美魅伽修行中!六
「う~ん、おっかしいなぁ」
美魅伽は薄暗いうちから砂袋の前に座って考えていた。砂袋を蹴って動かせるようにはなったが、ただそれだけで、紫織のように縦横無尽に砂袋を操るなどまだまだ遠い話だ。李音から教えを受けてからもう一週間も経っていた。
紫織が小屋から出てきて美魅伽に近づいてきた。
「美魅伽」
「あ、はい、そろそろお米取にいかなきゃですね」
美魅伽は立ち上がって足踏みを繰り返す。毎日、歩いて往復二時間の道のりの屋敷まで走って米を取ってくる修行は続けられていた。最近、美魅伽はだいぶ体力がついてきて、一時間もかからずに戻ってくるようになっていた。
「もう走らなくてもいい」
「え、もういいんですか?」
美魅伽はつらい修行から開放されると思って、あからさまではないが、明るい声に嬉しさが含まれていた。だが、その喜びはとんでもない間違いだとすぐに思い知らされる。
「今まで通り米は取りにいってもらう」
「じゃあ、歩いて行ってもいいんですね」
「そんなわけがあるか、次は屋敷までの道を変える」
「道を変える?」
「ついてこい、すぐに分かる」
二人は歩いて森へ入り、紫織は一本の木の下まで行った。
「わたしの後に続け」
紫織は高く跳んで木の枝に乗ると、枝から枝へと猿のように飛び移っていく。
「うえ、紫織様、待って下さいよぉ」
美魅伽は師匠のようにはいかず、最初の枝はぶら下がってから何とかよじ登った。紫織はだいぶ先の方の樹の枝に立って美魅伽の様子を見ている。美魅伽は手近な枝を選んで跳び移っては落ちそうになってよろけた。片腕がないので平衡を取るのが難しいのだ。そうやってようやく紫織に近づくと、大変な事に最後は枝と枝の間隔が広くなっていた。どう見ても美魅伽には跳べそうにない距離だった。
「うう~」
「何をしている、早く来い」
美魅伽がもたもたしていると、どんどん紫織の激が飛んできた。
「猫族なのに、これくらい跳べなくてどうする」
「そんな事言われても……」
「この程度で怖気づくのか、情けない」
「はうぅ……」
美魅伽が枝の上でごねていると、みしっと不吉に軋む音が足元から聞こえた。
「ありゃ、なんだろ?」
その疑問に美魅伽が乗っていた枝が折れる悲鳴をあげて答えた。
「ふぎゃーっ!」
美魅伽は落下して尻を思い切り打った。それほどの高さではなかったので怪我はないが、尻の痛みが腰骨まで響いてくるようだった。
「痛いぃ……」
「そんな細枝にいつまでも乗っているからだ」
紫織は心配するどころか、軽く怒りながら枝から降りてきた。
「まあ、これで分かったろう」
「分かったって、何がですか?」
美魅伽は尻を押さえながら立って、まるで解していない様子を見せた。紫織は物分りの悪い一番弟子に少し眉を寄せる。
「お前が米を取りに行く新たな道だ」
「え………」
「森の中では枝から枝へ跳んでいけ、地上を歩いていいのは誤って落ちたときだけだ」
「ええぇっ!?」
「さっさと行くがいい、飯が遅くなってしまうぞ」
「無理ですよぉ、修行場からお屋敷の直前まで森じゃないですかぁ」
「無理でも何でもやれ、時間はどれだけかかってもかまわん」
紫織はそう言うと、美魅伽を置いて修行場の方へ歩いていってしまった。美魅伽に拒否権はない。もうこうなったらやるか諦めるかだ。美魅伽は意気消沈しながらも、近くの樹の枝によじ登った。
それから美魅伽が帰ってくるまでに五時間以上もかかった。しかも、ようやく修行場にたどりついた美魅伽の体は傷だらけで、枝に引っ掛けたのだろう服も所々破れていた。
「ご苦労だったな、飯の支度が出来るまで休んでいるがよい」
「はぁい……」
あまりにも疲れきった美魅伽の姿に、さすがの紫織もすぐに修行に打ち込めとは言えなかった。だが、美魅伽は小屋に入るのかと思いきや、砂袋の前に座った。
「ああ……つかれたぁ………」
そんな状態で砂袋を見ると、本当に嫌気が差した。こんなものを蹴るなど想像するのも嫌だった。
「もっと簡単にこいつをやっつけられればいいのに」
そう口にしたとき、美魅伽の頭の中に紫織が砂袋を蹴っている姿が閃きのように思い出された。
―紫織様だって力は大した事ないのに、何でこの砂袋をあんなに簡単に動かせたんだろう。
美魅伽は『よく思い出して考えることです』という李音の言葉を覚えていたので、紫織の演舞の様子を思い浮かべた。それを何度も何度も反芻していくうちに、美魅伽は気付いた。
「そうか、わかった!」
それから五日後の朝、森の中で枝から枝をムササビの如く素早く華麗に乗り移っていく猫族の少女がいた。少女は一気に森を抜けて修行場に降り立つと、小屋の近くで火をたいている紫織に、走ってきて米の入った布袋を渡した。
「はい、紫織様、今日の分のお米です」
「早いな」
「えへへ」
美魅伽は褒められたような気がして、嬉しそうに顔をほころばせる。
たったの五日で美魅伽が米を取りに行く時間が急速に短縮された。紫織は猫族である美魅伽が、すぐにそれくらいやるだろうとは予想していた。だが、もう一つの修行については少しばかり驚かされた。
朝食が済むとすぐに美魅伽は砂袋の前に行った。紫織は河岸に座って昼のおかずを手に入れるべく釣り糸を垂らしていた。彼女は美魅伽の修行の様子がいつもと違うのにすぐに気付いた。遠目からでも砂袋が大きく動いているのが分かった。近づいて見ると、美魅伽は紫織が最初にやってみせたのと同じように、砂袋を蹴って前後左右、自在に動かしていた。紫織がしばらく見ていると、美魅伽は正面から向かってくる砂袋を両足で踏みつけるように蹴ってその動きを止め、そこからバク宙して着地した。美魅伽は振り返り、褒められるのを待つ子供のような得意げな笑顔を見せた。
「正直まだまだ時間がかかると思っていたが……」
紫織は腕を組んで弟子を見下ろす。そこには教師が生徒をこれから詰問するような趣があった。
「聞くまでもないと思うが、この修行の意味が分かったろう」
「にゃ?」
「……よもや、分からぬのか?」
「修行の意味って言われても、あたしは紫織様がやってたのを思い出して、その通りにやったら出来ちゃいましたよ」
「……説明した方がよさそうだな」
紫織は砂袋の前に立つと、神武拳の構えになり、右の拳を脇まで引いた。
「まず最初の一撃だが、この砂袋は猫族や妖狐族、程度の力ではそう簡単には動いてくれない。特に美魅伽は猫族の中でも小柄な方だから余計だったろう。ならばどうすればいいのか、答えよ」
「それは、攻撃に自分の体重を加えるんですよね」
「そうだ、お前の場合は跳び蹴りに全体重を乗せていたようだが、慣れれば立ったままの突きや蹴りでもある程度までなら体重を乗せられる」
紫織の拳が砂袋にめり込む。細身の女の一撃で、重い躯体が後退した。
「体の小さなお前が敵を倒すためには、これを覚えねばならん」
砂袋が傾いだ状態で静止して、今度は殴られた恨みを晴らすがごとく紫織に向かってきた。
「ここからがもっと重要だ。力というものは出てしまうと止め難いが、出る直前なら簡単に流れを変える事ができるのだ」
紫織が襲ってきた砂袋をよけて足を高く上げる。
「振れた砂袋ならば、逆方向へ戻りかけたところに、戻ろうとする方向へ打撃を加えてやれば、さらに大きく動く」
紫織の言葉通り、戻りかけたところに蹴りを受けた砂袋はブランコのように前に押し出された。
「それを応用して砂袋をいとも簡単に動かしているように見せていただけだ。分かれば簡単なことだ」
紫織はさらに戻ってきた砂袋を掌底で止めると、美魅伽を見て言った。
「力は放たれようとする時に流れを変える事が出来る。それが分かればいい」
「はい、分かりました!」
美魅伽は敬礼して調子のいい返事をした。紫織はその姿を見て何だか心配になった。
「本当に分かったのか?」
「大丈夫ですよぉ」
「……まあいい。とにかく、これを実戦で使えるようにならなければな」
「どうすれば実戦で使えるんですか?」
「次の修行を見事に果たせたら教えてやろう」
紫織は愛弟子を連れて小屋の前の広場に立ち、そして言った。
「次の修行は簡単だ。このわたしに一発、攻撃を当てれば終わりだ」
「へ? 一発でいいんですか?」
「そうだ、どんな形でもいい、ただの一撃、当てればいいのだ。正し、使っていいのは足だけだ、手は絶対に使うな」
「分かりましたっ!」
紫織は開手を作った両腕を大きく上下に開いて構えた。
「どこからでも来るがいい」
美魅伽は形だけは神武拳の構になり、師匠と向かい合った。
―修行して少しは強くなったんだから、いくら紫織様が相手でも一発くらいならすぐだよ。
美魅伽はすぐにその考えが間違いであることに気付いた。紫織と向かい合った状態だと体が動いてくれなかった。山の如く静かに動かぬ紫織から、本能が危険な香りを嗅ぎつけたのだ。森で鍛えた素早さで紫織の周りを跳び回ってみるが、横に行っても後ろに回っても、本能は変わらず警笛を鳴らす。熟練した武道家なら、まったく隙がないと口にするだろう。そういう事が分からない美魅伽は、何が何だか分からずに焦った。
―とにかく攻撃しなきゃ始まらないよ!
美魅伽は意を決して一番当たりそうな背中に向かって蹴りを出した。そして半瞬後、体が引っ張られるように感じたかと思うと、今度は急に軽くなって景色が動転する。
「あぐ!」
美魅伽は地面に背中を打ちつけ、視線は永遠の曇り空に向かっていた。寝たまま天を仰ぐように頭を傾けると、変わらず構えたまま立っている紫織が見えた。
「な、何が起こったの?」
美魅伽はむくりと起き上がり、腑に落ちない顔で紫織の前に回った。何が起こったのかどうしても確かめたかった。
「えいっ!」
今度は後ろ回し蹴り、美魅伽の踵が紫織の側頭部に迫る。紫織はそれを頭を後ろに引いて寸前で避け、同時に美魅伽の足首を掴んだ。
「あっ、掴まれたあぁぁぁっ!?」
紫織が掴んだ足首を捻ると、美魅伽の意思とは無関係に小柄な体が横転する。美魅伽はまた背中を打って咳き込んだ。
「何でこんな簡単に、まるで魔法みたいだよ」
「魔法ではない、理合だ」
再び起き上がる美魅伽、今度は不用意に攻撃を仕掛けなかった。どう攻撃しても当たる気がしない。師とただ対峙しているうちに時間が過ぎていった。
「一発当てるまでこの修行はいつまでも続く。攻撃せねば始まらんぞ」
「うう、こうなったら……」
美魅伽は下手な鉄砲も数うちゃ当たるという諺を思い出して、やたらめったら紫織に仕掛けた。蹴っては投げられを飽くことなく繰り返す。当然すぐに疲れて黒猫少女は大の字に寝そべった。
「あうぅ、当たんないし体中痛いよぉ……」
「まあ、こんなものか」
紫織が構を解いて美魅伽に近づいた。その時だった、美魅伽が疲れを吹き飛ばしたかのように跳ね起きて、左手の爪を立てた。美魅伽のぎりぎりの状態で巻き起こった気迫が紫織の動きを止める。
「はあぁぁっ!!」
美魅伽の左手の突きは紫織をぎくりとさせるほど鋭かった。岩をも裂くであろう猫爪の一撃、紫織はさっと体を横にして、爪が擦過したときに道着を裂いた。紫織の両手が美魅伽の手首を掴み、その手を内側へ織り込むように捻る。
「愚か者め! 手を使うなと言っただろう!」
掴まれた手首を中心に美魅伽の体が勢い良く半円を描いて地面に叩きつけられた。
「ぎゃふっ!」
美魅伽はその衝撃で気を失ってしまった。
「………今のは、蓮花猫影爪裂か」
紫織は美魅伽を背負って小屋に入り、弟子を布団の上に寝かせると、胸についた道着の裂け目を触った。
「蓮花拳をまったく知らぬ美魅伽が、蓮花拳の技を……」
美魅伽の中に流れる鬼才、春来芙蓉の血を紫織は確かに感じた。
紫織は愛おしげに美魅伽の髪を触り、実の妹を見るような目をした。
「う、ん……母様……」
「今はどこまでも母上の背中を追うがいい、春来の子よ」
美魅伽修行中!……おわり




