第一話 伊賀の家族と、外交方針。
この連休は、ジャンル別の日刊6位にいきなり、入ったものですから、あまりない知恵と根性を振り絞って、がんばりました。
そして、精魂尽き果てました。(笑)
日刊一位への道は、遠かったです。
多くのご支援ありがとうございました。
永禄3(1560)年 8月26日 伊賀藤林砦 藤林疾風
帰って来ましたよ、懐かしの我が家へ。帰って来るなり、2才半になった妹の綺羅が『兄、兄。』と言って纏わりつき、おかげで、どこにいても俺の膝の上か肩車で、綺羅が漏れなくひっついている。
さらに後ろには、守り役の絋もついている。
母上など、『あらあら、疾風は忍びの者なのに、居場所がすぐに分かってしまうわねぇ。綺羅の笑い声がするところに、いるんですもの。うふふ。』
なんて宣うておりますが、そういう問題ではないのだ。綺羅の年頃は母親の愛情が大切なのです。『三子の魂、なんとやら。』だから。
気のせいか皆、俺の帰りより土産を喜んでいる。
母上には、相模で求めた鼈甲の帯留め。乳母の梅には、鼈甲の簪。女中の楓と絋には、鼈甲の笄。
乳母の梅には、『若様も女物を分かるお年になりましたか、年月の経つのは早いものですね。』と、感心されたが、実はこれ皆、お銀が選んだものだ。お銀への駄賃がえらく高くついた。
ちなみに、お銀は、鼈甲の簪も帯留めも笄も持っている。
綺羅には、鎌倉で求めた雛人形。平安の昔から、人形や形代を使って邪気を祓う風習があった。
唐の時代に伝わる五節句のうち上巳の節句では、三月に水辺で心身を清め、病気を祓う風習があった。
この中国伝来の風習と、日本古来の人形のお祓いが結びついて、雛祭りの形が出来上がったと言われている。
半蔵殿には、相州(相模)の刀工 国光の槍。丹波殿には、同じく正宗の刀。父上には、国廣の脇差し。
二人は、とても嬉しそうですが、父上だけが
「なぜ儂には、刀ではないのじゃ。」と不平を言うので、「皆が一番使うものを選んだのです。違いましたか。」と言うと、
丹波殿にも「そうそう、大殿は、身分のある者や使者との謁見が多いじゃろうし、脇差しが一番でしょうなぁ。」と言われ、機嫌を直していた。
ちなみに、お土産は伊勢屋に預けてあったので、俺達より先に着いていたが、木箱に入れられたままだった。おかげで、母上や絋達は俺達が帰るまで、落ち着きがなかったようだ。
帰って二日目は、父上の元に、半蔵殿、丹波殿、そして俺の4人で、俺が見た諸国の情勢と人物達の報告を、文で知らせたがあらためて話した。
半蔵殿からは伊勢の統治の状況を。丹波殿からは伊賀の鉱山の発見と採掘状況を聞いたが、ひとまず順調に始められたようだ。
「それでの、疾風。二つ厄介な問題が起きておる。謀反とか戦のことではないぞ。」
「父上。なんでしょうか。」
「一つは、甲賀衆のことじゃ。元々藤林と関わりの深い、大原、和田、上野、高峰、多喜、池田のいわゆる南山六家じゃが、少し前から伊賀に臣従したいと言うて来おってな。
そのことを、甲賀郡中惣の評定ではかりに掛けたところ、53家のうち38家が臣従したいと、申し出て来たのじゃ。残る15家は六角と関係の深い、有力者ばかりじゃな。」
「父上。今はまずいですよ。六角が伊賀を攻めかねません。
3年待てば六角は内紛で崩れます。それまでは、伊賀の依頼で間諜と行商の忍び働きをしてもらい、甲賀の里へは、産品を送り支援をしましょう。」
史実では、永禄6(1563)年10月に、観音寺崩れが起きている。
「うむ、分かった。」
「大殿。それでは、表向きは六角に敵対したくないので、断ったことにして、臣従を表明した家には、三年だけ待つように伝えましょう。」
「もう一つの方じゃが、将軍家が北畠家を滅ぼしたことの、申し開きに上洛せよと、御内書が届いた。
どうすれば良いかのぉ。」
「はぁ、御内書? 当家は武家ではありませぬ。
将軍家に仕えた覚えもありませぬ。
およそ将軍家が百姓一揆に、御内書など出されて、なんとするつもりでしょうか。
返答など不要です。する身分もありませぬ。」
「はははっ、そうか当家は、一揆勢でござるか。今、初めて知り申したっ。」
「百地殿、伊賀は武士にはなりませぬ。
戦乱を起こし、民を虐げる武士になどになってはいけないのです。
伊賀は民を豊かにし、護るための国です。」
「御曹子のお考え。半蔵、しかと承りましたぞ。」
後年、戦場で一騎討ちを挑まれ服部半蔵は言う。
『我らは、落武者狩りの民である。ただ己の欲望のために、殺し合いをする武士を滅ぼすのみ。』
そう言って、率いる鉄砲隊でその武士を、ハチの巣にした。




