ぼくの逃亡
私立甲斐凛学園高等学校。それがぼくの通う学校の名前である。総生徒数、六百~七百。詳しくは知らない。吉川さんに聞いたらきっと全生徒数の一の位まで答えてくれるだろう。
部活動は中の下の実力で、偏差値は中の上の実力はある我が校である。そんな部活動と偏差値を平均すると中の中になってしまうこの学校で、そして埃っぽい隅っこの教室で、一人の女の子が高らかに宣言していた。
「いや、よく分からないんだけど……」
その意味を計りかねて、聞き返す。
「ですから、この学校の誰よりも幸せ者になってやるんですよ」
どうやってそんなことが分かるのか、と一瞬尋ねそうになった口を塞ぐ。そうか、この子は幸せの順位がわかるって言ってたんだった。そしてそれと同時にもうひとつのことも思い出す。
「でもぼく、世界ランキング第一位だよ?」
「知っています」
至極真面目な顔で彼女は答えた。
「本当に勝てるの?」
「勝ってみせます。いえ、勝ちます」
「根拠は?」
「ないです。ですがいつか勝ってみせます。そのためにあなたの恋愛を援助してるんですよ?」
いつもは見せない凛とした態度でぼくのほうを見つめる草加さん。墨のように黒い瞳はぼくの目を凝視していて、離そうとしない。そんな目と目を合わせることに慣れてないぼくは羞恥に耐えかね、笑顔を作ってごまかす。
「そ、そうっ。頑張って!」
「どうしたんです川島さん」
「な、なんでもないからっ。ところで、二つ目の課題ってのは何?」
言及されそうになり、直ちに話題を転換。二つ目の課題、それがぼくをここに呼んだ理由かと思っていた。真面目に授業を受けていたとはいえ、気にならないわけがなかった。ここで聞いて、内容を検討するのが十全というやつだろう。
草加さんの顔を伺うと、なにやら苦々しい顔をして、小さな汗を垂らしていた。
「く、草加さん?」
「は、はいっ」
「どうしたの?」
「い、いえ別にっ。その、またまたノープランなんてことは全然なくて、計画性はあるんですが、行動できないだけで別に考えてないわけじゃ……」
「えーと、結論は?」
歩み寄って尋ねる。壁ドン的な。
すると彼女はおどおどとした。
「すいません……。考えてないです……」
「ま、まあまだ時間はあるし、ゆっくり考えればいいよ」
少し泣きそうな表情になってしまった彼女にたじろう。苦笑いを浮かべつつ、声をかける。
「ポジティブ……なんですね……」
微笑しながら言う草加さん。セミショートの髪が少し揺れ、埃っぽい教室に哀愁が漂う。
「そ、そうかな?」
「そうですね。少し立ち止まっただけで、すぐ歩き出せる。それがとても、とても羨ましいです」
「歩き出せるって……。そんな哲学っぽいこと言われても。吉川さんと仲良く話せる分、草加さんの方が羨ましいけどなあ」
「ちゃっ、茶化さないでくださいっ」
顔を赤らめながらそっぽを向いてしまう草加さん。ええっ、そんな茶化したつもりはないのに。まあでも、ぼくは本当にポジティブなのかもしれない。
「ああ……、えっと、ごめん?」
なんだかぼくが悪いような雰囲気だったので、謝ってしまった。すると彼女は、顔色を変えず、
「…………はい」と言った。
「…………うん」とぼく。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
……変な空気が流れてしまった。きまずい。すごくきまずい。
なんとかこの雰囲気を変えなければ。こういう時はあれ、あれだよ。
「く、草加さん」
「は、ははははいっ」
呼ばれ、ビシッと姿勢を正しながらこちらを向く。だが朱に染まった顔はまだ余韻残っているようだった。
「ぼくは教室に戻ってお昼ご飯を食べるよ。明日までに考えておいてね」
棒読みだった。すごく棒読みだった。
「へ?」
気の抜けたような声を発し、きょとんとしている草加さん。
「うん。それじゃっ」
彼女に背を向け、勢いよく、地学倉庫の扉を開き、全力で三階の教室にある2─Aまでダッシュした。
こういう時はあれ、逃げるに限る。




