辿り着いた場所(前)
彼女は泳ぎを知らなかったのだろう、溺れたミカエラを連れて俺はとある港町に辿り着いた。意識を失った彼女を抱いてどうにか岸に上がると、その先には荒れた街が広がっていた。宿があれば良いのだがこの場所にはどうも良からぬ気配が漂っているように感じた。
「仕方ない、か」
この町に刻まれた時を読み解いていく。賑わう港、奴隷市場、そして……。
だが背に腹は代えられない。目についた宿でどうにか彼女を休ませるしかない。そして彼女が目を覚ますまで一睡もせずに見張る必要があるだろう。覚悟を決めて俺は街の中へと歩を進めた。
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優しい光の中で人の影が動く。
誰かが、オレの名前を呼んでいるようだった。
凛とした、女性の声。遠い昔に聞いた、母さんの声に少しだけ似ていた。
そういえば、人は生きている間に善い行いを重ねると死んだ後にこんな優しい世界に辿り着くと、孤児院でハンス先生が教えてくれたな。
「ニコラス?」
何かが妙だ。母さんは、確かオレの事をニックと呼んでいたはずだ。そう思った瞬間、目の前の光景が急に鮮明になった。オレはベッドの上で眠っていたようだ。目の前の女性がこちらに身を乗り出してきた。
「目が覚めたのね!良かった!」
そう言うなり彼女はどこかへ走り去ってしまった。淡い金色の、滑らかな長い髪。美しい緑色の瞳。彼女は……。
「ルーツィエ、ありがとう」
「あたしはただ見ていただけ。マティアスさんが居なかったら……」
彼女は言葉を詰まらせた。澄んだ緑色の瞳が涙をたたえて宝石のように輝いていた。
そうだ、彼女はルーツィエ。オレとユーリの危機を救ってくれた女性。隣にいる栗色の髪に茶色の瞳の青年が、巡回説教師のマティアス。オレ達は五人で旅をしていたんだ。
「ここは一体……?」
「ホルンの街より西の海岸の家よ。溺れたあなたをマティアスが助けてくれて、暫く三人で流されるままにしていたら砂浜が見えたから泳いできたの。暫く歩き回っていたら、たまたま出会ったエーベルっていう名前の画家さんが助けてくれて。それでベッドを貸してくれて、マティアスが治療魔法をかけ続けて」
「私の魔法では弱すぎて少し時間がかかってしまいましたけれど。そうそう、エーベルさんは今ちょうど絵を描いているところですから、後ほどお礼を言いに行きましょう」
ちょっと待て。今、ルーツィエは三人と言った。残りの二人は。オレの親友は、一体どこに居るんだ?
「ルーツィエ、ユーリとミカエラはどこにいるんだ?」
ルーツィエは視線を逸らし、そのまま下を向いてしまった。その瞳から涙が零れた。
「そんなの、あたしが聞きたいわ!」
「まさか、二人はそのまま海に……?」
「あの辺りには流れの分岐があるようで、私達は西に流されました。二人はもう少し東のホルン方面に向かう流れに乗っていったのだと思います」
そういえば、記憶が途切れる直前に二つの影が遠くに流されていた。確かにその影はユーリとミカエラによく似ていた。
「ですが、二人が無事にホルンに辿り着いたとは考えにくいのです。ホルンは新しくクレヴィングの現女王の命で作られた新しい港。本来はすぐ近くの、今は封鎖されているドールという別の街に港がありました。昔からの港は、地形だけでなく海の流れも上手く利用できるように自然と生まれたものが多いのです。つまり彼らはそちらに流れ着いた可能性が高いんですよ」
「封鎖された街?疫病があったんですか?」
マティアスは首を振る。エーベルさんの話によるとそのドールの街はかつてない程に栄えた港だった。だがその路地裏の宿では、宿泊客である船員の男たちの為に違法な悪しき慣習が行われていたという。街の広場には連日奴隷商人が若い女の奴隷を売りにやってきて、宿の主人たちが彼女たちを買っていった。そしてその女性たちは衰弱するまでその宿で使われ、その価値がなくなれば足枷をつけられたまま海に棄てられたという。
「それを知ったクレヴィングの女王陛下が大層お怒りになって、命令で全ての奴隷の女性たちを解放して城のメイドとして雇い、まともな商売人のみ脱出させてこの港に続く道を完全に封鎖し、東側のすぐ隣にホルンという新しい港町を作られたという訳なのです。元々小さな漁村ではあったようですが」
「それで、今そのドールの街に入ってしまったらどうなるんですか?」
「そこまでは分かりません。ただここからは噂ですが、バリケードに穴が開けられて賊のたまり場になっているとか。ホルンから西のこの辺りの村に向かっていた若い女性が行方不明になる事件も頻繁に起こっているようです」
マティアスは続けて、もしミカエラさんが、と言いかけて口をつぐんだ。だが時すでに遅し。ルーツィエが黙っているはずがなかった。
「それなら今すぐに助けに行かないと!」
「ルーツィエ、そんなの無謀だ!」
どう考えても無理な話だ。下級の魔法と体術だけが武器の青年と、短剣の心得のある弓使いの女性、そして平和ボケしたマルシャルク王国の基準では腕が立つとされる程度の、しかも病み上がりの槍使いの三人で、クレヴィングの賊の巣窟に乗り込んで全員倒せるとは思えない。
「親友の事が大切なのはオレも同じだ。それでも、その場所に二人がいるとは限らない。何より今、ここに残った仲間の命を危険に曝す訳にはいかないだろ」
「それでも、あたしはミカエラを助けたいわ!それにあなただって、力を使って消耗したユリウスを敵に囲まれながらも助けに行ったじゃない!」
ただの言い合いではオレは彼女には勝てないのは分かっている。それに、オレだって本当の事を言えば助けに行きたいのは間違いない。このままでは言い負かされる、と思った時だった。ふと、昔のマティアスの言葉を思い出した。
「マティアスさん、前に神様の教えには存在しない、誰も知らない理がなんとか、って言ってましたよね」
マティアスは頷く。
「二人が居ないから正直に言うぜ。あのクロルでの戦いを思い出してくれ。不思議な力を二人で使っていただろ?あの二人の力は魔法なんかじゃなくて、その誰も知らない理、っていうやつだったりしないかな。勘ではあるけど二人が本気で戦えば……賊だらけの街なんて簡単に切り抜けられると思うんだ」
ルーツィエは驚いたような顔でこちらを見ていた。
「だから、今はお互いの親友を信じて、クラウスさんのいるホルンを目指すしかない。何より二人がとっくにクラウスさんと合流している可能性だってないわけじゃないだろ」
「それが……」
マティアスが言いにくそうに口を挟んできた。
「貴方はここで二日も眠り続けていたんです。私の治療魔法が弱かったせいかもしれませんが……とにかく、今から追いかけてもクラウスさんはホルンには居ないはずです。王都クラインでのクレヴィング部隊との合流に当てる一週間、その期間にどうにか間に合わせるようにしましょう。恐らく貴方の体はまだ弱ったままでしょう。今日はもう一日休み、明日はホルンの街に向かい、期限目前で合流。間に合わないリスクがないわけではないのですが、無理は禁物です。そしてそこで再び彼らと会えることを祈りましょう」
そんなに時間が経っていたのか。それならば尚更二人を助けに行くなんて無理だ。ルーツィエはどうやらその事実を忘れていたようだったが、マティアスの言葉を聞いて期限を思い出すと同時に冷静になり先に進むことに渋々ではあるが賛成した。
その夜、助けてくれたエーベルという画家に礼を言った後にオレは一人で槍の技を確認していた。夕食の時にルーツィエからここに辿り着くまでの詳しい話を聞いた。今振るっているマレクで新調したばかりのこの槍は、沈んだ船から偶然浮かび上がってきた木箱に刺さって一緒に浮かんできたらしい。そしてその木箱の中の荷を捨てて上にオレを乗せ、二人は箱を浮き具代わりにして流されてきたという。確かに槍には酷い傷がつき錆びもできていたがそれでも随分と幸いな話だ。そんなことを考えながら携帯用の砥石で磨いて輝きを取り戻した槍を振るい続けていると、ルーツィエが声をかけてきた。
「槍の感覚の確認は良いけど、そろそろ寝たら?」
そうだなと返事をしてオレは彼女に続いてエーベルさんの家に入る。その間際に見た東の空が夜更けだというのに妙に明るいような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
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翌朝、朝食を済ませて急いで東のホルンの街へと向かう。それほど距離が遠いわけではないのだが、海に沈んだせいで使えなくなってしまったものを買い直すべく市が開いている時間帯に街に入りたい。それ以上に何より暗くなると盗賊が出やすい。ドールの街付近でのトラブルを避けるには、早くホルンに入ってしまうより他にないというのが急ぐ理由だ。そして昼過ぎ、遠くにホルンの街が見えてきた時の事だった。何かの焼け焦げた臭いが当たりに満ちているような気がした。
「ねえ、何だか焦げ臭いんだけど、何かしら」
やはり気のせいではなかったようだ。風はドールの街がある北西から吹いている。先を急ぐよう促すマティアスをよそにルーツィエは風上の方をじっと眺める。そして何か異変に気が付いたのか、彼女は一瞬眉を顰めた後に叫んだ。
「見て!向こうが……!」
よく目を凝らすとドールの街を封鎖していたはずの門もその先にあったはずの建物も完全に焼け野原と化しているのが見えた。昨日の夜の東の空。妙に明るかった理由はこの街が焼き払われたためなのだろうか。だが不思議なことに、街の周囲には一切延焼が起きていない様だった。マティアスは静かに祈りを捧げていた。
「お二人も一緒に、連れ去られた後に炎の中で苦しんだ方々の為に祈りましょう」
三人で並んで彼らの救いを祈る。人は人間という種族が共に幸せに生きるために己の力を使うことで、死んだ後にその魂が神様の下に行くことができて幸せになれるという。だが例えそれが果たせなかったとしても、他者が祈る限り神様はその祈る人の願いを叶える、という形で亡くなった方々を救って下さるというのが神様の教えだ。
祈りを終えて静かにその場を去ってホルンの街に入ると、街では何か祭があったかと思うような騒ぎであった。賊の拠点に突然炎が放たれた、神様は悪しき者達に天罰を与えて下さった、これでこの街から西への移動ルートが安全になると言って人々が騒いでいた。
「妙なもんだよな。きっとあの街が故郷、っていう人だって多いだろうにさ」
マティアスも少し不思議そうにしていた。どうやらオレと同じように感じているようだった。ぼんやりとしている男二人にルーツィエが声をかけてきた。
「気にしていたって仕方がないわ。まずは市場で必要なものを買いそろえて、さっさと宿に入ってしまった方が良いと思うんだけど」
手分けして買い物を済ませた後で宿の前で合流するという約束をして、食料や武器、薬草などをそれぞれが買い集める。薬草を担当していたマティアスはどうもその調達に難儀しているようで、オレとルーツィエが先に宿に到着した。
「賊なんて滅びてしまえと思っていたけれど、その街が完全に焼き払われた様子を見てしまうとやっぱり思うものがあるわね。同情はしないけど彼らも人間で、炎に巻かれれば同じように苦しくて」
「ここからだと丁度良い感じに向こうが見えない。だからお祭り騒ぎになっているのかもしれないな」
ルーツィエは昔をあまり覚えていない。それでも自分が攫われて奴隷商人の元に引き渡される様子は少しだけ覚えているという。それ故に彼女にとって魔物以上に賊は憎い存在であるらしい。それでも、彼女は彼らを人間だと思っている。
「人間ってさ、何なんだろうな」
オレにはどうしても分からなかった。ユーリも、彼が手にかけた悪党も、そしてオレ達も。皆が人間であるはずだ。昔からユーリに問われ続けた、彼が化け物か否かという問い。その意味は、一体何だったのだろうか。もう一度会って、今度こそ彼の昔の事を聞かなければいけない。それが叶うのであれば。あの時、助けられていれば。
「ねえ、ユリウスの事を考えてた?」
ルーツィエの言葉に我に返る。顔を上げると潮風で頬が少しだけ冷たくなった。
「大丈夫、って言った本人が泣いてどうするのよ」
バカみたい、と続けたルーツィエだったが、彼女自身も急に顔を伏せて向こうを向いてしまった。彼女もまた、ミカエラの事を思い出して泣いているようだった。そんな彼女の横を一人の女性が側を通って宿に入っていった。濡鴉色の長い髪に物憂げな横顔。その細い腕には薬草が山のように詰められた籠が下げられていた。
「ミカエラ……?」
彼女はルーツィエが思わず発した声に反応することなく宿の扉を閉めた。そして間もなくマティアスが戻ってきた。
「申し訳ありません。どうやら誰かが大量に薬草を購入した後だったようで良いものは一切手に入りませんでした。仕方ありません、このまま宿に入りましょう」
宿に入り買ったものを整理する。今日は十分に休息をとるために宿で食事を出してもらうことにしたものの、思いのほか早く整理が終わって時間が余ってしまった。隣の部屋では誰かが頻繁に出入りしているようでどうも落ち着かない。オレは受付近くのテーブルで何か簡単な本を読むことにした。
「ねえ、あたしにも文字を教えてくれない?マティアスに少しは教えてもらってるけど、それでも神様の教えの言葉を少し読むのが精一杯だから」
オレはルーツィエの頼みを快く引き受けた。かつての自分がユーリに文字を教わったように教えられる自信は全くなかったが、それでも役に立たない訳ではないだろう。本棚を漁るとオレでも読めそうな本が半分ほどあった。その中には聖王イェレミーの物語もあった。これから攻め込むって時にこんな本を読むのも何だけど、と前置きしてそれを手に取り、読んではその言葉がどのように記されているのかを教える。彼女の集中力は驚くほどのもので、あっという間に記されていた言葉の綴りを覚えてしまった。繰り返し出てくる言葉など、オレが読み上げる前に先に読まれてしまう程だ。
そうこうしていると食事の時間になる。客はオレ達と隣の部屋の人以外には誰もいないのか、食堂に集まったのはオレ達三人だけだった。食事が終わり、宿の女性が食器を片付けに来た時のこと。マティアスが何かに気が付いて彼女に話しかけた。
「この香り、もしやあちらで薬草を煎じているのでしょうか」
「ええ。私にはよく分からないのですが、昨夜遅くからのお客様が、先ほど市で手に入れた薬草を指示通りに煎じてほしいと言っていらしたので」
確かに厨房の方から薬草のような香りが漂ってきていた。昨夜からの客というのは宿に入る直前に見た、ミカエラによく似た女性で間違いないのだろう。そう思った瞬間、ルーツィエが大声で問いかけた。
「あの、その人の名前って分かりますか!さっき籠一杯の薬草を持って宿に入っていった女性が、旅の途中ではぐれた仲間ととても良く似ていて!」
流石に教える訳にはいきません、と女性が断った瞬間、誰かが食堂の扉を開いて入ってきた。その姿は間違いなくミカエラだった。




