いざクレヴィングへ
それからオレ達は二週間の間クラウスさんの下で集まった人々と共に訓練に励んだ。訓練の後には、皆で食事を楽しみ早めに休息をとる。そんな日々を過ごすうちに、それぞれの距離も縮まっていった。戦いの前だという事が信じられない程に、平和な時間を過ごしていた。そしてクレヴィングへの旅立ちの日がやってきた。
オレ達はロルツィングからまだイェレミースの攻撃の爪跡が残るクロルの街へと向かって一夜を明かし、翌朝その門を出て少し歩いたところにある港に向かった。桟橋に停泊している大きな帆船。これに乗って南にあるクレヴィングの港町、ホルンへと渡る。
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フリアン歴1218年、五月。
クロルの街に隣接する港のとある日の朝。敵の襲撃の爪跡が残るこの港に兵が集まる。
その兵団に加わった一人の若者が柵から身を乗り出していた。
初めて見る、美しい青色に輝く海というもの。
この戦いの末に辿り着くであろう、魔物のいない未来。
潮風に吹かれて佇むその若者の小麦色の髪は、まるで収穫の時期を迎えた小麦畑の様だった。そして目の前の景色と待ち望む未来に心を躍らせる彼の瞳は、どこまでも澄んだ空色に輝いていた。
その隣にいる黒髪の青年は物思いにふけっていた。
海を見てセンチメンタルになる、というのとはまた違った憂い顔だった。
まるでこの先に皆を待ち受ける未来があまりにも過酷であると予感したのかと思えるほどに、彼の琥珀色の瞳は愁いを帯びていた。
どうか皆が人間として幸せな結末に辿り着くことができますように。
たとえ一人で業を全て背負うことになったとしても。
真実に触れてしまったが最後、悪魔と化してしまうから。
「乗る準備ができたらしいぜ!」
金髪の若者の声を聞いて黒髪の青年が顔を上げた。
こうして導師クラウス率いる対魔連合軍、マルシャルク部隊の兵が次々に船に乗り込んでいった。
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クレヴィングの港町、ホルンに向かう船の上。珍しい海の景色を楽しむ者。慣れない船の揺れに戸惑う者。その振る舞いこそ千差万別ではあるけれど、確かに皆が魔物のいない世界を願ってこの船に乗っていた。オレは潮風を浴びて、昔の事を思い出していた。父さんや母さん、故郷の人々。魔物を生む元凶を倒したら、何と報告しようか。そんなことを考えているうちに、西の空が赤く染まっていた。このまま無事に船が進むことができたなら、夜明けとともにホルンの街に着くという。だが、これだけ美しい夕焼けの後に大嵐が来るなど考えられない。
「ニック、何を考えていた?」
船に酔い眠っていたはずの親友、ユーリが話しかけてきた。
「町に戻ったら皆にどう報告しようかな、って」
それを聞いて彼は何か考え込んでいた。どうした、と聞くと彼は何でもない、と言って笑った。だがその金色の瞳には、深い悲しみとどこまでも強い決意が写っているように見えた。
夜になり眠ろうとした頃、急に強い風が吹いてきたのか船が大きく揺れた。次の瞬間、甲板の方が異常な程に騒がしくなった。何事かと様子を伺っていると、クラウスさんが部屋に飛び込んできた。
「何者かが船に大量の魔物を放った!今すぐ戦いの用意を!」
外に出ると既に多くの人々が魔物と交戦していた。実戦経験はほとんどない彼らの最初の戦いの場所がよりにもよって不安定な船の上。瞬く間に怪我人が増えていった。それをクラウスさんがたった一人でフォローしていた。
「クラウスさん、雑魚は俺が処理します!」
ユーリはそう言うや否や時間操作の能力を使用して大量の魔物を斬り伏せていった。そして黒い霧が薄まった隙に皆で協力して怪我人を屋内に運び込み、ミカエラとマティアスが中心になって治療に当たる。オレとユーリ、ルーツィエはクラウスさんと共に被害の確認のために外に出た。オレが万が一に備えて屋内に通じる扉の前で待機し、残りの三人が見回りを行っていた。間もなく彼らは戻ってきたが、魔物が出現した原因らしきものは何も見つからなかったようだった。一体上の見張りの兵は何をしていたんだ、とクラウスさんは呟いた。その言葉に釣られたようにルーツィエが上を見た。目が良いからだろうか、何かを見つけたようだった。
「ねえ、マストの柱の上!誰かが立ってる!」
「柱の上?人がそんなところに立てるわけ……」
半信半疑で上を見た瞬間、確かに柱の上には人型の影があった。黒い衣を纏って夜空に紛れていたその人物は、オレ達の声に反応したのかその場所からひらりと飛び降りて舳先に着地した。長く滑らかで桃色が勝った金色の髪を服の下から覗かせたその女性は、冷たい声でクラウスさんに告げた。
「私は天使アリョーナ。導師クラウスに告ぐ。時の魂を持つ男と、空の魂を持つ女を引き渡せ。さもなければこの船を沈める。お前は多くの民を兵として率いている。祖国を愛する大勢の民と、たった二人の人間の身を持つ異端者……どちらを手放すことが上に立つ者として良い選択か、という問いの答えはあまりにも簡単なものだろう?」
クラウスさんは黙っていた。天使。異端。時の魂に空の魂。その言葉からしてイェレミースの陣営であるのは間違いないのだろう。沈黙が続いていた。アリョーナと名乗るその女性が口を開こうとしたその時、後ろで何かがきりり、と音を立てるとオレの頭のすぐ横を何かが空を切って通り過ぎていった。それはアリョーナの肩を掠めて彼女の衣を引きちぎった。
「あんたら本当に訳の分からないことばっかり言って!煩いのよ!」
突然の事態に驚いて皆が後ろを振り向く。声の主は唖然としている周囲をものともせずに前に進み出た。そしてオレ達の前に立ったルーツィエは呆然としているアリョーナに対して怒鳴り始めた。
「あのね、あんたが本当に天使だとしたら神様は人間を助ける存在でしょう?だから今この船にいる人たち全員が余程の罪を犯していない限り、人を害する魔物を出すみたいな真似なんてしないはず。それに何より、ミカエラとユリウスは二人とも人間よ」
だが彼らの捕獲は、と口を挟もうとするアリョーナを遮ってルーツィエは叫び続けた。
「確かにあたしは頭も悪くて学もない、文字だってほとんど読めない。だから普通の人の半分も神様の教えを理解していないと思う。それでもあたしはこの通り、宗派は違うかもしれないけど神様を信じてる。あたしにはこんな事をするあんたの方が悪魔みたいな邪悪な化け物に見える。これ以上あたしの仲間に手を出すっていうんなら、神様が出した皆の罪状さっさと出しな!」
そう言って彼女はアリョーナに近づき、舳先に登るとその胸倉をつかんで甲板に引きずりおろした。ルーツィエはアリョーナの体を船の端に押し付けると首元に小刀を突き立てた。アリョーナは少し待て、といって彼女の問いに答えた。
「強いて言うならば彼らの仲間である事が皆の罪だ。だが彼らの力は魔法の完成に必須。イェレミース王国には新たな術を生み出す上で稀有な才能を持つ人間がいる。その人間にユリウス、ミカエラ両名を引き渡し、その力を奪った上で存在自体が罪である二人を消滅させるというのが神の命。これで理解したか、小娘」
ルーツィエはなるほどね、といって口角を上げた。次の瞬間。アリョーナの腹部に蹴りが入る。
「だから、全ッ然わかんないっての!なんで二人の存在が罪なのよ。それが知りたいんだって言ってるでしょ!神様の名前を使って適当に丸め込もうとして!」
アリョーナは顔を歪めて倒れこんだ。オレもロルツィングでうっかり妙な事を言って蹴られたことを思い出して目を背けた。ルーツィエの靴は旅での使用に耐えられるように丈夫な作りになっている。そのせいか彼女の蹴りの威力は恐らくそこらで売っている鈍器の威力を遥かに超えたものになっていて非常に痛いのだ。これ以上はない、と言ったアリョーナに対してもう一度蹴りを入れようとしたルーツィエに、流石にもう良いでしょう、とクラウスさんが声をかけてアリョーナに向き合った。
「何はともあれ、これが私達の答えです。例え貴方が本当に天使であろうとも、オプタルの神の教えが人に対して優しいものである以上、悪意を持って攻撃してくる存在を人は神の教えによって定義された悪魔と認識する。よって貴方の言葉に従う事はない」
そう言ってクラウスさんは剣を抜くと彼女の首を刎ねた。その体はラルフと同様に光の粒となって消えていき、衣だけがその場にふわりと落下した。
「終わりましたね」
そう言ってクラウスさんが屋内に戻ろうとした。落ちた衣の中で何かが蠢いたように見えたが気のせいだろう。皆に続いて船の中に入ると怪我人の治療が終わっていた。幸いなことに死者が出なかった。その事に皆で安堵した瞬間、船の舳先が大きく下に傾いた。今度は何だと外を見ると、甲板に巨大な黒い蛇のような化け物が乗っていた。船は化け物の重みでその傾きを増していく。
「脱出用ボートを出せ!」
クラウスさんが指示を出そうとする。しかし船の傾きがあまりにも大きく、パニック状態に陥った人々の叫びに彼の声はかき消された。皆が壁際に押し寄せられ身動きが取れなくなっていく。耐えきれずに近くのドアを開けて外に飛び出した瞬間、急に船の動きが止まった。周囲の声が少しずつ静まっていく。甲板を見ると魔物の動きも止まっていた。
もしや、と思って一緒に飛び出したユーリの方を向くと、彼は苦しそうに顔を歪ませていた。
「ユーリ?船の時間を止めたのか?」
ユーリは小さく頷く。だが広範囲の時間停止は彼の体力を一瞬にして消耗させる。楽な体勢を取らせようにもこの傾きでは難しいし、出来たとしても時間の問題だ。一体どうすればと考えていると、ミカエラが中から人をかき分けながらこちらに近づいてきてそっと彼の手を取った。治療魔法の一種だろうか、柔らかな光が二人の手を通して伝わっていくような感覚がこちらの方まで伝わってきた。
「これなら、もう少し耐えられる?」
ミカエラの問いかけにユーリははっきりとした声でありがとう、と答える。体力を回復させて無理やり時間停止を維持する、ということなのだろう。同時に、再び周囲が騒がしくなった。辺りを見回すとあちこちでボートが下ろされていた。クラウスさんが既に事態を察して人々を落ち着かせ、急いで脱出するように再度指示を出していたようだ。
幸いなことにクロルの街の事件で敵に転移魔法がある事が既に判明していたため、敵襲に備えて全員が避難できるだけのボートが用意されていた。周囲の人々は下ろされたボートに我先にと乗り込んでいき、間もなくクラウスさんとオレ達の計六人を除いて全員が船からの脱出を終えた。
「君たちのボートはこっちだ!」
クラウスさんは既に人が乗り込んでいるボートに飛び乗る。そして彼の誘導に従ってオレ達五人も空のボートに飛び乗った。
「時間停止が終わる前に離れろ!沈む時の渦に巻き込まれるぞ!」
クラウスさんの指示を受けて、マティアスと共に見よう見まねでボートを漕いで船から離れる。まともに進むことができないながらもどうにか距離を取った後、ユーリが時間停止を解除した。船は巨大な魔物と共に海の底へと沈んでいった。
その場で朝まで待機し、日の出と共に皆で目的の港のホルンまで漕ぎ出した。だが相変わらずボートを上手く進める事はできず、気が付けば多くの人々は既に遠く離れ、誘導してくれているクラウスさんのボートとの距離も次第に離れていく。どうにか追いつこうと必死に櫂を動かしていると、オレの動かしていた方の櫂がまるで何かに挟まれたかのように動かなくなってしまった。マティアスもそれに気が付いたようだ。
「困りましたね、巨大な魚にでも噛まれてしまったのでしょうか」
そういえば昔、教会にやってきた旅人の話で海には人を食べる大きな魚がいると聞いたことがある。名前は忘れてしまったがその魚だったらとても厄介だ。そんなことを思いながら櫂を強引に引き上げる。
それは、その魚よりも余程厄介なものだった。
船と共に沈んだはずの魔物が、櫂の勢いを利用してボートに飛び乗ってきたのだ。
オレは槍を魔物の喉元に向けて奴の勢いを逆に利用してその体を貫いた。だが一撃では足りなかったようで黒い霧にはならず、実体を保ったまま上から落ちてきた。そしてその巨体はボートを一瞬にして破壊した。衝撃で全員が吹き飛ばされた。
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水面よりも海の中の流れの方が激しかった。
影が二つ、遠くに流されていくのが見えた。
オレは深みに引きずり込まれながらも必死に魔物に槍を突き立てた。
そしてようやく化け物は黒い靄と化した。
だが、水面に戻るまで息は続かなかった。
何かがこちらに向かってくるような、そんな光景を最後にオレの意識は途切れた。




