第六話 栞薬草園と、戦災孤児達。
永禄5(1562)年2月 伊賀藤林砦 藤林疾風
昨年の秋も一部で台風の被害があったものの伊賀と伊勢は、豊作で迎えることができた。
「坊、豊作で穀物倉が足りんから、一昨年の備蓄米を京や難波で売り捌いておりやすが、藤林砦の倉も余裕がねぇんで、砦の中の田畑は減らしても良いんじゃねぇですか。」
「う〜む、道順。じゃ、薬草畑と馬の餌料の牧草地を増やすそうか。」
「それがいんでねぇですか。ついでに孤児の屋敷も建てちまえばいいんじゃねぇですか。団地住まいは幼子には向きやせんぜ。」
「分かったよ、孤児院と薬草園、ついでに養生所も作ることにする。子供らに薬草の世話をさせよう。母上に教えてもらうかな。」
「えっ、お方様に? 畏れ多いんじゃねぇですか。」
「うちには身分などないし構わないよ。母上だって子供の世話をしたがっているしね。」
さっそく、藤林砦内の5haの農地のうち、1haを薬草畑にして、薬草園兼孤児院と養生所を建てた。
2ヶ月後、孤児院は完成。3階建コンクリートで、大集会室と食堂や風呂場や保母室で、2·3階に6人部屋が30室ある。
孤児院の隣の養生所は、一階に診察室と待合室や薬局。上階が病室だ。
薬草園に名前はなかったのだが、いつの間にか『栞薬草園』と呼ばれるようになった。
そう、母上の名前だ。母上が綺羅と孤児院の子供を従えて薬草を育てているからだ。
また、孤児院の頭は俺の乳母だった梅で俺が手を離れ寂しいからとか。
孤児院の子供達は午前中が座学と薬草園の世話、午後が忍びの鍛錬をしている。
ちなみに忍びの鍛錬は俺の守役の道順と弥左衛門が日替りでやってる。二人も俺が手を離れて暇なのだとか。そんなに俺は手が掛かったのか、それとも愛されていたのかは追求しないでおく。
永禄5(1562)年4月 伊賀藤林砦 藤林 栞
伊賀の風雲児と言われいる我が息子なのですが、妹だっているというのに、ちっとも母親離れしてないのよ。
我が家の食事は家族も郎党も女中達も皆一緒にとるのが習わしだけど、午後のおやつの時間には私と綺羅と疾風の三人だけで取るのよ。
調理人達のところへ行って、新しい菓子を作り、それを持って私の部屋に来るの。
家の者達の分は、それから調理人達が作るから、一番先に口にするのは私達三人なの。うふふ。
我が息子の料理の腕からすると、お嫁さんは食べるだけでいいのじゃないかしら。
このところは芋菓子が多いわ。馬鈴薯の薄切りを油で揚げたチップスとかフライとか、薩摩芋の天ぷらや糖蜜の掛かった大学芋とか。芋団子に焼き芋、芋羊羹も美味しかったわね。
で、私このところふくよかになって来たのよ。
綺羅は元気に走り回ってるから食べても平気なんだけど、私はあまり動くことがないので。
でね、薬草畑ができたのよ。そこを疾風に頼まれて私に任されたわけ。孤児達に手伝わせて草取りや水遣り、収穫して摺り下ろして乾燥させて、漢方薬にするわけ。おかげで沢山食べても大丈夫なのよ。うふふ。
孤児の子供達のうち、私と薬草畑を育ててるのは幼い子ばかり。頼るべき親を戦災で亡くし行き倒れ寸前だったり、貧しい寺でひもじい思いをして暮らしているところを、行商に出ている伊賀者達が連れ帰ったのよ。
親の愛など知らず、自分が何故この世に生まれてきたのか、なにをしたら良いのかも分からずにいた子供ばかりなの。
そんな子供達に、私達はきちんとした食事と衣服を与え、箸の使い方や手や身体を洗って清潔にすること、文字の読み書きや言葉遣いなど、礼節を身に付けさせてちゃんとした大人にしてあげたいの。
それでね。疾風が子供達に教えたものがあるの。それはね『親孝行』ってこと。育ててくれた人に感謝の気持ちを、行為で伝えることなんだって。
それからなんだか、子供達が私に優しいのよっ。うふふ。
「あらあら、ころんじゃったの?」
「うぇ〜ん、ごめんなさ〜い、畑が潰れたよ〜。」
「大丈夫よ〜、葉っぱの上の土だけ除けてあげて。薬草さんはそんなことで負けないわっ。」
「お袋さま〜、水遣りはこんだけでいい?」
「ええ、じゅうぶんよ。ありがとうね。」
子供がいっぱいっ。子供達にはお袋さまと呼ばせているの。お方様なんて堅すぎるもの。
綺羅も皆に混じってのびのび育ってるわ。




