壊れたオルゴールと感染する滅びの歌の話
「――がでた!」
息を弾ませながらハルトが焚き火のそばまで駆けてきて、僕はコーヒーをひっくり返して立ち上がった。 ハルトは僕の八つ下の後輩で付き合いの長い弟分だった。
「でた、ってハルト、夢でも見たんじゃないの? 何が出たって? ユーレイ?」
「ちがっ、幽霊じゃねえよ。出たんだよ。すげえのが」
「でた…?」
「いいから! 来てよミナト!」
「ちょっ」
ハルトは僕の手を取ってぐいっと引っ張った。
ハルトの双子の妹ヒナが僕のコップが地面に落ちる前に奇跡のキャッチを決めたのが目の端に映る。
ハルトは迷いのない足取りで発光灯を照らしながら、闇のなかへと駆け出した。
僕はといえば、予期しない地面のギャップに足を取られまいと必死だ。
出た。なにが?
◇
僕らは第四間氷期のロストテクノロジーを発掘しに、地球に降りていた。人類がその活動の場所を月に移してから久しい。第四間氷期の終わりに、巨大な隕石が地球に落下した。隕石はフローライトで覆われた濃硫酸で、運が悪いことに地中海の海底活火山に突っこんだ。温められた濃硫酸とフローライトは強い化学反応を起こし、墜落した場所から猛毒のフッ化水素が噴出した。毒物は数世紀かけてゆっくりと地表の1/4を覆った。地表は混乱した。その数百年は、混沌、と呼ばれている。人類は一旦、種の記憶がリセットされた。醜い争いのなかで月に逃れ、文明を立て直し、生き残った僕らの祖先たちはそれでも自らのルーツが地上にあることは忘れなかった。何度かの決死の探検隊が地球へ赴き、汚染物質の封じ込めにも成功し、西暦2050年頃までの人類の記憶は取り戻せていた。電子化されていたので解読は容易だった。
歌姫というのは2000年代、日本という東洋の島国を発祥とする、音声シンセサイザーで創りだした声に名前を与え形を与え性別を与え架空の人物として偶像化していったサブカルチャーだった。しかし混沌の中の途切れ途切れの記録を探ると、頻繁にその名を見かけることができた。
――歌姫が来る、と。
文脈からそれは恐怖を伴っているようにも、法悦を伴っているようにも読み取れた。キリスト教で言うところの最後の審判、恐怖の大王、それらと同列のように扱われているようにも思えた。
墜落したフローライトの隕石は墜落から10世紀を経た今もなお汚染物質を吹き出していて、人類は未だ月から戻れずにいた。かといって地球へ旅行するのもかつてのような冒険というわけでもなく、僕らは学校の課外活動の一環としてここに来ていた。地球はあらゆる意味で資源が豊富だし、僕らにはテクノロジーがあった。僕らは、かつて日本と呼ばれた国の地方都市にいた。ここには興味深い資料が数多く残されていた。歌姫の資料も。
◇
「ほら、ここ」
そのビルの9階まで駆け上がって、ハルトは発光灯を照らした。
僕はぜいぜいと息を漏らした。
廃棄されてから千年を経過した建造物だ。
脆いコンクリートで作られた壁はところどころ崩落し、鉄骨がむき出しになっている。
ガラスが嵌っていたであろう窓はすべて割れ、建物の浸食を酷くしていた。
ようやく僕の手を放したハルトは抜けている床をひょいひょいと避けて彼女のそばまで行った。
発光灯ごと先に進んでしまったので、僕はすり足で注意深く進む。だけど視線は彼女に釘付けだった。
人類には有り得ない海色の髪。人形のような美しい顔。うつろな目。
ところどころ弾けた人工皮膚の向こうには構造物が銀色にきらめいていた。
まるで腐食していない。
千年前の遺物とはとても思えない。
明らかに壊れかけているのに、それでもなお居心地の悪そうな壊れた椅子に座る彼女はとても美しかった。
「――本物なのかな」
「可能性は高いね」
歌姫は、僕の持っている資料では実在しない。ただのデータだとされている。
だからこそ怪談のように記録に残る「歌姫が来る」という言葉の解釈が取れなかった。
実在したのか。
ただの比喩表現なのか。
フェイクニュースや都市伝説なのか。
頻出するのにまるで正体が掴めない。
「スイッチとか、あるのかな」
「その前にメンテが必要だな。不用意に触ると回線がショートして駄目にな…」
「え?」
全部言い終わる前にハルトは何かに触れてしまった。
可聴領域ギリギリの、とんでもなく甲高い不協和音が発せられた。
思わず耳を塞ぐ。
ハルトはびっくりしたような表情でぽかんと歌姫を見つめる。
「ハルト、何してるんだ。早くスイッチを切れ!」
「え、だって」
ぎぃ、という低い、ノイズとは別の周波数の音が混ざる。
僕に向けられた発光灯の後ろで影が揺らめく。
「ハルト――!」
影が大きく羽根に似た何か、おそらくはボロ切れのまとわりついた両手を広げる。
灯りがぶんと部屋のあちらこちらを照らす。
誰のものともつかない悲鳴があがる。
僕のものだったのか、ハルトのものだったのか、それとも彼女のものか、判然としない。
転がった発光灯があさっての方角を照らした。僕はハルトたちがいたと思われるところに向かって床を蹴って、駆け寄るつもりで、何かに足を取られて派手に床に転がった。
――歌姫が来る――どこに――何をしに――
「ハルト… ハルト… どこだ? 返事をしろ!」
ぐいと何かが僕の足を掴んだ。
僕の喉に、声にならない悲鳴が貼り付いた。
この街に来たのは僕らを含めて5人だけだ。
誰かが助けにくるとしても2週間後、予定期間を過ぎても月に戻らないことを不審に思った学校が当局に通報してからになるだろう。
眩暈がした。
「落ち着いて」
僕の足を掴んでいたのはハルトだった。
ハルトは床に落ちていた発光灯を拾った。
照らされた歌姫は最初と同じ椅子に座ったまま両手を広げて不愉快な音を発し続けていた。
背筋は反り返り、首は不自然に折れ、中空に向かって何かを呼んでいるようにも見える。
「スイッチを止めないと……」
「どうして?」
「どうしてって……」
ハルトは不思議そうに首を傾げて、言った。
「だってとても――」
「綺麗」
ハルトの声に扉の向こうの声が重なった。
灯りがもうひとつ増えている。ヒナが魅せられたように歌姫を見ていた。
◇
歌姫のスイッチが切られることはなかった。
何を動力源にしてるのか、歌姫は歌い続けた。
ヒナとハルトはあれを歌と呼ぶ。
僕にはただのノイズにしか聞こえない。
念のため、ミキとリュカにも聞いてもらった。
ミキは僕と同級生で、リュカはミキの三学年下の後輩だ。
年齢で言うなら僕とミキは24歳、リュカは20歳、ハルトとヒナは15歳だ。
ミキにはノイズにしか聞こえない。
リュカの意見は曖昧だった。
歌のようにも聞こえるし、すごく不愉快なノイズに聞こえる瞬間もある――。
ヒナとハルトは毎日のように歌姫のところにいく。
ノイズは同じフロアにいなければそこまで気にならない。
食事時になるとハルトだけが野営の場所まで戻ってきて、ヒナのぶんまで食事を運ぶ。
ヒナは食事当番も何もぶっちぎって彼女のそばにいた。
人一倍食い意地が張ってるヒナが食事時に戻らないなんて相当レアケースだ。
「彼女はそんなに魅力的かい?」
「わかんね」
二人分のスープをジャーに注いで渡してやると、ハルトはそう言ってそっぽを向いた。
アルミホイルに包んで焚き木に放置するようにして焼いたパンと、ハムを数切れ。
それからドライフルーツ。随分貧しい食事だ。
「それ、ヒナが文句を言わないか?」
「何食ったかなんて気にしないよ。あいつ、気持ち悪いぐらい上の空なんだ。横に置いてたらいつの間にか食ってるけど、いつ食ってるんだか本人もわかってねーんじゃね」
「まるでセイレーンね。ハルトはどうなの? 綺麗な音楽が聞こえたんでしょう?」
ミキが珈琲を入れた水筒をハルトに渡す。
ハルトは苦笑いした。
「綺麗だとは思うけど、それだけだよ。壊れたオルゴールみたいなんだ。ずーっと同じ歌を歌っているから、だから、ああ、綺麗だなって……それだけ」
「ヒナは」
「一緒に歌ってる」
「えっ」
僕もミキもぎょっとしたようにハルトを見た。
あのノイズに歌詞があるなんて思わなかった。
ハルトはきょとんとして僕らを見返した。
「とてもいい天気。窓をひらいて。家をでて。ほんの少しだけ散歩にいこう」
「そうそう、そんな感じ。天気だから窓を開けて散歩に行こうって、ずっと…ずっとそこだけ繰り返し」
リュカがさらっと歌って、ハルトが頷いた。
ミキが震えでもきたように両腕をかき抱いた。
ここは焚き木のそばで、だからとても暖かいのに。
歌詞の爽やかさとは違ってなんだか少し不安になるメロディだった。
◇
僕らは歌わない。
歌は禁じられたテクノロジーだった。
何故なのかは誰も知らない。
より正確に言うなら、僕らに許されているのは讃美歌や、政府の承認を受けた曲や、混沌以前の地球で発掘された曲だけで、それらはすべてナンバリングされている。
歌を新しく作ることは禁じられていた。
月に建国したときから続く、とても古い法律だった。
鼻歌は許される。
アナログな歌に制限はない。
禁じられているのは、トラックごとに楽器を打ちこんだり、それらを重ね合わせたりするソフトウェアだ。
つまり、僕らは歌姫――DTMソフトウェアとしての歌姫を使うことは許されていない。
だけど、歌姫の形をした人造物が勝手に歌っているのを聞くことは、きっと何の罪も構成しないはずだ。
はずなのだろう、と思うのだけど。
「ミナト。ヒナを迎えに行ってきて」
「さっきリュカが行ったろ?」
「まだ戻ってきてないのよ。ミイラ取りがミイラになってるんじゃないかしら」
またあのノイズの中に行くのか、と顔を顰めたら、ミキがぽんとヘッドホンを投げて寄越した。
「なんだよ、これ」
「ノイキャン。レトロテクノロジーの骨董品だけど、たぶん役に立つわよ」
「何の?」
「つければわかるわよ」
Noise Canceling headphone.
そう刻印されたヘッドホンだった。
ミキにヘッドフォンをかぶせられて出発する。
9階に上る前に軽く汗ばんだので、ヘッドホンは外した。
たぶん歌姫の声が聞こえてから被ったっていいはずだ。
7階のあたりから、じんわりとした不快感が皮膚を這いのぼる。
歌姫の歌は、低音が効いてるとも思えないのに、へんに骨に響いた。
ヘッドホンを耳にかけ直す。
「リュカ? ハルト? いるのか?」
太陽の光は大きく取られた窓から差し込んでいて、発光灯がなくても特に不自由はない。
階段室から出て朽ち果てた扉の向こうに足を踏み込む。
陽光の中で見ると、室内の整然とした部分と荒れている部分との差に違和感を感じた。
部屋の中央部、肘掛つきのゆったりした回転椅子に歌姫は座っている。
ヒナは部屋の隅で、西側の壁にもたれるようにして直に床に腰をおろして聞いていた。
片膝を寄せて、そこに肘と頭を載せている。
上着は脱いで丸めて腰の下に敷いていた。眠そうな目をしている。
ヒナの横にはリュカがいて、膝をついてなにか説得を続けているみたいだ。
僕と目が合うと、リュカは軽く肩をすくめてみせた。
ヒナは僕にまるで注意を払わない。
リュカのことも気付いているのかどうか怪しいものだ。
ハルトはどこにいるのだろうかと見渡すと、北側に設えられたキャビネットから書類を漁っていた。
しかしファイルの背は残っているものの、綴じられた紙は湿気や虫食いなどで、状態はあまりよくないようだ。
「ヒナ。帰りの船が来る。明日には空港に移動しないとダメだ」
空港には無人の自動管制塔と、最低限に整えられた宇宙船離発着設備がある。
ヒナの肩をゆすって耳もとに囁く。
ヒナは、ぼんやりした目で僕を見た。
その頬を両手で叩く。
手形が残りそうな勢いで。
ヒナを挟んで逆側にいたリュカが、ヒナ以上にびっくりしたような表情をした。
「……」
ヒナが何かを言う。聞こえない。ヘッドホンをしているせいだ。
でも、多分、何を言ったかは分かる。
イヤとかダメとかヤダとか、そういった感じのごく短い、拒絶の言葉。
僕はヒナを担いだ。
お腹のところを肩に乗せるような感じで。有無を言わさず歩き出す。ヒナをそういう風に担ぐのはとても久しぶりだったけど(多分、最後にやったのは10年ぐらい前だ)、覚悟していたよりはずっと軽かった。
ヒナが身体をよじって逃れようとするのを押さえ込む。
リュカがおろおろと僕の後をついて、なんとかヒナをなだめようと声を掛ける。
あるいはミナトサイテーとか言ってたのかもしれない。
聞こえないから分からない。
階段を数段降りてやっと、ヒナは僕の頭からヘッドホンをひっぺがすことに成功した。
歌姫の奏でる不愉快な音がする。
でも遠ざかってしまえば、我慢できなくもない。
僕は足を早めた。
「お願い。おろして」
「だめだ」
「戻らなきゃ」
「だめだ」
「早くしないと間に合わなくなっちゃう」
「だ…、何が、間に合わないって?」
6階で足を止めて、ヒナをおろす。
逃げられないように肩をがっちりホールドしてるし、リュカがヒナの腕を必死で抑え込んだ。
ヒナは、こんなふうに犯罪者みたいに扱われるのは納得いかないと抗議して、でもリュカは離さない。
ヒナは溜息を吐いて、呟いた。
「行かなきゃ」
◇
「これが歌姫の仕様書」
ハルトが分厚いブルーのファイルを数冊置いた。
片面コピーされた書類が綴られている。
紙自体は比較的腐食は少なく、熱転写されたトナーはかなり割れていて状態は悪いが読めないこともない。
一緒に青焼きされた図面も挟まっていたが、そちらは褪色が厳しく、殆ど読めなかった。
「こっちはスクラップ。紙媒体のニュースメディアを張り付けていたみたいだ」
こちらは更に読むのは厳しい。無造作に使われた接着剤が激しく紙を痛めている。
「これは光磁気ディスク。知ってると思うけど紙よりずっと寿命は短い。ブランクだ」
ハルトは金属製の円盤をざらっと床に撒いた。
「そういう痕跡を辿る機械ってなかったっけ?」
「月に持っていけば読めるところもあるかもしれないけど、ここではただのゴミ」
「で、結論は?」
ハルトは溜息を吐いてばらまいたものをかき集めてまとめ直し、スクラップファイルの一冊を取りあげた。
チラッと焚き木のそばで暖を取っている女子陣に視線を走らせる。
ヒナは相変わらずリュカに身体の一部を捕捉されているようだ。
寄りそうように座っている。
リュカが何をそこまで警戒しているのかは分からない。
それからハルトは、折っていた頁を開いて指を指す。
僕らは炎から少し離れたテントのそばにいた。
発光灯はテントに吊っている。
太陽光を吸収して夜に輝く有機体で出来たそれに必要なのはほんの少しの水だけで、炎のように明るいとは言い難いけどとても便利で使い勝手がいい。
「歌姫は感染する」
「感染?」
「混沌前の研究でアメリカの研究機関が自殺を感染症だと定義したことは知ってる?」
「いや」
「世界保健機構は自殺報道に関するガイドラインを作ったという記録がある。これは月世界でも敷衍されている。自殺事件が起きたら報道しない被害者を賛美しない手口を詳しく報じない――そうしないと感染する。死という選択肢を提示されるのに、人間はとても弱い。なぜならそれは盲点だから」
「ずいぶん詳しいんだな?」
「怖かったから、調べたんだ。子供の頃、ヒナが死にかけたことがあって、ヒナが死ぬかもしれない、自分もいつか死ぬ存在なんだって、そう思ったら怖くて、どうにかなりそうだったから、だから死に関する本を読んだんだ。ミナトは怖くなかった?」
「いや…、そもそも考えたこともない」
ハルトが軽蔑したような一瞥をくれたような気がする。
「で、何が感染するって?」
「歌姫の歌を聞くと、破壊衝動に突き動かされるようになる」
悲鳴が、僕らの会話を強制終了させた。
◇
ヒナとリュカの腕が、妙なふうに絡んでいる。
ヒナが、リュカの拘束を無理やり振り払おうとした結果のようだ。
ミキが二人を引き剥がそうとするのをリュカが抵抗していた。
あれは、誰の悲鳴だったろう? わからない。
「離してってば」
「いやよ。離さない」
「なんで? あたしがどこにいたってリュカには関係ないじゃん! いいから離して」
「駄目」
「……っ」
「リュカ、ヒナ、二人とも落ち着いて…」
ハルトは素早かった。僕の横をすり抜けて、リュカの背中にタックルを決める。
「やめるんだリュカ」
「ヒナ? どこへ…?」
ハルトの鋭い制止の声と、ミキの問いかけが宙に消える。
ヒナの小さな背中は、あのビル、歌姫が不愉快な音を発しているフロアがあるあのビルへと向かっている。
リュカは、ハルトに腕をねじあげられていた。
え? 捕まえるの、そっちでいいわけ? ていうかハルトは、リュカの何を止めた?
捩じりあげられたリュカの手から、調理用のナイフが落ちた。
茫然と地面に落ちたナイフを見る。
野菜の皮を剥いたりハムやベーコンを切り分けたりするのに使っている、切れ味のいいナイフ。
「ハルト…?」
説明を求めるようにハルトを見る。
ハルトはリュカを拘束できる何かを探していた。
ベルトを引きぬいてハルトに渡す。
これは探索に必要な小物入れを通すために付けていただけで、抜いたからと言ってズボンがずり落ちる、なんてことはない。
ミキが気味悪そうにナイフを拾って、リュカを見る。
ハルトは暴れるリュカを相手に四苦八苦中だ。
手伝ったほうがいいのかな。手伝うべきだよね。
リュカの豊かな胸に視線を走らせずにはいられない。
うん、どこに触れたらいいのかよくわかんないな!
「ナイフでヒナをどうするつもりだったの? いっそ殺しちゃおうとか思った?」
「ヒナが暴れるから、そのへんにあったものを掴んだだけよ」
「振り上げてたよね? 刺すつもりだったよね?」
「ヒナを止めたかっただけなの。あのフロアに行かせたら駄目」
「どうして?」
「だって……」
リュカの抵抗が弱まった隙にハルトが僕を見て、顔を顰めた。
「言ったろ、無防備に歌姫の歌を聞くと感染するって」
――ようやく腑に落ちた。ヒナだけじゃない。リュカもまた感染していたんだ。
感染?
そうなのか? だってまるで分からない。
普段の行動のまま、普段の姿で、普段通りに…ナイフで人を刺す? それがハルトの言う感染なのか?
「お願いだからヒナを追いかけて。何をしようとしてるのかわかんないけど、絶対ろくなことじゃないから止めて」
「僕としては、僕がリュカを押さえる役目でも構わないんだが」
散らばった道具を片付けていたというかリュカから遠ざけていた?ミキに無言で背中を蹴られた。
行きますよ。行けばいいんですよね!
9階は遠いし、ノイキャンとやらはどこに行ったんだっつーの。
◇
歌姫の不愉快さは、言ってみれば生理的嫌悪だった。
可聴領域を振るわず高音域のビブラートは、ストレート・アスファルトに炭酸カルシウム製のチョークで無理な角度で書こうとするときに発生する音にとてもよく似ている。
骨の髄に震えがきて、不愉快だと思う。
どちらがより耐え難いのかというと、歌姫のほうがずっと耐え難い。
彼女の「声」が伝わる空間に存在していたくない、と思う程だ。
7階を過ぎて階段を一段ずつあがるたび、気持ちが塞いでいく。
こんな音を聞くぐらいなら、いっそ何も聞こえないほうがマシだとさえ思える。
ヒナが――ヒナがいなければ――ヒナがいても――とにかく嫌だった。
考えるな。
のろのろと足を交互に持ち上げる作業に没頭する。
考えてはいけない。
考える、
余裕が、
ない、、、
ぞわっとした。
もし、音に人が殺せるのなら――たぶん、殺せるんだろう。だってこんなに不愉快だ――僕は――
ふいに身体がとても楽になった。
音が止んでいた。
音が止んでいるということは、つまり――ヒナが、なにか――先ほどまでの不快感とは別種の不安感に襲われて、僕は、走り出した。
◇
ヒナは、まだ、いた。まだ。
9階は更に荒れていた。
キャビネットは倒れ、書類は散乱し、椅子は砕けている。
椅子。
歌姫の座っていた椅子。
発光灯を掲げて部屋を見渡すと、風上からブルーの長い髪がはためいた。
近寄ると、歌姫がいた。
窓際ににじり寄り、何かを押さえつけている。
そのメタリックな肩越しに、ヒナがいた。
ヒナは、歌姫の下敷きになっていた。
背にはガラスのない窓。
肩ぐらいまでは完全に外に出ていた。
「let me out, let her out, let me out , let her out」
掠れた声が耳朶をねぶる。
誰の声だ? 歌のような、そうでないような、可聴領域ぎりぎりの、囁き。
出して? どこから? 彼女? わたし? 繰り返される囁きに混乱する。
「――ヒナ? 何をやっているんだ?」
ぐいっと歌姫の肩が揺れて、ヒナが歌姫の首に巻き付いた、かつてネクタイだったものを締め上げているのが見えた。
それが喉の共鳴を殺し、歌姫の発声機能を奪ったようだった。
歌姫の手が宙を掻いて窓の外に手を伸ばした。
ヒナはバランスを大きく崩した。
――落ちる?
僕は、発光灯を投げ捨てて二人に駆け寄った。
床に転がった発光灯はあさっての方角を照らし、だからここから先は何が起こったのかは分からない。
いろんなものに殴られたり、引っかかれたりした。
何かを、願わくはヒナを、掴み、引きずり戻した。
戻そうとした。
振り払われた。誰がしたのかは分からない。
僕は床に背中から転がった。
「ヒナ! 大丈夫か?! ヒナ――ッ」
「わかってる。ここから出してあげる」
ヒナの声だ。何を? どこから? 誰に言ってるんだ? 僕にか? たぶん――たぶん違う。
「ヒナ――」
僕は必死で何かにしがみついた。
それは間違えようもなく、ヒナだった、はずだ。
遠くで、何かが落ちる音がした。
そして、僕は気を失った。
◇
目が覚めたときにはすべてが終わっていた。
9階から落下した歌姫は修復不可能なほど壊れ、原型を留めないただの金属の塊になっていた。
ハルトとリュカは手錠で繋がれていた。リュカを拘束してるのかと思ったら、ハルトは違う、と答えた。
「僕も、感染してるんだ」
絶句するしかない。
僕はと言えば、右腕が変に熱を持っていた。
骨折しているかもしれないとミキは言う。
添え木をあてられてぐるぐると包帯を巻かれ、鎮痛剤を飲まされている。
治療は月に戻ってからになるだろう。
ハルトの説明によれば、感染していることに気付けば発症を防ぐ――つまり破壊衝動を抑え込むことはそう難しくないという。
破壊衝動には志向性があって、それ以外には関心が無くなるのだという。
志向性はそれまでの経験に関係する。
「――つまり、アンタがミナトを上にやったのって、そういうことなの?」
「そういうことですね」
ミキが絶句したけど、僕にはどういうことかさっぱり分からないので首を傾げる。
僕の視線に気付いたハルトは、軽く肩を竦めるジェスチャーをした。
「つまり僕らはヒナがいなきゃそう危険でもないってこと」
「なぜ?」
「壊したいほど関心があるもの以外、壊そうとも思わないってことさ」
ハルトはぺらぺらとよく喋ったけども、リュカは終始無言で、誰とも目を合わせようともしなかった。
罪人だからというよりは、あまりにも不本意だから、というように見えた。
ミキは自分の髪をぐちゃぐちゃとかき回した。難しい問題に直面すると出る癖だ。
「リュカの病気は気付いてたけど、アンタも同類だったとはね」
「病気って言い方しなくても」
「同類って何だよ」
「治したいって思ってるなら、それはもう病気でしょ。同類は同類。同じ穴の貉」
なんの話だ。ぽかんとしてミキを見るとミキは溜息を吐いた。
「アンタの鈍さってほんと幸せね。二人とも、殺したいほどヒナが好きだって言ってんのよ」
「……は? え? だって、あれ? ハルトはあれ、ヒナと兄弟だよね? 血繋がってるよね? リュカだって、え? どういうこと?」
「アンタなんでリュカが専攻にまるで関係ないジャンルのこの旅行に、なんだかんだ理由つけてついてきたと思ってんのよ?」
「専攻に関係ないとか知らないし! ていうかターゲットが同じ二人を繋いでも何の抑止力にもならないんじゃないの?!」
「それがさ、なっちゃうんだ」
ハルトがものすごく不本意そうに説明する。
「感染者は対象が思い通りにならなかったときに破壊衝動を感じる。だけど、対象が危険にさらされたときはむしろ、守りたいと思うんだ」
「名探偵、見てきたように嘘を言い、だな。断言しちゃうんだ、それ」
「僕自身が実証データだし」
「――つまり、手錠で繋がれた相手により対象が危険にさらされると感じれば対象を守る、と?」
「たまには察しがいいよね。その通りの心理状態なんだよ、今」
「――ヒナはどうしてる? 無事か? ていうか、ヒナも感染しているんじゃないのか?」
「ヒナは無事。感染はしてるかもしれないけど、きっと僕らほど危険じゃない」
「もう壊れちゃったから?」
「察し良すぎだよ。ミナトのくせに」
察しが悪いことを期待されている僕は、ハルトの笑顔が妙な具合に引きつっていたのにも気付いていたけど、紳士的に見なかったふりをした。
◇
「手伝おうか?」
ヒナは歌姫の残骸のそばにいた。
何かを取り出そうとしていた。
僕に気付いたけど無視して作業を続けたから、僕も勝手に作業を手伝った。
肋骨のような機構に守られるように位置していた、銀色の小さな丸い球体があった。
「心臓みたいだね」
「たぶん、正解」
ヒナは、取り出した球体をくるくると回して構造を調べる。
球体は千年も前のものと思えないほど滑らかでまるでひとつの物質のようにも見えたけど、やがてヒナは継ぎ目を見つけて、でもその開け方は分からないようだった。
しかしヒナの判断は早かった。
工作具の中から細い金属のプレートと槌を取り出して、継ぎ目に差し込み、テコの原理で無理やりこじ開けた。
球体はあっさりと開いた。
機械仕掛けの集積回路が晒されて、その中から埃のような綿毛のような白いものがふわっと漂った。
ヒナがふうっと息を吹きかけると、それはふわっと舞い上がりしばらく漂って、薄くなり、消えた。
「なに、あれ」
「わかんない」
「なにそれ」
「歌姫の魂、って言ったら納得できる?」
「できない」
「バイオコンピュータって知ってる?」
「生体機構を使ったシステムだろ?」
「そう。電気じゃなくて生物の持つ反射システムで作られた化学的な仕掛け。電子の数千倍の反応速度があって、正確だったって。そういうテクノロジーが流行っていたのが多分あの空白期で、今壊した球形の中身にも多分使われている。教科書で見たことある構造だよ、これ」
「生物なら、死ぬんじゃないか?」
「単純な化学反応は生物じゃないし…生物なら世代交代もするんじゃないかな」
ヒナが言うなら、そうなのかもしれない。
「ずっと聞こえてたの。let me out, let me go…出して、行かせて、って」
「歌姫が歌っていたのも」
「歌わせていたのも。だからこの機械は孵化を待つ卵で、ずっと孵りたがっていた。そして帰りたがっていた」
「どこに」
「どこでもないところに――たぶん、あの子も知らない。だって新しい生き物だから」
「名探偵、見てきたように何とやら、だな。ヒナは歌姫が好きだった?」
「え? なんで?」
ヒナはきょとんとしたように首を傾げた。あれ? ハルト、話が違うんじゃないか?
「破壊するほど好きだったんだろ?」
「あたしは声がしたから助けただけだよ?」
ゾクッとした。あれ? ハルト、ヒナは大丈夫って言ったよね?
「ヒナは好きな人いるの?」
「え、なにそれキモい。脈絡なく聞かれても困るし」
「すごい重要なことなんだけど?!」
ヒナは胡乱げに僕を見上げて、にぱっと笑った。
「じゃ、ミナトが好き!」
-了-
昔pixivに書いていた二次小説を修正しました。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3143504