彼らならわかってくれる、とジェームズに言われていたエミールも、予想と正反対の光景に蒼ざめている。
やがてマリーローズが両親に連れられて別室に移動すると、マリーローズを取り囲んでいた者たちもまた申し合わせたように会場を後にした。ジェームズの御代に国の重鎮となる高位貴族の令息、社交界を担う令嬢は一度だけ振り返り、くっついたままのジェームズとエミールに冷たい一瞥を、王妃に礼を取った。
残された下位貴族の者たちは顔を見合わせ、壁と同化していますとばかりに身動きひとつしない。ただこの後王妃とジェームズとエミールがどうするのかを注視している。
権威のある高位貴族が去り、彼らの麾下となる下位貴族が残っていることに、マリーグレースは内心で納得していた。
「……それで、ジェームズ。栄誉ある学園の、卒業という晴れの場を己が醜聞で汚したこの不始末、どうするつもりかしら?」
怒りに煮えたぎった王妃の声に、ジェームズはうつむくしかなかった。
ジェームズのなかでは、エミールという真実の愛を守るため、マリーローズを糾弾し断罪する自分にみんなが感動して祝福してくれるはずだった。
「……」
ジェームズのなかではそうなるはずだった。エミールとの未来は揚々と輝き、正義の御旗の下、国はますます発展する。
だが現実はこうだ。王妃の問いに、ジェームズは答えられなかった。
「情けない」
王妃が吐き捨てた。エミールがびくっと肩を揺らす。
「この卒業パーティのために、半年も前から準備をしてきました。それは知っているわね?」
「はい」
「主役となる卒業生だけではありません。卒業を祝う在校生、教授たちの努力と気配り、外部の、楽団や料理人。それだけではなく、これだけの会場を飾る花の手配も大仕事であったことでしょう。カトラリーを磨くのだって、立派な仕事です」
「はい……」
「お前たちが、それらの費用と時間、なにより真心を無駄にしたのです。他者の心を思いやれない者の言う真実の愛の、どこに共感する要素がありますか」
ジェームズは血の気の引いた唇を震わせた。優秀な王太子よと褒められ、真面目で心優しいと評判だったジェームズは、しかし自分を支えてくれている下の者の気持ちをわかろうとしなかった。いや、そうした人々にも心があることに気が付いてすらいなかったのだ。
息子にそんな欠けた部分があることを当然知っていたマリーグレースは、だからこそ気配り心配りのできるマリーローズがかわいかった。たとえ恋ではなくとも、義務と義理だけの婚約であろうとも、そういう押しつけがましくないやさしさはジェームズを立派な王に導いてくれるだろう。そう期待していた。マリーローズにお膳立てされての評判であることは承知の上だった。
マリーグレースは落胆と共にぱしん、と扇で手の平を叩いた。王太子はジェームズだ。国内外に発表されてしまっている以上廃嫡など簡単にはできない。物の道理のわからぬこの馬鹿息子には教育が必要である。
「半年与えます。やり直しの夜会を差配しなさい」
「夜会……でございますか」
「卒業したとなればもう成人。いまさら茶会などつまらぬものに誰も出席してくれないでしょう」
フン、と王妃がせせら笑った。
半年後。ジェームズは考えを巡らせる。
出席が義務付けられている卒業パーティと違い、夜会は招待を断ることができる。王妃が茶会とわざわざ言ったのはそれもあってだろう。
任意なのだ。もちろん王家主催の夜会を欠席するなど、常ならばありえない。
しかし今回はジェームズの差配だ。社交を催すとなれば主役は女性、つまりエミールになる。
半年間でジェームズは貴族たちの信頼を回復し、エミールは妃としての器量を示せ。王妃はそう命じたのだとジェームズは判断した。
「かしこまりました。ご配慮、感謝します」
ジェームズが頭を下げるとエミールも慌てて彼に倣った。わけがわからないまでも、ジェームズを見て悪いことではないと思ったらしい。
ジェームズの胸では感動が鳴っていた。やはり、母は味方になってくれる。名誉回復の機会を与え、エミールを認めようとしてくれているのだ。
こうして卒業パーティは散々な閉幕を迎えた。誰もジェームズとエミールの真実の愛を歓迎しなかったが、表立った批判もなかった。ひとえにマリーローズの献身のおかげである。マリーローズを守るために、貴族たちは沈黙を選んだのだ。
国王と王妃、プランタン公爵夫妻との協議の末に、ジェームズとマリーローズの婚約はマリーローズからの破棄という形になった。暗黙の了解をいいことにジェームズが浮気をしていたのは事実だし、どれだけマリーローズがジェームズを慕っていようとも、あれだけの場であれだけのことをされては百年の恋も冷めるというものだ。
恋は一人でもできるが、一方通行の愛はやがて枯れる。マリーローズは、それを思い知らされた。
「……マリーローズは失恋の傷を癒すため、領内の修道院で静養しております」
プランタン公爵が恨みがましい目でジェームズを睨みつける。娘を故意に傷つけた男に対する父親の怒りであった。
「修道院……」
「そのまま神に仕えるか、戻ってくるかはいずれ娘が決めるでしょう」
「公爵。マリーローズに見舞いの品を贈りたいのだけれど……わたくしの名で出すのは止めた方がいいかしら?」
痛ましげに目を細めた王妃に、公爵は怒りを和らげた。
「いいえ。娘は王妃様を慕っておりました。きっと喜びましょう」
そうはいっても婚約破棄した男の母親だ。複雑な気分にはなるだろう。マリーグレースはジェニファーに託そうと決める。
「王宮にいただいていたマリーローズの部屋ですが、近日中に撤去いたします。また、マリーローズ付きだった女官たちも公爵家に返還願います」
「あいわかった」
ジェニファーの言葉に国王が同意した。
「殿下との婚約に際してかかった費用については、婚約日まで遡っての計算とします。よろしいですかな?」
公爵がジェームズに顔を向けた。
ジェームズには驚くことばかりだ。
王宮の、王妃の宮殿の一区画がマリーローズには与えられていた。それは王太子の婚約者だからだとジェームズは思っていたのだが、そうではなかった。
婚約者は、婚約者なのだ。王家の一員ではない令嬢に、部屋が与えられるはずがない。せいぜい客室を専用部屋にするくらいだ。
ひとえにマリーローズを溺愛するマリーグレースの我儘である。親友の娘を親友と一緒に育てたい、そんな一種異常な友情を叶えたいと王が許したことだった。
プランタン公爵からすればとんでもないことである。自分の娘だ、誰よりもかわいい。王宮に召し上げられてしまっては、マリーローズはプランタン公爵令嬢ではなく王家の姫になってしまう。さすがにジェニファーも娘と引き離されるのを嫌がった。
それゆえマリーローズが部屋を利用するのはジェームズとの交流会がある月に数度。王妃教育がはじまると頻度は上がっていったが泊まる時は決まって母親のジェニファーが付き添っていた。
その月に数度のために部屋を維持し、女官を公爵家から入れていた。ジェームズを愛してなどいなくても、自分の娘を王妃にしたい貴族はいくらでもいる。それらからマリーローズを守るための措置であった。
裏事情を聞かされてもジェームズはピンと来ていなかった。
「ああ……。わかった」
だからそんな気の抜けた返事ができた。マリーグレースが約束してしまったことでもある、拒否はできなかった。
交渉してまけてもらう、あるいは先延ばしか、分割払いにもできた。自分から一歩引く、ということができないジェームズは、この期に及んでもまだ自分のプライドに固執していた。自分ではまったく気づいていなかった。
この時のジェームズは、マリーローズに部屋が与えられていたのだから、エミールにも部屋を、王妃の宮殿ではなく自分の宮殿に用意しよう、とのん気に考えていた。王太子の宮殿にも女官はいるし、男爵家に負担はかからない。エミールはまだ婚約者ではないが、王宮に入れてしまえばこっちのものだ。ジェームズはまったく自分に都合良い考えを巡らせていた。
数日後、ジェームズは計画通りにエミールを宮殿に招き入れた。王妃に言えば反対されるのがわかりきっていたためやはり独断で、もちろんあの裏切者の側近たちに相談などしなかった。
「エミール・オトンヌ男爵令嬢だ。今はまだだが、いずれ私の婚約者となる。私だと思って仕えてくれ」
「エミールです、よろしくねっ」
満面の笑顔で元気よく挨拶するエミールを、ジェームズは愛おしげに見つめた。
一方で集められた女官たちは困惑を露わにした。
プランタン公爵家が手を引いたため、王太子の宮殿も女官の数が減っている。見知った顔がいないというのに、ジェームズは気にした様子もなかった。
下働きのメイドならともかく、と思うかもしれないがそちらも人員ががくっと減った。そのしわ寄せは女官にも回ってきている。女官とはただ笑って控えていれば良いというものではない、仕事があるのだ。そしてその仕事に『王太子の立場を危うくした浮気女』の世話は含まれていなかった。
「おそれながら」
女官たちの困惑と苛立ちを汲み取った、王太子の宮殿の執事が頭を下げた。
「どうした?」
「そのような無体な命令は無理でございます」
ジェームズが驚愕し怒り出す前に執事が無理の理由を説明した。
むろん、それだけではない。
王宮女官となれば当然貴族令嬢、それも伯爵家以上の高位貴族の令嬢なのだ。結婚までの腰かけや、あるいは情報収集、派閥の調整など、様々な思惑とそれぞれの立場と役目をもってここにいる。男爵令嬢など下働きのメイドがせいぜいだ。
そのエミールに仕えろとは、無体でなくてなんであろう。彼女たちのプライドを踏みつけにする行為である。言えば怒るとわかっている執事はそれを噯気にも出さず、人員削減による人手不足を理由にした。それくらいのこと、察してしかるべきである。
「女官の数を増やしてほしいとご相談するところでした」
「そうか……、わかった。では、新たに雇い入れよう。そうだな、マリーローズを知る女官ではエミールが不安になるだろう。よく言ってくれた」
「おそれいります」
マリーローズを知る女官では、マリーローズとエミールを比較するだろう。今さらそれに気づいたジェームズは素直に礼を言った。素直に感謝できるのは彼の美徳である。しかしその考えはどこまでも自分に都合良く、執事が自分に失望していることを察することができなかった。
大切なエミールを任せるのに、ジェームズは他人任せにしなかった。応募書類に自分でも目を通し、面接はエミールを伴って彼女の素晴らしさを力説した。親にお膳立てされた側近ではなく、自分で選抜した女官にジェームズは満足を覚える。マリーローズでは得られなかった充足感だった。
「エミールは私を成長させてくれる。これから二人で頑張っていこう」
「嬉しいわ、ジェー。わたしも頑張るわ」
エミールはすっかり安心していた。自分が使うはずだった家具をマリーローズが持って行ってしまったのは悲しかったけれど、ジェームズが買ってくれた家具たちはかわいくて、クローゼットの中にはドレスが入っているサプライズもあったのだ。一番恐れていた王妃教育もない。エミールはそのままで良い、というジェームズの言葉通りだった。懸念は女官たちがそっけないことだったが、自分付きの女官ができればもう怖いことなどなかった。
エミール・オトンヌ男爵令嬢は夢見る少女だった。暗黙の了解、それさえあれば王子様との恋を許されると愚直に信じ、ジェームズと恋に落ちたらそれが儚い夢と消えるのを惜しんだ。恋に恋して憧れを夢見る、どこにでもいる普通の少女。それがエミールだった。
ジェームズと恋に落ちたのは本当だが、それが憧れなのか、それとも愛であるのか、エミールにもわからなかった。ただ、ジェームズが真実の愛と言ってくれたのが嬉しかった。おとぎ話のヒロインのように、悪女を廃して自分がお姫様になれる。悪い魔女が意地悪をしてくるのなんてそっくりだ。
ジェームズは幸福の絶頂にいた。成長の実感と恋の成就。夜にはエミールが感涙に咽び泣きながらジェームズを受け入れてくれるのだ。男として、一人の人間として、ジェームズは充実した日々を過ごしていた。
ある意味でジェームズは見る目があった。エミールに付けた女官は勤勉な働き者だった。自分の役目を理解し、全力を尽くした。
ジェームズとエミールが新たな生活をはじめた一ヶ月後、エミールが死んだ。毒殺だった。
一ヶ月もの間毒を盛られていたエミールはかつての可憐な姿が嘘のように痩せ衰え、髪は地肌が透けて見えるほど抜けていた。瑞々しさを失った肌は気味の悪い緑に変色し、爪が黒く染まって奇妙に波打っていた。
ジェームズとてなにも手を拱いていたわけではない。あきらかに毒の症状が出はじめた頃から王宮医にエミールを診察させていた。
毒であることはたしかだが、どうやら複数の毒が使われているようで特定できない。これでは解毒薬を処方できず、今はとにかく毒をこれ以上体内に入れないこと、少しでも排出させるくらいしかできることはないと言われていた。ひとまず利尿剤をもらったが、そのせいかエミールの衰弱は酷くなる一方だった。
エミールは食事どころか水を飲むことさえ怯え、何度も家に帰りたいとジェームズに訴えた。マリーローズ様の正しさを今さら理解した、とも言っていた。ジェームズは男爵家では刺客に襲撃されてもろくに守ってやることができない、マリーローズが怖いなら今からでも罰してやるとエミールを励ました。エミールはただ泣いて「ごめんなさい」と誰にだかわからない謝罪を繰り返した。
「あら、そう」
エミールが死んだことを告げたジェームズに、王妃マリーグレースはそっけないひと言を漏らすだけだった。
「マリーローズが、プランタン公爵家がエミールを殺したに違いありません! 父上、母上、マリーローズを処刑してください!」
愛するエミールを見る影もなく殺されたジェームズは哀しみのまま恥も外聞もかなぐり捨てて訴えた。
「お前はなにを言っているのだ。そんなわけがなかろう」
「マリーローズとプランタン公爵家がそのようなことをする必要はないでしょう。ジェームズ、お前、卒業パーティでマリーローズに言われたことを忘れたの?」
心底呆れかえった、見損なったといわんばかりの両親に、ジェームズは唖然となった。
いくらエミールを認めていないといっても、息子の恋人が無惨に殺されたのだ。なのになぜ、そんなに冷静でいられるのだろう。
「なに、を……」
王妃が落胆のため息を吐いた。
「エミールを不幸にするのはお前だとマリーローズは言ったはずよ。その通りになったわね」
「やはり……っ。マリーローズが犯人で間違いありません! 殺害予告をしていたのですっ!」
「犯人が誰であろうとマリーローズは関係ない。ジェームズよ、本当にわからんのか?」
国王の探るような目にジェームズは混乱する。
「こうなることがわかっていて、自ら手を下すわけがなかろう。あの娘には侍女はおろか毒見役さえいなかったのだ」
「恨まれておりましたしね」
「恨まれる……!? 母上、エミールは心優しく穏やかな人柄ですっ、誰かに恨まれるなどありえません! それに、侍女はおらずとも女官は付けてありました」
「女官の主は王妃だ。身分ある令嬢がわざわざ男爵令嬢の女官になりたがるなど、家や派閥の意を汲んでのことであろう」
父に失望の、母に軽蔑の眼差しで見られたジェームズは、エミールのためではなく自分が楽になりたいがために犯人捜しをしていることの自覚すらなかった。
エミールはマリーローズに謝りたいと言っていたが、どんな謝罪も命乞いも、もはやマリーローズには届かない。エミールの謝罪を聞き届けるのは神であり、神の前に被害者も加害者も平等だ。神はすべてを許すだろう。修道院とはそういう場所だった。
この期に及んでようやくエミールは理解した。どれだけマリーローズがジェームズを愛していたのかを。不幸になるのが目に見えているのに黙っているのは耐えられなかったのだろう。あのいじめはマリーローズの慈悲であった。エミールになにかあればジェームズが悲しむ。当然の結果を阻止するために、マリーローズは自分で動いたのだ。恨んで当然なのに、マリーローズだけは、エミールが助かる道を示してくれていた。これほど誰かを思いやれるのは愛だ。エミールはあの日マリーローズの手を振り払ったことを心から悔いた。そして、自分とジェームズの無知さに絶望した。自分たちの恋などマリーローズの愛に比べたら稚拙で身勝手にすぎる。死を間際にしてようやく、ようやくエミールは遅すぎる理解に涙した。マリーローズ様に謝りたい。ごめんなさい。マリーローズ様のやさしさに胡坐をかいて、あなたのやさしい手を拒絶してしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ジェームズは毒の種類の特定を王宮医に任せ、自分では犯人捜しをしていなかった。実際毒を特定するより犯人を特定する方がエミールは助かる可能性が高かっただろう。だがジェームズは、死神の息吹きを浴びるエミールを見るに堪えないと逃げたのだ。ちょうど良く、卒業パーティのやり直しの夜会を命じられてもいた。エミールは誰にも看取られることなく、たった一人で黄泉路を渡った。女官も医師も、運悪く不在だった。
「え……」
王宮女官のトップは女官長だ。それくらいはジェームズも知っている。だが、雇用主について考えたことはなかった。よく考えれば賠償金で個人資産を使い果たしたジェームズが人を雇うことなどできるはずがないのだが、そして女官長が王妃の許しを得ずに新たな女官を入れるはずがないのだが、ジェームズにとって知らない、気づかないことは無いことと同義であった。
ジェームズが選んだ女官たちは、真面目に仕事をこなしていた。実際に手を下したのは彼女たちではない。マリーローズがやっていたような、稚拙ないじめもしていなかった。
彼女たちは、ただひと言「死ね」と囁き続けただけだ。空耳のように、聞き間違いのように、微笑みを絶やさず、エミールの世話をしながら心を込めて囁いた。それだけ。ただそれだけでも毒で弱った体と精神には覿面だった。お前の死を望んでいる者がお前の身近にいるのだと知らしめた。エミールが衰弱して当然だろう。
「お前が選んだ女官は、次の婚約者にと話を持ってきた派閥と繋がりがある令嬢ばかり……。てっきりそのつもりだと思っていたわ」
「はは、うえ……」
恨まれていたと王妃は言った。恨んでいたのだ。親友の娘を、自分の娘も同然だとかわいがっていたマリーローズを傷つけた、ジェームズとエミールのことを。誰よりも深く、静かに。
マリーグレースが犯人だとはジェームズも思わなかった。自ら手を下す必要は、そう、どこにもない。男爵令嬢に頭を下げるなど許せない、そう考えた貴族がエミールを仕留めるのを待っていれば良かった。
マリーローズもマリーグレースも何もしていない。見てみぬふりすらしていなかった。わかりきったことを教えない、それだけだ。
本来なら一番に気づいて動くべきジェームズがなにもしていないのだ。責められるいわれはなかった。
マリーローズの言葉通り、エミールを不幸にしたのはジェームズだった。
「大丈夫よ、ジェームズ。お前はまだまだ若いのです。失敗の一つや二つは良い経験になるでしょう」
当然の結果に打ちひしがれるジェームズを、マリーグレースは微笑んで励ました。
気づかない気づかない、でジェームズが次期王ってやばくないかと書いてて思いました。今回で懲りてくれれば良いですけどね。
学園は暗黙の了解に「王子様を誘惑して王子の婚約者を冤罪で嵌めた男爵令嬢が毒を飲んで自殺した」が教訓に加わります。歴史はどこまでも勝者に都合良く書き換えられるものです。ま、当然の結果ですから!