第二日目:不審な記録
普段通りの目覚めと、普段通りの朝食……
彼がスコーティア・ギルドより依頼を受けた翌朝は、そんな普段の日常通りに始まった。
彼が日常からやや外れた日々を送ることになったからと言って、周囲の人々にとっては平凡な日常が訪れたに過ぎない。
出仕途上の路地の上でそんなことを思い、彼は我知らず苦笑を漏らす。
* * *
そうして、何時もの通りに神殿へと到着し、何時もの通りに自分の診察室に入る。
今日の診察の準備を進める内に、二人の助手――フローリアとカロネアが次々と診察室へとやって来る。そして、 今日の診察が始まった。
普段の通りに……忙しくもなく、暇と言う訳でもない程度に、患者が診察室を訪れる。そして、訪れる患者達を、彼は次々と診察し、適切な治療を施して行く。
一頻り診察が進み、訪れる患者が途切れた時、ふとした拍子にアリッサの口から言葉が漏れた。
「……そう言えば……昨日、ここに担ぎ込まれた女性なんですけど……」
「…………どうしたの……?」
アリッサの漏らした言葉に、傍にいたフローリアが短い問いを投げかける。
「……寮で、施政院に務めてる子から聞いたんですけど……
あの女性を撥ねた暴れ馬に乗っていた人……騎士団第九番隊の隊舎に勾留されているらしいですよ……!」
フローリアの問いに勢い込んだ様子でアリッサは言葉を並べる。
「……そうなの……?」
「…………(……まったく……施政院の見習いが、寮内でそんな話を興ずるとは……)」
勢い込んで話す後輩の娘の言葉に、フローリアは目を丸くして驚きの声を漏らした。しかし、そんな二人のやり取りを横目に見ながら、彼は密かに憮然とした溜息を漏らした。
だが、そんな彼の様子を気付くことなく、二人の会話は進む。
「えぇ……何でも、乱心して騎馬を暴走させていたらしくて……」
「そんな……乗り手が乱心って……よく取り押さえられたわね……」
「それがですね……!
その場に十番隊の隊長閣下が行き会っていたらしくて……見事な槍技で騎乗していたその人を叩き落として取り押さえたらしいですよ……!」
「……それは凄いわね……流石は“虹の魔槍士”と呼ばれるレイン様ですね……」
「…………そうだな…………(……騎士隊長が、何をしているんだ……)」
知人の娘(レイン=コアとリア)の活躍を話題に盛り上がる二人に対して、彼は呆れ混じりの憮然した思いに小さく溜息を吐いたのだった。
そんな雑談の中で、僅かばかりの休憩時間は過ぎて行き、患者の診察が再開されるのだった。
* * *
やがて、時が朝から昼へと移り変わり、昼食の休憩が終えた頃に、アリッサから声がかかる。
「あ!…………あの……セスタス師……すみません……」
「ん?……あぁ、今日は講義の日だったか……」
「はい……そうなんです。すみませんが、席を外させて頂きたいんですが……」
「構わんぞ……しっかりと勉学に励むと良い……」
「はい!……では、行ってきますね!」
彼女らしくないおずおずとした様子で伺いを立てたアリッサに対して、彼はあっさりとした口調で快諾の言葉を返す。そして、彼の返事を耳にした彼女は、元気の良い返事とともに診察室を飛び出して行った。
そんなアリッサを、彼――セスタスと先輩たる女神官――フローリアは微笑を湛えて見送ったのだった。
診察室を飛び出したアリッサが向かった行き先は、セオミギア大神殿学院……その大学部である。
アリッサ本人は、高等部を卒業して大神殿薬院に属する神官見習いであり、既に学院生徒と言う訳ではない。しかし、薬院の務めを果たす為の薬師としての知識や技術を修得している訳でもない。
勿論、“彼”――セスタスに師事することで医療の技術を修得しているが、それでも知識を充分に身に付けられるとは限らない。
そこで、専門知識の修得を補完する意味も込めて、各院の見習い神官は必要な知識に関する講義を聴講する権利が与えられている。
今日は午後から、薬学に関する講義が行われることになっており、アリッサはこの講義を聴講しているのだった。
アリッサが診察室を立ち去った後、彼は診療簿を整理しつつ、もう一人の助手たる女神官――フローリアへと声をかけた。
「……今日は、アリッサも講義で席を外したことだし、診察を切り上げさせて貰う……他の薬師へはそう伝えておいてくれ……」
「…………は、はい……」
少し困惑気味に、彼女から返事が漏れる。そんな彼女に向かって、彼は言葉を続ける。
「……少し調べたいことがある……急を要することがあるのなら、薬院の書庫にいるから、そこへ使いに走ると良い…………」
「…………!………分かりました……」
診療簿等の机の整理を終え、彼は席を立って診察室を後にしようとする。その間に、何か気付いた様子でフローリアは一瞬息を呑み、それを取り繕う様に穏やかな声で了解の言葉を返したのだった。
そんな彼女の返答を背後に聞きつつ、彼は自分用の診察室を後にしたのだった。
* * *
診察室を出た彼は、院内の回廊を進んでとある一角へと辿り着いた。
そこは“薬院書庫”――過去の診療簿や医学書等と言った薬院に関する書類や書籍を保管する場所である。
古くなって、現在は直接利用することが少なくなった物であれば、書院の“大書庫”へと移されることになるが、普段使用される書類・書籍の類が保管されている。
そんな“薬院書庫”に入室した彼は、入り口に控える書庫管理を務める神官に一言声をかけた後に立ち並ぶ書棚の間を進み、一隅に収められた一群の書類を手に取った。
その一群の書類――その表題には『薬品管理簿』と言う文字が並んでいた。
彼はそれらの書類を書庫内の机の一つに置き、再び席を立って別の書棚へと歩を進める。そして、最近の『診療簿』の類も取り出し、机に置いた。
「……さて、始めるか……」
そう小さく呟くと、彼は書類の頁を捲り始めた。
* * *
「……う~む……これは……」
幾許かの時を費やした彼は、睨み付けていた『薬品管理簿』の内容に声なき唸りを漏らした。
彼が目を通したここ数ヶ月の薬品――特に魔薬“レスドウィーネ”やその原料となる幾種類かの薬草・薬品類の消費量が増加している様に見受けられた。それは、そうと考えて見なければ分かり難い程度に徐々に増加している。
しかし、『診療簿』等の書類で確認できる薬品使用量と突き合せれば、それなりの誤差が生じることが見て取れた。
薬院が調合・所蔵する“魔薬”は、多くを魔法の使い手である魔法院所属の神官へと処方されている。
その魔法院では様々な魔法の研鑽を行う為に、数々の魔法の実験や試験的な術式の施行等が行われている。であるが故に、魔法院では大量の魔力を消費することになり、それを補填する意味で、所属神官への“魔薬”の処方は日常的と言える程に行われている。
だがしかし、『薬品管理簿』と魔法院付神官達への『診療簿』等を突き合せると、『管理簿』で出て行った“魔薬”の行き先である筈の神官等の『診療簿』に処方の記述が書き込まれていないと言った箇所が見受けられた。
また、『管理簿』と『診療簿』の受け入れの上では辻褄が合うものの、一般的な魔薬の処方量の観点から見て、不自然に過剰な投与量や投薬頻度となってしまう記述の箇所を発見するに至った。
これらの記述が示すのは、薬院が貯蔵する魔薬――“レスドウィーネ”を横流しする為に書類を改竄した可能性である。
「…………う~む……」
探していた筈の物とは言え、自分の属していた組織の者がこの様な不正を働いていたと言う事実に、彼は思わず眉を顰めた。
* * *
さて、時と所は移る。
時は、その日の夕刻……
所は、“神殿都市”南西部――下町と称される区画の片隅にある一軒の酒場……
その酒場の隅にある卓の席に、彼――セスタスはその腰を落ち着けていた。彼の前には、安酒の入った杯と、軽い食事が並んでいる。
薬院での仕事――裏の仕事も含んだそれ――を一段落させた彼は、早めに大神殿から帰路に着いた。とは言え、そのまま自身の宿に帰る気にもならず、夕食を摂る意味合いも込めて、馴染みの店の一件に入ったのだった。
今日の午後の間行った書類の調査で、大神殿薬院で魔薬“レスドウィーネ”の横流しが行われていることはほぼ間違いがないと思われた。
とは言え、大神殿薬院に属する神官や神官見習い達……それに、協力する客分薬師達と言った大神殿薬院の者達は、総じて人の生命を尊ぶ心根を持っている……筈である。
迂闊に扱えば人の精神も身体も崩壊させかねない魔薬を、裏社会の者へと横流しする様な者がいると言うことを、彼は内心では信じたくないと言う想いが燻っていた。
そんな鬱屈した想いを安酒と共に呷って呑み下し、疲労で鈍る心身を慰めんと皿に盛られた軽食を口に運ぶ。
何処か苦みを帯びた面持ちで夕食を口にしている彼の対面に、一人の男が席に着いた。席に着いた男の姿を一瞥し、彼は僅かに眉を顰めた。
「…………何をしに来た……?」
「どんな感じなのか……調べ物の手応えを、少々確認にな…………その様子だと、何か掴んだか……?」
彼の不機嫌な様子を、暫しの間窺う様に見詰めた後、探る様にして言葉を紡ぐ。
男の言葉に、眉間の皺を深くしつつ、彼は胡乱な視線を男――“蛇の目”に突き刺す。そして、素っ気ない口調で短い言葉を返して見せる。
「……怪しい記録は、見付けた……ただ、何者かの特定はまだ出来んがな……」
「流石、仕事が早い……」
不機嫌さを窺わせる返答に対し、比較的軽い口調で男は言葉を返す。そうした言葉を紡いだ後で、近くを通った給仕の娘に酒と軽いつまみを注文する。
了解の言葉を返した給仕の姿を暫し見送った後、男は再び彼への言葉を紡ぐ。
「……で、何かこちらで協力することは、あるか……?」
男の問いかけに、彼は一時思案気な様子を見せつつ杯に口を付ける。そして、杯を卓に置いて、男への言葉を返す。
「…………記録を見た限り、お前が言っていた通りなのは窺える。
だが、詳細はもう少し調べてみんことには、まだ分からん……」
「……なるほど……な……」
彼の返答に男は短い言葉を返した後、給仕の持って来た酒杯を受け取る。そして、受け取った杯に口を付ける。
それだけの言葉を交わした後、二人は黙々と酒杯を呷り、皿に積まれた料理を口へと運ぶ。
両者の間に暫しの沈黙が漂っていた後、不意にセスタスより言葉が漏れる。
「……何か進展があれば、符号を送る……」
「……分かった……期待している……」
そう言葉を交わした後、両者はそれぞれ席を立ち、卓に各々の飲代である数枚の硬貨を置く。
そして、男――“蛇の目”は酒場から夜闇の中へと消えて行った。そんな男を横目で一時見送った後、彼は自らのねぐらへの帰路に着いたのだった。