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モノクロ〜白鬼と黒鬼〜  作者: 五臓六腑
一章〜門出に笑う鬼〜
16/16

15.鬼の拳


「クロミ、もう充分満足しただろ?」


ボロ雑巾のようなディアボロスの姿を憐れに思い、クロミに止めるように指示を出した。するとクロミは何故か恥じらいながら横目で春の顔を見つめると、


「フヒヒッ。満足したよ〜♪」


暴れた事なのか、無抵抗の唇を奪った事なのか。頬を赤らめる様子だと、おそらく後者の欲求が満たされたのだろう。

さらに、その瞳の奥には隙あらばもう一度狙おうとする、猛獣のような本能が宿っている事を春は見逃さなかった。


無数の腕が宙に消えると、ディアボロスの全身に重力がのし掛ったように勢いよくその場に片膝をついた。

だか春を睨むその目からは未だ闘志が消えておらず、悔しさと怒りを我慢するように歯を食いしばっていた。


活動限界に近い体で必死に立ち上がるディアボロスに、春はゆっくりと近づく。


「これで解っただろ?テメェじゃ俺達には勝てねぇよ」


「クソがぁぁ、黙れぇー!!」


怒りと共に腹の底から声を荒げ、自身を奮い立たせる。

この煮えたぎる怒りは春や太と出会う前から溜まっていたものだろう。


「俺様は!貴様ら如きにやられる訳にはいかねぇんだよぉ!」


限界だったはずのディアボロスが、春に向かって走り出した。


気合いか、それとも根性か。


しかしそれはそんな生温いものではなかった。

鋼のように硬い意地とドス黒く燃える執念が、傷付いた身体を無理矢理動かしていた。


「クソ兄貴達をぶっ殺す為に、俺様はこの体を手に入れたんだ!こんな所で終わるかよぉぉ!」


そう叫びながら迫り来るディアボロス。

後に引けない思いが伝わるが、その状態では捨て身の攻撃にもならなかった。


「んな事…、知るかよぉお!!」


相手にどんな理由が有ろうと、春にとっては微塵も関係ない。

まさしく鬼の形相でディアボロスの渾身の一撃を悠々と躱すと、相手の顔面にカウンターを打ち込んだ。

だが、もろに喰らった筈のディアボロスは、倒れる事なくその場に踏み止まる。

間違いなく倒れると思った春は、驚き目を丸くした。


「…なっ?!」



「…ったく、兄弟喧嘩ぐらい付き合ってやんのに…」




一瞬の静寂の後、突然口調が変わった。

口に溜まった血を吐き出し春に顔を向けると、


「悪かったなぁ、せっかくのタイマンに邪魔が入っちまってよぉ」


律儀に謝る人間味ある言葉は、太が発したものだった。

春の一撃で同化が解けたのか知らないが、体の主導権が太に戻っていた。しかし今更主導権が戻った所で、身体に残るダメージは変わらない。


「ハッ、やっと戻ったか。で、どぉするよ?このまま続けんのか?」


「当たり前だ。俺はディアボロスと二人で闘ってんだ。確かにこいつに身体を乗っ取られたが、それは俺の弱さが招いた結果だ。その弱さを言い訳にすんのは〝おとこ〟じゃねぇ」


春の気遣いに気付くが、最後まで自分のプライドを曲げる事なく、勝負を続ける事を選んだ。

正直なところ、このままやっても勝てる見込みは限りなくゼロに近いと太は解っていた。それ以前に先程の春の一撃で倒れる事も出来た。


だが自分から始めたタイマンが、ディアボロスに体を乗っ取られたまま終わるのが許せなかった。だから例え負けると解っていても、最後は自分で終わらせたいと男気を見せたのだ。


だが易々と負ける訳にはいかない。



「これが…、今の俺に出せる最後の力だ」


右手を開くと、そこには小さな火種が生まれていた。やがてその火種は周りの酸素を取り込み、掌に収まる程度の火の球に。

太がその火を潰すように拳を握ると、まるで自分の決意を映し出すように猛々しく燃え上り、灼熱の炎が右腕を覆い尽くした。


その炎は以前と比べ物にならない程の熱を帯び、自分自身の腕すらも焼き焦がしていた。氷のように溶ける皮膚の痛みを必死に耐えながら、微かな笑顔でその場で拳を構えた。


太の足が動かない事を察した春は、ゆっくりと近づき間合いに入ると構える事なくその場で仁王立ち。

お互いが黙って睨み合う中、突然春が口を開いた。


「さっさと打って来い。お前の全力、この俺が確かめてやるよ!」


「なら…、受け止めてみろやぁぁあっ!!」


ニヤついた顔で攻撃を誘うと、その顔めがけて炎を纏った拳が轟々と迫りくる。


「おおぉぉぉおお!!」


「グギギギぎぎ…ッ」


高温の炎は春の左頬を容易に焦がしているが、太が春の拳を耐えたように、春も負けじと太の拳を耐える。

皮膚が焼け、肉が燃え、次第に春の周りには悪臭が漂い始めた。


悲痛な表情で歯を食いしばりながら耐えていると、やがて炎は衰え、徐々に拳の勢いが弱まっていた。


「ってぇ…、結構やるじゃん。正直これ程とは思わなかったぜ。けど一矢報いるにはまだまだ弱ぇな」


殴られた体制のまま清々しい笑顔で太に賞賛を送るが、頬の肉は口元から左耳の近くまで裂けるよう焼け落ちていた。そこから奥歯が覗き、清々しさとは程遠い表情に太は不気味さを覚えた。


「んじゃ、次は俺の番だな」


そう言って仰け反っていた体を起こし、右腕を後ろに引き大きく構えた。そして左足に負荷がかかる程踏み込むと、体重をのせる様に全身を使って拳を放った。



「いくぞゴラァァァア!!」



あまりの気迫に太の本能が危険と判断し、咄嗟に左腕を上げ春の攻撃を防ごうとしたが、


「甘ぇ!それで防げると思ってんのかぁっ!」


ガードの上から容赦なく鉄拳をねじ込む。

その衝撃は筋肉を断裂させ、骨が歪むような激痛を太に与えた。さらにその勢いは止まらないまま、押し潰すようにガードした左腕ごと顔面に押し込んだ。


「んぐぐ!」

(クソッ、左腕に力がっ…!)


いくら力を入れようとしても左手は潰されている為、握る事が出来ず力が入りきらない。

弱った相手にも手を抜かない非情さに、太は感服していた。


やがて耐える事ができず、後方へ吹き飛ばされた。地面を激しく転がる度に脳が揺れ、体を動かす事が出来ず意識を保つのがやっとの状態だ。

土煙が舞う中、仰向けの状態で澄み渡る夜空をただ呆然と眺める事しか出来なかった。


すると砂利を踏み締める音が徐々に近づいて来て、


「俺の勝ち〜♪」


「ムーッ…。クロミだけだったら、ハルよりも〜っと早く終わったもん!」


「っせえな…。勝ちは勝ちだから別にいいだろ」


相変わらず癪に障る言い方で、勝ち誇った顔の春が太を見下ろしていた。しかし一人で勝ったような口ぶりに対し、クロミの辛辣な言葉が春の胸に突き刺さった。


「フッ…」


倒れたまま二人のやり取りを聞いていた太は、呆れたように鼻で笑った。

体を乗っ取られた時、僅かに残っていた太の意識はディアボロスの視界を通じて、その光景を見ていた。


まさしく鬼神の如く闘う姿に、僅かながら恐怖を覚えた。

しかし闘いが終われば、その異様な気迫は微塵も感じられず、何処にでもいる高校生に戻っている。


これ程の強さを肌で感じ、痛みを知り、自分の弱さを思い知らされた。そして自分のしてきた行動が如何いかにちっぽけな事だったと痛感し、思わず腹の底から笑いが込み上げた。


太が急に笑い始めた事に驚く春とクロミは、目を丸くして顔を見合せた。

心配そうに見つめるクロミの横で、春が恐る恐る太に声をかける。


「お、おい。大丈夫か?変な所でもぶつけたか?」


今の太の状態は決して大丈夫には見えないし、ぶつける程度で済んだら今頃立ち上がって春に反撃しているだろう。

一頻ひとしきり笑うと、太は深く息を吸い春に答える。


「いや、何でもねぇ。それより…お前の名前教えろよ」


「おっ、そうだな。俺は沢木春、んでこっちの黒いのがクロミだ」


クロミの頭をポンっと軽く叩きながら、ようやく名前を名乗った。名前を聞いた太は小声で二人の名前を呟くと、改めて自分を負かした相手を知った。


「そうか…。クソ…、正直悔しいが、心残りはねぇ…」


焼けただれた右手で両目を覆い隠すと、その熱が伝わったのか目の奥が少しずつ熱くなる。

先程の闘いを振り返るが、これ以上ない全力を出しても完全に負けだ。それが受け止めなけらばいけない事実だ。と、自分を納得させるのに時間はかからなかった。


(昔の俺なら…考えられねぇな。こんなあっさり認めちまうのは初めてだ…)


殴られたら殴り返し、蹴られたら蹴り返す。

決して負けを認めなかった昔の自分が妙に子供っぽく思え、春と殺し合いの喧嘩をした事で精神的に少し成長したのだろう。


「俺の完敗だ…。負けたよ、沢木春」


この言葉を口に出すのに、拒もうとする感情は何一つない。

穏やかな顔で自分の負けを認めると、


「当たり前だろぉが。勝つのは最初から俺って決まってんだよ。まぁ…お前もそこそこ強かったぜ、火野太」


最後まで春らしい言葉で太に応えた。

タイマンが終わった事で、闘いの最中我慢していた煙草を取り出した。ボロボロになっていたが、気にする事なく口に咥え火を着ける。


やはり勝利した後の一服は普段と格別に違い、煙と一緒に体がフワフワと宙に浮きそうな感覚になる。

脳内がリフレッシュされている途中、ふとタイマンの前に話した事を思い出した。


「そういえば火野、タイマン張る前に言った事だけどよ…」


そう言いながら太に顔を向けると、ダメージが蓄積された太の身体は、休息を求めて静かに眠りに就いていた。


「チッ…。最後まで面倒くせぇ野郎だな」


蹴り起こそうとしたが寸前の所で足を止め、耳に嵌めていた小型の通信機で烏天狗に連絡をした。短い会話の間に何度も声を荒げていたが、終盤になるといつものように春が主導権を握っていた。

要件を伝えてると、最後に「いいな?」と脅迫に近い念を押して通信を切る。


「まぁ、こいつが起きてからでもいいか…」


この調子だと朝まで起きそうにない。諦めたようにそう呟くとクロミと静かな夜の中、激闘の爪痕が残る河川敷で烏天狗の到着を待った。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



目を閉じている事さえ解らない状態で、意識だけが目を覚ました。

現実の自分が何処に居るのか、どんな状態なのかも解らない。ただ解っている事は、ここは夢の中だという事ぐらいだ。


暫くすると、目を覆いたくなる程の眩しい光に照らされる。そして映像が流れるように先程のタイマンの記憶が蘇ると、春の実体が創り出され夢の中で再度戦いが始まった。


一挙一動完全に再現され、痛みや感情まで思い出させる程だった。太は夢の中の自分に重なるだけで、ただ視認する事しか出来ず、精神的に二度目の敗北を味わったのだ。

そして段々と意識が現実に戻ろうと浮上し始めた。


すぐに覚めそうな浅い所まで意識がいくと、外から複数の聞き覚えのある声が聞こえてきた。自然と意識がそちらに向くにつれて、その声が騒音になる程大きく聴こえていた。

いつの間にか夢から覚め、見知らぬ天井が太の目の前に霞むように広がっていた。


(ここどこだ?)


自分が今居る場所を、朦朧とする寝起きの頭を使って考えた。


清潔感のある天井に、ベッドに布団。

鳴り止まない話し声、話し声。笑い声。話し声話し声声声声……



「うるせぇぇーーッ!!」



腹筋を使い、勢いよく病み上がりの体を起こしながら、騒音を撒き散らしている方向に向かって叫んだ。


そこにはパイプ椅子に座った春、その膝の上にちょこんと座っているクロミ。それに何故かクロミから伸びる闇の手に、首根っこを掴まれているディアボロスの姿があった。

三人はいきなり叫んだ太の声を聞くと、会話を中断してベッドの方向へ顔を向けた。


「ってて…。テメェらさっきからうるせぇんだよ!普通、人が寝てる側でそんな声の大きさで喋るかよ?!」


この中で一番常識のある太が、ツッコミの如く正論を吐いた。

だが三人ともキョトンとした表情で、聞いているのか聞いていないのか全く解らない。

一瞬静まり返った部屋で、クロミが小さく呟いた。


「あっ、起きた…」


「テメェうるせぇぞ!朝っぱらから叫ぶんじゃねぇよ!」


クロミに続いて、この中で一番常識に欠ける春が怒鳴りちらした。

この男、怪我が治ったばかりの入院患者の指を、楽しそうにへし折る事の出来る猛者である。なので太が思う普通には当てはまらない。


明らかに不機嫌になった春を見て、太は目を丸くした。


(…こいつ、通常時でもこんな感じなのか?)


この時、素直に負けを認めた事を激しく後悔した。あの鬼の様に恐ろしい戦闘時の迫力は、通常時の延長線上にあるだけで、根本的に性格は変わらない事に気付いたみたいだ。


騙されたと思い溜息と共に顔を下に向けた時、自分の両手がふと視界に入る。それを見た時、起きてから全く気付かなかった自分に驚いた。


「左手…治ってる。じゃあここは…」


「病院に決まってんだろ。お前があの場所でノビてたから、仕方なく連れて来たんだよ」


世界中に存在する憑神の中で、当然傷を治す憑神もいる。現代の治療において、保険治療で傷は完全に治してくれる。自費だとかなり高額になるが、欠損部分を回復してくれるのだ。


今回は保険治療で左手のみならず、春との戦闘で傷付いた身体は全て完治していたが、疲労感だけは僅かに残っていた。

テレビに顔を向け直した春の表情は読み取れなかったが、きっと何か思っての行動なのだろう。


しかしそれよりも、起きてからずっと気になっていたディアボロスの状態について尋ねた。


「おい、そいつをどうする気だ?」


「あぁ、こいつか?こいつは勝手に同化するような奴だから、【閻魔】のおっさんに頼んで地獄の一番深い所まで叩き落してもらう予定だ」


もしも引き渡す前に妙な動きをすれば、首輪のように巻き付いている闇が即座に首を捻じ切るという仕組みだ。

だがそれを聞いて、太が納得する筈がない。


「それはダメだッ!そいつは……いや、何でもいいから頼む!そいつを見逃してやってくれ!」


そいつは俺を救ってくれた。

悪魔に救われたなんて滑稽な話で言い出す事が出来なかった。それでも言葉を詰まらせながら春に懇願する。

ベッドに座ったまま頭を下げる姿を見て、春は口元を歪ませほんの少しだけ考えると、


「ん〜、解った。クロミ、放していいぞ」


「あいっ」


素直に言う事を聞いてくれたのは、太にとって嬉しい誤算だったが、春という人物は果たしてこの様な人間なのかと太は悩まされる。


その答えは〝否〟だ。


全ては春の気分で決めている。

少なくとも、太の直談判によってディアボロスは助かった訳ではない。


「くぅーっ、やっと自由になったぜ」


太の思いを知らないまま、首を何度も摩りながら解放される喜びを噛み締めた。

ふわふわと浮かぶと、警戒しているのか畏れているのか、ベッドを間に挟み春から距離をとった。

何事もなく戻ってきたディアボロスを見て、太は頭の片隅にあったタイマンの約束をふと思い出す。


「そういえば沢木、タイマンの約束だが…」


「あぁ、あれやっぱ無し」


「はぁ?」と開いた口が塞がらない。

冗談じゃないと春に太は喰らい付いた。次第にヒートアップして収拾がつかなくなりそうな時、春が話を遮るように太を宥める。


「取り敢えず落ち着け。話はまだ終わりじゃねぇ」


声を荒げず、ただ静かに発した言葉は太を威圧した。

勝負の理由が無くなったとしても、負けた事実は決して無くならない。

鼻息荒く怒りを鎮めると、太は勝者である春の話に耳を傾けた。


「いいか?死ぬかもしれねぇバイトを、タイマンの勝ち負けで決めるのはどうかと思ってよ。だから明日…いや、もう今日か。入るか入らねぇかお前が決めろ。もし入るつもりなら、五時前にこの場所に来い」


至極当然な事を口にした後、春は住所だけが書かれた名刺を太のベッドに放り投げた。

それを手に取った太の頭の中では、夜行の事よりも春が二重人格ではないかと、どうでもいい事を考えている。それ程まで沢木春と言う男の考えが解らない。


「まぁそういう事だ。解ったならさっさと帰るぞ、迎えも呼んであるし」


クロミを膝から降ろし立ち上がると、両手を上に挙げて背中を伸ばした。隅々まで血液が勢いよく行き渡るのを感じ、部屋を出ようと引き戸に近づくと太が声をかけた。


「なぁ、聞きてぇ事があるけどいいか?」


「あっ?」


春が振り向くと、太はベッドの端に胡座あぐらをかき治った左手を触っていた。春に潰された時を思い出しているのか、左手から視線を外さずそのまま話始めた。


「この左手、潰された時今まで味わった事がない程激痛だった。左手以外にもお前の攻撃はどれも容赦なく痛ぇ」


「当たり前だろ、こちとら真面目にやってんだから。少なくとも手は抜かねぇよ」


「それは知ってる。いや、思い知らされた。痛ぇのも当然だけど、明らかに俺よりお前の方がメチャクチャ痛ぇと思うぞ」


心配してくれるなら余計な御世話だが、どうやらそれは違うみたいだ。次第に太の左手に力が入る。


「いや、激痛どころじゃねぇ。何度も燃やして、斬り裂いて、突き刺したが、普通の奴なら間違いなく死んでる筈だ。けど、いくら能力で治るっつっても、何でそんなに痛がらねぇんだ?いや、痛みを感じねぇのか?」


「へー、以外な質問だな」


あのタイマンの中、良く見たなと感心して太に目を向ける。確かに傷が治っても、痛みに耐えきれずそのまま死ぬ可能性はある。大体合ってるが、だからと言って痛覚が無い訳ではない。

春はすぐに視線を引き戸に戻すと、黙ったままゆっくりと銀色の持ち手に手を伸ばした。そして静かにスライドさせ、ただ一言だけ呟いた。


「まぁそりゃ〜…、一回人間辞めたからな」


「はっ、何だそれ?意味解んねぇぞ」


人間を辞めた。確かに太はそう聞こえた。


それは人間らしからぬ言動や行動を指すなら、春は見事に人間の枠から外れているだろう。

変わらぬ口調で春は呟いたが、太はその言葉に潜むおびただしい血と死体を知る事になるのは少し先になる。


「チッ、別にいいだろ。あんま〝あの日〟は思い出したくねぇんだ。…んな事よりさっさと行くぞ」


「…?あの日って…。おっ、おいっ、ちょっと待てよ!」


スタスタと歩いて先に病室から出た春達を、太は小走りで追いかけた。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


まだ病院が営業を開始していない早朝。


大きな窓から射し込む朝日を浴びて、長い廊下の真ん中を二人は堂々と並んで歩いていた。誰もいないこの時間の病院を二人は知らなかったので、少しだけ気が大きくなっているのだろう。


一方のクロミは、二人の後方で宙に浮くディアボロスに手綱をかけ、背中に乗って楽しんでいた。


そんな静かな廊下に足音だけが響く中、春が何気なく口を開いた。


「そういえばお前、親いんのか?朝帰りするドラ息子が居ると親も大変そうだなw」


「あぁ、そうだな…」


面白可笑しく春が尋ねると、何故か少しだけ寂しげな表情になった太から妙な空気が漂いだした。

そんな太を見て、何かマズイ事を聞いてしまったと思った春だが、気になってしまい話を続ける。


「何だぁ?喧嘩でもしてんのか?」


「喧嘩…か。まぁそんな感じだな」


ーー気になる。


正直、ここで話を変えた方がいいのでは?と春は頭の片隅で考えたが、太は何か吹っ切れた様に話を続けた。


「俺、親父と昔から仲悪ぃんだ…。母さんが病気で死んだあの日、親父は病院にも…葬式にも来なかった。そのうえ、暫く経って新しい女と再婚しやがったんだ。それ以来、あの家には俺が落ち着ける場所が無くなっちまった」


仕事で忙しく飛び回る父親と遊んだ思い出は、物心ついた時から記憶の何処にもない。寂しい思いをさせまいと母親は愛情を捧げていたが、突然の病で倒れてしまったのだ。


俯いた太の表情の中には、寂しさと怒りが複雑に混ざり合っていて、なんとか鎮めようと首元のネックレスを握っていた。


「親父達の事を考えると、母さんは一体何の為に、誰の為に生きていたのか解んなくなっちまうんだ…。だから俺は母さんを忘れない為にも、〝母さんの子供〟としてあの家で生きてんだ。そりゃ今はガキだけど、大人になればすぐにあの家から出て行く」


決意に満ち溢れた表情で、太は内に秘めた思いを春に告げる。年頃の少年に付き物の反抗期は、どうやら幼い頃から続いていたみたいだ。


「ふーん。そんなのよくある話じゃねぇか」


「…てめぇ、もう一回言ってみろ!?」


春からすれば、それは何処にでもある話にしか聞こえなかった。だが太は馬鹿にされたと思い、咄嗟に春の胸ぐらを掴んだ。だがその手首を掴み春は力を入れると、太の手は小刻みに震えながらゆっくりと開いていった。


「落ち着けこの野朗。別にその話を馬鹿にしたわけじゃねぇよ。ただ…、馬鹿なのはお前だな」


「あっ?!」


「親に詳しく話を聞いてみれば済む事じゃねぇか。いつまでもウジウジと女々しい奴だな」


いつ殴りかかってもおかしくない太を前に、明らかに小馬鹿にしている。


「テメェにッ!俺の何が解んだよっ!!」


「解る訳ねぇだろ、俺はお前じゃねぇんだ!それと俺に負けを認めたお前は、まだガキのままか?」


春の一言に、一瞬言葉に詰まる。

そして顔をそらした太は、苦虫を噛み締めるように「違う」と答えた。


「なら素直に親と話してみろよ。今からでも遅くねぇんだから」


「…お前に言われなくても解ってんだよ」


再び歩き出した太の背中を、やれやれといった表情で追いかけると、すぐに正面玄関へ到着した。

自動ドアを出ると、正面のロータリーには黒塗りの車が二台停まっていた。その側には着物姿の老人と、スーツを着た男が一人、ジャージ姿の巨漢の男が二人。春の到着を待っていた。


「お、おい、沢木。この人達って…」


「あ?あぁ、知り合いだから安心しろ」


小声で春に耳打ちした太は、不安と恐怖で心臓の鼓動が早くなっている。太の知る限り、あの見た目は明らかに堅気ではない。

春に刃向かった事に対して、これから人里離れた山奥に埋められる可能性を危惧している。

怯える太を余所に、春はその男達に手を挙げ近づいて行った。


「久しぶりッス。しかしジイさん元気だね〜」


「おぉ、春くんか?暫く会わん内に大きくなったなぁ」


春に声をかけた老人は、遠方に住む孫と会うかのように嬉しそうな顔をしていた。


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