あなたを愛していないわたしは、嫉妬などしませんよ?
「アレクシア。話がある」
放課後。王立学園の校舎内の廊下でアレクシアを呼び止めたのは、アレクシアの婚約者である、ダレルだった。
こうして顔を合わせるのは、何日ぶりだろう。思いながら、アレクシアは、何でしょう、と答えた。
「ここでは何だから、場所を移動しよう」
ダレルはアレクシアの返答を待つことなく、さっさと背を向け、歩きはじめてしまった。人の話を聞かないところは、相変わらずらしい。
はあ。
アレクシアはため息をつくと、仕方なく、ダレルの後をついていった。
ダレルが、今は使われていない音楽室の扉を開ける。すると、待ちわびていたかのような声色で、ダレルの名を呼ぶ女の声が響いた。
「ダレル様っ」
「待たせてすまない、バーサ」
アレクシアは、目を丸くした。一応は婚約者である自分の目の前で、二人が抱き合ったからだ。
立ち尽くすアレクシアに向き直ったダレルは、唐突に「きみには失望したよ」と吐き捨てた。
何のことかさっぱりわからないアレクシアは、首を傾げるしかない。失望するも何も、二人の婚約は親が決めたもので、完全なる政略なもの。子どものころは、愛のある結婚を夢見たこともあったが、現実はそう甘くない。
互いに、割り切っていた。最初のころは二人で出掛けることもあったが、どうせ学園を卒業すれば、結婚が待っている。嫌でも毎日顔を付き合わすことになるのだからと、自然と二人は、必要最低限のときにしか会わなくなっていった。
だから、失望も何もないはず──なのだが。
「ぼくとバーサは、ただの友人関係だ」
「……はあ」
あなたは友人とそのように熱っぽく抱き合うのですかと尋ねたくなったが、アレクシアはぐっと堪えた。
「なのにきみは、ぼくたちの仲を誤解して、バーサを虐めていたんだってね」
ダレルがバーサを庇うように抱き締めながら、アレクシアを睨み付けてくる。一方のアレクシアは、ぽかんとしていた。
「……あの。わたし、そのバーサという方と初めてお会いしたのですが」
バーサは、まあ、と涙を滲ませた。
「そんな言い訳するなんて、ひどいですわ! 子爵令嬢のあなたは、伯爵令嬢のわたしに逆らうことなどできないでしょうと、あたしを打ちながら笑っていたではありませんか?!」
「? はあ。あなたは、子爵令嬢なのですね」
覚えがなさ過ぎて、怒りすら湧いてこないアレクシア。業を煮やしたように、ダレルは声を荒げた。
「お前! さっきからその態度は何だ!!」
アレクシアは、そう言われましても、と顎に手を当てた。
「何もかもがあまりに突然過ぎて……話を整理してもよろしいですか?」
「整理、だと?」
ダレルが顔を歪める。アレクシアは、ええ、と話を進めた。
「ダレルとバーサさんは、友人関係である。けれどわたしは、二人の仲を誤解して、バーサさんを虐めたと」
「そうですわ。あたし、ずっと耐えていましたけど、もう我慢できなくて、ダレル様に打ち明けたんです!」
バーサが涙を浮かべ、叫ぶ。そうですか、とアレクシアが淡々と答える。
「ちなみに二人の仲を誤解、とは。わたし、二人が不貞行為をしていたとでも思っていたのでしょうか?」
「し、知るか! ともかく、ぼくとバーサが恋仲だと誤解していたことには間違いないだろうが!!」
アレクシアは、ふむ、と考える素振りを見せ、口を開いた。
「──していたとして、それがどうしたというのですか?」
「だ、だから。バーサに嫉妬して、だから、ぼくの知らないとこでバーサを虐めて、ぼくから離れさせようと……っ」
「そこが理解できません。そもそもそのような嫉妬は、相手を愛しているからこそ、するものではないのですか?」
ダレルが、え、と口を半開きにした。つられてアレクシアも、え、と返した。
「どうかしました? わたし、何か間違ったこと言いました?」
真剣な表情に、バーサは眉を寄せた。
「何言ってんの? 自分の婚約者が他の令嬢と恋仲だと知って、嫉妬しない人がいるの?」
丁寧な口調、忘れていますよ。アレクシアは思ったが、口には出さなかった。話が拗れると考えたからだ。
「……あなたはまだ、愛のある結婚ができると信じているのですね」
憐れみの双眸を向けられ、バーサは、頭にカッと血がのぼった。
「馬鹿にしてんの?!」
いいえ、とアレクシアは首を左右に振った。
「あなたたちの望みが何なのか、ようやく見えてきました」
「わたしはバーサさんとは、初対面です。にもかかわらず、お二人はわたしが、バーサさんを虐めていたと主張している──つまりは、わたしを陥れたいということですよね?」
「か、勝手なことばかり言うな! ぼくはただ、お前に罪を認めさせたいだけだ!!」
「……認めさせて、どうしたいのですか?」
アレクシアが問いかけると、ダレルは待っていましたとばかりに、腕を組んだ。
「ぼくの大切な友人を虐めるやつとなど、結婚できない。お前との婚約は、破棄させてもらう」
「…………ああ」
なるほど、と。アレクシアは、妙に納得してしまった。納得し、心が急激に冷えていくのを感じた。アレクシアのまとう空気が変化したことに気付いた二人が、びくっと肩を揺らした。
アレクシアは顔をあげ、にっこりと笑った。
「わたしも、婚約者を冤罪にかける男などと結婚したくありません」
「冤罪だと? まだ言うか!」
怒鳴り散らすダレルに、アレクシアは深くため息をついた。
「あなたはバーサさんと結託しているのですか? それとも騙されているのですか? どちらなのです?」
「う、うるさい! うるさい! 黙れ!!」
「都合が悪くなると、あなたはいつもそうですね。昔から、何も変わってない。大人たちがいる前ではその子どものような本性を隠しているせいで、お父様やオリバー伯爵は知らないのでしょうけど……」
馬鹿にされ、見下されたと感じたダレルは、顔を真っ赤にしながらこぶしを震わせた。
「お前、さっきから何なんだよ! ぼくはお前に失望したって、婚約破棄したいって言ってるんだぞ! 少しは落ち込んだらどうなんだ!?」
「あなたを愛していたなら、そうしていたでしょうね」
ダレルは、キョトンとした。
「……は? 違うとでも?」
驚愕しているが、それはアレクシアとて同じだった。
「……少なくとも、先ほどの会話から察せたはずでは?」
ダレルが、言葉に詰まるのがわかった。アレクシアは、心底呆れた。どこからその自信はくるのか。いっそ、感心すら覚えた。
「愛して、いない……?」
不思議そうにするダレルに、アレクシアも、ええ、と首を傾げた。
「逆に、どうしてわたしがあなたを愛していると思えたのですか? 近頃は、ろくに会話もしていなかったはずですが……」
「……それは、ぼくにそっけないきみが嫌になったから……だから会わないようにしていただけで……きみは、我慢しているのかと」
「……そっけなくしている相手を愛していると、どうして思えたのでしょうか」
「きみは不器用で、素直じゃないから……好きな相手にこそ、そうなるのかなと思って……」
何とまあ、都合のいい解釈だろうか。アレクシアは、絶句した。
「第一、ぼくのことが好きじゃないなら、そもそもぼくと婚約なんてしてないはずだろ?」
「それは、お父様の命令だったからです。あなたも同じでしょう?」
「違うね。あのとき、父上たちはこう言っていたはずだ。ぼくか、ダンのどちらかを選びなさいと」
ダン、とは。二つ年下の、ダレルの弟。文武両道の、オリバー伯爵家の優れた三男である。
「そしてきみは、ぼくを選んだ。少なくとも、あの憎たらしいダンよりは、ぼくに好意を抱いていたはずだ。違うか?」
(……なるほど。あれがきっかけでダレルは、変な自信を持ってしまったのね)
アレクシアはあのとき理由を説明しなかったことを後悔しつつ、違います、ときっぱり否定した。
「わたしはダンから事前に、想い人がいることを聞かされていました。だから、あなたを選んだ。ただ、それだけです」
ダレルは目を見開いた。
「……そ、そんな。苦し紛れに、そんな嘘を」
「なら、ダンに直接尋ねてみてください。その想い人と婚約することになったと、三ヶ月前に、お礼の手紙が届きましたから」
ダレルがショックで固まる。優秀な兄と弟に挟まれたダレルにとって、自分を選んでくれたという事実は、何よりの自信に繋がっていた。
だから、それを否定されたダレルは、絶望した。
絶望するまま、アレクシアに、手をあげた。
ぱあん。
乾いた音が、音楽室に響いた。
──愛するぼくが、婚約破棄したいと告げたら、アレクシアはどんな反応をするだろう。
絶望し、別れないでくれと縋るアレクシアの姿を想像しただけで、口元が緩んだ。ただ、どんな理由にせよ、アレクシアはぼくを放っておきすぎた。だからもう、愛情はない。
毎日、好きだ、愛していると伝えてくれるバーサ。ぼくが一番だと、素直な気持ちを言ってくれる。
バーサを愛している。バーサも、ぼくを愛してくれている。そしてぼくは、兄より弟より、優れている。
幸せだと、胸を張れる。
ぼくをほったらかしにしたアレクシアのことなんて捨てて、バーサと、幸せになると決めた。
決めたんだ。
「……あ」
気付いたときにはもう、アレクシアの頬を叩いていた。右手がじんじん痛みはじめる。
打つつもりはなかった。なかったが、平然と人を傷付ける言葉を吐いたアレクシアが悪いのだと思い直し、ダレルは顔をあげた──いや、あげようしたが、できなかった。
股間を、アレクシアに膝蹴りされたからだ。
「…………っっ」
股間を押さえ、膝から崩れ落ちるダレル。バーサが真っ青な顔で口元を両手で覆い、おろおろする。
アレクシアは今のうちだと音楽室を飛び出し、走って走って、学園のすぐ傍で待機しているアルマンド伯爵家の馬車に飛び乗った。
「出して! 早く! お屋敷まで全速力!」
命じられた馭者が、は、はい、と困惑しながらも手綱を握った。馬車が、ゆっくりと動きはじめる。
馬車内で、アレクシアは荒い息を整える。アレクシアの父親──宮中伯のアルマンド伯爵の屋敷は王都にあるため、ここから数十分とかからない。
(今日は、遅くならないって言っていたはず……っ)
きっと、ダレルは後を追いかけてくる。そうなれば、どんな嘘をまき散らすかわからない。そうなる前に、屋敷に着いたら、すぐに事情を説明しなければ。
アレクシアは痛みを自覚しはじめた左頬を押さえ、ふう、と深く息を吐いた。
屋敷に着くなり、アレクシアは出迎えてくれた侍女に詰め寄った。
「お父様は?!」
「え? さ、さきほど、お帰りになりましたが……」
「どこにいるの?!」
「じ、自室でお着替えをされているかと……」
「わかったわ。ありがとう」
アレクシアが二階へと続く階段に足を向ける。アレクシアの横顔を見て、侍女は、頬が赤くなっていることに気付いた。
「アレクシアお嬢様? 左頬が、赤くなっているようですが……」
「え? ああ、これは……ダレルに打たれて」
「?! ダレル様にですか? ど、どうして」
「──騒がしいな」
階段上から降ってきた声は、アレクシアの父親である、アルマンド伯爵のものだった。その横には、アルマンド伯爵夫人もいた。
「お父様、お母様」
ほっとしたように胸を撫で下ろした娘の様子に、両親たちは首を傾げた。
「いったい、どうしたというのだ」
「何かあったの?」
アレクシアは、はい、と頷き、はやる気持ちを抑え、口火を切った。
「……何だ、それは。無茶苦茶ではないかっ」
話を聞き終えたアルマンド伯爵は、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。隣ではアルマンド伯爵夫人も、似たような顔をしている。
「アレクシア。どうしてもっと早く報告しなかったんだ!」
アルマンド伯爵に詰め寄られたアレクシアは、戸惑った。
「……で、ですが。これでも最速で」
「今回のことではない。お前、ダレルとはうまくいっていると言っていたではないか。ダレルとデートだと休日出掛けていたのは、嘘だったのか?」
「……それは……申し訳ありません。お父様が選んだ方なので、うまくいっていないなどと、言いたくなくて……」
そのとき。
ドアノッカーを叩く音が玄関ホールに響いた。集まっていた全員が、扉に注目する。アルマンド伯爵に目配せをされた侍女が、こくりと頷いた。
「どなたでしょうか?」
侍女の問いかけに、扉を隔てた向こう側から、ダレルです、との返答があった。
アルマンド伯爵の眼光が鋭く光る。
「私が対応する。お前たちは、ここで待っていなさい」
そう告げると、アルマンド伯爵は、扉を開けた。
外に出たアルマンド伯爵は、後ろ手で、扉を閉めた。怒りを宿した双眸に、ダレルとバーサはごくりと生唾を飲んだが、すぐに開き直ったかのように、口を開いた。
「アルマンド伯爵。アレクシアから何か話を聞かされたかもしれませんが、それらは全て、虚言です」
「……ほお?」
「ぼくが事実を説明します。ここにいるのは、ぼくの友人の子爵令嬢、バーサです。誓って、特別な関係ではありません」
ダレルと目線を交差させたバーサが、その通りです、と首を縦に振る。
「ですが、あたしとダレル様の関係を誤解したアレクシア様が、あたしに嫌がらせをしてきたのです。最初はあたしも、耐えていました。話し合いを続ければいつか、わかってくれるものと信じていましたから。でも……」
「そう、そうなのです。耐えて、耐えて。でも耐えられなくなって、ようやくぼくに相談してきたというわけです」
アルマンド伯爵は「そこまで言い切るなら、証拠はあるのだろうな」と、腕を組んだ。
ダレルは、ぴくりと片眉を動かした。
「……証拠、ですか?」
「ああ、そうだ」
「アルマンド伯爵。虐めの証拠など、そうそうあるものではありませんし、虐められたという被害者の証言があることは、ある意味で証拠と言えるのではないでしょうか」
「なら、証人はいるのか?」
たたみかけてくるアルマンド伯爵に、ダレルが歯噛みする。
「……アレクシアは、人目のつかないところでバーサを虐めていたのです。証人など、いるはずがありません」
「つまりは、証拠もなければ証人もいないということだな」
「……ですから! そんなもの、ある方がおかしいと言っているのです!!」
「──ならば、私が調べるとしよう」
アルマンド伯爵の言葉に、二人は目を瞠った。そんな二人をよそに、アルマンド伯爵は続ける。
「複数回、アレクシアがお前を虐めていたというなら、アレクシアとお前が一緒にいるところを目撃した生徒や教師が、探せばいるのではないか?」
「そ、れはそうかもしれませんが……必ずしもいるとは……」
ダレルが視線を泳がせるのを見てから、アルマンド伯爵はバーサに顔を向けた。
「子爵令嬢。お前がアレクシアに虐められたというのは、いつだ? 一番最近のものでかまわん」
「え? そんな……急に言われましても」
「なら、時間をやる。耐えきれなくなってダレルに相談したということなら、それほど前のことではないはずだ。日付と、できるだけ正確な時間を思い出せ」
「……あ、あの」
「もしその日、その時間にアレクシアにアリバイがあった場合──どうなるか、わかっているな?」
静かな威圧感に、ダレルとバーサはごくりと生唾を飲んだ。
「もう一つ。アレクシアがそこの子爵令嬢と、そもそも接触していたかを調べると同時に、貴様ら二人が本当に友人関係なのかどうかも調べさせてもらうが、かまわんな?」
「ア、アルマンド伯爵は、ぼくのこと、信じてはいないのですね?!」
「何の証拠も証人もいないのだ。まず娘を信じるのは、親として当然だろう──と、言いたいところだが」
ダレルが「な、何ですか……っ」と、後退る。
「本当にやましいことがないのなら、先ほどの私の問いに、即答できるはずだろう。どう調べてもらってもかまわない、とな」
「…………ち、違っ」
「それで、そこの娘。日付と時間は思い出せたか?」
完全に油断していたバーサが、びくっと身体を揺らした。アルマンド伯爵は、もういい、と吐き捨てた。
「どちらにせよ、アレクシアと貴様の婚約はなしだ。オリバー伯爵には、私から話をする」
その科白にダレルは一転、顔をほころばせた。
「そ、それは、お互い合意ということで、つまりは、婚約解消ということでしょうか?」
ここまできたら、ダレルはもう、穏便に事を進めたかった。本来はアレクシアを悪者にして、こちらから婚約を破棄したかった。でも、もういい。婚約解消ならきっと、父上も許してくれるから。
「──馬鹿か貴様は」
低音の、地の底から響いたような声色に、ダレルは悲鳴をあげそうになった。
「お前たちの態度から、アレクシアこそが正しいとわかった。これから、それを証明するために、証拠と証人を集める。そのうえで、貴様とは婚約破棄する。アレクシアに冤罪をかぶせたうえ、暴力を働いたのだからな。慰謝料の額は、容赦せん──もっとも、オリバー伯爵に、その力はないがな」
「……へ?」
「何だ、その間抜け面は。オリバー伯爵は、領地を借金の担保に入れなければならないほどに、金に困っているではないか」
ダレルは目を丸くしたまま、固まってしまった。まったくの、初耳だったからだ。それはむろん、隣にいるバーサも同じだったようで。
「ちょ、ちょっとどういうこと?! そんなの聞いてない!!」
ダレルの身体を揺するが、ダレルは身体を硬直させたまま、動かなくなってしまった。
アルマンド伯爵は、心底呆れながら、深いため息をついた。
「……なるほどな。貧乏貴族の子息であるお前が、どうしてこんなことをしたのか疑問だったが──まさか、そんなことすら知らなかったとは」
呆然とするダレルに、アルマンド伯爵は侮蔑の眼差しを向けた。
「そうでなくても、普通の頭ではこんな馬鹿なことはそうそう思いつかんし、まして実行しようとは考えんだろうがな」
ダレルを問い詰めても無駄だと感じたバーサは、アルマンド伯爵に目線を移した。
「ア、アルマンド伯爵家は、資産家ではないですか。それがどうして、借金がある貴族の子息なんかと……」
アルマンド伯爵は、ダレルとバーサを交互に見た。答える義理はない、と言ってもよかったのだが。
(ダレルに真実を伝え、いかに愚かな行為をしたかを、思い知ってもらうとするか)
そう考え、アルマンド伯爵は口を開いた。
「昔、妻との旅行中、賊に襲われたことがあってな。むろん護衛はいたが、少し苦戦していた。そこに偶然通りかかったオリバー伯爵が、加勢してくれたのだ。いわば、私たちの命の恩人だな」
アルマンド伯爵は、ダレルに視線を移した。
「むろん、それだけで大事な娘と貴様を婚約させたわけではない。オリバー伯爵は人格者だ。その息子ならと、思ったのだがな。まさかろくにアレクシアと会ってもいないどころか、こんな愚かな計画まで立てる屑だったとは。だがまあ、結婚する前に本性が知れたのは、不幸中の幸いか」
「……あ、あの。アルマンド伯爵……ぼく、は」
ガタガタと小刻みに震えながら、ダレルがようやく顔をあげた。アルマンド伯爵は、憐れみの双眸を向けた。
「これで、財産分与も、むろん持参金もなしだ。オリバー伯爵は、アレクシアと貴様の婚約が決まったとき、泣いて喜んでいたものだがな。貴様のせいで、全てが白紙──どころか、逆に慰謝料を請求されるのだからな。オリバー伯爵家は、もう終わりだな」
「ち、父上が命の恩人だというのなら、そ、そんなこと、しません、よね?」
「アレクシアとお前を婚約させた時点で、借りはもう、なくなっている。オリバー伯爵も、了承済みだ」
他に質問は。
射るようなアルマンド伯爵の目に、ダレルもバーサも、反論などできるはずもなく。
ただ、項垂れた。
「そこの子爵令嬢。貴様にも、むろん慰謝料は請求させてもらうからな。よくよく覚えておけ」
アルマンド伯爵はそう吐き捨てると、踵を返し、屋敷に入っていった。
残されたダレルとバーサは、しばらくその場から動けなかったが、アルマンド伯爵に命じられた使用人たちによって、門の外に放り出された。
──翌朝。
二人が王都から出て行ったとの目撃情報が、アルマンド伯爵の元に届いた。それから数日後、身元不明の遺体の中に、ダレルとバーサが交じることになるが、二人を知る者がそれを知ることは、ついぞなかった。
「護衛もなしに王都の外に出るなど、自殺行為に等しい。どのみち、そうなる運命だったかもしれんがな」
夕飯を食べ終えたアルマンド伯爵が、カップ片手に、肩を竦める。右斜めに座るアレクシアが、かちゃ、と、皿にナイフとフォークを置いた。
「けれど二人一緒に、ではなく、別々に王都を出て行ったのは、意外でした。どんな意図があったのでしょう」
「単に、愛がなかったのだろう。少なくともあのバーサとかいう女は、伯爵令息であるダレルだからこそ、付き合っていたのだろう。借金があるなど、夢にも思わずに。それを知ったとき、鬼のような形相をしていたからな」
「……そうですか」
二人のやったことは、許せない。だが、せめて二人の間にぐらい、愛情はあってほしかった。そう思うのは、何故だろうか。
「……愛し合うお父様とお母様の子に生まれたわたしは、幸せ者ですね」
ぽつりと漏らした言葉に、両親は、目を丸くした。
「何だ、突然」
「いえ。貴族は政略結婚が多いと聞きますので……つい」
あら。アルマンド伯爵夫人が、くすりと笑う。
「わたくしとお父様も、政略結婚ですよ?」
「え? そうだったのですか?」
「ええ。ねえ、あなた」
微笑みかけられたアルマンド伯爵が、まあな、と、照れ隠しのように一つ、咳払いをした。
「ね? 政略的なものだからといって、愛情が生まれないとは限らないでしょう?」
アルマンド伯爵夫人が、慈しむように目を細める。アレクシアはどうしてか、目の奥が熱くなった。
「……今度、お父様とお母様がどのようにして愛し合うようになったのか、是非、聞かせてください」
アルマンド伯爵夫人は、いいですよ、と笑い、アルマンド伯爵は、自室に戻る、と言い、食堂を出て行ってしまった。
アレクシアとアルマンド伯爵夫人は顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。
──その後。
連絡を受けたダレルとバーサの父親は、すぐにアルマンド伯爵の元に飛んできた。土下座し、恥も外聞も捨て、申し訳ありませんとただひたすら謝罪した。
アレクシアの精神的苦痛も含めた慰謝料を減額する気はない、と断言しつつ、アルマンド伯爵は、一括ではなく、分割を認めた。
「──ただし。これが一日でも遅れることがあったら、残りは全て、一括で支払ってもらう」
二人の父親は、わかりました、と書類に署名した。オリバー伯爵は、馬鹿なプライドなど捨て、息子に我が家の経済状況を教えていればと、最後まで泣いていた。
「本当にこれで良かったのか?」
屋敷の主の自室にて。アルマンド伯爵が尋ねると、アレクシアは、はい、と笑った。一括ではなく分割でとアルマンド伯爵に進言したのは、アレクシアだった。
アルマンド伯爵は、椅子の背もたれに体重を預け、目の前に立つ娘を改めて見た。
「……甘いな」
「だって、オリバー伯爵は、お父様とお母様の命の恩人なのでしょう?」
アルマンド伯爵が、ふん、と鼻を鳴らす。一回目の支払いは滞りなくされたが、これから先、オリバー伯爵家がどうなるかはわからない。ただでさえ厳しい経済状況が、悪化したのだ。だからと言って、もう、情けをかけるつもりは毛頭ない。
「だが、バーサという女の家には、何の恩もない」
「ですが、あの方のおかげでダレルの本性が知れたわけですし」
アルマンド伯爵は、はあ、とため息をついた。
「……今回のこと。あの小僧の本性を見抜けなかった私にも、責任はある。だからこそ、お前の提案を受け入れたわけだが」
「はい。ありがとうございます」
にっこり。アレクシアが微笑む。アルマンド伯爵はもう一度、深くため息をついた。
「……もうすぐお前の社交界デビューだな」
「はい」
「好いた相手はできたか?」
アレクシアは、いいえ、と小さく頭を振ってから、口を開いた。
「ですから、可能ならば、またお父様に相手を探していただきたいなと」
アルマンド伯爵は、ゆっくりと面をあげた。
「……いいのか?」
「ええ。お父様のこと、信用していますから」
それに、と。アレクシアは口元を緩めた。
「政略結婚だからと言って、愛が生まれないとは、限りませんから」
ですよね?
アレクシアが問うと、アルマンド伯爵は観念したように、そうだな、と小さく笑った。
─おわり─