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最初のお話

 春来芙蓉(しゅんらいふよう)の前に、齢十四になる黒い猫耳の少女が正座していた。短髪に大きな蜂蜜色の瞳がいかにも少女らしく可愛らしい猫娘で、牡丹の柄が入った朱の着物に黄色の帯を巻いていて、着物の下から黒い尻尾がのぞいている。

 芙蓉は人間界から戻ってきた娘の姿を見て愕然とした。美魅伽(みみか)の右腕がひじ上あたりからなくなっていたからだ。

 母の前で端座している美魅伽は、母に対する言葉を見つけることができずに下を向き、頭部の対になった黒い猫耳を寝かせ、後ろに垂れている黒い尻尾は硬直して動かない。母の驚愕、悲しみなど、種々混ざり合った感情を肌で感じていた為だった。

 その隣に同じく正座して芙蓉と向かい合う時冬紫織(ときふゆしおり)は、腰まで伸ばした銀糸のような髪に、頭に生えた銀毛に覆われた尖った狐の耳が映える美しい女だった。紫に白い雪の結晶の模様が鮮やかな着物を着て、その上に地面に付くほど長い銀色の尾を持っていて、それを自分の周囲に円を描くように置いている。それは見る者を引き込む妖美な絵になっていた。

 紫織は額が畳に付くほどに深く頭を下げた。

「美魅伽は見ての通り、右腕をなくしてしまいました。全てはわたくしの至らなさ故にございます」

 紫織は一切の言い訳はせず、全ての責任を被ろうとしていた。芙蓉はそれを見抜いた。

「いいえ、紫織には何の非もありません。妖魔郷の禁を破り、人間界に出てしまった美魅伽が愚かだったのです。ただそれだけです」

 美魅伽は、母の厳しい言葉に息が詰まるような思いをした。右腕をなくした自分にお母様はきっと優しくしてくれる。美魅伽はそんな期待を抱いていたが、母の態度はそれとは余りにもかけ離れていた。美魅伽は悲しくなり、涙が滲んできた。泣くまいと堪えても、涙は止まらなかった。

「ふぅ、ううっ……」

「美魅伽、泣くのではありません。泣いて何になるというのですか。あなたには、泣くよりも他にすることが山ほどあるはずです」

「あうぅ……」

 美魅伽は下を向き、畳の目に点々と涙の染みが広がっていく。芙蓉はそんな美魅伽に、さらに厳しく言った。

「美魅伽は春来の名を持つ者、甘えは許されません。片腕になったからと言って何も変わりません。わたしは今まで通り厳しく躾けていきます。そのように心得なさい」

 芙蓉が言うのとほぼ同時に、紫織の後ろ側にある障子戸が横に滑った。部屋を隔てた廊下に、芙蓉や美魅伽と同じく黒い猫耳と黒い尻尾を持った、年のころ十七、八ほどの娘が仁王立ちしていた。黒髪を肩上まで伸ばし、膝上までしか丈のない紅色の着物を着ていて、見るからに快活そうな娘だが、今は長細い瞳孔を光らせて、憎々しげに芙蓉を見下ろしていた。

「そりゃあないでしょ母様、美魅伽は人間界で散々恐ろしい目に合って、やっとの思いでここに戻ってきたんだよ。それなのに、優しい言葉の一つもかけられないのかい、何て薄情な母親だ!」

那魏(なぎ)

 芙蓉は長女の名を言って見つめた。その瞳の奥底には、深い思慮を映す光があった。芙蓉は目で何かを語っていた。だが、那魏はそれに気付く事ができなかった。

「何も言わないんだね。母様は美魅伽を一族の恥にしたくないだけなんだわ」

 芙蓉は悲しげに目を細め、そして静かに目を閉じた。那魏はそれを逃げたと受け取った。

「何が春来の者だ、笑わせるな! そんな名前の為に片腕を失った美魅伽を苛めるのなら、名前なんて捨ててしまえ!」

「やめんか那魏!」

 怒号を発したのは紫織だった。紫織は立ち上がり、那魏を睨みつける。那魏は否応なしに恐怖を感じて、足がすくんだ。

「母親を愚弄するとは何事か」

「だって、母様の態度を見て紫織様は何とも思わないの?」

「表面だけで物事を見るな、もっとよく考えるのだ」

 那魏は腑に落ちない顔のまま、紫織から視線を外す。

「紫織もういいわ、こんな家族の言い争いにあなたを巻き込んでしまっては申し訳がない。もう妖狐の里に戻ってお休みなさい。やらなければならない事だって山積しているのでしょう」

「そうさせて頂ましょう。しかし、帰る前にもう一つだけ申し上げる事がございます」

「何ですか?」

「人間界にあった妖魔狩りの組織は壊滅いたしました。数人の人間と半妖が妖魔(われわれ)に協力してくれたのです」

「何と、そういう事でしたか。最近、妖魔郷に人間界から多くの妖魔が、まるで難民のように流れ込んできていると聞きます。その組織の消滅と何か関係があるのでしょうね」

「間違いないでしょう」

 紫織は、『では』と言って、席を立つと、去り際に美魅伽に言った。

「いい加減に顔を上げろ」

 美魅伽が涙でくしゃくしゃの顔を上に向けると、紫織は優しい微笑を浮かべた。

「芙蓉様のおっしゃる通りだ、泣いても何も変わらぬ」

 紫織は手を伸ばし、美魅伽の頭をなでる。

「大変な事も多いだろう。だが気をしっかり持つのだ」

「紫織様……ありがとう……」

 美魅伽は、よく聞き取れない掠れた涙声で言った。紫織は一つ頷き、そして春来の屋敷を去っていった。


 その昔、今よりも三〇〇年も前の話です。妖魔たちはほんの一部の人間と関わり合い、人間の世界で平和に暮らしていました。しかし、特別な力を持つ妖魔たちに恐れを抱く人間もいました。

 そして、悲劇が起こりました。心根の悪い人間達が、妖魔たちを追い出そうと戦いを挑んできたのです。恐ろしい事に、そんな事が世界中でほとんど同時に起こりました。まるで悪い人間達が、共鳴したかのようでした。

 妖魔たちは人間とは決して戦いませんでした。逃げて逃げて、ずっと逃げて、世界の果てまで逃げ続けたのです。その間に、たくさんの妖魔たちが人間に殺されました。

 生き残った妖魔たちは、自分達の行く場所がなくなり、絶望しました。そんな時、魔族の女王が、妖魔たちに新たなる道を開きました。妖魔たちは人間には決して行く事の出来ない世界に移り住みました。妖魔たちはその世界を妖魔郷と名づけ、たくさん、たくさん、大変な思いをして、長い時間をかけて新しい世界を作ってゆきました。そして、再び平穏な日々を送る事ができるようになったのです。



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