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伊賀忍者に転移して、親孝行する。  作者: 風猫(ふーにゃん)
第六章 伊賀忍者 藤林疾風 戦国に同盟を作る。
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第六話 時を刻む鐘と、公家の貧困。

元亀3(1572)年2月 伊賀正覚寺 藤林疾風


 藤林砦から程近い藤林家の菩提寺である正覚寺に来ている。この浄土宗本誓山正覚寺の創建は古く、南都七大寺の一つ、法相宗の大本山興福寺の末寺として創建されたと伝わっている由緒あるお寺だ。

 菩提寺であるこのお寺に14年前の法要の時、本堂に大きな振り子の柱時計を寄贈したのだが、以来、振り子時計の時刻の狂いを修正するために、時たま訪れているのだ。

 もちろん文字盤は、この時代の十二支が描かれており、長針が二周した2時間で短針が一目盛りを指すようになっている。

 この寺の吊り鐘の音が、藤林砦一帯の時刻を知らしめていて、この世界に来て真っ先に正確な時間が分かるようにしたかったのだ。数ヶ月で少し狂いを生じる修正は、俺が現代から持参したソーラー式の水晶発信腕時計で行っている。


 俺がいつものように寺の小僧さんに断りを入れ、本堂の柱時計を修正していると、住職の玄奘和尚が見知らぬ二人の僧を伴って本堂へやって来た。


「御曹司、また儂に隠れてこそこそ来てますなっ。

 何かまた、説教されることでもありましたかな。わははっ。」

 

「和尚っ、俺は最近、和尚の説教を聞かねばならぬことなぞ、なにもしておらぬぞっ。」


「はてさて、嫁御をほったらかして、他国から女子(おなご)ばかりを連れ帰っているとか。伊勢巫女達に(ふんどし)ではない下穿きを与えたとか。放下師(大道芸)達に艶絵の切絵を教えたなど、相変わらずの悪童ぶりを栞殿(ははうえ)から聞いておりますぞっ。

 栞殿は、たいそう悲しんでおりましたぞっ。

『以前は、栞殿(ははうえ)が一番と言ってくれたのに〜。』と言って嘆いておられましたぞっ。」

 

 え〜、他国で助けた人のうち童女を連れ帰ってはいるけどさ、伊勢巫女の皆には長旅で風邪を引かぬように現代のパンツとシャツを与えただけだよ。

 切り絵はさ、大道芸の一つとして教えただけで、インパクトを持たせるために、下ネタを密かに仕込んだだけだよ。それって、母上にバレてるのっ。


 嫁を貰ったんだから、母上が一番のままじゃまずいでしょっ。もしかして父上の母上に対する愛情が足りていないんじゃないのか。断固父上に抗議せねばならんっ。



「ごほんっ、玄奘っ。そろそろ恵空殿に話させてくれぬかの。」


「これは失礼っ。この藤林の御曹司は幼子の頃からこの寺で小僧達と悪さを働く悪餓鬼でござってな。

 ご両親がたいそう甘やかす御仁なもので、拙僧が代わって説教するよう頼まれておるのですじゃ。

わははっ。」


「 · · · · 。」


「ともかくじゃ、御曹司に会いたいという御仁をお連れ申したのじゃわい。」


「はて、父上にではなく、俺にですか?」


「こなたは、儂の幼馴染の神幢寺住職で覚栄じゃ。

 神幢寺は臨済宗東福寺に連なる寺でな、東福寺の恵空殿が修行のために見えられたのじゃ。

 伊賀の暮らしぶりから御曹司の話になっての、

恵空殿が是非にも引合せてほしいと申されたので、お連れした次第じゃ。」



「疾風殿でこざるの。拙僧は初めて伊賀に参りましたが、民が豊かに暮らしていることに驚きました。

 聞けば伊賀は伊勢や志摩、甲賀を従えておるのに大名ではないとか。どこの寺社や宗派にも属さず、いわば土一揆と同じと聞いたが本当のことにござるのか。」


「ええ、藤林の父が領主を務めておりますが、家中の領民に身分はありませぬ。あるのは役目のみに、ございます。」


「それにしてもこの賑わい、誠に驚きましたぞっ。京の都はもちろん、堺の街にも劣らぬ盛況ぶり。

 ちまたに無頼の暴徒や乞食などおらぬし、領民の穏やかなことに誠に極楽浄土のように思えましたぞっ。」


「まだ極楽浄土には程遠いかと存じますが、戦のない国を目指して領民皆で力を合わせております。」


「なんと、主上がお知りになったらどんなにお喜びになるか。」



 えっ、主上だって。朝廷の縁者なのか。興福寺の高僧らしいが。釘を刺しておくか。


「それはどうでしょうか。我らは身分を認めません。身分のある者は権力を競い、自己の利益を貪り庶民を苦しめます。」


「ではそなたは、朝廷や公家は無用と思っておるのか。」


「そうは申しませぬ。天下を治めるには権力がなくてはなりませぬ。しかし権力を握った者の横暴を咎めらる権威も必要でありますれば。」



「 · · · · 、拙僧は出家する前は公家であってな。

 名を九条 稙通たねみちと申した。

 位は高けれど貧乏でな、世の不条理を恨んでばかりおった。今になって思えば、なにもせなんだ(おのれ)が悪いのよのう。」


 なんだって、摂関家の九条の前当主じゃないか。それも(さき)の関白殿下だ。えらく面倒な人が紛れ込んで来たものだ。


[九条稙通は、九条家第16代当主で内大臣を経て、天文2年(1533年)には27才で関白および藤氏長者となったが、一年程の在席ののち経済的困窮のため未拝賀のまま、翌年の天文3年11月末に辞任。

 経済的困窮から摂津や播磨に居住して、弘治元年(1555年)従一位に叙せられるが、まもなく出家して行空、恵空を名乗った人物だ。

 その後は粗末な庵に住み、風雅と修行に勤しんだと伝えられている。

 三好家の娘婿でもある十河一存そごうかずまさ)と近しく、足利将軍家及び近衛家と対立もした。]



 しかし、これは朝廷と繋がりを持つ絶好の機会かも知れない。戦国を終わらせるときどうしても直接話さなければならない相手なのだ。

 一瞬迷ったが、俺は話を切り出した。


「恵空殿、よろしければ密かに伊賀の民で、公家の皆様を援助致しましょうか。」


「なんと、それは誠か。 · · · 、しかしそなたは身分のある者は庶民を苦しめると申したではないか。」


「はい、でも今は公家の皆様も貧困に苦しんでいるご様子。我らは貧しい者を救いたいのです。

 ただし、表に出ることはできませぬ。幕府や大名達の妬みを買います故に。そして援助は米や麦雑穀の食料と生活に必要最小限の品と致します。分量は家人の人数に応じて決めます。くれぐれも横領など無きように恵空殿が差配願います。」


 それから間もなく、京に帰った恵空殿から受け入れの手はずが整ったとの使者があり、翌月の3月初めには伊賀甲賀の行商組が公家への物資を運んで行った。

 物資の搬入は、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家、地下家などの家格ごとに一箇所とし、受け入れも月一度の当番制とし公正を図った。

 朝廷へは摂家から献上され、武家に抗う庶民からの寄進と伝えられた。暮れにはわずかだが、酒や餅も持たらされ主上が涙したとのことであった。


 翌年元亀4年(天正元年)の初朝議では密かに、二名の公卿任官が決められた。藤林長門守が正四位上の陽向守(ひなたのかみ)、藤林疾風が従四位上の宵宮守(よいみやのかみ)

 いずれも新設の官職であり、二人を殿上人としていつでも主上に拝謁できるようにするために補任されたものであった。以後、伊賀と九条家は深い絆を持つことになった。

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― 新着の感想 ―
[一言] おっ、ついに主上との、拝謁!! 今後も楽しみです!!!
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