前編
この世に抗えない何かが存在していることを、高瀬 実優は知っている。抗わない方が円滑に生きられることも、抗えばどうなるのかも、齢14まで成長すれば悟っている。
教室は油絵独特の匂いに満ちていた。
実優はクーラーがあってよかったと心底ほっとした。猛暑の昼という時間帯、窓を開けても、吹き抜けるのは生ぬるい風だからだ。
美術準備室という名がついているものの、教室は資材倉庫のようなものだった。
かつて普通教室だった場所は、余分な画材や資材、誰のものとも知らない美術作品の置き場になっている。居住者だった机と椅子は数個窓際に置かれているのみになり、黒板も教卓も使われないままだ。資材がどかどかと積み上げられているせいで、さながらランダムに置かれたオブジェか、要塞を守るための壁になっていた。
その資材バリケードの内側で、実優は楕円形の蓋を開けた。小さな弁当の中身は、ふりかけが掛けられた飯と、おかず数種に、デザート一種。母親が作るものはそれなりに彩りが良い。
けれど、おかずの中に唐揚げが3個入っているのに気づき、実優はまずフォークでそれらを刺した。有無を言わさず、フタに退かす。
(お肉は入れないでって言ってるのに)
太る要因の肉を、実優は食べたくなかった。身長は同い年の少女と大差ないが、全体的に脂肪がなく色白なので、実身長よりも高く見られる。ポニーテールを下ろすと色素の薄いストレートになる髪が、自分では好きだった。
だから肉は極力つけたくない。細いね、可愛いねと言われれば嬉しいし、これ以上、一キロだって太りたくないのだ。
それなのに母親は、育ち盛りは食えとばかりに肉類を入れてくる。白飯も少なくして出してほしいと言っているのに、「小食はいけない、体に悪い」の一点張り。弁当の中身を残すと何か言われるので、最近は肉をすべてティッシュに包んで、学校のゴミ箱に棄てていた。
もしここが部室だったら、唐揚げを誰かが食べていたのかも知れない。クーラーはなくとも窓を全開にして、扇風機を強にして、描きかけのキャンバスを見ながら、みんなで他愛ない話をしていたのかも知れない。例えば、昨夜放送されていたドラマの話。夏休みに行われるライブの話。今朝に配られた進路調査票の話。とりとめのない話を、チャイムが鳴り終わるまで。
教室内のスイッチは切っているのに、昼放送のBGMがどこからともなく聞こえてくる。一足早くグラウンドに出てきた男子生徒たちのはしゃぐ声も耳に届く。外は茹だるような暑さだろう。当たり前だ、今は夏なのだから。
「早く過ぎればいいのに」
知らず、独りごちた。
賑やかな音楽と笑い声、活気に満ち溢れている外に対して、大層ネガティブな呟きだった。
記憶の中の夏は煌々と輝いているのに。
実優が体現している夏ときたらどうだろう。じりじりと追いつめる日射しのせいで、外に出るのも億劫になっている。夏が近づくのにつれて比例していた気持ちは、今や反比例して、夏が早く過ぎればいいとさえ思っている。
まるで突きつけられているようだ。考えたくない進路。不機嫌になるだけの汗ばむ気温。過ぎればいいと思っているのに、このまま惰性で大人になるのが気に食わない。世界は苛立つものばかり溢れている――成長させようとする母親も、無理やり進路を考えさせようとする教師も、微笑むふりをしている上辺だけの友人も。
顔をしかめたのは、夏みかんのスライスの食感が酸っぱくて生ぬるくなっていたからだった。
「夏なんて、―――」
しかし。すべて言い終わることなくその呟きは掻き消された。前触れもなく開く、扉の音によって。
場に響いた音に、実優はびくりと体を震わせた。
普通の生徒なら、準備室は鍵が絶対掛かっていると思い込んで扉を開けてこなかった。ましてや、昼休みが始まったばかりの今の時間、ニス臭いこの部屋にひきこもる教師もいない。物音ができるだけしないよう、実優は心掛けていたつもりだった。
フォークを持ったまま、恐る恐る振り返る。ブロック塀の隙間から向こうがわを覗こうとして――あろうことか、その隙間の一角で目が合った。ぎょっとして声を出すのが遅れた実優とは対照的に、こちらを見て一瞬目を見開いた人物。次の瞬間には、もうずかずかと乗り込んで、ブロック塀を挟んだ反対側に立ちはだかっていた。
「なんでここでメシ食ってんの、お前」
とある小動物と同じ名前を持つ少年は、開口一番、何かに注目した。
「それにその肉。残してんじゃん」
「なに」
短く返すほかなかった。驚きと、見られたくない相手に遭遇したのと、どうして見つかってしまったのかという恐れが混ざる。蓋の上の唐揚げを目ざとく見つけられ、結果、苛立った表情として顔に出た。
同じクラスという以外に、実優はこの少年と――そもそも同じ年の男子に興味のないので、男子の誰とも接点を作ろうとしていないのだが――接点がなかった。
クラスの女子が「名前と違って犬みたいだよね」と形容していたのを思い出す。男子女子ともに分け隔てなく接する少年。社会人の姉が一人いるらしいと聞いたことがある。よく言えばムードメイカー、悪く言えばお調子者で目立ちたがり屋として、彼はクラス内の立ち位置に居た。
「高瀬ってさあ」
ところがどうだろう、今聞くその底なしの明るい声は、真意が掴めず実優を不安にさせた。
「いつも部室で食べてんじゃなかったっけ。別のクラスの奴らと」
ずばり指摘され、返事の代わりに眉を顰めてしまう。実優がどこに行くのか耳にしたことがあるのだろう。実優はいつも昼休みを美術部の部室で過ごしていた。クラスを出るときは、まわりにいつもそう言って出かけていった。だが、ここ数日、実優はこの美術準備室でひとり弁当を持参して食べている。クラスメイトには、いつも通り部室で食べると言って。
「――ああ。あれか。女子同士のモメ事」
少年はその間に流れた空気を読まず、さらりと言ってのけた。
「こっえーよなぁ女子って。うち姉ちゃんいるから分かるけど。裏でねちっこいとことかさぁ」
「宇佐木くんには関係ない」
堆く積み上げられた、資材の塔が揺れた。かっとなって勢いよく立ち上がったために、視界が揺れ動いたからだった。
「知らないくせに」
場面が浮かぶ。実優の腕に鳥肌が立った。
きっかけは、日直だからと早めに部室を出たことにあった。忘れ物に気が付いて途中で引き返し、部室のノブを回そうとしたところで、聞いてしまった。中から響いてきた声に驚いて、手を離していた。 誰のことを言っているのか分からなかった。さっきまで実優の話すことに笑顔で答えてくれていたし、早く出て行く実優にまたねと言ってくれた。
もしかして、今まで笑いかけてくれていたのは、嘘だったのか。にこにことしながら、腹に何かを抱えて、本人のいないところでそんなことを話されていたのか。
「知ってほしくない。あたしが誰といるかとか――なにを残したとか――どこにいるとか、なにが嫌いで、なにが好きかとか、そんなの」
周囲に平静と言われ、自分でも感情をあらわにしないと思っていたのに、今の実優は声を荒げていた。
「そんなの、あんたに知ってほしくない!」
この世に抗えない何かが存在していることも、抗わない方が円滑に生きられることも、14年生きていた中で知っている。成長すればするほど悟ってしまうもので、抗えば生きにくい世の中というのも最近は分かっている。けれど、この状況が抗えないものだとしたら、この先どうすれば良いのだろう。会話を聞いてしまっても、今まで通り笑って話せるものだろうか。いや、できない。胸が押し潰されそうになる。だから、実優は昼時、この場所に居ることを選んだのだ。
「へえ」
泣く寸前の目で睨まれ、さらに見下ろされているというのに、この闖入者の少年は退かなかった。
「主体性も喜怒哀楽も無い奴と思ってた。高瀬、逆切れ出来んだ」
間が空いたのは、実優がその大人しい部類に入る外見にもかかわらず、声を荒げたことにあったからだと思ったのだが、どうやら彼の興味は別の観点にあるようだった。
「『春夏秋冬、あしたもよろし、ゆうべもよろし、すなおに咲いて白い花なり』――ってやつ?」
呪文のような言葉の羅列を聞いて、はっと我に返った。今更ながら、実優は少年とかなりの至近距離で対峙していたことに気が付いたのだ。少年の瞳は実優のそれよりもすぐ下にあった。女子平均身長の自分よりも、少し背が低い。彼が犬だの兎だのと形容される所以は、もしかしたらこの身長から来ているのかも知れない。ごく僅かな時間で、冷静に考えてしまう自分がいた。
「けどさあ、その態度。おれが告げ口しなくても済むような言い方って考えねえの。死活問題なら尚更」
実優は睨んだまま押し黙った。事実を告げられれば、この空き教室は鍵が掛かることになり、実優の昼休みの行き場がなくなる。拒絶して機嫌を損ねるより、『どう言えば告げ口されずに済むか』考えたほうが、つまり媚びる方が得策だと、暗に言われるようなものだった。
どうしてこんな奴に見つかってしまったのだろう。そもそも、弁当を食べ終えたら いの一番にグラウンドに駆け出していくような少年が、どうしてこんな場所に来たのだろう。話好きなこの少年のことだ。きっと尾ひれをつけられてほかの男子に話される。
「脅してるの」
すかさず少年の手が伸び、蓋に退けておいた唐揚げがその口に放り込まれる。
「まさか。たすいちで」
もしかしたらムードメイカーは表の顔で、素顔はそんな飄々とした性格だったのか――彼は実優のそんな懸念も吹き飛ばす、快活で能天気な笑い方をしてみせた。
「チクるわけねぇじゃん。こんな面白い隠れ家」
+1で――ひらがな四文字で聞こえた単語を理解するのに、数秒かかった。
ふやけた夏みかんのスライスしか口をつけずにいた弁当は、もう食べる気が起きなかった。
***後編へ
掲示板で募集した「題名から短編を考えます企画」第一弾です。
補足や舞台裏などはまた後日。