人は昔から聖書を読んでいる。あるいはなろう小説とは聖書のアレンジである。
こんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど、
なろう小説で『追放』ものが流行ってるじゃないですか。あれだって、よく考えれば、アダムとイブが楽園を『追放』されたのと同じだといえるし、アダムとイブは神様の管理から逃れたあと、農耕と子作りしてスローライフですよ。
ただ、ここで、ザマァ要素はないけどね。
神様は万能チート製造機だから、ザマァはできんかったわ。
その代わりといってはなんですけど、その後、時代がくだって、超すごイケメンチートヒーロー生み出したんで、許してクレメンス。
言うまでもないが、イエス・キリストのこと。
キリストについては、実際、ゾンビ映画で魚を武器に無双するとかいう、頭のおかし……失礼、頭の中が神の子好きすぎる人が作ったんだと思われる作品もありますけど、聖書にある記述だけを見ても、相当なチート持ちですよね。
たとえば、回復チート。
目が見えない人を癒したりして、たぶん美少女だと思われる人に感謝されたりしてます。触れたら回復できると信じたら本当に回復したってどこのアイドルですかって話もありますし。
ともかく超人気。
マグダラのマリアさんはもしかしたら超絶美少女だったかもしれませんけれども、これってエロゲーやってたら、ヒロインが母親と同じ名前で萎える案件になったりしませんかね。
あと、パンとかをちぎったら、なんか増えました。
物質コピーです。
もしかしたら、亜空間ボックスとか持ってたのかもしれません。
最後、キリストはユダの裏切りによって磔にされるんですけれども、三日後には復活しています。
これ最高にドヤ顔案件じゃないですかね。
キリストに感情移入した信者は、キリストを虐げた人達に対して、当該文書を読んだときに超絶ザマァしていると思います。
あとは、復讐ってわけではないですけど、聖書の最後あたりにはだいたい黙示録を入れています。
これって世界の終わりの描写なんですけれども、キリストを信じている人は助けられます。厳密には人間は肉の存在としては全部死んじゃうんですけど、御霊となって復活するというふうな内容が書かれてます。
要は、ザマァ案件です。
で、べつに聖書すげぇ、キリストTUEEEEと言いたいわけではないのです。
それよりも、なろう小説も神話的要素、聖性を帯びているといいたいのです。
どういうことかというと、例えば、なろう小説は現実逃避を書いた瑣末なものであるというふうに言われることがあります。
なろう小説はゴミ屑みたいな価値しかなくて、きっと十年後には残らないだろう。アニメ化ももうされない。みんな金太郎飴状態で、なにを読んでもつまらない。
なろうは終わりみたいな言説ありますよね。
多少脚色を加えてますけれども、そんなイメージの放射をわたしは光のように捉えています。
しかし、それは違うのではないかと思うのです。
なろう小説は神話的要素を引き継いでいます。
小説に、水平的価値と垂直的な価値というものがあったとして、なろうは水平的な価値しかない、つまり、この時代の狭い人間にしか通じないと思われるものであっても、神話的な要素を引き継いでいる以上、垂直的な価値は必ずどこかに含んでいます。
たとえ個別の作品が古典のように残らないだろうと推測できたとしても、なろう小説は次代に何かを受け継がせていくでしょうし、それは人間が滅びない限り、そうなるでしょう。
ゆえに、総体としてのなろう小説は垂直的な価値も有していると思うのです。
それでは「わたし」を残せないではないかという反論がありそうです。
そんなのに意味がありますか?
ロゴスとミュトスが幸せな結婚をしているというのに、おまえがしゃしゃりでてくるんじゃねーよ作者様。
と言いたいんだけど、これはまあわたしもモノを書いている者としては当然わかる感覚なので、あまり強くはいえないかな。
要は、作者は自分を残したいという欲望があって、それは小説を書籍化したいという欲望や、より多くの人に読まれたいという欲望とリンクしているだろうと思う。
しかし、それは小説という落とし子にとっては、まったく預かり知らないことなんだと思うわけです。
うーん。
ここまで書いてて思ったけど、これは聖書という権威にすがった虎の威を借る狐エッセイだな。
神様ごめんなさい。