第七話 伊賀忍者疾風『戦国を生き抜く』
慶長元(1596)年5月、初夏の爽やかな風が吹く日に、父上が亡くなった。享年79歳。
俺は前世で15年、戦国時代に来て39年、父上と共に暮らした。
3月3日の雛の節句を5人の孫娘達と祝い今月5日の端午の節句を、6人の孫息子達に囲まれて、この上ない笑顔を見せていたのが印象的だった。
伊賀、甲賀、伊勢の民が皆自発的に一週間の喪に服してくれて、藤林家の菩提寺である正覚寺の葬儀には参列者が絶えなかった。
朝廷からは、正三位と竜親居士という戒名を賜った。
(母上はその後も長生きして、14 年後の92歳まで曾孫や孤児だった子らの曾孫に囲まれて、幸せに息を引き取る。
朝廷からは正三位と、弥勒慈母尼の戒名を賜る。)
時代は天正から、文禄へと移り変わった。
その改元の理由は、中部地方で起きた天正大地震の厄払い祈願だ。
まあ、俺がが国土省に預けた未来知識の予言書で半信半疑ながらも備えはしていたから史実の半分以下の被害で済んだが、それでも大被害だ。予言書の存在を知る大臣達は真っ青になって、俺に侘びに来ていた。
そして慶長へと変わった。20才になった長男の尊丸は、新たにできた『科学研究所』の研究員となり、俺から譲り受けた未来知識の電子器で、日夜研究の日々だ。
もちろん、知識の段階を践むことの重要性や厳重な盗難管理を約束させた。
壊れたり盗まると、替えがきかない。
今、伊賀の小学問所に通う子らは、運動の教科で伊賀忍びの体術や護身術を習っている。
夏期野外合宿では、野宿をし、野草や生きる知恵を学ばせているという。
それに関連して長女の桃は、『くの一』の伝統を継ぐのだと言って、幼い頃は男の子を泣かす腕白娘で、道順爺に言わせると、俺の幼い頃にそっくりだとか。
最近は、猫を被ってお淑やかを装っているが、嫁入り先が想いやられる昨今だ。
台与は、40代半ば(女性の年は秘密)になったというのに、若々しく30才くらいにしか見えない。
官営の孤児院もできているのだが、母上の跡を継ぎ、藤林の孤児院の母となって、戦災孤児がいなくなった代わりに、事故や病気で孤児となった子らを育てている。
俺が助けた各地の忍び達は、各地で村を作り、町へと発展させている。
風魔一族は伊勢中部で放牧を行い、馬産地として、各地で競馬を開催したりしている。
武田の三ツ者と歩き巫女達の町は、伊勢ではなく熊野権現の観光宿場町を作り、宿や観光土産物屋街で賑わいを見せている。
羽黒、根来の修験者一族達は、各々故郷の地で修行に戻り、一族の者はやはり観光宿場町を開いて繁盛している。
変わったところでは、鉢屋衆、山くぐり衆の一族などが陸上軍に入り、特殊部隊を成している。
皆、伊賀が資金援助や斡旋をしたのだ。
主家を失った武士達は、警備兵になったり、国軍に入っている。
各地に官営工場が出来ており、石垣の技術が橋や石造建物に反映しているほか、煉瓦や石灰練の土管などの製品工場、綿糸織物工場、各種食品加工工場などができている。
公共設備では下水道や下水処理場の整備が広がっていて、水洗便所の普及率も、2割を超えた。上水道は8割だ。
各地に、天然瓦斯の街灯が普及し、反面、眠らない街と云われる歓楽街もできたりして夜半(深夜0時)をもって消灯、営業禁止令が出された。
風俗と言えば、武士の丁髷曲結が廃れ、短髪の人が増えた。女性には少ないけれど。
服装も普段着などは着物から未来の洋服に近い物になって来ている。
単純で機能性が重視されている。
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〘三好義継〙
あの時、信長公が信頼を置く家臣の一人であり、重要拠点である摂津の代官を任されている荒木村重が謀反を起こすなど、どうしても想像できなかった。
荒木殿は摂津を任されてから、新政の普及に駆けずり回り、俺の配下の代官達もその姿を見てもっと頑張らねばと良く言っていたのだから。
ましてや、荒木殿が預かる軍勢は2千余、信長公の馬廻りだけでも6千の軍勢がある。
奇襲で謀反を起こしても精々互角、時を経れば援兵が来て、敗れること必死だ。
とても正気の者がやれるものではない。
だが、疾風殿の文には、こうあった。
『謀反とは信頼されている者が起こし、相手の虚を突くから、成せるのだ。
反乱の1割の軍勢もあれば成せる。
また、義継殿達が信じられないと思う時点で、既に半分は成功している。
謀反を起こす者は、孤独なのだ。誰にも相談できず、一人妄想にのめり込むのだ。
必ずや、荒木村重を謀反に仕向けた黒幕を突き止め、その者達を二度と立ち上がれないようにせよ。』
最後は命令だし、容赦などするなと言っている。謀反人より最重要ということだ。
すぐに、甲賀衆の手を借りて、荒木村重の人の出入りを調べ上げた。割と簡単に見つけられた。浪人姿で出入りするなど、頭が悪過ぎる。さすがは滅んだ旧幕臣である。
旧幕臣どもは、足利義昭が出家して他家への仕官も叶わなかった者達15名。
ただちに、各所に潜む旧幕臣どもに鉄砲隊を差し向け、一人残らず蜂の巣にした。
それを知った荒木村重は、申し開きをするかと思ったが、それでも謀反を起こした。
だが万全の備えで、摂津伊丹城の城外には待ち構えた三好織田軍が1万の軍勢がおり、荒木村重は刃を振るうこともなく、鉄砲隊の餌食となった。
謀反の理由は定かではないが、考えられる理由は、どれも正気ですることではないものだから。
ただ、俺は理解した。適切な助言を与えてくれる友のない者は、やがて妄想の虜になり信頼を裏切る者になるのだと。
それにしても、疾風殿の文は何だろうか。
まるで予言書ではないか。そうして、俺を教育している兄のようでもある。
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慶長元(1596)年7月 尾張那古野織田屋敷
藤林疾風
父上の49日の法要も終え、那古野の海岸近くで隠居生活を送っている織田信長、濃姫夫妻を訪ねた。
信長殿は既に62才になっている。
11年前に太政大臣を辞して参議となっていたが、それも去年辞して濃姫と二人、ふる里の那古野に屋敷を建てて暮らしている。
「まあ、大漁ですこと。三人では食べ切れませんわっ。」
「どうじゃお濃、儂の釣りの腕前、見直したか。」
「あら、どれを旦那様が釣られたのかしら。疾風殿が釣ったのではなくて。ほほほっ。」
「そんなことはありませぬよ、この見事な鯛は信長殿が釣ったのです。」
「まあっ、それは大変っ。雨になりそう。」
「「「あはははっ(ほほほほっ)」」」
「そうじゃ、思い出したわ。疾風、お前はいつになったら、儂に臣従するのじゃ。いつぞやの約束、果たしておらぬではないか。」
「おや、気がついておりませなんだか。
伊賀は臣従しておりませぬが、俺は信長殿が藤阿弥と名付けてくれた時から、臣従したつもりでしたが。」
「ふんっ、それにしては、ずいぶん儂に減らず口を叩きおったではないか。」
「旦那様、仕方ありませぬよ。お二人は桶狭間の時に、友になられてしまったのですから。
私は、友との隠し事に加担した見返りに、今でも疾風殿から、お土産をいただいているのよ。ほほほっ。」
「そうであったか。いつも疾風の土産が、儂よりもお膿の方が多いから、訝しんでおったのだ。もしかして、疾風がお膿に懸想して、おるかと思うてな。ははははっ。」
「濃姫様のことは、俺にとって憧れの姉上と思うておりました。俺には姉がおりませね故に、姉がおればこのようなお方だと。」
「あら、私も同じ。疾風殿はかわいい弟と思えておりましたわ。
でも旦那様が、ほほっ、妬いてくれているとは思いもよりませなんだ。ほほほほっ。」
「ごほんっ、もう、爺婆の昔語りじゃっ。」
「「わははっ(ほほほっ)」」
信長様は、82才まで生きられて、天寿を真っ当された。
俺に『あるはずのない人生を与えてくれて夢を叶えさせてくれたの。真の友よ。』
『いえ、永遠の友ですっ。』
『で、あるか。』と、言い残して。