まだ闘うか?
私が海という存在をひどく憎悪しているのは、それが常に暴力的なまでの「明日」を孕んでいるからだ。
港町に吹き荒れる春の風は、前向きな活気という得体の知れない病原菌を含んでいて、道行く人々の頬を無神経に撫で回していく。
堤防の縁に立ち、私は目を細めた。網膜を焼き切るような太陽の下、空と海との境界線はあまりにも鋭利で、まるで世界の首筋を掻き切るために用意された巨大な剃刀のように見えた。
その水平線の向こうからやってくるものを、人々は無邪気に「未来」と呼ぶ。彼らは帆を張り、オールを漕ぎ、輝かしい明日という大陸を目指すという。しかし、私の目に映る海は違った。「未来」という名のその果てしない海には、昨日までの自分が、ぷかぷかと無数に波間に揺れているのだ。
「おい、お前はいつこちらへ来るんだ」
沈んだ過去たちは波の音に紛れてそう囁く。私は耳を塞いだ。
可能性という言葉が恐ろしい。誰かが「君にはまだ未来がある」と口にするたび、何かが私の内側で音を立てて崩れ落ちていく。
街角へ背を向ける。海辺の強い日差しから逃れるように、潮風の決して届かない場所へと歩き出した。
向かったのは、駅から徒歩二十分の場所にある、古い商業施設だった。外壁のペンキは海風に吹かれて無惨に剥がれ落ちている。
一歩足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。外の暴力的なまでの晴天が嘘のように、ここは薄暗く、ひんやりとしている。エスカレーターは動いておらず、蛍光灯は三本に一本の割合で明滅し、ジージーと死にかけの虫のような音を立てている。
ああ、ここはいい。
ここは、光に捨てられた子どもが帰る仮初めの胎内だ。私は大きく息を吸い込んだ。海風の匂いは完全に遮断され、代わりに埃と、古い建材と、そして湿った消毒液の匂いが鼻腔を満たした。それはかつて、私が幼い頃に身を潜めた押し入れの匂いに似ていた。母の目を盗み、誰にも見つからない暗がりの中で膝を抱えていた、あの完全な孤独と安堵の記憶。
誰もいない一階のテナント跡を抜け、二階へと続く錆びた階段を上る。かつては衣料品店や雑貨屋がひしめいていたであろうフロアは、今ではベニヤ板で塞がれ、灰色のシャッターが連なっているだけだった。その奥、フロアの最深部に、私の目的地はあった。
タイルの剥げかけた、トイレの近くのベンチ。
その手前にある、わずか数台のゲーム筐体が並ぶ一角。
私の視線の先には、一台の筐体が鎮座している。
色褪せた『ストリートファイターⅡ』の筐体だ。
ブラウン管の分厚いガラスの向こう側で、ドット絵の格闘家たちが、誰も見ていないにもかかわらず終わりなき戦いを繰り広げている。デモ画面の中で、白い道着を着たリュウと、赤い道着を着たケンが殴り合う。彼らの拳が交差するたび、電子の火花が散る。
リュウとケンは、決して老いることがない。彼らは何度倒されても、コインが投入されれば再び立ち上がり、同じ技を繰り返し、同じ痛み(のようなもの)を受ける。彼らには過去への後悔もなく、未来への不安もない。ただ、「現在」という永遠のリングの中で、宿命のように殴り合い続けている。
画面の中のリュウが、こちらに視線を向けたような気がした。電子の火花が散る中、彼は無言のまま、しかし確かな意志を持った眼差しで私に問うてくる。
「君は、どこから来たんだ?」
ブラウン管のノイズに混じって、そんな幻聴が聞こえた。私は、剥げかけたタイルの上に立ち尽くし、傷だらけのアクリル板越しに彼を見つめ返した。
どこから来たのか。私は答えるべき言葉を探した。
掠れた自分の声が、便所の換気扇の音に吸い込まれていく。
「光に耐えきれなくなって、ここへ逃げてきた」
私は世間の言う「真っ当な人生」のレールから滑り落ちた、不出来な魂だ。いつ切られるかもわからない非正規雇用の貧しい暮らしを憎みながら、それをどうにかして変えようとしない己の怠惰に、吐き気を催していた。闘争心を失い、かといって完全に死に切ることもできないまま、現実と虚構の狭間を漂っている。
私はポケットを探り、冷たい百円玉を一枚取り出した。それをコイン投入口に滑り込ませる。チャリン、という金属音が響いた。
画面が切り替わり、キャラクター選択画面が現れる。私はリュウを選んだ。レバーを握る手は汗ばみ、ボタンに置いた指先が微かに震えている。
「ファイト!」
電子の音声が鳴り響き、戦いが始まる。私はレバーを弾き、ボタンを叩きつける。だが、画面の中の私は手も足も出なかった。ルサンチマンを乗せたはずの拳は虚しく空を切り、ケンの容赦ない連続攻撃に防戦一方となる。画面端へと追いつめられ、一矢報いようと必死に放った波動拳すらもあっさりとガードされてしまった。なすすべもなく足払いを喰らい、地面に倒れ伏す自らの分身を見つめながら、どんなあがきも無駄に終わるのだという冷たい悲しみが胸を満たした。
体力ゲージがゼロになり、カウントダウンが始まる。
9、8、7……。
私は追加のコインを入れなかった。レバーから手を離し、傍らのベンチにどっかと腰を下ろした。
カウントがゼロになり、ゲームオーバーの文字が浮かび上がる。
――その時だった。
デモ画面に戻るはずのブラウン管が、一瞬だけ不自然にフリーズした。倒れ伏していたはずのリュウが、突然ぎこちないドットの動きで身を起こす。彼はガラスの向こう側からこちらを真っ直ぐに見据え、確かに口を動かした。
『まだ闘うか?』
音声が、私の脳に直接響く。同時に、コイン投入口の奥でカチャリと金属部品が跳ねる音がして、クレジットの数字が勝手に「1」へと増えた。
私は席を立ち、筐体に背を向けた。そうして、もう一度振り返ると、そこにはデモ画面が流れていた。
自己が、この薄暗い空間にじわじわと溶けていくのを感じた。肉体という重い殻は次第に輪郭を失い、私の意識はブラウン管をすり抜け、緑色をした基板の迷宮の中へと彷徨い出ていく。
コンデンサの森を抜け、ICチップの摩天楼を見上げる。一切の有機的な匂いがない、0と1の極めて清潔で冷徹な世界。
世間は絶望を忌み嫌い、前を向けと急き立てる。だが、希望という名の鈍い刃が、胸の奥をゆっくりと抉るからこそ、人は己の無力さを痛感する。ならば、端から光など望まなければいいのだ。
未来という妄想の破棄。それこそが救済ではないか。
明日を語らない美しい静止がそこにある。
私はベンチに深く背中を預け、目を閉じた。
誰にも見つけられず、誰にも期待されず。ただ基板を巡る微弱な電流の一部となって、この商業施設が解体されるその日まで、この「異界」という名の、安っぽい夢の中に完全に溶けてしまいたい。
私は名もなき亡霊。
闘うことをやめた敗北者。
まぶたの裏には、チカチカと明滅する残像だけが焼き付いている。そのノイズ混じりの闇の中で、私の視界は、ブラウン管の向こう側にいるリュウの目と完全に重なり合った。
そして、彼と私は、同時にゆっくりと瞬きをした。




