第四話 信長の上洛戦と、軍師藤阿弥。その1
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永禄11(1568)年7月25日 美濃 岐阜城 藤林 疾風
昨年の夏に稲葉山城を攻略した後、伊賀に帰っていた俺は信長殿の呼び出しに応じて、2日前に美濃へやって来た。
その間、伊賀の評定でこれからの戦略を皆で話しあった。
「織田家の台頭により、近江の六角や大和の松永が、伊賀の領国を攻める可能性が高いのですな。」
「そうじゃ、反織田勢力はそれらが脅威であるが、一番敵対してはならぬのが織田家じゃ。」
「極力大名達の天下取りの戦には、関わらないのが伊賀の方針だけど、いずれ大国となった大名に攻められる。」
「御曹子、信長殿は天下を取るまで伊賀を攻めぬと申されたのですな。」
「ああ、俺と信長殿の単なる口約束の類いだがな。表立って織田家と同盟など結ぶ訳にはいかない。」
「だが伊賀を守るには、織田家に加担するのが良いのではありませぬか。」
「そうなるよな。父上俺一人が織田に加担します。伊賀を最後の最後まで戦乱に巻き込ませぬために。」
「そうか、疾風には苦労を掛けるな。済まぬ。」
「「「御曹子っ、ご無理はなさいますなっ。」」」
そして今、信長殿の伴をして岐阜城下の立政寺に来ている。越前にいた足利義昭公を迎えるためだ。
今年の2月に、摂津国にいる足利義栄が朝廷から将軍宣下を受け、第14代将軍に就任した。
しかし、京を含む畿内では三好長慶と実力者であった長慶の兄弟達の相次ぐ死亡後、長慶の甥 義継を担ぐ三好三人衆と、松永久秀が権力抗争を続けており、三人衆を後ろ楯とする足利義栄は入京ができない状況にある。
つまり、足利義栄の幕府は発足したが機能していないのだ。
このような状況下で信長殿が義昭公を奉じて上洛すれば、足利義栄を将軍の座から引きずり降ろし、義昭公を将軍に就けることも可能なのだ。
そもそも上洛とは、元々地方に赴任していた守護などが将軍のいる京に戻る時に使う言葉であるが、この頃の上洛は違う意味を持つ。
大軍勢で上洛するということは、将軍を庇護する者であることを天下に公表し、権力者であることの誇示を意味するのだ。
「義昭公におかれては、越前からの長旅、ご足労にござる。」
「弾正忠、大儀である。美濃の平定、祝着。」
「はっ。」
「織田殿、此度の上洛の兵は如何程でごさるか。」
「浅井、徳川の4千を加えおよそ5万にござる。」
「おお、頼もしいことよ。ほほほっ。
弾正忠、余が将軍職に就いた暁には、副将軍にもしよう。」
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永禄11年(1568年)9月7日、信長殿は足利義昭公を奉戴して上洛を開始した。
4日後、織田軍は愛知川北岸に進出した。
六角側は、本陣の観音寺城に六角義賢・義治親子と馬廻り衆1千。和田山城に主力6千。箕作城に3千を配置し、その他支城18城で態勢を整えた。
六角家は、織田軍が和田山城を攻めると予測し、そこを挟撃する作戦だった。
「殿、まず和田山城から攻め落としましょうぞ。
先陣はこの勝家にお命じくだされ。」
「おやじ殿の後詰にゃ、是非この秀吉めに、お命じつかあさいっ。」(この頃は、木下秀吉。)
「藤阿弥、申せ。」
「観音寺城には馬廻りの兵1千騎。山城の要害である箕作城には3千ばかり、主力の6千を和田山城に集めた様子。
織田の軍勢を和田山城に引き付け、その間に奇襲でもする気やも知れませぬな。」
俺は近江の伊賀見回り組から得ている情報に基づいて、六角勢の戦略を読んだ。
「なんと、城攻めに手間どれば危険ですな。」
「一つだけを攻めねば良いのです。」
「なるほど、全部攻めりゃ奇襲に出られんにゃ。」
「ふふ、勝家に2万を預ける、和田山城を攻めよ。秀吉に1万5千を預ける、箕作城を任す。
残りの本隊で観音寺城を囲む。」
「秀吉殿、城攻めに策はありますか?」
「山城は厄介だが多勢を活かし、力攻めだにゃ。」
「兵を分けなされ、昼攻めと夜襲に。敵兵を疲れさせなされ。その上で夜襲を掛けるのです。
今宵も月明りは望めませぬ、夜襲には灯りが入りますぞ。」
箕作城は急坂や大木に覆われた山城の堅城だ。
秀吉は、朝から絶え間なく攻撃を繰り返した。
そして夕刻には兵を引いた。
昼攻めの間、夜襲部隊には3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置させた。
そして、戦はまた明日と思い城兵が休んだ夜半に、用意した松明に一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
昼間の長時間の戦いで疲弊していた城兵は、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城した。
箕作城の落城で和田山城の兵は、戦意を失い逃亡した。
観音寺城の六角親子は、1日も保たずに箕作城と和田山城が落ち、なす術がなく、東近江の鯰江貞景の鯰江城に逃亡した。
当主が逃亡して取り残された18の支城も、織田軍に降伏し、信長の近江敵対勢力は排除された。
史実なら、六角親子は甲賀和田城に逃亡するが、伊賀の領国となっているため、不可能となった。
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戦国時代と言えば、戦いにばかり目が行くが、『腹が減っては戦ができぬ』戦に兵糧は不可欠。
当時、合戦の最初3日分の兵糧は、兵の自分持ちという原則があった。
当時の兵達は食糧の携帯をどうしたかというと、様々な携帯食が考案されていたが、多く用いられたものに《芋茎縄》というものがあった。芋柄に味噌を練り込み、縄と食糧の両方を兼ねたすぐれ物だ。
《芋茎縄》は里芋の茎を乾燥させたもので、別名を《ずいき》とも言う。
戦に赴く時に、縄に編んだ芋茎を味噌や酒や鰹節などで煮込んで乾燥させ、それを腰に巻いた。
戦場では味噌汁として煮込んだり、そのままスルメのようにしゃぶって食べた。
質実剛健と評される三河武士は、栄養価の高い、豆味噌を仕込んでいたからだという説がある。
忍者の兵糧として、名高い《兵糧丸》であるが、忍者の専売ではなく普通の兵士にも普及していた。
兵糧丸はすり潰して小さくした携帯食糧で、穀物と栄養価の高い魚粉や梅干し松の実やゴマなどに、さらに糖類(甘草、水飴、蜂蜜)や酒類を混ぜ合わせて作られ、多種多様にあった。
類似の丸薬に兵糧丸の長期保存の飢渇丸や渇きを癒す梅干しを主成分としたのど飴やガムに栄養価を加えた水渇丸などがある。精神安定効果がある生薬も含んでいた。
戦場の兵糧(陣中食)には、この他にも餅類など多種多様である。
次回は『信長の上洛戦と、軍師 藤阿弥。その2』です。




