閑話 関東の戦国武将達の目指すもの。その1
永禄12(1569)年
史実では、この年早々に将軍足利義昭が本圀寺で三好三人衆に攻め寄せられるという《本圀寺の変》があり、これを撃退して義昭幕府が始動した年だ。
さらにこの夏には、信長は北伊勢の攻略を行い、北畠具教を降伏させている。
本編では、伊勢は伊賀疾風達が領国としており、織田信長とは協力にあることから、北伊勢への攻略侵攻は起きていない。
この頃の関東をめぐる情勢と、戦国に名高い武将達について、彼らが何を目指して戦国時代を生きていたのか紐解いてみたい。
その中でも、駿河の今川氏真、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、越後の上杉謙信。
この並び順は、大名家として滅びた順である。
この武将達の関東をめぐる覇権争いには、三河の徳川家康、上総の里見義堯、常陸の佐竹義昭、会津の蘆名盛氏なども関係するが本稿では触れない。
まず【今川氏真】だが桶狭間の戦い(1560年)で信長に討たれた今川義元の嫡子である。父を亡くし23才で家督を継承した。
永禄12(1569)年5月、武田信玄に敗れ掛川城を開城。これにより、領国を失い今川家は戦国大名として消滅した。
氏真は領国を失ってから、妻の実家である北条氏の庇護を受け、さらに臣下であった徳川家康に臣従して、子孫は江戸時代までも続いている。
大名今川家で特筆すべきは、大永6年(1526年)今川氏親が制定した『仮名目録』である。
氏親は病床にあり、嫡子氏輝の政権を安定を願う氏親の妻(寿桂尼)の意向が影響したと思われる。
天文22年(1553年)に今川義元は『仮名目録追加21条』を補訂する。特筆すべきは足利幕府が定めた寺社の公領や荘園への、犯罪者追跡や徴税の立入を禁じた《守護使不入》を廃して戦国大名に脱皮していることである。
足利一族の吉良家は、足利宗家の継承権を有し、その分家である今川家は、別格の地位にあった。
そんな家柄であり、当主自らが率先して富国強兵に導くなどの気風になかったと言える。
だから、法治政治のための『仮名目録』を定め、家臣の争いを防止したのだろう。
しかし、桶狭間の戦いでは偉大な父を失っただけではなく、今川家を支える重臣達をも失った。
このことにより、主君と家臣の間に立って人望という面で補佐する重臣が不在となり、家臣の離反が相次いだのではないかと思われる。
決定的だったのは、永禄4年(1561年)離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立ち、人質十数名を処刑したことだ。この措置が多くの東三河勢の離反を、決定的にした。
おそらく氏真は、裏切りに対し処罰を行うという形式的な判断しかしなかったのだろう。離反に至る事情など、また人質達の立場や気持ちなどを知ろうとしなかったに違いない。それが氏真という主君の人望を失うことに繋がっていることも。
すなわち、今川氏真は、官僚的な対応しかできなかった主君であり、目指す領国統治は現状維持で、家臣や領民に夢や希望を与えられなかった大名なのである。
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二人目は【武田信玄】だが、天文10年(1541年)父信虎の駿河追放により家督を相続、21才だった。
信虎は、百戦錬磨で甲斐を統一し強国への基礎を築いた人物だ。そんな人物が家中に反対もなく追放された理由は定かではないが、戦には強くても領民である兵士を酷使して、農民を疲弊させていたのが主因だろう。それは造反が起きる寸前まで来ていたのも知れない。
それを懸念した重臣達が、晴信(信玄)に代替りさせたというのが真相だろう。
『戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は傲りを生ず。』
武田信玄の言葉だが、この言葉の裏にはもう一つの思いが隠されていると感じる。
領民たる兵の疲弊や被害を抑えなければ、次の戦では兵の信を失い兵がついて来ないという、かつての父親の姿から学んだ教訓。
信玄は内政に力を入れ《信玄堤》や棒道、伝馬制を取り入れ、新田開発にも商業にも食生活の向上にも力を注いだ。
陣中食 《ほうとう》を広め、信玄餅や信玄鍋のように名を冠した品もあり「信玄の隠し湯」と称する温泉もあることからわかる。
法制度としても、大小切税法、甲州金、甲州枡の甲州三法などを作ったことでも評価されている。
そんな信玄は、天文23(1554)年、甲相駿三国同盟を結び、上杉謙信との抗争を続けるが、永禄10(1567)年の今川家による塩止めにて破綻。
その後甲相同盟を天文13(1544)年から永禄11(1568)年までと、元亀2(1571)年から天正7(1579)年までの二回結んでいる。
信玄の人物評価には、同盟破りなどの悪評があるが、これは信玄個人の評価としては正しくない。
武田家の在り方が家臣の合議制であり、その時の多数意見により方針が変わるのを、信玄も受け入れざるを得なかったはずだからだ。
信玄は元亀3(1572)年10月、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて、上洛を開始した。
前年の織田信長による比叡山焼き討ちを「天魔ノ変化」と非難、天台座主の覚恕法親王(天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願している。
信玄は元亀4(1573)4月に病状が悪化し、甲斐に引き返す途中で死去した。享年53。
信玄は遺言で「自身の死を3年間秘匿し、遺骸は諏訪湖に沈めよ。」勝頼には「信勝の後見をし越後の上杉謙信を頼れ。」と言い残した。
勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿している。
このことから察せられるのは、武田家の在り方を熟知している信玄から見ても、勝頼では武田の将を率いる才がなく、孫の信勝が家臣達に育てられ守られる当主に育つことを期待したということだ。
信玄の上洛は天下を治めようとするものでなく、足利幕府の制度の下で、仏閣を破壊した信長を成敗することが目的であった。
こうして見ると、信玄は戦国大名として富国強兵を行い領民を豊かにすることを目指したが、天下を治める考えはなかったと言える。




