美魅伽、決意する三
銀狐は診療所から少し離れた場所にある厨に移された。紫織はすぐに妖狐の里へ便りを送り、次の日の夕方には紫姫部が白羅と朱子を伴って東幻へ来た。
紫織は銀狐の額に冷水を絞った手拭を乗せた。厨に来た朱子は、眠りながら怪我の痛みにうなされる兄を見て、今にも泣きそうな顔になった。
「兄上しゃまぁ……」
「大丈夫よ、お兄様はすぐに元気になりますからね」
紫姫部がなだめても、朱子の不安な表情は変わらなかった。銀狐の右腕はなくなり、傷口には幾重にも包帯が巻いてあり、包帯には幾らか赤く血が滲んでいる。変わり果てた兄の姿に、朱子はついに泣き出してしまった。
「あらあら」
紫姫部は朱子を抱き、背中を撫でた。その横で、白羅は正座して膝の上に置いた握り拳を震わせた。白羅は生まれて初めて感じる凄まじい憤怒に、身も心も焼けそうになっていた。紫織はその様子を注意深く見ていた。
白羅は時を見て一人静かに厨を出た。
「待て、どうするつもりだ」
白羅の後ろから声をかけたのは紫織だった。白羅は紫織の言った意味を解して答えた。
「銀狐をやったのは狼族の者達だと聞きました。このまま放っては置けません」
「放って置かないとはどういう意味だ」
「その者達の右腕を奪ってまいります」
その時、外へ水を汲みに出ていた美魅伽が帰ってきてたまたま紫織と白羅の話し合いに遭遇した。あまりにも緊迫した内容に、美魅伽は思わず物陰に隠れて様子を見た。
「周防莱樺も同じ事を言っていたが、わたしはそれを許さなかった」
「わたしは狼族です。同じ一族の者が、あなた様の弟をあのような目に合わせたと知れば、もう黙っているわけにはいきません」
「よせ、益もない事だ」
「たとえ紫織様が止めても、わたしは行きます」
「そうか、決意は固いようだな。ならば仕方がない、このわたしを倒してから行け」
紫織が不意に言ったことに、白羅の表情に驚愕と戸惑いが入り乱れた。
「紫織様、どうしてそんな事を……」
「よく聞け、もし銀狐が時冬の名を名乗ってあのような仕打ちを受けたのならば、それは時冬に対する挑戦だ。お前が行くまでもなく、わたしがその者共を討つ。だが、銀狐は時冬の名を名乗らなかった、名乗れば相手は尻尾を巻いて逃げたであろうが、それなのに銀狐は名乗らなかったのだ。何故だかわからぬか」
沈黙、妖魔郷の冷たい風が吹きすさむ。まるで二人の間に起こる緊迫に感応しているかのように、風は一層強くなり植木や草花がわな鳴いた。
「わたしを侮辱する言葉を聞いた銀狐は、妖狐族の一人として戦いを挑んだのだ、妖狐としての誇りを持ってな。力がない銀狐は言葉で相手を諭そうとした。そして、あのような事になった」
獣人たちにとって、族長は武家社会でいえば城主と同等の存在だった。銀狐はその族長を嘲弄され、命がけでそれを正そうとしたのだ。白羅はたった十二歳の少年の壮絶な覚悟を知って、呆然と立ちすくんだ。
「銀狐はどんなに打たれても、相手に考えを正すように訴え続けたそうだ。男達を討つのは難しい事ではないが、わたしやお前が手出しをしてしまえば、銀狐が守った誇りに傷がつくではないか。だから手出しはならんと言ったのだ。夏月の姓を持つ者ならばそれくらいは分かれ」
白羅は唐突に地面に単座して、紫織の前に頭を下げた。
「いきなり何をするのだ」
「同じ狼族の者として、わたしが出来る精一杯の罪滅ぼしでございます……」
「よさんか、お前が頭を下げる必要がどこにある」
そう言っても、白羅は低頭したまま肩を震わせて泣いた。普段は気丈で涙などまったく似合わない白羅が泣く姿は、紫織の心に深く響くものがあった。紫織は白羅の腕を掴み、半ば無理やりに立ち上がらせた。
「紫織様、申し訳ございません……」
「お前の気持ちはよく分かった、ありがとう」
紫織は泣き続ける白羅と一緒に厨へ戻った。その一部始終を見ていた美魅伽は、胸に染み渡る感情に身を任せて瞳に涙をいっぱいに溜めた。
「銀狐君……」
そして美魅伽は、その涙がこぼれる前に袖で拭い、何事もなかったかのように水桶を持って厨へ入っていった。もうすっかり太陽塔の光は消えて、妖魔郷の静かな夜が訪れていた。
銀狐がある程度回復するまでの間、紫織は全てを紫姫部に任せて各地へ赴いた。まずは馬を駆り、西爛を目指した。西爛を越えた先には、魔族の女王が住まう城があった。女王の名はリアメディア・メルディと言う。三〇〇年前、妖魔たちが人間たちから迫害され、絶望の淵まで追い詰められたとき、新たな世界への扉を開いたのがこの女王だった。その後も妖魔郷で采配を振るい、多くの問題を解決し、全ての妖魔たちの為に尽力を惜しまなかった。妖魔郷の人々は、彼女をいつしか慈愛の女王と呼ぶようになっていた。
紫織が魔族の城に着いたのは、日も暮れる頃だった。紫織が来たのを感じるかのように、十メートルもあろうかという鉄門が重くきしみながら開いていく。門は人一人が通れるほど開いて動かなくなった。紫織は当たり前のようにそこから城へ足を踏み入れた。光沢のある大理石を敷いた広大な通路の左右に、美しい侍女たちがずらりと並んで紫織を出迎えた。紫織が歩いていくと、反対方向から何者かが近づいてくる。二人の距離は縮んでいき、ついには対面するほどまで近づいた。紫織の前に立ったのは、魔族の男だった。癖の強い緑の入った金髪に、母と同じエメラルドの瞳、肌の色は蒼白、眉は女のように細く、三日月のような笑いを浮かべている。金糸で刺繍を描いた服は貴族的で、いかにもすかした感じの男だった。男の名はカンパニュラと言った。
「慈愛の女王様にお会いしたい」
「わかっている。お母様は紫織殿が来ると聞いて楽しみに待っているよ」
カンパニュラの先導で紫織は女王のいる部屋へと案内された。紫織は何度かこの城へ来ているので、案内されるまでもないのだが、どんなお客様に対しても丁重に対応するのが魔族の習慣らしい。
カンパニュラは女王の居間の扉を少し開けると一礼した。
「後でお茶をお持ちしましょう。何がご希望ですかな」
「いえ、お構いなく、用が済んだらすぐに立ちますからね」
紫織が言うと、カンパニュラは、『ではごゆっくり』と言って去った。
紫織が中に入ると、様々な草花の香りが鼻腔をくすぐった。女王の居間の端々には花が入り乱れて咲いていた。不思議なことに花々は床石から直接生えていて、床や壁の中からは水の流れる涼しげな音が聞こえてくる。一段高くなった場所にある奥の玉座に女が座って紫織を見ていた。紫織は部屋の奥まで歩いて行くと、女王の御前で正座をして低頭した。
「まあ、前にもそんな事は必要ないと言ったではありませんか」
「そういう訳にも参りませぬ。あなたはこの妖魔郷の指導者なのです、それなりの礼を尽くさねばいけません」
「紫織は生真面目ですね」
リアメディアは紫織の態度に礼を述べるように微笑む。
紫織は立ち上がり、女王と相対した。リアメディアは緑味の入った金髪を後ろでまとめ、細い眉も顔つきも優しげで、エメラルド色の瞳も見るものに安らぎを与える光を持っている。木々の若葉を連想させるような若草色のドレスを着て玉座に座っている姿は、慈愛の女王という呼び名に相応しい穏やかさがあった。見た目は二十代の女性だがもう八〇〇年も生き続けていると言われていた。
「戦姫闘舞の事ですね」
紫織が用件を言う前に、リアメディアは全てを知っているかのように言った。
「分かっていましたか」
「わたしが余計な口出しをしてしまったばかりに、獣人たちを騒がせてしまったようですね。申し訳ない事をしました」
「いえ、意義深い助言でした。独断に近いですが、戦姫闘舞では獣人以外の妖魔の参加を承服しようと思います」
「まあ! でもほとんどの獣人たちが反対していると聞きましたよ」
「他の族長たちは伝統と言う名の鎖に縛られているだけです。戦姫闘舞の本質から考えれば、今まで東幻の獣人だけしか参加が許されないという方がおかしいのです」
紫織は物思いに耽るように押し黙り、少し経ってから口を開いた。
「妖狐には記憶伝承の術があります。わたしの中にはご先祖様の記憶が今も生きているのです。もちろん、三〇〇年前のあの悲劇の事もです。慈愛の女王様が戦姫闘舞へ全ての妖魔の参加を望んだのはそこにあるはずです」
「……その通りです」
「三〇〇年前、妖魔たちは人間に迫害を受け、次第に追い詰められていきました。妖魔たちは決して人間を傷つける事はありませんでしたが、戦わなかったわけではありません。仲間を守るために、力あるものは人間たちを阻んだ。敵を傷つけずになおかつその攻撃を退けるのは至難だったに違いありません。そんな時に女は戦いに向かないからなどと言っていられません。女も力があるものは戦いに赴きました。そして多くの妖魔が死んでいった。その当時の獣人四季も時冬紅を初めとして4人とも命を落としました」
リアメディアは目を閉じて、静かに紫織の話を聞いていた。いつしかその目元に涙が光っていた。
「三〇〇年前のような悲劇に備える為に女の身でも鍛錬を行う事、そしてあの悲劇を決して忘れぬようにという先代の獣人たちの願い、それが戦姫闘舞の意義です。三〇〇年前の悲劇は全ての妖魔に関した事、ならば戦姫闘舞に全ての妖魔が参加するのは当然と言えるでしょう」
「あなたの考えはよく分かりました。後はお任せいたします」
話が一段落すると、リアメディアは急に嬉しそうな顔をして言った。
「一つわたくしのお話も聞いて頂きたいのですが」
「何なりと」
「人間界にいる娘が帰ってくるのです」
「世恋ならとっくに帰ってきているはずですが」
「その世恋がもう一人の娘を連れ戻しに人間界へ行っているのです」
「なるほど、それで先ほどから世恋の姿が見えなかったのですね。しかし、もう一人娘がいらっしゃったとは」
「世恋とは双子の妹なのですよ。今から顔を見るのが楽しみで楽しみで、帰ってきたらあなたにも紹介しますわ」
「その時は是非」
「あらやだ、わたしったら嬉しいものだから、誰かが来るたびにこの話をしてしまいますの」
紫織はリアメディアがこれほどまでに喜ぶ姿を見るのは初めてだった。八〇〇年も生きる魔族の女王でも、子供と言うものは可愛いものらしい。
「次は吸血鬼城へ行くのでしょう、早馬を貸しましょう」
「助かります」
「それと、ラミーちゃんにたまにはこちらへ遊びに来るようにと言って下さいな」
「はあ……」
「ラミーちゃんはとっても可愛い子なんですの。会いたくてもわたしはここを離れるわけにはいきませんから」
「可愛いですか……わたしは随分手痛い目に合わされましたがね……」
紫織は手痛いと言う辺りから声をぐっと落とした。
「あら、何と言いましたか? 後半の方がちょっと聞きずらかったわ」
「いえ、大したことではありませんので、それでは失礼いたします」