第五話 伊賀忍者に転移して親孝行する。1
天正10(1582)年5月上旬 京都宇治伊賀屋敷
藤林疾風
天正維新の新政から6年の歳月が流れ、維新後の新政もすっかり定着している。
史実ではこの年、信長殿が本能寺の変に倒れ、戦乱が続いているが新政は、二世代目に突入している。
太政大臣の織田信長殿は代わらないが、一昨年に司政大臣の上杉謙信殿が辞意をもって隠居し、代わって竹中半兵衛殿が職に就いた。
史実では3年前に病死しているが、俺の諫言以来の食生活の改善が功を奏し、健康でまだ39才である。
また、昨年県議長であった三好義継殿が次代に備えて、太政副大臣に就き、後任に小早川隆景殿が就いた。県議長は概ね2年で交代することとしたのだ。
県代官達も信賞必罰で2年目から、府令を破った者、3年目からは成果を出せない者を罷免し、既に半数以上が入れ替っている。
俺は昨年やっと新政制度審議官の職を解いて貰ったが、帝の相談役と参議の議長は解かれていない。
文明開化の様子は、鉄道網の進捗が顕著だ。
竣工済の東海道、上越道、山陽道は複線化され、東北線、越後信濃線、加賀美濃線、山陰線、九州線などが工事中又は一部開通である。
また、街道の整備もなされ、オランダ貿易による大型種の輸入馬により、乗合馬車や荷馬車の流通が盛んになっている。
各地の河川改修やダム建設も行われており、干ばつ風水害の被害も減っている。また、地震災害も規格工法のおかげで、民家に被害は少なく、国土省に未来知識の建築基準(耐震)法やその計算方法を持ち込み、さらには大地震津波警戒年地域の記録を預けた。(それは全て役行者から得た知識としている。)
国防も、鉄鋼の溶接技術の研究開発により、鋼船の軍艦の製造研究を進め、ライフル銃の普及開発をしているが国外には秘匿としている。
また、鎧に替わる防弾服やディーゼルエンジンも主要ヒントだけ示し、開発を指示している。
そんな天正10年の今年は、さすがの俺も予想出来なかった大変動が藤林家に起きている。
以前から、織田信忠殿と婚約している松姫が結婚することになったのだが、三好義継殿が綺羅に求婚して綺羅が受け入れ、さらには、八重緑まで台与の弟である平井弥太郎くんに嫁ぐことになったのだ。この二人、以前から約束を交していたらしい。
母上は薄々知っていたらしいが、父上とおれには青天の霹靂。おまけに侍女達もついて行く者、この機会に嫁に行く者と大混乱になっている。
順に話すと、才蔵に佐助の紙縒、侍女の紘は下柘植小猿に、一生藤林家に居ると言っていた楓もいつの間にか服部半蔵の息子の正成殿に求婚されていたらしい。
そして、台与の侍女だった志乃は、城戸弥左衛門の息子の孝太郎と、もう一人の由貴は伊勢屋の息子の正吉郎に嫁ぐことになっていると言うのである。
皆各々に、正月の初詣であったり、平生の出入りの中で愛を育んでいたらしい。惚気を放つお銀くらいしか知らなかったよ。
俺にとって幸いだったのは、志乃が藤林家の次期家宰である城戸孝太郎に嫁ぐので、桃達の乳母をやってくれることだった。
俺は今、伊賀屋敷の両親の居間で、父上、母上と八重緑茶を飲みながら、三人で気持を落ち着けている。
「ふぅ〜、何から手を付ければ良いのかのぅ。」
「父上、俺に聞かないでください。何が何やら分からないのは俺も同じですっ。」
「うふふっ、屋敷の年頃の娘たちが嫁に行くだけよっ。自然なことだわ。」
「母上だって、妹三人に侍女達が四人。えっと、家中の家臣の嫁が、お銀じゃなかった紙縒かぁ、えっとあと誰だっけっ。もうわかんないよっ。」
「疾風は、嫁に行くのと、嫁を貰うのを混同するから混乱するのよ。」
「だって母上、どっかも知っている者ばかりだから、しようがないのです。それにしても一度に多過ぎますよっ。」
「多過ぎるだけではないでしょう。一遍に妹が皆嫁ぐので不安なのでしょう?うふふ、大丈夫よ、皆しっかりした優しい殿方よ。何も心配ないわ。」
「父上はどうなんです、もうその茶碗は空ですよ。」
「おっ、そうか。栞、お代りじゃ。」
「お茶ばかり飲んでいないで、考えてください。」
「疾風、喚くでない。父親というものはじゃな、娘が嫁ぐのは嬉しく喜ばしいことじゃが、しかし、寂しく悲しいことなねじゃよ。
疾風も桃が嫁ぐ時にわかる、。」
「いや俺は喜んでますよ。ただこんなにたくさんの婚儀をどうしよかと悩んでいるだけです。」
「一緒にやればいいのよ、一遍に。どうせお招きするのは、同じ方々よ。家臣達も見知らぬ人達ではないわ。」
「う〜ん、それしかないかぁ。10回以上だしなぁ、そうしますか。」
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天正10(1582)年6月吉日 京都 京都公会堂
藤林疾風
到々結婚式の日がやって来た。会場は京の下京区にある京都公会堂。なにせ、新郎新婦12組、親族来客併せて3千人余もいるのだ。
雛壇に新郎新婦が並び、伊勢神宮の神官の前で三三九度の盃を交わす。
『高砂や この浦船に帆を上げて 月もろ共に出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖こえて はや住の江につきにけり はや住の江につきにけり〜。』
なんと、帝の摂政九条兼孝殿が祝い唄の高砂を歌ってくださった。
高砂の唄とともに三三九度の儀式が終わると、会場の皆に、既に伊勢巫女や臨時の孤児巫女達に注がれた盃で、親族固めの乾杯をする。
いいのかなあ、こんなに皆が親族になっても。
続いては、新郎の業績を讃え、新婦の人柄を紹介して行く。
それが終わると、雛壇の前では舞踏雅楽が披露される中、客席ではお重のお弁当により、酒宴が始まる。客席が狭く、移動できにくい中でも近くの方々と酒を酌み交わしている。
舞踏披露は、伊勢巫女達の舞があったり、藤林の孤児院の子らの合唱があったり、その芸に拍手もあったり、二刻ばかりの結婚式が盛大に執り行われた。
ちなみに、三段重のお重のお弁当は、下京の飯屋組合加盟店100店舗余が朝から総出で作ってくれた料理で、一の重には、鯛飯、赤飯、小豆餡ときな粉のおはぎ、おかずに山菜漬けと烏賊の塩辛、佃煮、甘納豆。二の重には、伊勢海老の切り身、猪肉の角煮、挽肉焼、甘酢餡掛けの肉団子、出汁巻き、紅白蒲鉾。三の重には、海老やきす野菜の天ぷら、すり潰し伊勢芋、蒸し伊勢長芋。
他に伊勢巫女達がついで回り、味噌汁が椀に配られている。お代り自由だ。
いつの間にか、客席の誰かが歌い出したよ。それに何人も唱和しだした。
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ〜、、」
げっ、俺が孤児院で教えた歌じゃないか。なんで皆知っているんだ。そうか、伊勢巫女達か。初詣の宴席とかで歌って広まったのかも知れん。ごめん、ほんとは江戸時代に作られる民謡なんだけど。




