閑話 関東の戦国武将達の目指すもの。その2
永禄12(1569)年
三人目は相模の北条氏康だ。ご承知のとおり氏康の北条家は、鎌倉幕府の執権の北条家とは別物で、区別するために後北条家と呼ばれることもある。
初代の北条早雲は、伊勢新九郎盛時といい、幕府政所執事伊勢氏の一族とされる。北条を名乗るのは二代氏綱の時代からであり、早雲が北条を名乗ったことはない。
北条を名乗ることにしたのは、関東諸豪族から、他所者と見られることを避けたためとされている。
氏康は氏綱の嫡子で、天文10(1541)年に氏綱の死去により家督を継ぎ、27才で第3代当主となった。
初代北条早雲は『4公6民』を行ったことで知られるが、長禄3(1459)年〜寛正2(1461)年にかけて、長禄・寛正の大飢饉があり、二代氏綱への代替りとともに徳政令を出して、領民を救済しなければならなかった状況があってのことである。
二代氏綱は、伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。
「勝って兜の緒を締めよ。」の遺言でも知られる。
氏綱は郷村支配を継承したが、廃絶していた伝馬制度を復活させ、物流・輸送を整備した。
検地を行い隠田や交通の要所を直轄地とした。
また、築城や寺社造営を積極的に行い、職人集団を集め、商人・職人の統制を行い年貢とは別に諸役・諸公事を課した。伊豆と相模の皮作(皮革職人)に触頭を置き、武具製作の皮作を掌握している。
このような初代·二代の遺産を引き継いだ氏康は、天文14(1545)年には今川、山内上杉、扇谷上杉との第2次河東一乱を乗り切り、翌年には寡兵の夜襲で、扇谷上杉氏を滅亡させた。
その後は甲相駿三国同盟などを結び、上杉謙信の関東覇権に対抗している。
戦乱で領地経営が遅滞した中で、天文18(1549)年に関東で発生した大地震では領国全域で農民が村や田畑を放棄する逃亡が大規模に起き、公事赦免令を出して税制改革を行い賦役の廃止免除、諸税撤廃、債務の破棄などの徳政令を行った。
全領国規模で行った初の徳政令であった。
戦国大名としての北条氏康は受け身ながらも軍事天災の危機を乗り切っているが、その施策は後手のものであり領国の安定以外に、積極的に目指したものがあったとは言えない。
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最後に越後の上杉謙信であるが、越後の守護代・長尾為景の四男で、最初の名は長尾景虎である。
父親に疎んじられ7才で仏門に入れられた。
天文17(1548)年、病弱な兄晴景の養子となり19歳で家督を相続し、守護代となった。
天文19(1550)年には、守護上杉定実が後継者を、遺さずに死去し将軍足利義輝から越後守護の代行に命じられ、越後国主となった。
幼少の頃より武勇の遊戯を嗜み、一間四方の城郭模型で遊んでいたという。
天文21(1552)年、関東管領上杉憲政が景虎を頼り越後国へ逃亡した。景虎は北条軍を撃退し、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功した。
同年、武田軍の信濃侵攻によって領国を追われた信濃守護小笠原長時が景虎に救いを求めて来た。
天文22(1553)年信濃国の村上義清が武田との抗争に敗れ景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し葛尾城も奪還した。
しかし再び晴信自ら大軍の指揮を執って村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。景虎は武田討伐を決意し、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣。
布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒し撃破した。
さらに八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻して、荒砥城や虚空蔵山城を攻め落とし、青柳城に放火した。武田軍が決戦を避けたため、景虎は深追いをせず、越後へ引き上げた。
これが第一次川中島の戦いであり、この後第五次まで戦いが続く。
弘治2(1556)年景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争で嫌気がさし、突然出家隠居を宣言し高野山に向かう。
しかしその間、晴信に内通した大熊朝秀が反旗。
家臣達の説得で出家を断念した景虎は越後へ帰国して朝秀を打ち破る。
永禄3(1560)年、越中国の椎名康胤が神保長職に攻められ景虎に支援を要請。これを受け初めて越中へ出陣、富山城を落城させ増山城も攻め落した。
この年、関白近衞前久が景虎を頼り、越後に下向している。
翌年夏には、景虎の関東平定を支援し上野・下総に赴き、景虎帰国後も危険を覚悟で、古河城に残り支援をしている。
その後、第四次川中島の戦いなど、武田・北条との戦いが続き、謙信(景虎)の関東平定が立ち行かず、永禄5(1562)年に失意の帰洛をした。
近衛前久の姉が将軍足利義輝の正室であり、幕府のために謙信の上洛を果たさせようとしたのだ。
将軍・足利義輝が殺害された《永禄の変》を伝え聞いた輝虎(謙信)は憤慨し「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓った。
内政では衣料原料の青苧を栽培し、日本海経由で全国に広め財源とするなど、領内の物流管理を行い莫大な利益を上げていた。
謙信が死去した時、春日山城に2万7千両も蓄えがあったという。
謙信は、天正6(1578)年3月に、春日山城内の厠で倒れ急死した。享年49。死因は脳溢血とされる。
上杉謙信は、このように他の守護などから救援を求められ、或いは家臣から越後安定のために求められて戦いに明け暮れた戦国大名であった。
二度の上洛は足利幕府から関東管領などの身分を受任するためであり、少数の護衛で行っている。
こうして関東を巡る戦国大名達を見ると、領民を庇護し富国強兵に努めたが、足利幕府を倒すという考えはなく、その制度の下での地位確保を図ろうとしていたと推察できる。
織田信長も足利義昭に敵意を向けられるまでは、二条城の築城に見られるように、足利幕府の制度の下で生きる道を模索していたのだと思われる。
足利幕府が滅びに至るのは、このような戦国大名達の台頭を理解せず、幕府の格式による身分制度や《守護使不入》など旧制度を放置したためではないのだろうか。




