表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/104

其の一 芙蓉はなぜ美魅伽に厳しくするのか

「さあ、美魅伽、これを持ちなさい」

 翌朝、芙蓉は美魅伽を連れて、庭先に出ると、美魅伽に竹箒と塵取りを渡した。美魅伽は右腕がないので、箒を左手に持たせて、塵取りは下に置いた。

 美魅伽は、助けを求めるような顔で、母親を見上げる。

「朝食まで、庭の掃除をしなさい。片腕のあなたに全てをやれとは言いません。出来る限りでかまいません」

 芙蓉はそれだけ言うと、屋敷に戻っていった。庭に取り残された美魅伽は、言いようのない寂しさを覚えた。美魅伽が人間界から帰ってきてから、芙蓉は一つも優しい言葉をかけてくれなかった。美魅伽を決して甘やかさず、片腕を失う前と同じ厳しさで接した。美魅伽は辛くて仕方がなかった。

 美魅伽は、片腕で掃除をする気力が起きずに、縁側に座って虚無な時を過ごした。

 芙蓉は朝食の支度を終えて庭に出ると、無気力に座る娘を、酷い悪戯をした子供をこれから叱るような目で見つめた。

「掃除もせずに、そこにずっと座っていたのですね」

「だって……」

「片腕では掃除など満足に出来ないとでも言うつもりですか」

 美魅伽は逃げ道を塞がれたような気持ちになって俯く。芙蓉は厳しい表情を変えずに続けた。

「何もせずに最初から諦めるなんて、自分が情けないと思いなさい」

「ふうう……」

「泣いても誰も助けてはくれませんよ」

 美魅伽が俯いて泣きべそをかいていると、そこへだっと那魏が奥の部屋から走ってきた。

「母さん、美魅伽は右腕のない不自由な身なのよ。無理に掃除なんてやらせなくてもいいじゃない」

「あなたは口を出すのではありません」

「どうしてもっと優しくできないのよ」

「それは昨日言ったはずです」

 母親のきっぱりとした態度に、那魏は言葉を返せなくなった。

 芙蓉は憎しみのこもった那魏の視線を気にもせずに美魅伽に言った。

「今日だけは許しましょう。しかし、明日もこのようなていたらくであれば、朝食を抜きにしますよ」

 食事も美魅伽にとって苦痛だった。母の厳しさがとにかく際立つ。芙蓉は元来厳しい母親だったが、美魅伽に接する態度は以前となにもかわりがなかった。だが、美魅伽が右腕を失くし、不自由な体になったために、同じ厳しさでも前よりもずっと厳しいように感じてしまうのだ。

 畳の居間に三つの善が用意されていた。美魅伽と那魏は並んで座り、芙蓉は二人の前に正座した。朝食には炊き立ての玄米に味噌汁、そして菜の葉のお浸しや小魚の焼いたのが3匹と、質素で素朴なものだった。

 芙蓉は、美魅伽が食べるのに苦心しているのを見ても、決して手を貸さなかった。救いだったのは、美魅伽が最初から左手で箸を使えた事だった。

「左手でお箸が使えるとは、誰に躾けられたのですか」

「えっと、人間界でお世話になった友達に」

「そうですか。よい人間に出会えたのですね。そうでなければ、あなたはここへ帰って来ることは出来なかったのかもしれませんね」

美魅伽は左手しか使えないので、思うように食が進まない。見るに見かねて那魏が言った。

「わたしが食べさせてあげるよ」

「姉様」

 美魅伽は姉の顔を見上げて、ぱっと笑顔を浮かべた。だが、芙蓉はそれを許さなかった。

「余計な手出しをしてはいけません。食事の一つも一人で出来ないようではお話になりません」

「なんなのよそれ、このままじゃ、美魅伽はいつまでたっても食べ終わらないじゃない」

「一時間かけても二時間かけてもかまいません。いいですね、美魅伽」

「はい……」

 美魅伽は喉に締め付けられるような痛みを感じ、目頭が熱くなってきた。しかし、泣いたところで芙蓉は哀れんではくれない。俯きながら泣くまいと気張っていた。

 どうにか食事が終わったと思えば、次は勉強である。筆を左手で使わなければならないので、まずは文字を書けるようになる事から始めなければならなかった。芙蓉は五十音や簡単な漢字を美魅伽に書かせた。慣れていない左手で文字を書くのは至難で、美魅伽は何度も同じ文字を書かされた。その間も芙蓉の態度は突き放したようで、母親らしい優しさは一切見せなかった。

 勉強が終わっても、芙蓉は買い物やら何やらと、美魅伽に用事を言いつけて、出来るだけ何かをさせるようにした。美魅伽にはそれが、ただこき使われているようにしか思えなかった。

 何もすることがなくなり、ようやく休めるようになると、美魅伽は縁側の日当たりの良いところに行って、横になってただぼーっと考え事をしていた。そのうちに眠くなり、かすんでいく意識のなかで、美魅伽は言った。

「エリシュ、会いたい……」

 それは、美魅伽が人間界に迷い込んだ時に世話になった人間の少女の名前だった。エリシュ・マリンと言い、不思議な力をもった英国人の少女だった。エリシュは片腕でボロボロだった美魅伽を受け入れ、優しく包み込んでくれた。母の厳しさとは真逆だった。今ではもう消滅したが、人間界には妖魔を食い物にする組織があり、美魅伽はその組織に狙われていた。エリシュは仲間と共に組織の刺客と戦い、美魅伽を守り抜き、その末に美魅伽は妖魔郷に帰ることが出来たのだった。


 翌朝、前の日と同じように、芙蓉は美魅伽に箒と塵取りを渡し、庭を掃除するように言いつけた。

 芙蓉が朝食の用意を終えて庭に出ると、美魅伽は昨日と同じように掃除もせず縁側に座って黒い雲がひしめく上空を見上げていた。

「また掃除をしていないのですね。罰として食事を抜くと言ったのは覚えていますね」

「いいもん、いらないもん」

 美魅伽が母から目を逸らして反抗的に言うと、芙蓉の右手が美魅伽の手首を掴んだ。掌の温かな熱とざらついた感触が美魅伽をはっとさせた。芙蓉の右の掌には、無数の古傷がついていた。ざらついた感触はその古傷が与えるものだった。美魅伽は許しを乞うような目で母を見つめる。芙蓉は残りの手で近くに立て掛けてある箒を取り、美魅伽の左手に握らせた。

「さあ、掃除をなさい」

 美魅伽は箒を持ったまま動かない。すると、芙蓉の目が険しくなった。

「何をしているのですか! 腕の一本がなくなったからといって、掃除もすることが出来ないのですか! そんな事で世の中を渡っていけると思っているのですか!」

 美魅伽が妖魔郷に帰ってから、母が初めて発する激昂だった。美魅伽は突然の事に、何が起こったのか分からずに呆然となった。芙蓉はさらに厳しくたたみかけた。

「今はいいです。あなたを助けてくれる人はいくらでもいます。しかし、たった一人で生きていくとなったとき、どうするつもりですか? 世の中は片腕だからといってあなたを助けてはくれません。たった一人で生きていくものと、覚悟をなさい! 一切の甘えを捨てなさい!」

「うぅ~っ……」

 美魅伽は泣くまいと耐えた末に、そんな呻き声を出し、そして止め処なく涙を零した。それでも芙蓉は冷たく言い放った。

「泣いている暇があるのなら、落ち葉の一枚でも掃いて塵取りに収めなさい」

 芙蓉はどこまでも厳しかった。美魅伽は泣きながら、母に対する悲しみを抑えて、片腕で無気力に庭の落ち葉を掃き集める。その時、那魏が素足で庭に飛び出し、芙蓉の前に躍り出た。美魅伽は、まだ寝巻きを着た露な姿の姉を濡れた瞳で見た、その瞬間だった。那魏はびゅっと空を切る音を残し、平手を芙蓉の頬に食らわせた。柔らかな皮膚を打つ音が、美魅伽の耳に悲痛な余韻を残した。頬を叩かれた芙蓉は、長女の顔を何事もなかったように見返した。

「いい加減にしなよ、何で美魅伽をそんなに苛めるんだ!」

「あなたはお黙りなさい、一切手出しをしないようにと言ったはずです」

「ふざけるなっ! 美魅伽はあんたの娘だろう! 何でもっと優しくしてあげられないんだ!」

「あなたがどう言おうと、何も変わりません。わたしは今までと同じように美魅伽に接していきます」

「そうかい、あんたの気持ちはよく分かったよ。片腕の美魅伽が邪魔なんだな。あんたは春来の体面を保つ事だけを考えているんだ。不完全になってしまった美魅伽を追い出そうとしているんだ!」

「那魏、本当にそう思っているのですか」

 那魏が反駁しようと口を開きかけたとき、悲鳴のような叫びがそれを遮った。

「もうやめてーっ! あたしの為に喧嘩しないで!」

 美魅伽は二人の言い争いに耐え切れず、蹲って泣いていた。芙蓉は美魅伽に近づき、塵取りにいくらか枯葉の入っているのを見た。芙蓉は美魅伽と同じようにしゃがんで、震えているか細い娘の肩に手を置いた。

「やれば出来るじゃありませんか。さ、朝食にしましょう」

 何気ない母の言葉だったが、美魅伽にはそれが例えようもなく嬉しかった。だが、那魏にその気持ちは伝わらなかった。那魏の目には、ただ形式的に美魅伽を褒めているようにしか見えなかった。那魏の母に対する憎悪はいっそう大きく膨らんだ。彼女は妹のことを思うあまりに、真実が見えなくなっていた。


 芙蓉の厳しさはいつ何時も変わらなかった。美魅伽はそれには耐える事が出来た。しかし、芙蓉と那魏の対立には激しく心を痛めた。那魏が自分のために必死になっているだけに、心の痛みは一層深いものになった。一週間、二週間、一ヶ月と時が経つごとに、那魏の母に対する憎悪は深くなり、終いには母と一切口をきかなくなってしまった。美魅伽は、姉と母の仲を裂いたのは自分せいだと責任を感じて、悩んだ末に置手紙を残して春来の屋敷を出た。手紙を最初に見つけたのは那魏だった。手紙には次のような事が書かれていた。

『母様、姉様、ごめんなさい。全部わたしが悪いんです。わたしさえいなければ、春来のお家は安泰です。わたしは遠くで春来の繁栄を祈っています。どうかわたしの事は心配しないで下さい』

 それは、普段の美魅伽からは想像できない大人びて小綺麗な文章だった。短い手紙だが、美魅伽がどれほど深く傷ついていたかが、手に取るように感じられた。那魏はそれを読み終えるやいなや外に飛び出した。しかし、一日中探しても美魅伽を見つけることはできなかった。


 さて、美魅伽は一体どうなるのであろうか。物語を綴る前に、どうしても妖魔郷について話さねばならない。長くなるが、これだけは割愛するわけにもいかないのである。

 妖魔郷は妖魔たちの住む世界である。住人の約九割は獣人で、獣人にも狼族や獅子族、妖狐族など、実に様々な種族が存在する。見た目は人間とさほど変わらず、違いは動物の耳や尻尾が付いているくらいである。

次に人口が多いのは魔族だ。魔族の容姿は人間とほとんど変わらない。ただ、血液中に緑色の血球が存在していて、それが体の色素に様々な影響を与える為に、瞳や髪の色が実に豊かである。人間と交わる事もあり、稀に半人半魔が生まれる事もある。寿命は非常に長く、四百年から長生きするものでは八百年も生きる。緑色の血球には外界からエネルギーを取り入れるという働きがあるので、基本的に食事は必要ないが、お茶は好きなようだ。

3番目は吸血鬼(バンパイア)である。説明するまでもなさそうだが、彼らは永遠の命を持ち、滅多なことでは死なない。それどころかどんな深手を負っても、心臓以外ならば即座に再生するのだ。全ての妖魔の中で特に抜きん出た能力を持っていて、プライドが異常に高く、人間を毛嫌いしている。魔族と同様に人間と交わる事もできるが、なにしろ人間が嫌いなので半人半吸血鬼が生まれる事は滅多にない。これ以外に有翼人などどれにも属さない妖魔もいる。全ての妖魔に共通して言えることは、人間を遥かに上回る能力を持っているということである。

人間の世界が表だとすれば、妖魔郷は裏の世界である。太陽はなく、上空には常に厚い黒雲が蠢いているので、空が何色だかは不明だ。水だけは豊かで、化石水と呼ばれる地下水がいくらでも出る。何よりも特徴的なのは、吸血鬼と魔族が協力して作った太陽塔という高さ千メートルもある長大な塔である。天辺には太陽と似た光を放つ球体がある。太陽塔は東西南北の四箇所に配置され、妖魔郷を朝から夕方にかけて照らしている。これは言うまでもなく太陽と同じ役割を果たし、妖魔郷の生命線とも言うべきものだ。それがどのようなシステムであり、どのように出来たのかなど、魔族と吸血鬼の超科学に常人の考えなど及ぶはずもなく、説明は不可能である。とにかく、その四つの太陽搭を中心にして森が広がり、塔に近くなるほど気温は上がり、熱帯雨林のような森になってくる。離れれば離れるほど気温は下がり、一番外側の森は寒さに強い樹木ばかりになるので、塔の近くとはまるで様子が変わる。妖魔たちはそれぞれ適した気候の場所に住むことができるのだ。ちなみに吸血鬼は太陽塔の光がほとんど届かない森のさらに外側の岩肌だけの土地に城を構えている。

妖魔郷の森の広さは北海道ほどもあり、東西にそれぞれ大きな都市がある。東の都市を東幻と言い、西の都市を西爛と呼ぶ。東幻は長屋や屋敷などが立ち並び、いかにも古き良き日本という風情の町並みだ。そこには主に東洋系と華系の獣人たちが生活している。春来家の屋敷はこの東幻にある。対する西爛はレンガを敷いた通りや西欧風の建築物、教会などもあり、さらに町外れには魔族の女王がおわす洋風のお城まである。住んでいるのは魔族と西洋系の獣人たちである。

太陽塔などという大仰なものがありながら、生活様式はいたって素朴で、洋風か和風かという違いはあれど、三百年前からなんら変わっていない。飯を作るのも風呂を沸かすのも薪、書き物と言えば筆か羽ペン、明かりと言えば行燈かランプ、一番早い乗り物は馬、といった具合である。妖魔はどの種族においても欲が少なく、必要以上のものは望まないのだ。普通に生活ができればそれでいいのである。故に人間のように行き過ぎた利便性を求めるような事はない。これで妖魔郷の全容を少しはお分かり頂けたであろう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ