第三話 疾風の都見聞と、尼寺へ行く娘。
読者の方から、すてきな一言をいただきましたので、最終行の前にその一言を、付け加えさせてもらいましたっ。
楽しい愉快な感想を、お待ちしています。
永禄7(1564 )年5月 堺 今井宗久邸 藤林疾風
初夏の風薫る5月に、伊勢屋七兵衛の商船で堺の港を訪れていた。京の都が三好長慶の死や内紛で、荒れる前に見ておきたかったからだ。
七兵衛の案内で堺の商人 今井宗久邸を訪れる。
宗久は堺の豪商の武野紹鴎に茶を学び、紹鴎の婿となり財を譲り受けて、それを元手に初期の頃は鎧に使う鹿皮などで財をなした豪商だ。
年の頃は四十半ば、精悍な顔付きで武将にしてもおかしくない。
「ほぉ、あなたさんが藤林の御曹子はんですか。
伊賀の品々、それをお作りになったお方と聞いて、一度会うてみたい思うとりましたのや。」
「藤林疾風と申します、宗久殿は、茶の湯の先達にして、諸芸の道にも明るいお方と聞いております。
田舎暮らしの者には、及びもつかぬことでありますれば。」
「いやいや、ものを知るも、ものを作れるお人には敵いませんがな。はははっ。」
「宗久殿から見て、京の都の様子はいかがと見えましょうか。」
「さてさて、あきませんな、御所も公卿衆も疲弊するばかりでな、何百年も続いていた儀式も催しも、戦乱で何十年も途絶えてますさかいに。
蹴鞠はともかく、歌や陰陽の知識が廃れるのは、惜しいことですわ。
将軍様に代わるお方かと思われた、修理太夫様(三好長慶)も病に伏せっておられますしな。
諸国は戦続き、いずれどなたかが上洛され、戦乱の世を治めてほしい思うとります。
疾風はんは、どう見ておりますやろ。」
「《時分の花》とでも申しましょうか。どのお方が天下人になられても、そのお方の勢いがある限りのこと。家として続くことは難しきことかと。」
「ほう、《風姿花伝》ですかいな。『時分の花』とは若さ故の勢い、或いは物珍しさで評判を取ることでんな。それが真の実力ではないと諌める言葉や。
疾風はんは、能にも通じておりましたのか。」
「能一芸を極める書なれば、人生の導き書として、学ばせていただいております。」
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京へとやって来たが、見かける町並みには貧富の差が目につく。
今の俺達は武士のなりをしている。商人の格好で野盗に襲われては敵わないからだ。
商家などが並ぶ一帯は建物も普通だが、本山以外の寺社は古びており、そこかしこに荒んだ人達が、たむろしている。
「なんだか物騒なところですね、都って。」
「物の値も高い、これでは暮らし難いな。」
「有名な羅生門なども荒れてましたな。」
供をしている佐助と才蔵と話して歩いていると、遠くに争いが起きているのが見えた。
駆けつけて行くと、多勢が切り結んでいた。
10人ほどの武家と思しき女連れの一行に、10数人の野盗紛いの男達が襲い掛かっている。
武家の方は、武士が5人あとは女が3人と人足が2人。野盗紛いは13人いる。
「助太刀致すっ。」そう声を掛け男達に切り込む。
怯んだ男達3人を、立て続けに切り倒す。才蔵と佐助も2人ずつ倒しており、あっと言う間に半数を倒された野盗共は、敵わぬと見て逃げ去った。
「助成忝ない。姫様、お怪我ありませぬか。」
年配の武士が連れの女性を気遣っている。
身分のある女性なのだろう、地味だが良い着物を着ている。年の頃は16〜17か、まだ稚さが見える。
「じい、私は尼寺へなど行きとうありませぬ。近江に帰りたい。」そう言って泣き出している。
「失礼ながら、どこかのご息女でいられますか。
私達は伊勢の者、怪しい者ではありませぬ。」
「私は近江の平井定武の娘、登代と申します。」
「あっ、それでは浅井に嫁がれた · · 。」
「ご存知なのですか · · 。」
いろいろ紆余曲折はあったが、登代を伊賀へ連れて行くことになった。供達には野盗に襲われ、登代が命を落としたと、帰って報告させることにした。
登代は4年前の1月に浅井長政に嫁いだが、祝言も上げることなく2ヶ月後には離縁を言い渡され、近江の実家に帰ったとのこと。
浅井に嫁いだ最初から『家臣の娘を正室に寄越すなどとは何事か。』と、全く受け入れられる雰囲気ではなかったらしい。
その後、周囲からは出戻りとして白い目でみられ縁談もなく、昨年の観音寺騒動もあり、父親が京の大原の尼寺寂光院に入れることにしたという。
わずか12才でそんな目に遭い、女性の幸せも知らないで尼寺へ行かされる登代を不憫に思った俺は、登代を父上と母上に頼み、養女としてもらうことにしたのだ。
永禄7(1564)年6月 伊賀藤林砦 藤林疾風
登代を伊賀に連れ帰った俺は、父上と母上に事情を話し、無事とは言い難いが養女に落ち着いた。
父上も母上も反対とは真逆に、俺が嫁を見つけて来たと決めつけて、やれ祝言だとか新居を作らねばとか、大騒ぎになったのである。
登代は『台与』と改名させた。藤林台与として、新しい人生を歩んでほしいからだ。
ちなみに、台与はあの邪馬台国の台与だ。
台与は、俺が伊賀の藤林疾風と知って、もちろん驚いていた。それ以上に、伊賀の民の暮らしぶりに唖然としていた。
だが7才になったおませな綺羅に懐かれ、母上のおっとりした性格に癒やされ、孤児の子供達に囲まれて、本来の明るさを取り戻したようだ。
彼女は、赤ん坊の時に生母と別れ、母親のことを知らない。そんな彼女を母上は可愛がっている。
ただ俺の立場は微妙だ。息子溺愛の母上に、近頃おませで兄への我儘が増長して来た妹さまに加え、俺の妻の座を目指すと公言する台与が徒党を組み、甘えて来るからだ。
もし今、占いをすれば『女難の相』が出ているに違いない。
俺は戦国時代で親孝行に加え、家族孝行も課題となっている。




