第一話 伊賀忍者 VS 羽黒忍者 by 越前。
元亀2(1571)年11月 越前戌山城 音羽の城戸
俺は御曹子の密命を帯び、伊賀者10名を率いて、越前の戌山城に忍び込んでいる。
ここ戌山城の城主 杉浦玄任は、本願寺の坊官であり、加賀一向一揆の大将の一人なのである。
今月2日に本願寺顕如が各地の門徒に、『幕府の命に背く武家を駆逐せよ。』と檄を飛ばしたことにより、各地で一向一揆が蜂起することは明白となったが、ここ加賀は一向衆の中でも独自の利害で動くところであり、その動静を探って来てほしいと依頼されたのである。
配下の伊賀者を、書院、各広間、寝所などの天井や床下に潜ませ、会話を盗聴して情報を集める。
また、城下や城門近くにも《七方出》で、商人や放下師(大道芸)、旅の僧侶などに扮した者達で、出入りの人物を探る。
我らの出立と同時に越中には、服部半蔵殿配下の《狐火のお銀》率いる、伊賀者や伊勢巫女達が潜入を行ない、各地の大名には見回組が配されている。
そして長島や北伊勢には、楯岡の道順が100名の伊賀者を差配して、一向衆や土豪達の動向を探っているのだ。
忍び込んで18日目、近く戌山城で評定が開かれると分かった。厄介なことに二日前から警備に忍びが就いた。城門を見張っていた配下からは、山伏姿の7人が城に入ったという。
そして評定の前日、城門前で薬売りに扮し、城に出入りする者に話し掛けていた配下の伊賀者が三人の山伏に怪しまれた。
そうと気づいた伊賀者は、さり気なく立ち去るのだが、三人に後をつけられた。
戌山城は亀山(大野盆地の小孤峰)に建つ山城で天正年間に廃城とされ、近くに代わりに築城された大野城は天空の城としても有名だ。
三人に追われる身となった伊賀者は、猿飛天狗丸と言い佐助の次兄である。猿飛家は四兄姉弟であり、長兄の右京は伊勢三重郡の代官として、伊賀領国の防衛の最前線にいる。
ちなみに、天狗丸の姉は伊勢巫女を率いている、猿飛 紙縒という。
猿飛兄弟に共通するのは、その驚異的な身軽さと体術だ。天狗丸は三人が追いついて来ると林に入りあっと言う間に木上の人となる。
手鉤と伸縮縄を巧みに使い木々を飛び移り、谷川の崖っぷちまで来ると追ってにニヤリと微笑み高さ100mはあろうかという崖から谷川へ飛び降りた。
『· · · どぼんっ』音が聞こえた直後に、崖っぷちに辿り着き様子を伺う三人の山伏に、薄っすらとした靄ともにさらさらと枯れ葉が舞う。
季節にそぐわない枯れ葉に、一人が飛び退こうとするが、目眩に襲われ身体がうまく動かない。と、そこへ『ヒュン、ヒュン』と手裏剣が浴びせられ、姿を現した天狗丸に止めを刺された。
見たか、伊賀忍法《比翼の術》《木の葉吹雪》。
比翼の術とは、崖や城壁など敵に見える場所で、あたかも飛び降りたかのように見せ、代わりの石や丸太を飛び込ませる変り身の術の応用術だ。
木の葉吹雪の術は、風上から小麦粉の粉塵に混ぜた痺れ薬を撒き、敵の動作を鈍らせる術で、目標に届いているか確かめるために枯れ葉を流すのだ。
倒した三人を調べると、独鈷杵を所持していた。
独鈷杵は真言宗・天台宗・禅宗(曹洞宗・黄檗宗)などにおける密教の儀式に使われる仏具で仏が使う武器である。金属の20cm程の棒状で両端が槍の穂先のように鋭利になっている。
独鈷杵を手に城戸の元へ報告に帰る。
「申し訳けありませぬ。しつこく追われたのでやむを得ず倒しました。」
「無事で何よりだ。城外でのこと、しばらくは影響あるまい。だが、評定が終われば引き上げるぞ。
これは羽黒山の修験者が使う護身武器だ。奴らは羽黒山の忍びということになるな。」
「一人は吹き矢を所持しておりました。」
「うむ、どんな武器を使うかわからぬ相手ゆえ、
皆、油断するな。」
評定が開かれ、朝倉攻めが決まった。参加兵力、侵攻経路、率いる武将も把握できた。
夜が更けるのを待ち、城から離脱する。
がしかし、二の丸を出たところに奴らがいた。
こちらに気づいてはいないが、今宵は満月、城壁に辿り着くには身を晒すことになる。
「やむを得ぬ白虎、太郎左、犬丸、あの者を倒せ。
左に天狗丸、御影、石丸、甲羅。後の者は右だ。行けっ。」
城の影を伝い白虎達が音もなく近寄り、いきなり飛び出すと手裏剣を浴びせる。
『ぐぁっ』見張りに立っていた男は、一溜りもなく倒されるが、城壁の草薮にもう一人隠れていた。
その男は『ピィ〜ピィ〜』と、笛を吹き鳴らし、白虎達に向け撒き菱を投げ、錫杖を振りかざして、襲い掛かる。だが、それを天狗丸と石丸が忍び刀で切り捨てた。
そこへ二人の修験者が駆けつけたが、我ら4人で囲み切り倒した。4人の死体を素早く茂みに隠すと我らは城を抜け出した。
数日後俺は、尾張小木江城の御曹子の元にいた。
御曹子は信興殿と長島の一向一揆を跳ね除けて、信長殿の勝敗を待っているところだった。
御曹子と信興殿に知り得た加賀一向一揆の動向を報告すると、危険はなかったかと問われたが、脱出の際に羽黒の忍びと戦いになっただけだと答えた。
御曹子はそのあと、俺が率いていた全員を呼び、一人一人に無事で良かったと声を掛け、酒宴を開き持て成してくれた。
酒宴の席には信興殿や滝川一益殿を初め、重臣の方々が参加されており、その席で御曹子が我らが、もたらした情報が織田家にとってどれほど有益か、
そして、我らの武勇が戦場の武将に変らぬものであると、声高らかに公言してくだされた。
我らは、この日のことを生涯忘れないだろう。




