憂う幼き魂の残り香(中)
ニックが深手を負い、藍玉のように輝いていたその瞳から光が消えていく。だがミカエラの意識を呼び戻せば、より悪い事態を引き起こしてしまうだろう。
「……こうなったら……!」
一か八か、賭けに出るしかない。
何度苦しみを繰り返しても、例えこの魂に定められた務めを果たすことができずに力尽きようとも、俺は彼が死ぬことのない未来を求めよう。どうせ俺は、死ぬことが許されないのだから。
俺は自らの剣の刃を、喉元にそっと当てた。
「待て」
黒髪の少年が、俺の手を止めた。
「止めるな。何のつもりだ」
「共に死ぬつもりかい。でもそれでは人間がこの世で幸せに生きる事をお望みになる神様の下には行けないだろう。自ら命を絶つことは禁忌だからね。だが、それ程までに大切な友人だというのなら命は取らない。何よりも君に死なれてしまってはこちらとしても困るんだ。この力で、彼の傷を癒すことにしよう」
突然の彼の言葉に呆然とする俺をよそに、彼はそっとニックの傷に触れる。彼の傷が少しずつ癒えていく。
「もう暫く経てば彼は目を覚ます」
「何故……?」
俺の問いに反応して少年は俺と同じ琥珀色の瞳をこちらに向けた。
「自分の命よりも大切な人なんだろう?それ以外に、理由などない。それに今のままでは君を捕えることなど出来そうにないからこれ以上戦う意味もない」
そう言って目の前の少年はどこかへ消え去ってしまった。
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「ニック、聞こえるか?」
ユーリがオレに呼びかけているのに気づく。そっと目を開くと、彼が不安そうにこちらを見つめていた。周囲の景色に変化はない。オレはまだ生きているらしい。
「何が、あったんだ?」
「ミカエラをこの状況で目覚めさせる訳にもいかず時間遡行を引き起こそうとしたんだが、それを見てあの少年が俺を止めてお前を回復させた。全く理解できないんだがな」
ユーリは静かに溜め息をついた。
「何はともあれ、お前が生きているならそれでいい。とにかく、また新しい槍を手に入れないといけない。今度は重くても柄が頑丈なものの方が良いと思うが、どうだ?」
オレはその言葉に頷く。耐える戦法が多い分柄に力がかかって折られてしまう事が余りにも多すぎる。高額にはなるがこの先を考えるとなるべく良い槍を手に入れておくべきだろう。幸いなことに市民の被害は少なく市も再開されている。オレはルーツィエ達の様子を見に行くというユーリと別れ市の武器屋へと向かった。
どれだけの時間迷っていたのだろうか、市が閉まる直前まで迷いに迷った挙句一番高額だが頑丈で鋭い槍を購入した。そして辺りを見回すといつの間にか戻ってきていたユーリがすぐ近くの花屋で花束を見つめていた。
「何を見てるんだ?」
「白百合の花。……ティアムでは本でも見ていないか」
「そうだな、何かの話で百合の花がどうたらこうたら、っていうのはあったが挿絵はなかった。ユーリはその花、好きなのか?」
「ああ。一番好きな花だ。遠い昔……よく花瓶に活けてもらっていた」
花瓶。お金持ちが花を摘んだり花束を買ったりしては、水を入れてその花を入れて枯れないようにしておく、あの入れ物の事か。文字が読めたことといい、花瓶を知っているだけでなくその花を活けてもらっていたという話といい、彼はやはり高貴な生まれなのだろうか。
「さて、ルーツィエ達の所に戻るか」
そう言って歩き出す彼のズボンのポケットから、一枚の女性用のハンカチと木櫛が覗いていた。さて、雑貨屋で何かを購入していたのだろうが、一体何のつもりだろう。これから先が少しだけ楽しみだ。
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この路地で周囲を警戒しながら待機して、どれだけの時間が経ったのだろう。ようやく辺りが静かになった後、通常の賑やかさを取り戻すと同時にユリウスが戻ってきた。
「全て片付いた。彼女の時を繋げる。暫くしたら目を覚ます。ロルツィング以降の記憶は消し去ったままになるが」
彼はそう言ってミカエラに触れると、再びどこかへ行ってしまった。
「んっ……」
暫くするとミカエラが小さく声を発する。
「ミカエラ、分かる?あたし、ルーツィエだよ」
優しく声をかけると、彼女はそっと目を開いた。
「ルーツィエ……ここは、何処?」
「クレヴィング王都クライン。あなたはユリウスに記憶を奪われているけれど、彼の話が正しければあなたの最後の記憶は一か月以上前のロルツィングで終わっているはず。その後、あたし達はクラウスさん達とマルシャルクを出た直後に船を襲われて、対魔連合軍の皆とはぐれてしまった。それでニコラス、ユリウス、マティアスとあたし達の五人で彼らを追いかけているところなの」
「そうなのね。……何で、私だけが記憶を奪われているの?」
ミカエラは不思議そうにあたしの目を見つめてきた。一体どこまでなら話しても問題ないのだろう。そもそも彼が本当の事を言っているのかも分からない。ただ確かに分かるのは、あの様子を見てあたしやマティアスといった唯の人間に、暴走したミカエラを止める力がないという事だけだ。暫く考えてから、できるだけぼかしつつも本当の事を言う。
「ユリウスは力の暴走を止めるため、って言っていたわ。細かいことは分からないし、これ以上言ってまた暴走したりしたら困るからこれ以上は言えないんだけど。それにこの先はあたしも知らないんだけど……ここに居る皆があなたの力についてこれ以上知ってしまったら、悪魔になってしまうって言っていたの」
ミカエラは暫く黙り込んで下を向いた。彼女の黒い瞳から涙が流れ落ちた。
「……ルーツィエ、一つだけ良いかしら」
頷くと、ミカエラは静かに言葉を続けた。
「私の記憶が途切れてから、長い間皆で仲良く旅をしていたのよね?」
少し迷いながらもそうよ、と答えると彼女の瞳から更に大粒の涙がとめどなく流れ始めた。
「……ずっと父に魔法の道具のように扱われて、初めて自由を知った。ルーツィエと共に過ごした時間を除いたら、旅に出てから今までが私の唯一の幸せな思い出。……だから、私はこの力と向き合ってでも、その記憶を思い出すことを許されたいの」
「そんな、それじゃ悪魔に……!」
「それは分からないわ。単純に普通の人とは違う、強力な魔法の意味に向き合って正しい使い方ができるだけかもしれない」
「嫌よ!」
「でも、ルーツィエとの楽しい時間だって思い出せないの。きっと一緒に料理を作ったり魔法で戦ったりして、きっと今の私が思い出せない何かを知って、上手く力を使って皆の力になれたのよね。……お願い、思い出すことを、私の力について知ることを許して」
旅の途中で、何度もユリウスを怪しんだ。それでも他に道はなく、クラウスさんの軍勢を追って共に行動した。そんな中でも、夕食のときには共に料理を作ったり、恋の話をしたりして楽しんだ。確かにミカエラは、初めて与えられた完全な自由を誰よりも楽しんでいた。かつての彼女からは考えられない程に幸せそうな顔をしていた。
「分かった」
「それならもう一つだけ……これを持っていて」
ミカエラが小さなナイフを渡してきた。彼女が護身用かつ魔除けとして与えられていた銀製のナイフだった。なぜミカエラがこれを差し出すのか、できる事ならその意味を理解したくない。それでも、彼女の意図は残酷な程に分かりやすいものだった。
「……もし、ミカエラが本当に悪魔だったら、っていう事だよね?」
「ごめんなさい。……それでも、ルーツィエの魂を壊したりなんてしたくないの。だから、私が本当に人を害する悪魔だったなら……そのナイフで私から貴女の身を守って」
ミカエラは悲し気な瞳でこちらを見つめながら、あたしにナイフを受け取るよう促す。だがこれはオプタルの神に禁じられている、自害という事になるのではないか。一連の会話をずっと聞いていたマティアスに尋ねた。
「もし、その話が真実だとするならば……そもそも悪魔が救われるという事自体があり得ないのです。……躊躇わず、そのナイフを受け取りなさい」
「分かった。でも、そんなの嫌だよ……!」
彼女のナイフを受け取った右手に、今度は自分の涙が落ちた。その時、ミカエラが突然立ち上がり叫んだ。
「街に、魔物の気配が……!」




