0.プロローグ
――母さんっ!
少年は叫んだ。
見渡す限り何もない真っ白な空間の中で、遠ざかる母親の背中に向かい何度も叫んだ。
――待ってよ!母さんっ!
何度叫んでも、幾ら追いかけても縮まらない距離。悲痛に叫ぶ少年の思いは、母の耳には届かず振り向いてもらう事さえなかった。
いつの間にか母親の姿は、白い霧に飲み込まれるように消えていた。
無我夢中で走っていた少年の体力は底をつき、足が縺れその場に崩れるように倒れ込んでしまう。それでも朦朧とする意識の中、消えた母親を探すように右手を伸ばした。
―置いて行かないで…
「母さんっ!!」
大声をあげ現実に意識が引き戻された。
薄暗い部屋で息を荒くして目覚めた春は、無意識に天井に向かって伸ばした右手でゆっくりと両目を隠した。その手で額に滲む汗を拭うと、ゆっくりと上半身をベッドから起こした。
デジタル式の目覚まし時計を確認すると、まだ午前二時を過ぎたばかりだった。
バクバクと鳴り響く心臓の鼓動を落ち着かせようと、左手を胸におき深呼吸して無理矢理呼吸を整えた。
「ったく、あの夢か…」
目を閉じ、さっき見た夢を思い出す。
それは春にとって忘れたい記憶であり、忘れてはならない事実だ。再確認するようにあの夢を見せた自分に対して舌打ちをした。
気持ちを落ち着かせると、隣で寝ているクロミに目を向けた。
「…パス…カルく…ん…」
自分の声で起こしたと思ったが、ムニャムニャと寝言を言っていた。気持ちよさそうに眠っている姿を見て、春は少し安心して起こさないように白銀の髪を優しく撫でた。
ゆっくりベッドから出ると、引っ越したばかりの殺風景なリビングへ向かった。
テーブルに置いてある煙草とライターを取りベランダの窓を開けると、月明かりが部屋に差し込み心地よい夜風が春を包み込んだ。
髪を乱暴に掻きむしり慣れた手つきでタバコに火を着けると、ベランダの手すりにもたれかかって見慣れない街並みを見渡す。
「一人…いや、二人暮らしだな」
半ば強制的に決まった高校入学と自立生活に多少なり不満があったが、祖母から離れられる喜びが強かったのでその時は全く気にならなかった。
しかし、入学式の日が近づくにつれて、面倒くさくなり浮かれていた気持ちが徐々に沈んでいった。
残り少ない自由な時間を、如何に有意義に使うか悩みどころだ。
「明日何すっかなー…」
ため息と共に煙を吐き出し、見慣れた夜空に向かって一人呟いた。




