ヒグラシの鳴く頃に
9月中旬、神崎佑司は、金沢美大の校舎を訪れていた。
学内はまだ夏休みの真っただ中だったが、校舎内には多くの学生が滞在しており活気に満ちていた。
8月、神崎は一度実家である広島に戻り家族に将来の進路について改めて相談していた。最大の問題となっていたのは、学費と生活費であった。
だが、この問題、意外なところから解決方法が出てきたのだ。
神崎が勤めている中学校では後期の時間割を決めるとき、非常勤講師から優先的に時間を決めることになっていたのだ。従って、大学院に通いながら今の中学校で働き続けることも十分可能性としてできた。
中学校の校長には実家に帰る前に秋から美大に月1回通うことを伝え、その日に授業が入らないように日程を組んでもらった。進学についてはまだ話してはいなかった。
そして、お盆に実家に帰った時には、父親とは、学費の問題で話し合った。
救いは、公立の大学ということで、そもそも私立よりは格段に安いこと、そして入学金、授業料が無料になる可能性があることだった。従って、結論はとりあえず受験してみようということになったのだ。
神崎の職場の中学校は9月から後期の授業が始まっていたが、大学の授業の開始は10月からだ。
志方教授に秋から演習への参加する旨をメールで伝えた所、それまでに作品を制作するようにとの返信が来た。
画材等については学内で購入できるとのことで一度構内を見に来たら良いとの提案があった。ちょうど油絵の具がなくなりかけてきたとき、ついでと思って中学校の授業が終わりそのまま、大学へと車を走らせたのである。
校舎内には駐車場はなかったが真向かいに県立の図書館があり、広大な敷地の駐車場があった。
神崎はそこに車を止め、美大の中を確認しつつ画材を買いに行く。
途中、いくつもの工房があり、多くの学生が作品作りに励んでいた。
その様子を神崎は興味深げに見ていく。学校の規模が小さく、生徒も少人数のため、専攻を超えて、様々な科の生徒が集まる共同工房もあった。
その中の一つの工房の中だった。
最初に神崎に気が付き声を上げたのは前田加奈だった。
広い室内は冷房が効いていたが、前田は汗だくになってプラスティックの素材で何かを作っていた。息抜きのため顔を上げたとき、興味深げに皆の制作風景を見ていた神崎に気が付いたのだ。
すぐさま前田が駆け寄る。
「神崎さんなんでここにいるんですか?」
そんな前田の質問に神崎はすぐに返答できなかった。
「いや・・・あの・・・画材を買いに・・」
「画材?そんなの街中でも買えるでしょう?」
「まあ、そうなんだけど」
そんな神崎の雰囲気を察したのか前田が、話題を変えた。
「明日、私一日流行さんのとこにいるので、来てください」
「何で、お前流行の所にいるんだ?」
「私今、あそこでアルバイトしてます」
「アルバイト?!」
思いがけない返答だった。
「じゃあ、頑張って画材買ってきてください!」
そう言って、前田が自分の作品の所に戻っていった。
「あ、ああ」
前田の元気な掛け声に押されて、神崎はそのまま売店へと直行したのである。
が、実は神崎は今流行右司の画廊に行くことに少々ためらっていたのである。従って実家から帰ってから今まで一度も店を訪れていなかったし、さらに流行とも連絡を取っていなかったのだ。
原因は、田畑の死であった。
田畑が自宅で倒れた後、その日の夜流行と連絡を取った。返事は、手術は無事に終わったとのことだった。
安心して眠りについた二日目の朝、もう一度流行から電話が入った。
「田畑さんが昨夜なくなりました。先ほど奥様から連絡が来ました。先日の絵の制作の話はキャンセルになります。今日の夜、通夜が7時から行われます。迎えに行きますので準備をお願いします」
淡々とした口調だった。
「流行、どういうことなんだ!」
神崎の怒鳴り声が部屋の中に響く。
「喪主は夫人です。あまり感情的にならないでください。それでは」
そう言って流行が一方的に電話を切ってしまったのだ。
神崎は急いで玄関に行き、床に落ちている朝刊を拾い、紙面を広げる。
お悔やみ欄の下に、大きなスペースで田畑の通夜と葬儀の広告が掲載されていた。
神崎の頭に血が昇るのは当然であった。
流行なら当然田畑が亡くなることは最初から知っていたはずだった。
それなのに、二日前連絡をした時、手術は成功したと神崎に伝えたのだ。
何故、あの時言ってくれなかったのだと怒りがこみあげてきた。
その日一日中悶々とした中、夕方喪服に着替え、玄関先に立っていると、流行の車が路地から入ってきた。
神崎が無言で隣に乗り込む。
その様子をちらりと見た流行が言う。
「知っていたら、今の感情を夫人の前で演じることはできますか」
「お前はどうなんだ」
「私はいつも冷静です」
神崎は何も言い返せなかった。
通夜の席で二人は連れだって夫人に挨拶をする。
夫人の様子は、夫の突然の死に対して悲しみに浸る余裕もなく、必死に葬儀を滞りなく終わらせることで精一杯の様子だった。
そのまま、二人は流行の車へと向かった。
「話がある。説明しろ」
駐車場に向かう道すがら、神崎が流行に言う。
「店の中でかまいませんか?」
「もちろんだ」
そう言って二人は車へと乗り込んだ。
すでに時刻は9時近くになっていた。店の奥にある駐車場に車を止め、二人は画廊へと向かった。
流行がポケットから鍵の束を取り出し、ドアのカギを開ける。
入口付近に店内の照明のスイッチがいくつかあり、流行がそれを押した。
灯りは一番奥の机のある場所のみが明るく照らし出した。
流行がスーツのボタンをはずしながらそのままスタスタと歩き出し、椅子に座り、神崎を見上げ、指を組む。
「話とは?」
神崎は机を挟んで流行を見下ろす。
「最初っから分かっていたんだよな」
「田畑社長が脳卒中で亡くなるということですか?」
「ああ」
「もちろんです」
「だったら何故そのことを教えてくれなかったんだ」
「何故、君に教えなければいけないのですか?」
「それは・・・」
流行の問いかけに神崎は窮した。
そして考えた。もしあの時、前田を自宅に送りその帰り道、あの時に、確かにあの時しかなかった。その時にこれから会う田畑が花束の人であること、そしてその二日後に脳卒中で亡くなることを教えてもらっていたら、自分はどうしていただろうか。
田畑の自宅に行き、写真を見る。そう、月曜にも例会があった。その時に少なくとも芝居を見ることはできた。
強引に田畑を説得して、月曜日の昼、田畑を野々市まで連れ出すことができただろうか?
その時、流行のあの言葉を思い出した。
―私の大切な顧客です。下手に動けば、顧客を一人失います。
どうしても、流行の協力が必要になる。
神崎は流行を見る。
「何故、二人を会わせようとしなかったんだ」
「もともと、二人は会うことのない運命でした。日野さんは金沢に来て花屋に行き、そこで終わり。田畑さんも火曜日のあの時間に脳卒中を発症しました。もし、私たちが関わらなかったら田畑さんは気分が悪いと言ってそのまま寝室に向かっていました。奥様が発見したときはすでに亡くなっていたはずです」
「会ってもよかったんじゃないのか?」
「会わせるための動機をあなたが知るのは次の日、月曜日ですよ」
「昼から、午後4時に変更になったのは」
「田畑さんの提案です。4時に自宅に帰る。その時しか彼に会える機会はもう残されていませんでした」
「じゃあ、なぜ俺たちに協力したんだ?俺に絵を描かせようとしたんだ?」
「日野さんの写真を見ました」
「つまり、あの写真を見るまで彼女のことは分からなかったのか?」
「そういうことになります。神崎君、君が日野さんに会うこと、そしてその後私と共に田畑さんに会うことは分かっていました。もちろん、田畑さんが日野さんと会っていたことも私が田畑さんと直接会っていましたので分かっていました。ですが、日野さんに関しては姿形の認識はできても彼女の人生は私にはわからなかったことです」
「あのインスタントカメラで撮った写真を見て・・・」
流行がこくりと頷いた。
「彼女は・・・すでにオーディションは終わっていますが、今回結果は不採用です。ですが、その後、違う役での出演の話が出てきます。人生の大切なターニングポイントでした」
「大丈夫なのか?つまり、彼女がその役をやるってことは誰かがその役を失うことになるんじゃないのか?」
「神崎君、冷静に考えてください。それも決まっていたことです。ですから、私はあなたに彼女には田畑さんに関しては何も伝えないようお願いしました。あなたは、無事彼女には花束の人が仕事を続けてほしいと願っているとだけ伝えたので、それでよかったのです」
「じゃあ、あの時、写真を見終わった時の帰りに・・・」
神崎の思考は完全に混乱していた。
「田畑さんに再度会って、その日の夜の例会を野々市まで車を飛ばして見に行く。いいですか、彼は社長なんですよ。月曜の夜、仕事が終わりそのあとスケジュールが空いていると思いますか?」
「じゃあ、なんで田畑さんの自宅に行くことを手助けしたんだ!」
その問いかけに対して流行が静かに神崎を見つめた。
その視線を見て神崎の脳裏にあの言葉が思い浮かぶ。
人ではないものを司る。
まさか。
「まさか、お前、田畑さんに日野さんの未来を伝えるために・・・・」
「そのとおりです」
「じょうだんじゃない!死に際の人間の最後の願いが、あったこともない腹違いの妹に対する気遣いか?もっと、大事なこと伝えたいだろう!」
「大切なことととは何ですか?」
「それは・・・・今後の会社のこととか、残された家族に対する思いとか、いろいろあるだろう!」
「再度言います。私たちが関わらなくとも、田畑さんは家族に何も伝えることなく亡くなっていました」
「じゃあ、日野さんの方はどうなんだ!」
「彼女に芝居を続けてほしいと願っているのは田畑さんだけではありません。彼女は一度実家に戻りますが、ご家族、それはお母様しかいませんが、ご家族に説得され、さらに劇団から連絡があり、東京に戻ります」
「じゃあ、俺たちがしたことは何だったんだ?」
「人生に色を添えるとでも言いましょうか。それに、あなた方二人、神崎君と前田さんにとっても、何も知らずにいるよりはよいのではないのですか?」
「つまり・・・・俺たちのためだったのか?」
「まぁ・・・冷静に考えれば、結論はそうなりますね」
そう言って流行は黒のネクタイの胸元を緩めながら大きく息を吸った。
「冗談じゃない!」
その時すでに流行は椅子を少し回転しその背にもたれかかっていた。
「あ、そうです、49日が過ぎたら、もう一度田畑家から社長の自画像の依頼が来ます。時間と、準備をお願します」
その瞬間、神崎の感情がプツリと切れた。
「冗談じゃないもう付き合ってられない」
そう捨て台詞を言って入口へと歩いて行ったのだ。
だが、それからお盆のため実家に帰りそして金沢に戻り、どうにか生活が落ち着いたころ、冷静に考える時間ができた。そして流行の言葉をもう一度思い出した。
結局彼は田畑のために動いたのではないかと考え直したのだ。
あの時、流行が日野の写った写真を見たとき、もし、その写真を無視したならば、神崎も当然日野の写真に気づかなかった可能性が高かった。
もしかしたら、そのまま藤田嗣治の油絵を見て帰ったかも知れなかったのだ。
流行の話は全て正しい。
田畑は脳卒中で亡くなることは決まっていたことだ。そして遺族に対する思いを伝えることができなかったことも決まっていた。
もし、日野の件がなければ田畑は最後に何を誰に伝えたかったと思うのだろうか。
それは神崎には決して分からないことだった。
―死者の代弁者、か。
恐怖ではなかった。だが、最後に流行の画廊を出た気まずさがずっと残っていたのだ。
そんな思いを持ったまま、次の日、神崎はすべての授業が終わったあと、徒歩で流行の店に向かった。
表の看板では今北海道の蝦夷地をテーマとしたアイヌの現代油絵の企画展示をしていた。
いつものことだが、これでよく経営が成り立っているなと神崎は思った。
重いガラスの扉を開けると、紺色のスーツを着た前田が事務室の奥から出てきた。
「流行は?」
「流行さんは今日一日外」
神崎はほっとする。
「どうぞおかけください」
そう前田が恭しくそう言って、事務室の中に戻っていった。
神崎がソファの中央に座っていると、トレーに麦茶をもって前田が神崎の斜めに座る。いつもなら流行が座っている場所だった。動きやすいようにそこだけ椅子になっていた。
「それってリクルートスーツか?」
前田の差し出す麦茶を飲みながら神崎が尋ねる。
「ううん、入学式に着たやつ」
「お前、確か4回生だったよな。進路どうするんだ?」
普通ならすでに就職先は決まっている時期だった。
「私、進学予定なの」
「進学って、金美大の、か?」
「うん」
神崎は普通に返事をする前田を無言で見つめた。
内心、困っていた。自分の進路をどこまで話していいのか迷った。
そんな神崎の考えに気づいているのかどうか分からないが、前田が話しかけてくる。
「神崎さんは昨日どうして大学に来てたんですか?」
「秋から油絵の演習に月1回参加する。そのための下見と、売店に寄った」
「演習の参加・・・ああ、来年受験するんですね」
まるで当然のように前田が応える。
「普通なのか?」
「うん、よくある話」
こうもあっさりと言われてしまい神崎も気が抜けた。
「お前受かるのか?」
「進学は先生から進められたからほぼ確実。神崎さんは?」
「俺も、だ」
「じゃあ、先輩じゃん」
いきなりの発言に神崎がびっくりする。
「俺はお前の先輩じゃない」
「でも、秋から学校に通うんでしょ?神崎さん美大卒だし、私より一こ年上だし。先輩じゃん」
「勝手にしろ」
「はい、神崎先輩」
そう言って、前田がにっこりと笑った。
「で、どうして流行の店を手伝うことになったんだ?」
「押しかけアルバイター」
「なんだそれ?」
「お盆が終わって、私が流行さんにアルバイトをしたいってお願いしたの」
「ここに直接来たのか?」
「うん。だって交通の便めっちゃいいもん」
「お前、そんなことして卒業制作大丈夫なのか?」
「先輩はどうだったんですか」
そう言われて神崎は去年のことを思い出した。
「俺は就職活動に追われていた」
「ああ、教員採用試験ですか」
「全国を飛びまわっていた」
卒業制作に本格的に取り掛かれたのは9月に入ってからだった。
「毎日ここに来るのか?」
「シフトは週ことに変わるから週末ぐらいに相談して次の週のシフトを決めてる」
「じゃあ、次の・・・」
と神崎が話を続けようとした時だった。
入口のドアが開き、一人の老婦人が店に入ってきたのだ。
神崎と前田は思わず顔を見合わせた。
どちらも流行の画廊に関わってから一度も店にお客が訪れたことがなかったのだ。
「神崎先輩、書棚の所で、美術書見ててください」
そう前田が神崎にささやくと、椅子から立ち上がり夫人に会釈をした。
神崎も麦茶をもっていつも流行が座っている机の後ろにある美術書が並んでいる書棚に向かった。
机の上にはノート型パソコンが置いてあった。
二人とも、今企画をしているアイヌの絵画を見に来た飛び込みの客だと思ったのだ。
しかし店に入ってきたその客はそのままスタスタと前田に近づいてきた。
年はすでに60歳を過ぎているのだろうか。小太りの化粧の濃い女性だった。
黒のパンツの上にベージュのワンピースを着ている。ちょっと見には水商売をしているママのようにも見えた。
「ねえ、お姉さん」
はきはきとした関西弁だった。
「今ここで展示している絵の中で一番高い絵ってどれくらいなの?」
そう言いながら、視線は後ろを向いている神崎に向けられている。
「今企画をしてる絵画は主に個人がご自宅用、もしくは贈答用としてお客様が買われることを想定していますので、高くても数十万円ほどの商品を展示しております」
「もっと高いのって置いてないん?」
媚びるような言い方だった。
「どのくらいの物をお探しでしょうか?」
「そう、300とか500とか」
思わず、神崎が振り返る。
前田が返答に困っているのが見えた。
「それでしたら、一度デパートなども見て回れてはいかがでしょうか」
「それじゃ、高いやん。そやからこっち来たんやで」
大阪のおばさんが明るく値踏みをする言い方であった。
「ご自宅に飾られることを目的としてご購入を考えてらっしゃるのでしょうか?それとも事業用つまり会社で購入でしょうか?」
「プレゼントなんや」
「プレゼントですか?」
前田が困惑した表情で客の言葉を復唱する。
「今度、うち結婚するねん。その相手の人が、油絵好きやっていうんで、そやったら一枚あげようかなって思いましてね」
「今まで絵画を買われたご経験は?」
「それが、初めてやねん」
「それでしたら、一度その相手の方と一緒に商品を見に来られたらいかがでしょうか。油絵と言いましても、様々なジャンルがありますし、それだけの値段の物になりますと、こちらも一度社長に相談しなくてはなりません。それに・・・・身分証の確認なども必要になりますが、大丈夫でしょうか?」
身分証の確認という言葉に客が身構える様子がありありと見える。
「身分証いるん?」
「はい、多分ですけど、贈られる相手の方も必要になると思います」
「なんでやねん」
「贋作の流通を防ぐためです。商品の履歴をきちんと残しておくことで、贋作の持ち込みを防ぐことができます」
「うち、はいこれって言ってあん人が喜ぶ顔見たかったんやけど・・・・まあ、しゃあないなぁ」
「では、今から社長と連絡を取りますが、ご都合のよいお時間があれば教えていただけますでしょうか?」
「ちょ、まってな。うちも健ちゃんに相談しんとあかんし、明日もう一回うちだけで来るわ」
「お時間は?」
「こんくらいの時間で」
「かしこまりました。少々お待ちいただけますでしょうか」
そう言って前田が事務室の中に入っていく。
しばらくすると、片手にメモ帳をもって帰ってきた。
「明日、4時に社長がお待ちしていますとのことです。それでなんですが、できればお名前と連絡先を教えていただきたいのですが」
「ああ、ええよ。なんかええ油絵見繕ってくれんかね」
前田に導かれて客はソファーの端に座った。
その横に前田が、メモ用紙とボールペンを置いた。
「社長の話ですと、明日はお客様のお話を伺ったうえでいくつか商品をピックアップしたいとの話です」
「うちも、健ちゃんに話聞いとくわ」
そう言って客は名前と住所、電話番号を書いた。
佐野千賀子
住所は大阪であった。
「こちらにはご旅行で来られているのですか?」
前田が確認するように尋ねる。
「ちゃうねん、今度こっちで結婚すんねん」
「お客様、少しお話詳しく聞かせていただいてもよろしいですか?」
前田が、緊張してそう佐野に尋ねる。
「なんでやねん」
「今回、ご希望の絵画の金額があまりにも高額なので、こちらとしても安易に購入をお勧めすることはできない場合があります」
「つまり、うちが騙されとると?」
「最終的には社長の判断になりますが」
「そんな深刻な話でもないで。うちと健ちゃんは地元がいっしょやねん。中学校の同級生で、うちは大阪で結婚して、健ちゃんは金沢で所帯持った。お互い伴侶を亡くして、健ちゃんからメール来て意気投合して結婚て運びになったんや」
前田がそんな佐野の話を聞きながら、向かい側の椅子に腰かけた。
神崎は美術書を見ながらも背中で話を聞いていた。
「それでは以前からお知り合いだったんですか?」
「まあ、たまたま数年前に同窓会で会って、それに出席したときからかな」
「相手の方が絵画に興味があるという話ですが、実際に見たことはおありなんでしょうか?」
「今回初めて金沢に来たんや」
「お住まいは?」
「今、ビジネスホテルに泊まっとる。でも、すぐに健ちゃんの家にはいくよ」
「今回の購入は確か贈答が目的とおっしゃいていますが」
「そうや。健ちゃんの家に行って、そん時にあげようと思ってんねん」
「相手の方は経営者でいらっしゃるのでようか?」
「なんでやねん」
「贈答用としても、値段が・・」
「ああ、それはうちの勝手やねん」
「と、もうしますと?」
「うち、投資に興味あるねん。で、せっかく絵買うんやったら、資産運用もかねて買った方が得やろ」
「貰う方は驚かれるのでは?」
「そういえば、あんまそんなこと考えんかったな」
前田が佐野を無言で見つめる。
「確かに健ちゃん、会社の社長さんじゃないけど、一流企業で働いとって、定年退職したって言っとるから、そんくらいのもん贈っても驚くとは思っとらんかったわ。どうせ一緒になるんやし」
「分かりました。今のお話も含めて社長に報告をしておきます。明日の4時頃にお待ちしております」
「ほな、よろしくね」
そう言って佐野は立ち上がり、店を出て行った。
「先輩、どう思いますか?」
前田がすでに前を向き佐野を見送っていた神崎に声をかけた。
「どうも、こうも・・・普通じゃないだろう」
「はい、私もそう思います」
「ていうか、太っぱらだよな、あのおばさん」
「そんな金持ちには見えませんでしたけど・・・・」
「お前、金持ちの未亡人って見たことあるのか?」
「ありません」
その時、神崎は机の上に置いてあるパソコンに目が移った。
「前田、このパソコン、店のか?」
「うん、あっ、そうか」
前田が、急に思い出したように神崎に駆け寄ると、パソコンをもってソファーの所の机に置いた。
「流行さんからこれ使っていいって言われてるんだ」
そう言って電源を入れ、パスワードを入力する。
しばらくするとトップ画面が出てきた。
インタネットにつなぐと、前田は先に佐野からもらったメモを見ながら検索画面に住所を打ち込んでいった。
神崎もそれを後ろから覗き込む。
「へぇ・・・佐野さんの旦那さんて会社経営してたんだ」
前田がそう言って検索エンジンから出てきた住所をクリックした。
「佐野印刷・・・・ホームページは作ってないみたい」
そう言って前田が画像検索をクリックする。
「会社結構大きい」
神崎が画面をのぞき込んだ。
店舗兼住宅の画面が写っていた。
縦書きの佐野印刷という看板が見えた。
「社長の名前が分かるんだったら、それで顔分かるんじゃないか?」
「うん、ちょっと待ってね」
そう言って前田が名前を入力する。
そして画像検索に変えた。
「あ…結構写ってる。奥さんも一緒の」
「地域の商工会とかに入ってたんだな」
「あ、誰かブログ書いてるみたい。見てみます?」
「ああ・・・」
前田が写真をクリックすると、ブログの記事へと画面が飛んだ。
それを二人は読んでいく。
「佐野さんって結構腕のいい印刷会社だったんだ」
前田がそうつぶやいた。
記事の内容は、ブログの管理人が自作のTシャツのデザインを原案から完成までの過程を綴った体験記だった。その中で佐野印刷が非常に丁寧な仕事をしていたが、最近社長が急死したことを知り、その悔やみの報告だった。
「ブログの記事が今年の4月か・・・」
「今、9月だから、再婚って早くないですか?」
「再婚して金沢に引っ越すってのも引っかかるよな」
「子供いたらそんなの許すかな」
「もし、だぜ。佐野さん夫婦に子供がいなくてこの会社と家、持ち家だったら、あの人資産家になるよな」
「そんでもって、もし旦那さんに保険金かけてたら・・・・」
「前田、お前、明日もバイトか?」
「うん」
「俺も来る。流行に話したいことがあるから」
そう言って神崎はポケットから携帯を取り出し、流行に電話をかける。
短いコール音の後に、流行の落ち着いた声が出た。
「流行です」
「神崎だが、明日夕方店に来てもいいか?」
「先ほど前田さんから連絡がありました。佐野さんの件ですね」
「ああ、それもあるが、ちょっと二人だけで話したい」
「分かりました。明日前田さんにその旨を伝えておきます」
そう言って電話は切れた。
神崎はそのまま前田に目をやる。
「明日、佐野さんの件については、俺が対応する。いいな」
「うん、分かった」
前田が少々悔しそうに返事を返した。
次の日、神崎が流行の店の中に入ると、前田が、事務室から出てきた。私服であった。大きめのショルダバックを肩から掛けていた。
「帰るのか?」
その姿を見て神崎が尋ねる。
「うん、流行さんと話し合った結果、帰った方がいいって結果になった」
「やっぱ、危険か?」
「もしかしたら警察沙汰になるかもしれないって」
そう言って、店の奥の机を見る。
「神崎先輩には、そこで待っててほしいって」
神崎が机に近づくと、そこには一冊の大型の画集が置いてあった。
「それじゃ、先輩、またです」
そう言って前田が店から出ていく。
神崎はもう一度画集を見た。
タイトルは鴨居玲。金沢出身の油絵の画家である。社会や人間の闇を描いた画家であった。
すでに亡くなっている物故作家だった。
画集には一枚黄色の付箋が挟まっていた。
神崎はそのまま椅子に座ると、付箋のページを開く。
白いキャンパスに横向きの老人が髪をなびかせ叫んでいるような、慟哭しているような作品であった。解説にはスペインのアトリエで製作したものであると説明されていた。
佐野にはこの作品を勧めるのだろうと察しがついた。
それから、画集の最初のページから開いていった。そのうち、店のドアが開き、流行が大型の段ボールに包まれた一枚の絵画をもって店に入ってきた。
「邪魔をしている」
神崎が流行に声をかける。
「もうしばらくしたら佐野さんと、相手の方が来られます。事務室に一度来てください」
「相手?昨日はそんな話はしてなかったが」
「予定は予定です」
そんな流行の言葉と共に、二人は事務室へと入っていく。
流行は事務机に持ってきた絵画を置いた。
丁寧に包みを開けると、中からさっき画集で見た油絵が出てきた。
「これを売るのか?」
「ま・・・・最終的には売れませんけど」
そう流行はつぶやいた後、話題を変えた。
「佐野さん方が来られたら、お茶を出してください。そのあとは、店の中にある作業台でPCにデーターの入力をお願いします」
「仕事するのか?」
「あそこに座って本を読んでいるのも不自然でしょう」
そう言って先日のパソコンをもって店に入る。
「そこに座ってください」
流行の指示のもと神崎が椅子に座ると、流行が作業の説明をする。。
「中に画像の入ったデーターがあります。データーにはタイトルと作者の氏名が入っています。そのあとに、作者のプロフィールと絵画の説明の入力をお願いします」
言われるままパソコンの中のファイルを開ける。と、西洋画の写真が出てきた。
神崎が分かるものもあるが、分からないものもある。
「資料は後ろの本棚の中にすべてあります。多分、一件ほどしか入力はできないと思いますが、あとは、前田さんにお願いしますので」
「ああ、そうだ、その前田の件だが、何故雇ったんだ」
「特に計算していたわけではありません」
「わざとじゃないのか?」
「ええ、人手が足りていなかったことは事実です。美大の学生さん、基礎的な知識はあります。彼女と雑談をしているうちに働かないかという話になりました」
「今から始まるトラブルも、か?」
「神崎君、そこはあまり深く考えない方がいいですよ。そのうち、疲れますから」
「疲れる?」
「イベントがあれば商品を売る機会が生まれます」
「いつか、あの子にばれるぞ、いいのか?」
「今のところ、疑ってはいるが、核心は持てないという状況には持っていく予定です。ま、そのためには神崎君、君の助けもいりますが」
「俺の助け?」
「君が明確に彼女に言わないということです」
「将来、俺があの子に言うのか?」
「今のところそれはありません。ご協力をお願いします」
「協力ねぇ・・・」
「もうそろそろ佐野さんが来ます」
流行が神崎にそう声をかけたとたん、入口に人が入る気配がした。
流行はそのまま入口に歩いていく。
ガラス戸から老年の一組の男女が入っていた。
一人は昨日訪れた佐野千賀子である。もう一人が健ちゃんと呼ばれていた男性であろうと神崎も察しがついた。
年齢は佐野の話では同級生ということだったが、見た目には年上に見える。
少しやせぎすの男性で、そんなに背丈は低くはないはずなのだが、背中を丸めているため、小柄な男性に見えた。
「いらっしゃいませ佐野様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
流行が物腰柔らかく挨拶をし、奥のソファーへと二人を導いた。
その間に神崎が事務室に入り、お茶の用意をする。
トレーを持ち店に入ると、流行の名刺が2枚机に置かれ会話が始まっていた。
「昨日は私どもの従業員がいきなりぶしつけな質問をいくつかいたしまして、申し訳ございませんでした」
「いえ、本気で絵買うつもりやったもん、必要なことやったらちゃんと説明してもろてうち助かったわ。身分証明書、運転免許所でもいいんかね」
佐野は、ずっと流行の顔を見つめたままである。
連れの男性は店内をぐるりと見まわしていた。
そこに神崎が麦茶を差し出し、事務室へ戻る。
再び店に入り、パソコンの前に座ると、すでに会話は絵画の件に移っていた。
「こちらの方が、将来結婚される方で?」
流行が佐野に尋ねる。
「そうねん、絵買うって話したら、一緒に見るって言うて」
「わしの免許証もいるんや」
落ち着いたのか、隣の男性が話に加わった。
「今まで絵画を買われたことは?」
流行が男性に聞く。
「家のリビングに飾るのに1枚ほど。デパートでや」
流行がこくりとうなずく。
「昨日のお話では投資もかねてのご購入との話でしたが、それでよろしかったでしょうか?」
「ええ、そうや」
佐野が当然という風に答える。
「ちかちゃん、いいんか?」
連れの男性が不安そうに確認した。
「なあに言っとるん。せっかく買うんやったら見るだけやったらつまらんやろ。ほら、前からうち、投資に興味あるっていうとるやろ」
「社長さん油絵、そんな利益がでるんか?」
「ええ、絵画を投資の対象として買われる方もいらっしゃいます。ただし、鑑賞も兼ねた投資ということになりますと、長期的な投資になります」
「長期的ってどれくらい?」
佐野が興味深げに聞く。
「平均的には10年保有の利益率は株式投資よりも高いのですが、20年になると、反転します。ただ、やはり絵画投資も株式と同じでトレンドなどもあります。確かに今は買い時の時期にはなります」
「なんでや?」
男が聞く。
「数年前のアメリカの不動産投資の失敗で、株価が急激に下落しました。その影響が絵画業界にも及んでいます。現在市場価値の高い絵画が売られている状態です」
男が驚きの表情で佐野を見た。
佐野が食い入るような視線で流行を見る。
「でしたら、今どんな絵が買い時なんですか?」
「正直、将来これが確実に高くなると断言することはできません。むしろ確実に需要が見込める商品を私はお勧めします」
「何のことや?」
「景気に左右されず、一定数の需要が見込める作家の作品です」
「そんなん、高いにきまっとるやろ」
男が再び不安そうに言う。
「確かに、その通りです。ですが、佐野さんが提示していただいた価格なら、作品を購入することはできます」
「で、どんな絵なん」
佐野が勢いついて尋ねる。
「神崎君、事務室からあれをもってきてくれませんか」
流行がそう神崎に声をかける。神崎はすぐに立ち上がり、そして事務室から鴨居玲の作品を持ってきて、流行に渡した。
「こちらの絵です」
状態を確かめた流行がその作品を二人に見せた。
その瞬間、佐野が叫んだ。
「なんや、この辛気臭い絵は」
「これ、鴨居玲の作品やないか!」
男の方が驚いて叫ぶ。
「なんや、健ちゃん知っとるんか」
「知るも何も、有名な画家やで」
男の叫びに流行が応えた。
「その通りです。鴨居玲は金沢市出身の画家で、この非常に独特な作風には根強い人気があります。確かに急激な価格の上昇は見込めませんが、今後価格は安定的に上昇する可能性は高いです」
「へぇ・・・」
そう言って、佐野が、しげしげと作品を覗きこむ。
「で、いくらなん?」
「この作品の大きさですと、300万ほどになります」
流行の言葉に男性の体がこわばるのが見て取れる。
「ほな買うわ」
あっさりと佐野が決断をした。
「健ちゃん、これいい絵なんやろ?これ、うちらの結婚祝いにしよや」
それに対して男性が迷いもなく返答をした。
「ありがとう」
その男性のつぶやきに神崎は寒気がした。
まるで、小料理屋で料理をおごってもらうような言い方である。
そのまま、ぺろりと食べてしまいそうな響きであった。
神崎のこの感覚は、多分そこにいる全員が感じ取っていたはずであった。
だが、その雰囲気を消し去るように佐野が明るく言う。
「今日ホンマに油絵見せてくれると思わんかったから、あんまお金用意しとらんねん。頭金だけ渡すから、明日、残りキャッシュで渡すわ」
「それは、ありがとうございます」
そう言って流行が深々と頭を下げた。
「それでしたら今から購入手続きに入りますがよろしいですか?」
その問いに対して佐野がうなずく。
「それでは、お手数ですが、運転免許証のコピーを取らせていただいてもよろしいでしょうか」
その言葉に2人はそれぞれ手持ちのバックと財布から運転免許証を取り出し、流行に手渡す。そして流行は席を立ち事務所に入っていった。
「ちかちゃん、あんがとな」
そう言って男性が佐野の手を握り締める。
「あんたがうれしかったら、それが一番ねん」
それに対して佐野がその手の上に自分の手を重ねた。
神崎はそんな二人の姿に、思わず立ち上がり、書棚の方を向き、本を探し出す。
そのうち流行がトレーをもって戻ってきた。
「コピーを取らせてもらいました。ありがとうございます」
そう言って運転免許証を返す。
机に置いてある絵画をいったんソファーに置き、そこにトレーを置く。
上には筆記用具と証明書の用紙、そして領収書の束があった。
「こちらに、お二方の住所等のご記入をお願いします。
二人がそれぞれ用紙に記入する。
それが終わると、佐野がバックから財布を取り出した。
「頭金として10万でよろしいか?」
「ありがとうございます。残金を頂いたのち、こちらの絵画をお渡しするのでよろしいでしょうか」
「そんで、ええよ」
財布からそのまま出された札を流行は丁寧に数え、領収書を書き、佐野に渡した。
「ほんじゃ、明日もってくるから」
そう言って佐野が連れの男性に席を立つように促した。
二人が席を立つと同時に、流行も立った。
流行が二人を入口まで送り、「ありがとうございます」と声をかけると同時に神崎も頭を下げていた。
流行がソファーのある机に戻り、トレーを整理しているとき、神崎が流行に声をかけた。
「あの二人・・・・明らかに男の方、金目当てだよな」
「それはお客様の都合なので、私が口をはさむことではありません」
「ま、確かにな」
神崎が同意し、言葉を続ける。
「最初、結婚詐欺かと思ったんだが、これから男の自宅に戻るんだろ。金が目当てだったらこんな回りくどいことはしないだろう。ま、籍を入れた後のことは想像したくないけどな」
「普通だったら、男性は女性を言いくるめようとしますが」
「前田には警察沙汰になるかもしれないって言ったんだよな」
「ええ」
「ちょっと大げさだったんじゃないのか?」
「さあ、どうでしょうか」
「なあ、流行」
神崎が改まって流行の方に向いた。
「話があるなら、こちらに座ったほうがいいですよ」
流行が机の上を整理して、お茶を自らの方に引き寄せて言った。
神崎もその言葉に従い、流行の真向かいに座る。そして流行を見つめた。
「なあ、流行。できれば話してくれないか」
「何でしょうか」
「田畑さんの件もそうなんだが、結論が分かっているなら、話してほしい。以前、未来の話をするとその人の運命は変わると言っていたが、変わらないこともあるんじゃないか。できるだけでいいんだ、俺には話してほしい」
それに対して流行がまっすぐ神崎を見つめた。
「確かに、神崎君の言う通りです。田畑さんの件に関しては、私にも落ち度があったと思います。状況に慣れていない君の対応に対して慎重になっていました」
「ま、確かに俺は迫真の演技はできない」
「慣れていただくしかないですね」
「もし、だ。俺が前田にお前のその・・・・すべてを話したらどうなる?」
「今のところ、君がそのようなことをすることはありません」
その言葉に対して神崎は流行を見つめた。
―もし、話したら、この男は俺の前から消えるだろう
分かり切った答えだった。
「そうだな」
「では、早速ですが、今回の件、佐野さんについてお話してもよろしいでしょうか」
「ああ、そう言えば、結局はこの絵を売ることはないんだっけな。どうしてだ?」
「前田さんに言った、警察沙汰になるという言葉も決して大げさではありません」
「どういうことだ?」
神崎が眉をひそめた。
「連れの男性が佐野さんの遺産目当てで近づいたというあなた方の推測は当たっています。昨日あのPCで調べたことに関しては、男性も同じ行動を取っていました」
「つまり、同窓会で出会った後、佐野さんの件をパソコンで調べていたというのか?」
「その通りです。あなた方が見つけた記事をあの男性も見つけていました。そしてあなた方が考えたことと同じように、男性も佐野さんの遺産に目をつけました」
「彼女には子供はいないのか?」
「ええ、問題はそこなんですが、佐野さんは男性には子供はいないと言っていました」
「どういうことなんだ」
「佐野さんは、今回が初婚ではありません」
「ああ、再婚だな」
「今回で、4度目になります」
「4度目?なんだそれは」
神崎の顔色が一気に変わった。
「そしてすべてその原因は病死です」
神崎が言葉を失う。
流行がその様子を見つつ話を進める。
「結論を先に言います。すべて、佐野さんがご主人に青酸カリを飲ませ殺しています」
神崎がごくりと唾を飲み込んだ。
「結婚までいかないまでの男性を含めると、11人になります」
「その話、本当か?」
思わず神崎が叫び、その声が店の中に響いた。
「保険会社が不審を持ち、すでに警察が動いています。あさって、佐野さんはこの絵画の取引のキャンセルを私に言うために再び店を訪れます。理由は相手の男性が交際を断るからです。断る理由は、警察が男性に強く交際を止めるように勧めるからですが、これは佐野さんは知らないことです」
「お前はどうするんだ?」
「今日いただいた頭金を返し、そして世間話をして彼女が帰る、それだけです」
「世間話?なんだそれは」
「ただの世間話です。殺された男性は皆本質は今日一緒に来られた男性と同じです。彼女の遺産が目当てだったということではありません。男性はそれなりに財産があり、佐野さんが純粋に自分を愛し、結婚を望んでいるとは思っていませんでした。お互いに下心があるうえで、残りの人生を一緒に過ごそうと考えていた方々ばかりです。彼らにとっては、何故自分が殺されなければならなかったのかそれを知りたがっています」
「彼女は、佐野はこれからどうなるんだ」
「あと一か月ほどで事件が公になり、彼女は逮捕されます。その後裁判が行われ死刑の判決が下ります」
「裁判で分かることなんじゃないのか?」
「彼女は認知症であったと訴え、裁判を混乱させます」
静かな沈黙が流れた。
神崎の脳裏にあの言葉が蘇る。
―死者の代弁者。
「彼女が刑務所で死んだあと、その11人にあの世で責められる・・・・そんな話今まで聞いたことがないな」
「人は、死んだあとは何もできません」
「まったくだ」
恨みで人が殺せるなら、これ以上の恨みはないだろうに、佐野はぴんぴんしていた。
「明日、彼女はここに来られますが神崎君は同席されますか?」
「いや・・・・俺がいたら話しにくいだろう」
「そう答えると分かっていました」
静かに流行が応えた。
「何時ごろにくるんだ?」
「2時です」
「終わるのは?」
「30分ほどでしょうか」
「明日、前田のシフトは?」
「入っていません」
「あの子は守らなくちゃいけないな」
神崎自身、一体何から彼女を守らなくてはいけないか分からなかった。
だが、この生と死の境界線に立っているこの男に安易に彼女を近づけてはいけないと神崎は直感的に感じたのだ。
「神崎君、彼女を頼みます」
流行の言葉は、そんな神崎の判断を分かりきった返事だった。
「神崎君、今日はこれで帰った方がよろしいかと思います」
「ああ」
神崎はそう答え、席を立ち、店のドアへと歩いた。
ガラス戸を押すと、一気に9月の残暑が体に襲ってきた。
そのまま車を置いてある中学校へと歩いていく。
前田には気持ちを落ち着かせてから電話をかけようと考えていた。自分の神経がまだ高ぶっていることは十分理解していた。
彼女には流行の話はできない。
話せるのは佐野とその連れの男性の話までだ。
―とんだ火にいる夏の虫だな。
神崎が無意識にフンと鼻でせせ笑っていた。
その時、公園の木々からはヒグラシが鳴いていることに気づいた。
残暑が続いていたとはいえ、季節はすでに9月の半ばとなっていた。
時刻はまだ夕方だった。
周りは晴天に恵まれ、明るかった。
だが神崎の瞳の中には暗い闇が大きく広がっていた。
そして2日後、昼2時ごろ勢いよく店のドアが開く音がした。
「ごめんなさい、社長さんいなはる?」
佐野の甘えた声が部屋の中に響く。
その声と共に流行が事務室から出てきた。
「佐野様ですね、お待ちしておりました」
「ごめんね、約束は昨日やったんやけど、急に用事が出来てしもうて、そんでなぁ・・」
「立ち話もなんですから、どうぞおかけください」
流行がそう言って佐野をソファーへと促す。
「それなんやけど、社長さんあの絵、キャンセルになったんや」
「詳しく、話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」
「まあ、聞いてや」
流行が椅子に腰かけると、すぐに佐野も腰掛けしゃべりだした。
「昨日午前中うち、銀行に行ってお金下すついでに買い物しとってん。そこから帰ってきたら健ちゃん急に今度の結婚の話なかったことにしてくれっていうたんねん」
「理由は?」
「それが、ようわからんねん。そのうちに健ちゃんの子供らが来て、遺産の件について話し始めて、もう二度と家の敷居はまたがせんてすごい剣幕でどなって・・・そんでおしまいや」
「購入予定の油絵は?」
「もちろん、キャンセルや。もしかして。キャンセル料払わないかんのかね」
「いえ、商品はまだお渡ししておりませんので、それではお預かりしたお金をお返ししますので、先日お渡しした領収書はお返し願いますでしょうか」
「ああ、これね」
そう言って佐野が黑いバックから裸のままの領収書を取り出し、流行の前に置いた。
「それでは少々お待ちください」
そう言って流行が事務室へ入る。
戻ってきたときには、封筒と先日コピーした用紙2枚がトレーの上に置いてあった。
「こちらをご確認ください」
流行がそう言って封筒を佐野に渡す。
佐野が中身を取り出しパラパラと数え、封筒に戻した。
「とはいえ、大事に至らなくてよかったと思いますよ」
流行がコピー用紙を佐野に渡しながらいう。
「何がやねん」
「うちの従業員が相当心配していました。佐野様が結婚詐欺に会っているのではないかと」
「うちが、結婚詐欺ぃ?」
「ええ、先日のお二人の様子では私もそう感じていましたので」
「そんなん・・・結婚詐欺っていうのは、結婚することをだしに使ってお金巻き上げることやろ。うちらはホンマに市役所に婚姻届け出すはずやったんや」
「ですから、そのあと、佐野様が殺されるかもしれませんので」
「はぁ・・・・あんた何言うてねん」
佐野が、真顔で流行に言う。
「アメリカでそのような事件がありましたので」
「どんな事件なん」
「中年の女性が独身の老人と結婚をし、相手を毒殺しその遺産を手にするという事件です。それが一度や二度ではなかったため、相当大きなニュースになりました」
急に佐野が興味を持ち出した。
「ふぅ~ん。そんで?どれくらい殺したん?」
「明確に分かっているだけでも、十人は下っていません」
「それまた、ぎょうさんな。ようそんなことできはりましたな」
「本当に私もそう思います。毒物は青酸カリです。よくTVや小説では青酸カリを服毒すると、即死するとか、口から泡が出るとか、アーモンド臭がするとか書かれていますので、すぐに分かるはずだと私も思っていました」
「それが、分からんかった」
「そうです。亡くなられた方々はもともと持病をお持ちで、薬を常用していました。その薬に毒を混ぜたり、すり替えたりしていたようです」
「でも、死んだら医者に見せないかんやろ」
「もともと持病を持っていたため、医者も持病が悪化したと判断したようです」
「最近の医者はあてにならんなぁ」
「仕方がないのではないでしょうか」
「なにがや」
「青酸カリなど、普通の人が持っているとは通常は考えません。たとえ、中毒の症状が出ても、無意識に普通ではないことは除外してしまいます」
「どっからそんなもん手に入れてんや」
「最初に結婚した方の仕事が薬品を使う仕事のようでした。その関係で入手できたようです」
「じゃあ、最初の人もその薬で?」
「それは、分かりませんでした。随分昔のことでしたので。佐野さんはどう思われますか?」
「そんなん、私に聞かれても分かるわけないやん」
「確かにそのとおりですね。しかし、そのあとが早かった」
「何がやねん」
「その後何度か再婚されたのですが、結婚生活は一か月とありませんでした。皆さん、一か月ほどで殺されています。一体何が不満だったのでしょうか?」
「そりゃ、いろいろあったんとちゃうか」
「お互い熱烈な恋愛をされていたようなんですが」
「なんでそんなこと分かるねん」
「メールでやり取りしていたようです。裁判でその内容が公開されました」
「どんな事書いてあってん?」
佐野の声が少し低くなる。
「普通だったと記憶しています。相手の男性は女性の財産を目的として結婚を申し込んだわけではない。男性は女性と会うたびに、女性の誠実さ、思いやり、そして分別のある女性だと最大限の賛辞を相手に送っています」
「その女の人賢いなぁ」
「ええ、非常に頭の良い方のようでした。自らを愚女と呼び、終始相手を立てた行動をしていたようです。付き合っていた男性すべてが同じような評価をしています。では、なぜ、女性はそんな男性を殺害したのでしょうか?男性は一生を添い遂げるつもりでいました」
佐野は、黙ったまま流行を見つめる。
沈黙が数秒間続いた。
そしてやっと佐野が口を開いた。
「おかしいと思わへんか」
「何がでしょうか」
「男には何の不満もなかったんやろ。100点満点の理想の奥さんや」
「そうですね結婚してからは男性は奥様のことをお母さんと呼び、自らのことを主と呼んでいましたので、古典的な主従関係の上に成り立った夫婦関係だったと想像つきます」
「女の人、そんで納得しとったんかな」
「女性は非常に頭の良い方でした。高校を卒業し、都市銀行に就職した秀才です。頭の回転が速く会話も豊富でなおかつ、年齢の割には非常に若々しい行動を取られていたようです。物事もはっきり言うタイプだったそうで、下手をすれば男性に嫌われるタイプでもあります」
「それが、大もてやった」
「人の好みは様々ですから」
「我慢しとったって、あんた言いたいんやろ」
「その通りです」
「なら、そうとちゃうか」
「なぜ、我慢していたのでしょうか?」
「はぁ?」
佐野があきれたように聞き返した。
それに対して流行が応える。
「我慢する必要はなかったと思います。お互いに歩み寄っていく道を探ってもよかったと思います」
「あんた、顔きれいやけど、心もきれいやな」
「どういうことでしょうか?」
「さっきの医者の話もや。医者が青酸カリで毒殺を考えつかんかったって話。もしかしたら、本人もおかしいと思っていたかもしれへんやん。そやかて、これ以上突っ込んだら面倒になるさかい、もともとの持病で死んだことにしたかもしれんやん」
「結婚した男性も何か下心があったということですか?」
「そんな自分の理想の女早々出あうことないねん。普通。この女おかしいと思うことあったかもしれへんやん。でも、とりあえず、結婚してみよかって思ったかもしれへん。いやになったら別れればいいんし」
「ですが、結婚は非常に簡単にできますが、離婚はそう簡単にはできませんよ」
「そんなん、やってみな分からへんがな」
「なるほど、確かに佐野様の意見には一理あるかもしれませんね。亡くなられた人の中には籍を入れずに公正証書を作って死亡した人もいます。私には理解できない行動です」
「そやろ、普通はそんな情熱的な手紙もろうて、そんでもっていっつも自分を立てて、そんな女、下心あると思うやんか。自分の財産ねろうとると思うわ。警戒して結婚まで進まんわ」
「その中で公正証書をどのように書かせたのでしょうか」
「反対やわ」
「反対?」
「籍入れんと、公正証書書いても、実際そんなもん効力効くのは、死んだあとからや。お遊びみたいなもんなんや」
「ですが、結婚をした」
佐野が、プイっと横を向く。
「公正証書作った後に籍入れるわけないやろ」
「分からないことがもう一つあります」
佐野はそっぽを向いたままだ。
「その女性は多額の借金を抱えていました」
佐野に動きはなかった。
流行が話を続ける。
「最初の結婚生活の中で投資を始めたようです。それが失敗をし、借金を作った。それを遺産で返した。それは分かります。ですが、その後、彼女は投資をしそして殺害をし、遺産を手に入れてはまた投資をし、そこで借金を作りそして殺人を行っています。私としては、いつでもやめることはできたと思いますが」
「どういうことや?」
佐野が真顔で流行の方を向いた。
「自己破産という方法があります」
「そんなん、とっくの昔にやっとるやろ」
「確かに、一番最初の時に自己破産をしています」
「あれは、二度目はなしや」
「いいえ、自己破産の内容によっては再度申請はできます」
佐野の目が遠くを見つめた。
「あんたの言う通りや。弁護士に相談すればもう一回自己破産できたかもしれん」
「そのとおりです。一度目は経営再建のために投資に手を出した。自己破産の申請は通るでしょう。二度目は様々な法的処置を講ずることができます」
「でもな、社長はん。もしやで、こっちに簡単な方法があって、もう一つの方はむっちゃめんどくさい方法があったら、どっちとる?」
「投資を辞めるという選択肢もあったと思いますが」
「それはないわ」
「自己破産をした時、すべての借金はなくなったはずです。なぜ、彼女は投資に手を出したのでしょうか」
「そん人、最初銀行に勤めとったってあんた言っとったな。そん時に覚えたんとちゃうか」
「仕事で投資を行っていたということでしょうか?しかしそれでなぜ彼女は投資に失敗したのでしょうか?」
「銀行では、株式の投資はやっとらんねん。基本は長期や。短期で利益あげるにはむいとらん」
「短期で利益を上げることを目的としていた。つまり、その女性はギャンブル依存症だったということでしょうか」
「そういうことや」
「同じ質問の繰り返しになりますね。なぜ、投資を辞めなかったのでしょうか」
「あんたには分からんことや」
「佐野様ならお分かりになると?」
「うちも、元銀行員やった。うちやったら分かる。でもな、あんた、そんな昔ばなし聞いてどうすんねん」
「申しわけございません。つい世間話が長引いてしまいました。人生にはいろいろ分岐点があります。このような不幸な事件をどのようにすれば未然に防げたかと思いまして、話が長引きました」
「一番最初にやったことが殺人やと分かったら、そのあとはなかったんとちゃうか」
「一線を越えてしまった」
「そうや、普通の人が持っとらんものをもってしもうた。借金作って追いつめられて毒使ってしもうた。そしたら成功した。一回成功して、そして2回目も成功したんや。仕方ないやろ、持ってしもうたもん。あんたも、持っとるやろ」
「何のことでしょうか」
「そやな、簡単に話するわけないわな」
「ですが、多くの人がこう言っています。亡くなられた方々はある意味幸せだったと。独り身で寂しいところに、自分より若い女性が現れて、いろいろと身の回りの世話をしてくれて、と」
「ホンマや。70年以上生きてきたんや、もういいんとちゃうか」
「そうですね、あなたももうそろそろそんな年ではありませんか?」
「うちまだ67やで」
「そうでしたね。確かに、あなたは私と非常によく似ているかもしれません」
「なんのこっちゃもう、ええか?ナンや意味のない話長々としてもうた」
「本当に申し訳ございません」
流行がそう言うと、佐野は鞄を手に取り席を立ち、さっさと店の出口へと歩いていく。
その姿を流行が席を立ちお辞儀をする。
「またのお越しをお待ちしております」
「こんな、ちんけな街もう二度とこうへんわ」
そう佐野は捨て台詞を言って、店を出て行った。
その姿を見届けた流行は、椅子に座り大きく息を吸った。
そして腕時計を見る。
しばらく両眼を閉じ顔を上にあげていると、携帯音が内ポケットから響く。
「流行です」
「神崎だ。終わったのか?」
懐かしい声だった。
「ええ、ついさっき終わりました」
「大丈夫か?」
「ええ、これも仕事ですから」
「そうか」
「では」
「ああ」
短いやり取りだった。
流行の口から大きな安どのため息が出た。
部屋の中は、彼一人が椅子に座っていた。
完
参考文献 全告白 後妻業の女 小野一光




