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    芙蓉はなぜ美魅伽に厳しくするのか二

 雨が降っていた。妖魔郷の雨は冷たい。立ち込める暗雲からみぞれのように冷たい雨が妖魔郷の森に降り注ぐ。美魅伽は森の中の道を走っていく。道はぬかるんでいて、靴は泥にまみれ、傘も蓑も無いので、全身ずぶぬれだった。吐く息は白い煙のように宙を漂っては消える。芯から冷え切って体は震え、瞳からは熱いものが流れて止まらなかった。

 時冬紫織は障子を開けて、湯飲みを片手に家屋から雨に濡れる庭を見ていた。庭の片隅に固まって咲いている姫菊の白い花が、雨を受けるたびに揺れた。

「ふむ、雨露に濡れた庭もなかなか風情があって良い」

 庭を見ながら茶を飲んでいると、玄関の戸が滑る音が聞こえた。

「む、鈴も鳴らさずに入ってくるとは無礼な」

 紫織が早足で玄関に行くと、薄汚れた片腕の少女が転がり込んでいたので驚いた。

「美魅伽ではないか、何があった!」

 紫織はすっかり弱っている美魅伽を抱き起こした。美魅伽は紫織の顔を見ると、安堵の微笑を浮かべた。

「紫織様、全部あたしが悪いんです。あたしなんて死んじゃったほうが良かったんです……」

紫織は思いつめた美魅伽の言葉で、おおよその事を察した。

「お前は東幻から妖狐の里まで歩いてきたのか」

美魅伽は問いに答えず、目を閉じてぐったりと体中の力を抜いた。

「いかん、白羅(びゃくら)はいないか!」

「お呼びでしょうか」

 紫織の呼びかけに即座に姿を現したのは、すらりと背の高い銀髪の女だった。白羅は時冬家で女給として働いている狼族の女で、耳は妖狐の紫織よりもずっと小さく、尻尾も短いが、そのどちらにも野生的な力強さがあった。

「すぐにわたしの部屋に火鉢を入れ、寝具の用意をするのだ」

「かしこまりました」

 白羅は美魅伽の姿を見て状況を察すると、足早にその場を去っていった。


 紫織は美魅伽の枕元に座り、掛布を美魅伽の肩まで引き寄せると、火鉢の赤く燃える炭を火箸で掻き回す。ごく小さな火の粉が火鉢から舞い上がった。

 疲れ果てていた美魅伽は、よく眠っていた。紫織が安らかな寝顔を見ていると、襖が開き白羅が入ってきた。

「新しい炭をお持ちしました」

「うん」

 白羅は火鉢に炭を加え、火箸で火の具合を確かめた後、紫織の側に座して美魅伽の様子を伺った。白羅は少女の頃から時冬の家で働いていて、美魅伽は何度か時冬の家に来た事があったので顔は見知っていた。

「芙蓉様のご息女ですね。人間界から帰ってきた事は聞いていました」

「ああ」

 紫織は考え事をしているようで、なま返事をした。それから少し間をあけて言った。

「美魅伽はここまで歩いてきたようだ。東幻から妖狐の里まで、大人の男でも歩いて三日はかかるというのに」

「何かよほどの事があったのでしょう」

「……今はあれこれ考えても仕方がないか。ゆっくり休ませる方が良いな」

「そうでございますね」

「後はわたしがやる、お前はもう下がって良い」

 白羅は頭を下げると、静かに退出した。それから紫織はずっと美魅伽の側についていた。そのうちに火鉢の炭が崩れて微かな音をたてる。冷たい雨はまだ降っていて、静かな部屋に雨音が寂しげに響いていた。


 その夜、またも時冬家に来訪者があった。玄関の鈴が鳴り、白羅が戸を開けると、雨の中、傘を差した猫族の女が立っていた。女はやわらかに会釈をした。

「これは、芙蓉様」

 紫織は芙蓉を茶室に招きいれた。そこは二人だけで話をするのにはちょうど良い場所だった。

茶室は薄暗かったが、行燈のやわらかい光が全体に落ち着きを与えていた。芙蓉は紫織の対面に正座すると言った。

「娘がここに来ていますね」

「はい、今は良く眠っています。目が覚めたらそちらに送らせましょう」

 すると、芙蓉は首を横に振った。想像もしていなかった答えに紫織は戸惑った。

「それは、どういう意味ですか」

「勝手なことを言うようですが、あの子の気が済むまでここに置いてもらいたいのです」

「なぜそのような事を……」

「あの子にとっては、ここに居るほうが良いと思うのです」

「合点が行きませんな。他人の側にいるよりも、実の母親の側にいる方が良いに決まっています」

「紫織の言うことは良く分かりますが、それを押してお頼み申し上げます。美魅伽はあなたを姉のように慕っておりますし、あなたは美魅伽に接する法を心得ております」

「芙蓉様に比べれば、わたしなどは……」

「いいえ、わたくしは駄目な母親です。美魅伽がここに逃げ込んだのが何よりもの証拠です」

 堪え切れずに溢れた涙が、芙蓉の頬を伝った。涙の流れが行燈の炎で赤く輝き、紫織はそれを見てはっと息を飲んだ。

芙蓉は嗚咽しながら深く頭を下げた。

「恥を忍んでもう一度お願い申し上げます。どうか、美魅伽の事をお願いいたします」

 芙蓉の娘に対する思いの深さに、紫織はあっけに取られるほどだった。芙蓉はさらに自分を責めるように言った。

「わたくしを、酷い母親だと、薄情な母親だと、罵って下さい……」

 紫織は芙蓉の手を取って、それを優しく両手で包み込んだ。

「体の不自由なった我が子を甘やかして育てるのは簡単な事です。しかし、それを厳しく育てるのは難しい。どんなに甘い言葉をかけたくとも、心を鬼にしなければなりません。今までさぞお辛かった事でしょう。あなたは立派な母上です」

 紫織に真実を見出され、芙蓉は一層激しく咽びあげた。

「わかりました。美魅伽の事はこの紫織にお任せ下さい。しかし、わたしとて甘くはありません。やもすれば、芙蓉様よりも厳しい面もあるでしょう。もしかしたら美魅伽は潰れてしまうかもしれません。その時はどういたします」

 芙蓉は顔を上げた。涙に濡れた表情は穏やかで、芙蓉の持つ本来の優しさが姿を現していた。

「その時は、片腕のない可哀想な娘として、おもいきり甘やかして育てたいと思います」

 明け方、雨が上がると、芙蓉は妖狐の里を後にした。

 紫織は再び美魅伽の側について様子を見守っていた。熟睡している少女に紫織は囁いた。

「お前は幸せ者だぞ。あんなに良い母上がいるのだからな」


芙蓉はなぜ美魅伽に厳しくするのか……終わり


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