美魅伽、決意する五
紫織が東幻に帰る頃には、銀狐はすっかり元気に回復していた。厨では李音が銀狐に粥を食べさせていた。美魅伽が側に座っていて、銀狐が恥ずかしそうにする様子を楽しそうに見ている。
「平気ですってば李音様、一人で食べられますから」
「いいからいいから、さあお口を開けて下さい」
李音の輝くような笑みと優しい声音に負けて、銀狐は恥じらいながら差し出されたレンゲから粥をすすった。そこへ紫織が入ってきたものだから銀狐は慌てた。
「あ、姉上様!?」
「おお、だいぶ元気を取り戻したようだな」
「これはその、何と言うか」
「お前は何を慌てているのだ?」
「え? いやあ、その……」
「銀狐君ったら、恥ずかしがって中々わたしのお粥を食べてくれないんですよ」
「きっと李音様の事が好きなんだよ~」
李音に続いて美魅伽が言うと、面白いように銀狐の顔が紅潮した。
「な、何を言うんだ美魅伽! わたしはっ……」
銀狐は言いかけて言葉を飲み込み、もっと恥ずかしそうな顔をして美魅伽から顔を逸らした。
「うん? なになに?」
「な、何でもありません。とにかく食事くらい一人でも出来ますから、あまり気を使わないで下さい」
「まあ、お姉様に似て強情ですねぇ」
李音がにこやかに言うと、紫織は苦笑いを浮かべた。
「一言多いんだお前は、ところで母上たちはどうした」
「紫姫部様は銀狐君が元気になってから白羅と朱子ちゃんと共に妖狐の里へお帰りになりました。銀狐君は紫織様が連れて帰るようにと仰っていましたわ」
「紫姫部様が帰ってからは、あたしと李音様で看病していたんだよ」
「そうか、ご苦労だった」
紫織は弟の前に正座して、よくよくその顔を見た。
「傷の具合はどうだ?」
「まだ痛みますけど、もう大丈夫です」
紫織は銀狐の強い力強い眼差しを見て、安心したように頷いた。
その日、夜も更けた頃、銀狐が寝ている側で紫織は厨の置き机の前に座り、他の族長たちに送る書状をしたためていた。内容は戦姫闘舞の参加規程の変更に関するものだ。行燈の光を頼りにして、墨をつけ、筆を走らせる。
「姉上様、申し訳ありませんでした」
寝ていると思っていた銀狐が突然言ったので、紫織は筆を止めた。
「無様な姿を晒し、時冬の家名に泥を塗ってしまいました。わたしは本当に情けない奴です」
「わたしはそうは思わない」
紫織は止めていた手を動かし、再び書状を書き始めた。
「お前の守った誇りは、失った片腕よりも遥かに尊い。その誇りが、今にお前を導くだろう。そして、お前の生きていく姿が、時冬の家名に光を与えるだろう。わたしはそれを信じて疑わない」
紫織はしばらくして、書状を一通書き終えると、感のこもった声で言った。
「お前はよくやった」
紫織はその後も書状を書き続けた。彼女の背中越しに、すすり泣く声が聞こえていた。夜が明けるころに全ての書状が書きあがった。紫織は銀狐に近づき掛け布をしっかり肩まで引き寄せてやると、泣き疲れて寝ている弟の顔を見て微笑みを浮かべた。
「何でお前までついてくるのだ」
「わたしも紫織様のお役に立ちたいのですよ。それに銀狐君の事も心配ですからねぇ」
風を切って走る荷馬車の御者代から、紫織は荷台にしおらしく座っている李音を見た。李音はいつもどおりの笑顔で飄々としている。美魅伽はそれを見ながら言った。
「李音様って暇なのかな?」
「一応は四季の一人ですから暇と言うことはないと思うのですが……」
そして紫織たちは東幻から妖狐の里に帰った。夕方ごろに時冬の屋敷の前に馬車がつくと、待ち構えていたように白羅が出迎えた。
「今回は色々と世話をかけたな」
「いえ」
白羅は荷台から降りてくる者に目を向ける。その中に李音がいるのを見てけげんな顔をした。
「李音……」
「今日からしばらく紫織様の下で働かせて頂きます。よろしくお願いしますね、白羅」
李音がいつもの笑顔で言うと、白羅はいきなり表情を厳しくした。
「何を言っているの! あなたはこんな所にいていいはずがないでしょう!」
激しい剣幕の白羅に美魅伽と銀狐はびっくりして立ち尽くした。李音は柔和な顔を少し悲しそうに歪めた。
「李音、帰りなさい! 今すぐに帰りなさい!!」
「白羅、察してやれ」
紫織が言うと、白羅は黙ったが、厳しい表情は変わらない。
「お前には李音を叱る資格はないはずだ、分かるだろう」
「……そうでした。差し出がましいことを致しました」
白羅はすぐに平常に戻り、下女たちに命じて荷台の荷物を下ろしたり馬を厩に入れたりとかいがいしく働いた。美魅伽と銀狐には、なぜ白羅があれほどに怒ったのか検討もつかないが、後ろに何か重大な事が隠されているのをおぼろげに感じた。
銀狐は帰るなり人が変わったように勉学に励んだ。左手しか使えないので、最初は文字を書くのにも苦労していたが、必死の練習で大した時間もかけずに左手での書写には慣れた。世話好きな李音がよく勉強を見てくれたのも良かった。
一方、美魅伽は自分と同じく片腕になった銀狐があまりに頑張るので、どんどん置いていかれるような気がして寂しかった。ある時、縁側の日向で二人だけで話をした時にその気持ちは決定的なものとなった。
「右腕がないのは不便ですが、悪いことばかりではありません」
「何かいいことあったの?」
銀狐は心から嬉しいという笑顔で答えた。
「美魅伽の気持ちがよく分かります」
「銀狐君」
美魅伽はぱっと花が咲くように笑った。
「それに、片腕になった事でわたしの気持ちが定まったのです」
「どういうこと?」
「わたしは、ずっと昔から学者になろうと思っていたのですが、絵師にも憧れていたのです。しかし、片腕では絵師は厳しいでしょう。だからわたしは勉学に励むことに決めました」
その時の銀狐の凛々しい面は美魅伽の心に深く刻まれた。これが、自分と同じく片腕を失った少年の姿なのかと、自分との落差に愕然とするほどだった。銀狐が元気になったのは嬉しいが、一抹の寂しさは拭えなかった。
半月ほど平穏な日々が続いた。だが、ある日を境にして美魅伽の周りで何かが動き出した。
この日は朝から穏やかでない客が来た。時冬邸の外門に立つ三人の獣人、東幻の獣人とは明らかに毛色が違っていた。獣人たちは勝手に外門を開けて、近くにいた下女の妖狐に近づいた。
「お前さん、時冬紫織に会いたいんだけどね」
三人の中で一際背の高い女が下女を見下ろした。一九〇近い身長と鋭い眼光に圧倒され、下女は震えて声が出なくなった。そこへたまたま李音と白羅が通りかかった。
「まあ、不穏な三人組がいますよ。ここは一つわたしがびしっと言って差し上げましょう」
李音は颯爽と歩いていって三人組みの前に立った。
「何ですかあなた方は、勝手に入ってくるなんて失礼じゃありませんか」
「なんだいお前はっ!」
長身の女は李音をかっと睨んで怒鳴りつけた。李音はびくっと体を震わせてぴゅっとその場から逃げ出した。
「あらあらあら、これはいけません」
李音は白羅の背中に隠れて言った。
「限界まで頑張りましたが、わたしでは無理なようです。あなたはああいうの得意でしょう、後はお願いしますね」
「何をどう頑張ったのよ……」
白羅は呆れ果てた後に三人の前に進み出た。三人を順に見ていくと、背が高いのは共通しているが、それぞれ特徴があるのが分かる。真ん中の最も背の高い女は猫族と形は似ているが毛のふさふさした耳と先端が筆先のように膨らんだ尻尾を持ち、癖の多い金髪に琥珀色の瞳、体格はむっちりとしていて力が強そうだ。右の女は黒髪に金色の瞳としなやかな体系、左の女は金髪に青い瞳とすらりとした体系で、左右の二人は体つきも雰囲気もよく似ていて、色や模様の違いはあるが耳と尻尾の特徴が猫族と一緒なのも共通していた。三人とも今すぐ戦いでも挑むのかというようないでたちをしている。
―黒豹族、獅子族、猟豹族……。
白羅は西爛を代表する強力な獣人たちを前にきっと表情を引き締めた。
「時冬紫織に会わせろ」
「紫織様はお約束のない方とはお会いしません」
これは嘘だった。白羅は目の前の三人に不穏な空気を感じていたのだ。
「雑魚に用はないんだ。さっさと時冬紫織を呼んできな」
「今言った通りです。お約束のない方はお通しできません」
「もう一度だけ言うよ。もしまた同じ事を言ったら、その綺麗な顔が二目と見られなくなるから覚悟しておきな」
長身の女はにやっと攻撃的な笑みを浮かべ、右の拳を作って力を込めた。
「時冬紫織を呼べ」
「あなたには人語を理解する力がないのでしょうか」
「それはお前の方だ!」
恐ろしい瞬発力で右ストレートが飛んだ。並みの者には拳が消えたように見える程だったが、白羅は目にも止まらぬ速さでその手首を捕らえた。
「なに!?」
白羅の目と鼻の先で女の拳は震え、手首に白羅の五指が食い込んだ。左右の二人も予想外の事態に唖然とした。
「どうかお引取り下さい」
「き、貴様っ!」
李音はおろおろしながら様子を見ていた。一触即発の空気で、李音がもう戦いは避けられないと思ったとき、後ろの方から声があがった。
「やめろ白羅、手を放してやれ」
「紫織様……」
紫織の声を聞くと、白羅は女の手首を放し、紫織の後ろまで下がった。李音もまるで逃げ込むような急ぎ足で紫織の後ろに隠れる。さらに美魅伽と銀狐をはじめ、屋敷中の者が集まってきた。
「はるばる西爛から来るとは一体どんな用件だ」
「ほう、あんたが紫織かい。最強の獣人と謳われる割には華奢だねえ」
「用件は何だ」
「まあそう急くなって、まずは名を名乗ろう。わたしは獅子族のフレイヤ・ローランド」
「猟豹族、アイリー・レイン」
「黒豹族、ファニー・シェルヴァン」
「あたいらは西側の獣人でも選りすぐりの女戦士だ。もちろん、今回の戦姫闘舞に参加するが、風の噂であんたが大会に出ないと聞いたものでね、本当かどうか確かめに来たのさ」
「それは真実だ。そんな事を聞くためにこんな場所まで来たのか」
「あんたが戦姫闘舞に出るのなら問題はなかった。だがそうでないと知った今、このまま下がるわけにはいかないね」
「言っている意味が分からぬ」
「あたいらは戦姫闘舞で東の獣人共を叩き潰し、西の獣人の方が優れている事を知らしめたかった。だが、最強と言われるあんたが出ないんじゃ意味がない。だったら今ここで、あんたとわたしで白黒付けた方が早いだろう」
「つまりはわたしと勝負がしたいと言う事か」
「まさか最強と言われるあんたが逃げたりはしないだろうね」
「逃げはせぬが一つ条件がある」
「条件だと?」
「お前が戦姫闘舞で優勝することが出来たら勝負してやろう」
「何だと、自惚れるな!」
「自惚れているわけではない。ただ、お前たちが戦姫闘舞の意味を理解しているか試したいだけだ。もしそれが分かっていれば優勝する事もできよう。だがそうでなければ東幻の獣人たちに敗れるだろう」
「戦姫闘舞の意味だって?」
「西と東の優劣にこだわっているようでは話にならぬ。よくよく妖魔郷の歴史を学ぶことだな」
「何が妖魔郷の歴史だ! そんなものが戦いと何の関係がある!」
「もう話すことはない、帰れ」
紫織が背を向けると、フレイヤはアイリーに目で合図を送った。瞬間、アイリーは疾駆した。あっという間に紫織との距離を縮めて、紫織の背後から爪を立てた鋭い一撃を見舞った。だが、アイリーの攻撃は外れて紫織の肩を掠めた。狙いは寸分違わなかったが、紫織がわずかに体勢をずらしたのだ。紫織は後ろから突き出たアイリーの手首を取って軽く捻った。次の瞬間、その場で見ていた誰もが目を見張った。アイリーの体が大きく宙に舞い上がったのだ。紫織は手首を放す寸前に更に捻りを加える。アイリーは複雑に回転しながら紫織の前方に吹っ飛んだ。
「うあーーーっ!」
アイリーは植木をなぎ倒し、築地塀に激突してようやく止まった。
「無駄だ、わたしに不意打ちは通じぬ」
フレイヤが呆然としていると、今度はファニーがおもむろに歩いていき、紫織と対峙した。二人が並ぶと、ファニーの方が頭一つ分も大きい。ファニーは紫織と目を合わせて睨み合った。じっと見ている美魅伽の目に幻影が映った。大きな黒豹がファニーの背後から現れ、紫織に今にも食いつこうとした。美魅伽が食われると思った時、紫織の背後からも狐が現れた。ただの狐ではない、恐ろしく巨大で獅子にも劣らぬ鋭い牙を剥き出しにした、もはや怪物である。そして、狐は黒豹を一飲みにしてしまった。
「い、いやあぁぁっ!!」
ファニーはその場に座り込んで恐怖のあまり激しく震えた。
「ファニー、どうした!」
「あ、あああっ……」
フレイヤはファニーの異常に卒然としたが、すぐに紫織に向かって言った。
「ファニーにどんな術を使った!」
「術など使ってはおらぬ、気を合わせただけだ」
その時、あっと美魅伽が声をあげた。先ほど投げ飛ばされたアイリーが、再び紫織の背後に迫ったのだ。
「こいつーっ!!」
アイリーの拳が紫織の背中に当たった瞬間に、紫織の姿が霧散した。アイリーは何が起こったのか分からず、何度も左右を見回す。
「幻だ」
その声がアイリーの耳元で聞こえると同時に、アイリーの体は痺れて動かなくなった。その背中には漆黒の御札が貼り付けてあった。
「夜業呪縛札だ。どうだ、指一本動かせまい」
「う、あ……」
体は動かず、紫織の声がすぐ後ろで聞こえる。この恐ろしい状況にアイリーは冷や汗を流した。
「OKOK、あんたの強さはよく分かった」
フレイヤはそう言いながらアイリーに近づき、背中の札をはがすと細かく破いて捨てた。アイリーは急に体の自由が利くようになって気味の悪そうな顔をした。
「いいだろう、あんたの言った条件を飲もう。戦姫闘舞で優勝してから戦っても変わりはないからね」
フレイヤはいつまでも怯えているファニーの腕を無理矢理引くと、アイリーと共に時冬邸を去った。
「さすがは紫織様です、わたし感動いたしました、もう一生ついていきますわぁ」
「何だお前は、調子のいい……」
「紫織様ったら、そんな冷たい顔しないで下さいよ」
やたらとはしゃぐ李音に紫織はうんざりしたような表情を浮かべた。
「さあみんな、いつまでも見ていないで仕事よ」
白羅が手を叩くと、周りに集まっていた使用人たちはそれぞれの持ち場へ戻っていった。
美魅伽だけは、いつまでもその場に残っていた。美魅伽は紫織の戦いを見て胸に意味の分からない火照りを感じていた。妙に体も沸き立って落ち着かない。そして何故か、以前蒼志から聞いた『人生で最も重要な事は、己の成すべき事を見極める事だ』という言葉が心をよぎった。何でそんな事を思うのかその時は分からなかった。
フレイヤとアイリーは無言で村の中を歩いていく。紫織の実力を目の当たりにして、とても気楽に話を出来る状態ではなかった。が、アイリーはファニーがいなくなっている事に気づいて言った。
「いつの間にかファニーがいなくなってるよ……」
「またいつのも病気だろう」
「放っておいていいのかい?」
「放っておくも何も、どうせ止めらりゃしないんだからね」
「あの紫織でも、ぶち切れたファニーを相手にしたら、ただでは済まないだろうね」
「どうだか」
フレイヤは右の手首を気にしながら言った。アイリーが何となく見ると、フレイヤの手首に手形のあざがついていた。
「フレイヤ、それは!?」
「……あの狼女、借りができたねえ」
フレイヤの脳裏には紫織よりも白羅の方が強い印象となって残っていた。