第二話 比叡山の焼き討ちと、その必然。
元亀2(1571)年9月 近江坂本周辺 織田信長
戦国時代、巨大宗教勢力は民を救う教えと裏腹に「袈裟を着た戦国大名」であった。彼らは宗教本来の目的を放棄し、戦乱に乗じ勢力を拡大し、飽食を貪っていた。
戦国時代初期は、法華経(日蓮宗)勢力が強く、管領 細川晴元と結託し、本願寺拠点の山科本願寺を始め本願寺派の寺院をことごとく焼き払っている。
日蓮宗の開祖は日蓮だが、元は天台宗の比叡山や真言宗の高野山で学んでいる。しかし浄土宗を邪法として自宗に改宗させ信徒を増やしたので浄土宗と浄土真宗の恨みを買い、さらに鎌倉幕府にも睨まれ日蓮は伊豆に流罪にされている。
だが総本山の身延山久遠寺がある武田家の庇護を受けて勢力を盛り返し、天文元年(1532年)には、敵対関係にあった本願寺派の浄土真宗と対立「法華一揆」により焼き払っている。
天文5年(1536年)延暦寺は日蓮宗に、支配下に入ることを要求したが拒否され、六角定頼の軍勢の加勢を受け京の日蓮宗寺院を壊滅した。以後6年間、日蓮宗は京から追放された。
こうして、現在の京は比叡山の天下なのである。延暦寺は朝廷から「不入の権」を認められ、武力と流通を支配して財力もあり独立国の体をなし、奈良の興福寺と並び「南都北嶺」と畏怖されている。
「山法師」と呼ばれる僧兵の乱暴狼藉は有名で、時の権力者に強訴を行い自分達の要求を通した。
時の最高権力者の白河法皇でさえ、自分の意のままにならぬものは「賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧侶)」と嘆いている。
儂は近江坂本近くに軍勢を率いて来ている。
数日前には、本願寺顕如の檄により近江で蜂起した湖南の三宅城・金森御坊(金森の)一向一揆及びこれに呼応し挙兵した六角承偵の軍勢を打ち破り、逃げ出した六角承偵を追って来たのだ。
六角承偵は比叡山に逃げ込み、そして比叡山は、承偵を庇い我らに和議を押し付けてきたのだ。
「殿、降伏するよう使者を送りましたが、坂本も堅田も信徒共に退去する様子はございませぬ。」
「坊主どもめ、この信長を舐めておるのか。」
「殿、お気を鎮めくだされ。比叡山延暦寺は桓武帝がご創建以来、幾千年も王城の鎮めでござる。
それゆえ、古から今日まで誰一人この寺を犯した者はおらぬのです。それを滅ぼしなされるは神仏を恐れぬ所業と相成りますぞ。」
「信盛(佐久間)よ、おのれは舐められると言うことがどういうことか分かっておるのか。」
「佐久間殿、この光秀が軍師藤阿弥殿より預った、言葉が有り申す。比叡山に立ちすくむ将があれば、お伝えせよと。
『いずれの寺社仏閣であれ僧侶や門徒は人である。
その人が信長公を舐めておると言うことは、将の皆様はそれ以下。蚤虫のごとく思われていると言うことでござるが、それでよろしいかと。』」
「なんとっ、蚤虫じゃとっ。」
「ご一同はいかがでござるかな。」
「蚤虫は坊主と門徒どもよっ。善行もない身で神仏の加護などないと知れっ。」
「「「そうじゃっ、思い知らせてくれるわ。」」」
信長は比叡山に対し六角を庇うのを止め中立の立場を取るよう、その見返りに横領している比叡山の寺領の返還をするとの講和条件を出したが比叡山は拒絶した。
比叡山の主が正親町天皇の弟である覚恕であり、信長が攻めることなどないと高を括ったのである。
しかし、信長が比叡山に対し最終勧告とも言える退去期日を布告すると延暦寺は黄金の判金300を、堅田は200をもって攻撃中止を嘆願してきた。
信長は判金ではなく僧侶どもの首を持って来いと使者を追い返した。そうして退去期日の翌日に全軍に総攻撃を命じた。
比叡山の僧やその家族のほとんどは、坂本や堅田に住んでいた。僧侶の身でありながら女を囲い酒肉に溺れて暮らしていたのである。
始め、ほとんどの者は山法師が坂本や堅田を守っておれば、織田の軍勢が諦めて和議になるものと思っていた。それが和議の使者が追い返されたと知ると逃げ場を求めて大混乱となった。
攻め掛かった織田軍は坂本堅田周辺に火を放ち、それを合図に攻撃が始まった。
坂本や堅田にいる山法師達は、あっと言う間に、蹂躙され非難の声を上げる者は男女僧侶の区別なく切り捨てられた。逃げもせず抵抗する者には当然容赦しない。それが通ると思わせてはいけないからである。
比叡山を取り囲み山頂の根本中堂、大講堂に火を放った。火は燃え広がり零仏、零社、僧坊にも燃え広がったが信長の意図は京からも見える山頂の根本中堂を見せしめに焼くことであった。
なお、後世に伝わる記録(信長公記)には
『僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り』とあるが僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭もっており、ここを攻めて火に掛けたため多くの死者が出たのである。
延暦寺側では正覚院豪盛、六角承偵らが逃げ切ることができた。甲斐の武田信玄に庇護を求めたが、日蓮宗を庇護する武田家は受け入れなかった。
この頃、越前では朝倉義景と浅井長政が加賀一向一揆と、越中で上杉謙信が越中一向一揆と対峙していた。
そして信長は、長島の一向一揆に対処するために事後処理を明智光秀に任せ、北伊勢に向かった。




