第三話 美濃の落日、井口の民を救え。
永禄10(1567)年7月 尾張小牧山城 藤林 疾風
戦国時代の日本の人口は、1.500万人程と推定されている。現代日本の総人口は12,500万人程だから、現在の12%くらいである。
この比率からすると、美濃の稲葉山城下の井口(岐阜市)は、現在約40万人だから、48,000人程と推定される。当たらずと言えども遠からずだろう。
不思議な話がある。戦国時代には人口が激増しているのだ。
応仁の乱(1467年)頃の日本人口は約1000万人。関ヶ原の合戦(1600年)頃は約1600万人。1.6倍にもなっている。この間、一時人口の減少があるが、再度増加しているのだ。
なぜ、戦乱で田畑も荒れ飢饉もあり、重税で困窮しているはずの、人口の8割以上を占める農民達が増えたのだろうか。
理由は、戦国躍進大名達の富国強兵政策にある。
畿内では、米·麦·蕎麦の三毛作が行われ、灌漑用水路と水車、農具も進化した。治水では、信玄堤や尾張の灌漑用水路が今でも活用されているほどだ。
また、肥料(人糞)の普及、作物の品種改良、米作不適地での代替作物の普及もあった。
商業では、楽市楽座に代表される流通の活性化があり、各地で特産品が開発された。
また、日明貿易よる永楽銭の流入での貨幣経済の進展、鉱山技術の向上で甲州金(貨)も作られた。
越後の青苧、美濃紙、三河の綿花などが有名だ。
常備軍が整えられ、兵役免除の農民が生産力向上に努めた。
戦国大名は〘7公3民〙の年貢を〘5公5民〙にして領民を保護した。北条早雲は〘4公6民〙にまでした。
つまり、戦国時代は戦国大名達の躍進とともに、大きく社会成長がなされた時代でもあるのだ。
話を戻そう。史実で、稲葉山城下の井口の町は、稲葉山城攻めの際に、焼き討ちで焼け野原にされているのだ。
強風で火の回りも早く多数の犠牲者が出ている。それを放置できないから、俺はやって来たのだ。
俺は武家姿の才蔵と佐助を従えて、信長の居城となっている小牧山城にやって来た。
俺の格好は紺系の格子柄シャツにジーンズ、防弾チョッキにスニーカーの未来から持参した服装だ。
信長公は不在だと門番が横柄に拒絶するが、近臣か濃姫様に取次ぐように言い、後で門番の首が飛んでも庇わないぞと言うと、ようやく取次いだ。
そして、毛利新介殿が飛んで来て地面に跪くのを見て、青くなって土下座して謝罪してきた。
新介殿に案内されて書院に入ると、濃姫様が待っていた。
「やっと来てくれましたのね。去年の秋、津島で殿に会われたそうね。そなたのことを嬉しそうに話してましたわ。」
「お方様、お方様と以前に、熱田神社でお会いしたことは話されなかったのでございますか。」
「ええ、八兵衛殿の正体は、ご自分でお話された方が良いでしょうから。」
「ご配慮痛み入ります。お方様には、これを土産に持参致しました。」
「鈴ですか。『シャラ、シャラ。』きれいな音ね、伊勢巫女のもの?」
「いいえ、この音と同じ鈴は武田の歩き巫女しか、持ち得ませぬ。かの者らは武田の饗談にて、某が鈴を付けました。」
夕暮れ時に信長公が帰城して来た。相変わらず、言葉少なで、わずかに笑みを浮かべていた。
「参ったか。」
「此度の美濃攻め、いささか献策を致したく、罷り越しました。」
「何故の策か。」
「稲葉山城下は拠点とすべき場所にて、荒らすことなりませぬ。」
「 · · ならば、軍師として同行せよ。」
「はい、今よりは同朋衆『藤阿弥』と心得ください。」
その言葉に信長は、わずかに微笑みを浮かべた。
3日後に戦評定が行われた。武将が30人ばかり、古参の武将は桶狭間の時に俺を見知っているから、驚きの表情を浮かべている。
「美濃を平らげる。藤阿弥、申せ。」
「美濃攻めにお供仕ります藤阿弥と申します。
策はありませぬ。美濃のありのままを明らかにすること、それを順に行いまする。」
「藤阿弥殿、如何にするというのか。」
「村井殿と島田殿には、使者をお願い致します。
西美濃の三人衆のもとへ。」
「口上はなんと?」
「美濃を支えているのは誰なのか。そうお尋ねくだされ。御三方の答えを聞かせて貰えばよろしい。」
「調略ではないのですな、わかり申した。」
「承知でござる。」
「藤吉郎殿、立て札を用意してくだされ。」
「立て札でござるか、なんと書かれる?」
「城下焼き払いを止める代わりに、一人一本の柵木を献上せよと。それを稲葉山城下に立てまする。」
「それでどうなさる?」
「稲葉山城を囲みます。皆様には柵の警護をお願い致します。」
「城攻めはなさらんのか?」
「西美濃三人衆に瑞竜寺山へ登って貰いまする。」
「なるほど、瑞竜寺山は稲葉山と地続きですなっ。西美濃は味方のはずっ。そこから攻めるかっ。」
「丹羽殿、長良川に兵を伏せておいてください。
舟で逃げる龍興を捕えるのです。」
「皆、承知か。」
「「「「はっ、ははっ。」」」」
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10日後織田の軍勢が美濃に侵攻する。美濃勢は、籠城を選択し城に籠った。
侵攻してまもなく、西美濃三人衆の軍勢が合流、瑞竜寺山から稲葉山城へ迫る。
そして、城下に立てられた立て札により、続々と柵木が集まり、城を囲む柵作りにも加わった。
これを見た城に籠もる美濃勢は領民が織田に降ったのを知る。そしてほどなく龍興が逃亡し美濃勢が降伏した。
龍興は待ち構えた丹羽長秀に捕えられた。
その後、義興は美濃を信長に譲ることを誓約し、国人達に信長に従うよう布告を出す事を条件に追放処分となった。付き従う家臣はほんのわずかしかいなかった。
次回は『信長の上洛戦と、軍師藤阿弥。その1』です。




