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短編

ハーレムにだってルールがある

作者: 猫宮蒼



「お前がそこまで愚かだとは思わなかった」


 父にそう吐き捨てられ、ステファンは最初何故そんな風に言われているのかがわからなかった。だが父が怒っているという事はかろうじて理解できた。


「父上、一体どうしたのですか」

「どうもこうもあるか! いいか、お前とは今日限りで縁を切る! 最低限荷物を纏める慈悲はやる。とっとと出ていけ!!」

 一瞬で顔を真っ赤にさせて怒鳴る父に、何故です!? とステファンもまた悲鳴のような声を上げた。

 家を出ていけ、という程度ならまだしも縁を切るとは穏やかではない。

 そもそもこの家の息子は自分ただ一人。自分が出ていってしまっては、この家の跡取りはどうするというのだ。

 だがそんな事を問うたとしても、父が意見を翻す事もなさそうだ。少なくともこの状態では冷静に話を聞ける余裕もない。

 頭を冷やす時間が必要だな、と思ったステファンは一先ず自室へと戻る事にした。

 時間をおけば多少なりとも冷静になって、話ができるだろう。



「わたしの話が理解できなかったのか! 出ていけと言ったんだ!!」


 自室でのんびりくつろいでいたステファンだが、一向に部屋から出てくる様子もなく、また耳を澄ませても荷造りをしているような感じもしかなった事で父は声を荒げながらドアを開け放った。


「もういい、お前のような馬鹿に少しでも情けをかけようと思ったのが間違いだった。おい、ジョルジュ! ジョルジュ!!」

「はいこちらに、旦那様」


 よく通る声で呼ばれたからか、すっと執事であるジョルジュが現れる。むしろ最初から近くにいたのではないか、と思えるくらいに出てくるのは一瞬だった。

「こいつをとっとと追い出してくれ」

「かしこまりました」


 言うが早いかジョルジュは室内に足を踏み入れステファンへと近づくと――


「え、おい、ジョルジュ!?」


 無造作にステファンを担ぎ上げた。

 ジョルジュは年老いた執事だ。対するステファンは成人を迎えたばかり。体格差も勿論あるが、何よりジョルジュがこんなあっさりとステファンを荷物のように担ぎ上げるとは思わなかった。そのせいでステファンも思わず困惑した声を上げる。

 ジョルジュの首を支点にするようにステファンは頭と腰のあたりを固定されてしまっている。このままジョルジュが後ろに倒れればそれだけでステファンは痛い目を見るだろう。


「人の話もロクに聞けんような奴にかける慈悲もなくなったわ。いいか、二度とその顔見せてくれるなよ!」

「ち、父上……」

「貴様とは今日限りで他人だ。二度と父などと呼んでみろ。不敬罪で首を刎ねてやる」

 そう言ってぎろりと睨みつけた父の表情はとても冗談を言っている風でもなかった。

 明らかに本気である。


 ここにきてようやくステファンは自分が何か不味い事をしたのではないか、と考え始めた。だが既に手遅れだった。

 成人男性一人を担いでいるとは思えないくらいに軽やかな足取りで移動するジョルジュはそのまま玄関へと向かい、屋敷の外へと出る。そうして門を開けるとその場に無造作にステファンを叩き落した。


「いっっっっって!! 何するんだジョルジュ!」

「何、と申されましても、旦那様の言いつけに従いメルシュミッツ家に入り込んだ平民を排除したまでの事」

「平民って……俺はこの家の一人息子だぞ!?」

「ですが旦那様は縁をお切りになられました。貴方は今をもって平民なのです。間違っても外でメルシュミッツ家の名を出して好き勝手やらないように。家の名を出しても金は出ません。旦那様がまだ慈悲の心を持っていたうちに荷造りでもしておけばよかったものを……

 とはいえ、流石に無一文はどうかと思うのでこちら、わたくしからの餞別でございます」


 じゃりっ、という音を立てて革袋が地面に落とされる。

 片手で持つような小さな革袋だ。落とした時の音からして中に硬貨が入っているのはわかった。


「いいですね、旦那様は決して冗談で言っているわけではありません。貴方がこれ以上何もしなければ、旦那様も率先して処分しようとはしないでしょう。ですがこれ以上メルシュミッツ家の名を汚すような行いをすれば、旦那様は確実に貴方の息の根を止めます。努々お忘れなきよう」


 では、ごきげんよう。


 なんて言いながら門が閉められていく。あ、と思った時にはもう手遅れだった。

 一先ずジョルジュが落とした革袋を拾い上げる。そうして開けてみれば中身は――


「全部銅貨とか……え、これどうしろと」


 ステファンは本気で途方に暮れた。中を全部数えたわけじゃないが、それでもこの重さから大体の想像はつく。これが金貨であればまぁ、数か月はどうにかなっただろう。けれどもオール銅貨。銀貨ですらない。

 え、これ、ものすごく切り詰めたら三日はどうにかなる……か? というくらいしかない。

 その切り詰める、も貴族として暮らしていた時というわけではなく、ステファンが耳にした平民の暮らしを基準にした上で、といったところだ。

 いつものように過ごそうと思えば間違いなく一日ももたない。


 みみっちい金額でしかないが、それでもないよりはマシだ。

 盗まれないように、とガッチリ懐に革袋をしまい込む。

 そしてステファンはしぶしぶ立ち上がるとのろのろとした足取りで歩き始めた。アテなどない。いや、全くないわけじゃないな……と思い直してまずは酒場へと向かう事にした。




 ――酒場に向かう途中、若い男女に人気だというカフェテリアで見知った人物を見かけた。基本的に平民が客の大半を占めているが、それでも中にはたまにお忍びでやってくる貴族もいる。

 貴族の茶会と比べれば劣る点は多いが店は女性ウケするデザインのせいか、お忍びでやってくる貴族の大半は大体が令嬢である。令息が来るのはやはりお忍びで婚約者や恋人と訪れる時くらいだろうか。

 出てくる料理も普段自分たちの家で出される物と比べれば別段何が優れているわけでもない。けれども、女性たちは雰囲気込みで楽しんでいるらしい。


(そういや最近流行ってるって話の演劇でカフェテリアで恋人たちが愛を囁くシーンがあったから、それで人気なのかもな)


 なんて思った事を覚えている。

 だが今はそれどころではない。ステファンは見知った人物を見かけた事で進路を変えてカフェテリアへと向かっていった。ずんずんと大股で移動する彼の姿は、傍から見ると若干鬼気迫るものがあったのか向かい側から移動していた者たちがなるべく不自然にならない程度に道の端へと移動してステファンから距離を取ろうとする。




「ローズマリー、丁度いいところに」

 ステファンが声をかけたのは、彼の婚約者であったローズマリーであった。

 ローズマリー・フィリムス。

 侯爵令嬢である。

 彼女もまたお忍びでやって来ています、といった程度に普段着ているドレスより幾段か質を落とした服を着ていた。ステファンはその服を見て地味だな、と思ったがお忍びなのでそんなものだろう。


 とはいえ、平民から見ればローズマリーが着ている服はそれでも上等なものだ。本人はお忍びのつもりだろうけれど、周囲から見ればお察し状態。だがそれを指摘する平民がいるはずがないので、ローズマリーはお忍びがバレバレであると気付かれたとは思っていない。


 ローズマリーは声をかけられステファンに視線を向けて――露骨に表情を歪めた。

 貴族令嬢は公の場では感情をみだりに表に出さないように、と育てられている。親しい者ばかりであればまだしも、政敵やそれに近い者がいる中で感情を露わにしていては、ちょっとした仕草や表情などから弱みを握られかねない。だからこそ、普段のローズマリーはツンとお澄まししていますけれど? みたいな表情であったのだが。

 まさかお忍びできているからとて、ここまで露骨に表情を歪められるとは考えてもいなかったステファンは思わずたじろいでしまった。


 ローズマリーが露骨にイヤそうな顔をしたのは単純にステファンの服装を見ての事だ。彼は着の身着のまま家を追い出されたも同然だが、その服は貴族令息として普段着ている物、つまりは、お忍び以前の問題である。

 ここであからさまに貴族ですよ、と全体で表現しているような服装の人間に声をかけられたのだ。お忍びで来ているローズマリーからすればふざけていらっしゃるのかしら? という話だ。


「ローズマリーさん、お待たせしました」

「ミランダ!? 何故貴方までここに?」


 ローズマリーかステファンが何かを言うよりも先に声がかかる。

 そちらに視線を向ければ、そこにはミランダ・ノルディウム侯爵令嬢がいた。

 彼女もお忍びでやってきているらしく、着ている服装はローズマリーと似たような系統だ。

 そして普段より口調が砕けているのは、あくまでもお忍びでやって来ているので平民に寄せようとした結果なのだろう。それでも平民から見れば大分丁寧な口調と物腰なので、彼女もまたお忍びでやって来ている貴族だと周囲にバレているのだが。

 そしてミランダに対して驚きの声を上げたステファンに、ミランダは「うわ」とか言い出しそうな表情を浮かべた。ローズマリー共々失礼な態度である。

 彼女もまたステファンの婚約者であった。


「ごめんなさいちょっと遅れてしまいました……って、あら?」

「メリル……!? きみまで?」


「遅れたのはあたしが原因だからあんまり怒らないでやってくれな。って、うわ」

「ジェシカ……」


 メリルと呼ばれた少女はきょとんとした顔をしていたが、その直後にやってきた女性はステファンの顔を見るなり隠す事なく嫌そうに「うわ」と言ってのけた。


 メリル・ギルベストン。伯爵令嬢である。

 そしてジェシカ。彼女は平民だった。


「なんでこいつがここに? 誰か呼んだ?」

「いいえ」

「そんなはずないでしょう」

「そもそも必要ありませんし」


 ジェシカの問いに三人はきっぱりとこたえる。その声は誰もが冷え冷えとしていた。決して婚約者に向ける声音ではない。


「な、なぁ、悪いがちょっと家を追い出されてしまってな。数日でいいんだ、置いてくれないか?」

 正直こういう事を頼むのはとても恥だと思うが、そもそも現在手持ちの金額だけでは気軽に宿をとるのも躊躇われる。何でか知らないがこの場にいる彼女たちは全員がステファンの婚約者なので、誰か一人くらいは家に泊めてくれるだろう、と思っていた。

 だがしかし四人の態度はつれないものだった。


「お断りいたします」

「流石にそれはちょっと」

「お父様に叱られてしまいますわ。わたくし、そこまではしたない女じゃありませんの」

「頼まれたってごめんだよ」


「はしたない、って……婚約者なんだ。別に問題ないだろう」

「違いますわ。え、あらやだ。もしかしてまだ現実を直視できていませんの? だってあなた、少し前までは貴族だったかもしれませんけど、今はもう親から縁を切られて平民になったではありませんか。

 メルシュミッツ家との婚約ならまだしも、平民の方と夫婦になっても我が家には何のメリットもございませんし」

「えぇ、うちも平民を何の理由もなく家に迎え入れるわけには」

「むしろ何故そのような事をしなければならないのでしょうか」

「うちもごめんだよ。生活に余裕があるわけじゃないからね。ただ飯ぐらいを受け入れるつもりはないよ」


 少し前までは確かに愛し合っていたと思える女性たちであったが、今は一転、ステファンとは関わりたくもないといった雰囲気である。

 どうやら四人はここでお茶を楽しむつもりだったらしく、ローズマリーが先に来て席を確保し、後から三人がやってきた、という感じであった。そこに更に呼んでもいないステファンがいる事で、周囲の視線もチラチラとこちらに向けられつつある。


 事情がわからなくても、今しがた聞こえてきた言葉から男性が貴族であった、というのはわかる事だししかも今は男性はどうやら家からの縁を切られ平民になっている、というのも理解できる。

 そしてかつて貴族であった男性と婚約者だった女性たちは今ではもうその立場ですらない、と。


 どう聞いてもゴシップの気配。

 娯楽はそう多いものでもないためか、周囲の客は何食わぬ顔をしながらも隠し切れない興味があった。ある者は目を凝らし、ある者は耳を澄ませる。

 ローズマリーたちもそれらに気付いてはいる。本来はこんな事になるつもりではなかったのに、ステファンがわざわざ来てしまったのだから仕方がない。

 下手に醜聞として知れ渡るよりは、とローズマリーがそっと三人に目配せをした。

 三人も了解、とばかりに小さく頷く。


 テーブルは四人が席につく程度の大きさしかない。そして椅子には早々にローズマリーたちが座ってしまった。だからこそステファンはその近くにただ突っ立っている状態だった。

 傍から見れば従者が控えている、ように見えなくも……いや、控えるにしては距離が近いのでやはり従者とは思われないだろう。ただ、この状態であるためにステファンはやたらと周囲から浮いていた。


 これが社交の場で華々しく注目を集めている、というのであればステファンとて気にしなかっただろう。けれども平民たちも集まるようなカフェテリア。お忍び貴族も数名紛れているような場所で、悪目立ちしているようなものだ。

 ステファンからすれば屈辱と思える事でもあったが、いきなり縁を切って家から追い出した父に話を聞きに戻れるような状況ではない。次戻ればきっとステファンは酷い目に遭う。それくらいは落ち着いて考えればわかりきった事でもあった。

 であれば、次に自分に近しい間柄でもあり、既にステファンが平民となっているというのを知っている彼女らから情報を聞き出すしかない。

 友人がいないわけでもないが、そちらが本当に事情を理解しているかどうかはわからないのだ。何も知らない友人の所へ行って自分から平民になった、なんて言えるはずもない。

 そうなった場合、友人の反応は大きく分けて二つ。

 興味を持ってどうしてそうなったか情報を集める。ただしその結果をステファンに教えてくれるかどうかは謎。

 次に平民になった事でもう彼と付き合うメリットはないとあっさりばっさり切り捨てるか。

 どちらにしてもステファンが得られる情報はほぼない。

 ならばやはりここで何かを知っている彼女らから話を聞きだす他ないのだ。



「そもそも、事の発端は貴方の不作法によるものでしてよ」

 正直さっさと立ち去ってくれないかしら、と言わんばかりの態度でローズマリーが告げる。そうだそうだ、とばかりにミランダが頷いていた。

「不作法……そんな、平民になるような酷い不作法なんてした覚えが」

「ない、とおっしゃるのであれば致命的ですわね。そのような愚か者、後継ぎになどしようものなら歴史と伝統あるメルシュミッツ家は衰退の一途を辿る他ありません。廃嫡やむなし、と言ったところかしら」


 ステファンのせいで周囲から彼女らがお忍び貴族であるという事は知られているのだろう、と思ったローズマリーはいっそ開き直るつもりで割と普段通りの口調に戻した。とはいえ、それでもまだ若干の抵抗があるのかところどころ崩そうと試みた形跡がある。


「そもそもさぁ、自業自得だとは思うけど、原因はあたしたちとの婚約だよ」

 ローズマリーたち貴族令嬢がここにお忍びで何度か来ている事をジェシカは知っている。だというのにあまりにもここで貴族らしい振舞いをしてしまえば、次からはもうお忍びもあったものじゃない……と考えてジェシカが口を開いた。本来の場であれば失礼な振る舞いになりかねないが、ローズマリーたちは何も言わなかった。ジェシカの気遣いに即座に気付いたからだ。むしろ彼女にこんな事を言わせてしまって申し訳ないな、とすら思っている。



 この国では一夫多妻というものは別に珍しくもなんともない。ただ、妻を多く持つ事に関してそれなりのルールが存在している。

 例えば金もなければ稼ぎもない男が数名の妻を娶ったとしても、妻を養えるはずもない。妻が金を持っているのであればまだしも、子が生まれた後も財産を食いつぶすしか能のない男が子育てといったものに関わるかどうかも疑わしい。

 夫側に金があればまぁ、人を雇うという選択もあるが……

 基本的に平民にはこの一夫多妻、正直あまり縁のない話だ。


 妻を複数迎える、というのは主に貴族や王族などではよく聞く話ではあるものの、であれば当然それなりの手順や作法といったものが存在する。ステファンはそれらを一切無視した形となっていたのだ。



 真実を最初に知ったのはローズマリーであった。

 彼女はステファンの婚約者候補の一人であった。

 メルシュミッツ家は公爵家。貴族たちの派閥の中ではかなり大きな立場であった。

 跡取り問題を考えれば子は多すぎても争いの素になりかねないが、優秀な人材が生まれればそれはそれで……という考えの元、メルシュミッツ公爵は息子のステファンに数名、婚約者候補の女性を紹介した。


 ローズマリーは最初、その話が出た時点で婚約者候補である、という話は聞いていた。

 侯爵家と公爵家。身分を考えればまぁそこまでおかしな縁談でもないし、他に候補がいるというのも頷けるものだった。あの家と縁を結びたいと考える者はそれなりにいるだろうから。


 けれどもステファンはすぐさまローズマリーを婚約者扱いしていた。

 あれ? と思ったのだ。

 でも、ローズマリーはそこで根掘り葉掘り聞くような真似はできなかった。ローズマリー自身周囲からどう見られているかは知っているし、それらの評判とあわせて自分が彼の好みの女性であったからこそ即座に決めたのだろうか、と思ったのだ。

 下手に聞き込んで、それが愛を乞うているなんて思われるのも恥ずかしいというかはしたないというか……ともあれ、彼が選んでくれたのであればいいか、と思ってしまったのだ。


 真実を知る事になった発端は茶会であった。

 ローズマリーの母の妹が嫁いでいった先の娘、それがメリルだ。

 メリルとはそれなりに長い付き合いで、ローズマリーは自身の友人でもあるミランダと共に小さな茶会を開いた。


 その時に、ミランダが婚約者が決まりました、と告げ、メリルもおめでとうございます、あ、わたくしも決まったんですよ、とそれぞれが報告しあったのだが。

 まぁ素敵、どんな方? と聞けばステファンだという。


 同じ名前の別の家の貴族だろうかと思ってよく聞いてみれば、間違いなくメルシュミッツ家のステファンだった。


 この時点で三人だけの茶会はとてつもなく重たい空気に包まれる事となった。


 一夫多妻が認められているので、妻が多くいるのは構わない。

 だが、妻を増やす際には旦那の一方的な決定というのは認められないのだ。


 例えば家同士がもうどうしようもない程仲の悪いところの令嬢同士を嫁に迎え入れたら最悪その家で妻同士のキャットファイトなんてもんじゃない争いが勃発しかねない。というか、随分昔に勝手にそれやらかして潰れた家がある。


 妻を増やすのであれば、その時点でいる妻たち全員に了承をとらなければならない。誰か一人でも反対したらその相手は妻として迎え入れられなくなってしまう。

 次に妻の扱いは基本的に全員平等である事。

 最初にいた妻をないがしろにして新しい妻とばかりいちゃつく、というのもご法度だった。

 妻の実家の立場にもよるため、多少の差が出る事はあってもそれでもなるべく妻の扱いは平等にしなければならない。それができないのであれば、やはり妻を増やすという事は推奨されていないのだ。


 家で飼ってる猫の他に新たに猫を迎えるのであれば、先住猫をないがしろにしてはいけない、とかいうのと似ている。

 何か、致命的なまでの決裂があったというのであればまだしも、そうでもないのにある日突然夫の態度が冷たくなった挙句新しい妻を勝手に迎え入れていた、なんて事になれば最初にいた妻の気持ちは最悪だろう。その後何のフォローもないままであれば、家庭内の空気は確実に最悪なものとなる。



 ステファンはこの時点で三人の貴族令嬢を婚約者という扱いをしていた。

 だが、彼女たちは他にもステファンと婚約している者がいる、などとはこれっぽっちも聞いちゃいなかった。それはある種騙し討ちのようなもので、ルールとかマナー以前の話であった。

 後に引けなくなってから言えばなし崩しでどうにかなったのかもしれない、とか考えていたとしても、ローズマリーにミランダ、そしてメリルの事を心底から馬鹿にしているととられても仕方のない態度だ。


 幸いにして三人は良好な関係を築いていたが、だからといって何も言わないままでいいというわけではない。下手をすれば三人の仲に亀裂が入るかもしれない可能性もあるのだから、尚更伝えるべき事であったのだ。


 三人はこの時点で結構ショックだったのだ。他に妻を迎えるという話は聞いていなかった。だからこそ、自分だけを愛してくれるのだろうと思っていた。それならば、自分もそれに精一杯応えなければ、と思っていたというのに。

 あの野郎、と最初に呟いたのが誰だったかは覚えていない。何せ三人ほぼ同時に呟いていたし怒りでちょっと冷静さを欠いていたし。

 だが直後には急速に冷静になった。沸騰していたお湯が一瞬で凍り付いたような感覚。


 こんな不義理な事をするような男だもの、もしかしたら他にもいるんじゃないかしら。


 そんな言葉が出るのも無理からぬ事だった。信用があればまだしも、無いのであればどんな勘繰りが出てもおかしくはない。だってそれだけの信用も信頼もないのだから。

 何か事件があった時に普段から不真面目でいかにもやってそう、といった人物が事実の有無関係なく容疑者にあげられるようなものである。


 そして調べてみれば確かにいた。

 それがジェシカである。


 彼女は平民で酒場で働いていたが、それは酒場を経営しているのが自分の親だからだ。色っぽさとは縁がないが、気風のいい姉御肌、といった感じの人物であった。ローズマリーたちとはまた違ったタイプの女性である、といってしまえば確かな話だ。

 家の経営はカツカツとまではいかないが、決して裕福とも言い難い。そしてそこに度々ステファンはお忍びでやって来ていた。

 普段接している貴族令嬢とはまた異なる女性。物珍しさから目移りするというのはまぁ、無い話ではないな、とローズマリーたちは思った。


 だが、彼女は知っているのだろうか。


 ステファンが貴族であるという事を。

 そして他に婚約者がいるという事を。



 一夫多妻というのは貴族たちにとっては普通に受け入れているものでもあるが、平民はどうなのだろう、とローズマリーたちは疑問に思った。

 いや、妾とかそういった立場としてなら既に貴族の家に嫁いだ平民女性はいる。いるけれど……本妻でもある妻とは別宅を用意されたりだとか、妻同士お互い余程気が合うとかでなければ大抵は顔を合わせる事もそう無い。


 愛人だとかであればまだしも、彼女も妻として迎え入れるとなればいくら大きな屋敷の中で暮らすとしてもひとつ屋根の下、絶対に顔を合わせないわけでもない。

 調べてみれば彼女は裏表のないタイプであるため、ローズマリーたちとそこまで仲が拗れることはなさそうだが、それでも他にも相手がいるというのであればまず婚約者という前に話を通せと。相手が他の家の令嬢ならまだしも平民もいるとか場合によっては婚約を撤回される事だってあるのだ。

 妻の扱いは基本的に平等に、となれば、平民と貴族令嬢も妻という立場になればそうなる。


 そういったものに耐えられない、という者も中にはいるのだ。


 平民と同じ扱い!? 侮辱しているのかしら!? となる令嬢。

 貴族様と同じ立場!? ひぇぇ恐れ多い! となる平民。


 お互い歩み寄ろうという意識があれば別だがこんな内心であったらまず上手くはいかない。一時的にどうにかなったとしてもいずれは破綻する。


 あまりにもあまりな話だな、と思ったローズマリーたちはジェシカを呼び出し話をした。幸いジェシカは話のわかる女だったが、他にも婚約者がいるというところでは目をひん剥いていた。金持ちのボンボンだとは思っていたし貴族だろうともそりゃわかるけど、でも例えば家を継ぐような立場じゃない気軽なものだとジェシカは思っていたのだ。

 それなら別に妻の身分など気にしない、という貴族もそれなりにいるので。

 だがしかしふたを開けてみれば公爵家の長男。ジェシカはそれを聞いて卒倒しそうになった。そして次にやってきたのは怒りだった。そりゃあ、金を持ってる男と結婚すれば多少の援助を望めるだろうし、そうなれば酒場ももうちょっとどうにかできる。建物は少し古くなっているから修理だってしたいし、けどそういうのは金がかかる。日々の生活費などを差っ引いてもまだ修理するために使うだろう金額を消費するには痛い出費だ。金がもうちょっとあればなぁ、とか思ってたのはそうだけど、だから金持ちの男が自分を妻に、とか言ってきたのをジェシカはラッキーくらいに考えていたけれども。


 他に妻がいるとか聞いてないし、ましてやジェシカからすると公爵家というのはとても手の届かない身分の相手だ。そんな家に妻として……?

 いや無理でしょ。ジェシカ平民だけど貴族がどういうものかってのを全く知らないわけじゃないんだからねッ!! となると考えられるのはあの男が家を出るという展開だ。

 えっ……貴族の坊ちゃん平民になるの? それでやってける? っていうかもしかしたらその場合面倒見るのこっち? そんな金ないのに?


 と、まぁ、ジェシカからすれば騙された気分であった。ステファンがどういうつもりであったかはわからないが、実際に騙したようなものだ。どうしよう、となるのも無理はない話で、流石にローズマリーたちも憐れに思った。金目当てって言っても精々家の修理をしたいとか可愛らしいものだ。ぜいたくな暮らしを、とかじゃない。むしろ親のためにとか考えてるあたり、平民だけど令嬢たちと通じるものがあった。


 なのでお互いがお互いに話をしていくうちに、ジェシカは平民だけど意外にもローズマリーたちと話があったし、案外仲良くなれてしまった。


 とりあえずこの時点でステファンに他に女はいない。

 だが、どういう事だこれは。それぞれ婚約者だと思っていたし、他に妻になる女がいるとか一切聞いてないし、ましてや身分が大きく異なる平民までその括りに入っているとか、どう考えても本来ならば争いが勃発する展開だ。


 あまりにもあまりな話に、ローズマリーたちは日を改めてメルシュミッツ公爵に連絡をとった。

 ステファンの父でもある彼は一体何を考えているのか。ステファンのこれを認めているのか。認めているならもうどうしようもない話だった。メルシュミッツ家は終わりだ。もしそうなら遠慮なく社交界で話を広めてやろうとすら思っていた。


 メルシュミッツ公爵家は国にとっても重要な存在ではあるが、だからこそこの家を追い落として這い上がろうと考える貴族もいる。もし公爵様もステファンの味方であるようなら、そういった家の者たちに今回の話を一字一句違える事なく広めるつもりだった。この話だけで公爵家が潰れるような事にはならないが、それでも痛手は負う。悪い噂、悪い評判、そういったものは中々消えてはくれないし、払拭するのもそう簡単な話じゃない。


 例えば平民の中だけで広まってる噂などであれば、権力だとか金を握らせるだとか手段を選ばなければ黙らせる事はできる。けれどもそういった手段が貴族の間で通用するとは限らない。むしろ逆にあぁそうまでして揉み消したいって話なのか、と弱みになるだけだ。


 さて、公爵様はどう出るのかしら……と思いながらもこちらの事情を説明すれば、どうやら公爵様は知らなかったらしい。むしろ公爵様にもその話はされていなかったらしく、ローズマリーもミランダもメリルもステファンの父の中では未だ婚約者候補という扱いであったようだ。ちなみにジェシカもステファンは婚約者として扱っているために、彼女もまた公爵家にいた。一人だけちょっとでも動いたら不敬罪で殺されるみたいな顔してるけど、そこら辺走り回って飾ってある壺とか割らない限り大丈夫よと言えばそこそこホッとされた。



 一連の事情を説明すれば、メルシュミッツ家現当主でもあるステファンの父は酷い顔色になっていた。普段感情を表に出さないようにしている貴族、それもかなりの大物でもある彼ですらこうなのだ。ステファンのやらかしがどれだけ酷いかは言うまでもない。

 どこに出しても恥ずかしい醜聞。つまりはそういう事なのだ。


 貴族令嬢を妻に迎えて次の妻が平民、というのでそれなりに上手くいくパターンは、その平民と既に見知っていて令嬢が彼女なら、と思っている場合と、あとはまぁ、家が没落してしまって今は平民だけど以前は貴族だったのでそれなりに礼儀作法など貴族としての心得もあります、という相手の場合。

 しがらみがあったとしても、それを踏まえてもまぁいいわ、と妻が許可できる場合に限る。


 だがステファンは一切そういう告知をしていない。ローズマリーたちはだからこそ自分こそがステファンの婚約者であると思っていたし、他の候補者は選ばれなかったのだと思っていたのだ。

 ちなみにステファンの婚約者候補が他にいるという話はローズマリーもミランダもメリルも知ってはいたけれど、それが誰であるのかまでは知らされていなかった。

 だからこそ、婚約者が決まったのです、と話して相手がまさか全員同じ相手であった、となった時の衝撃は計り知れない。


 平たく言うとこの場合、陰でこっそり他の相手を作っているのも同然なので、ぶっちゃけてしまうと四股かけてる、と言われても否定できないのだ。

 一夫多妻が認められているとはいえ、夫の一存で好き勝手できるわけじゃない。

 妻となる女性の許可があって他に妻を増やす事ができる。けれどもその妻の許可を得ずに裏でこっそり、となればそりゃ浮気だとか不倫だとか言われても否定できない。正直これが一番性質が悪い。妻ではなく妾や愛人、といったものであればまだしも。とはいえ、そちらを作るにしてもやはり最低限のマナーだとかルールというものはある。


 色々と細かなルールやら作法やらがあるので妻を増やすとなるとそれなりに手間がかかるのは確かだ。だが、それは夫や妻を守るための法でもある。

 それをすっ飛ばして夫が好き勝手に女を増やそうとすれば、良くて家が潰れるか、悪くて殺し合いが始まるかだ。家庭内で始まるデスゲーム。過去にそれで潰れた家は、それはもう悲惨な最期であった。

 妻同士で殺し合いも大概だが、夫が殺されるだけならまだ被害は軽い。酷くなると生まれたばかりの子供でさえ容赦なく殺されてしまった、なんてのもあった。


 自分の息子がまさかそんな事をしでかすだなんて思っていなかった父は、普段のポーカーフェイスを保てずに頭を抱えた。駄目だ、あれは駄目だ。

 まだ幼いうちなら仕方ない。無知は罪ではあるが、幼いが故のものだと思えばそこから新たに教え導く事もできよう。だがステファンは既に成人している。そろそろ彼にはこの家を継いでもらおうと思っていただけに、このやらかしは痛い。

 まだ若いなら矯正可能だと信じたい気持ちもあったが、そもそも一夫多妻制に関してはもっと幼い頃に貴族としてのしきたりなどを学ぶ際に知る事なのだ。ステファンが貴族として全体的にパッとしない、とかであればともかく、この件に関して以外は完璧と言ってもよかった。だからこそこの部分のやらかしがいっそ凄まじい汚点として目立ちすぎている。


 一見すると後継ぎとして問題ないと思っていた息子は、ここで跡継ぎにするには問題がある、となってしまった。跡継ぎに関してはメルシュミッツ家由縁のどこかから養子を迎えてしまった方が良いのではないか。若くやる気があるマトモな者と、何故か一部分だけおかしな欠落の仕方をしている息子。

 どちらがマシかを考えると、当主の判断は早かった。


 正式な婚約を結んだわけではない。この時点ではステファンが勝手にのたまっているだけだ。だからこそ本人不在ではあるもののローズマリーたちの婚約者候補という肩書は撤廃、ジェシカにも迷惑をかけた事によるお詫びは後日改めて、となった。

 そして今回の件で婚約がなかった事になった三人は、これもメルシュミッツ家当主の謝罪という形で他国への繋ぎを取ってもらえる事になった。

 自国で他に婚約者を探すにしても、ステファンがローズマリーたちの事を婚約者だと周囲にどれくらい吹聴したかはわからない。であれば、婚約は白紙になったとしてもそう簡単に新しい婚約者が見つかるとも思えなかった。

 だが、他国であれば。

 直接相手を紹介してもらうわけではない。あくまでもそれぞれの家に適した伝手を紹介してもらうだけだ。


 例えばローズマリーの実家、というか領地では毛織物や絹織物が特産なので他国でそれらを欲しているか、それらを加工する際の独特な技術を持つ相手、といったようなところの紹介をしてもらうだけ。

 だが、そこから新たな人脈を広げて、その上で婚約者になり得そうな相手がいれば――


 本来こういった人脈だとかの紹介なんていうのは、やるにしてもとても慎重になる。紹介した相手を取り込まれてしまって紹介した側との縁が切れる場合もある。意図的にどうでもいい相手を紹介して縁を穏便に切るために利用するのであればまだしも、そうでなければ紹介する側にとってはとても痛手になる。勿論、そんな事にならずにいい関係を築ける場合もあるにはあるが。


 この件に関しては後日改めてこちらもローズマリーたちの親などと話をして具体的な事を決める事となった。メルシュミッツ家が結んでいた伝手の中から、それぞれの家が望む先を紹介してもらうためだ。最悪新しい婚約者が見つからなくても、家にとってはプラスとなる。



 ――こうして、無事にその話し合いも終わったのがつい先日の話だ。


 そして何も知らないうちにステファンは家を追い出され、今に至る。



「って事だからさ。もうあたしたちに付きまとったりはしないでおくれよ。ましてや婚約者だなんて金輪際口に出したりしないどくれ。迷惑だからさ」


 何故家を追い出されたのかすら知らなかったステファンに真実を突き付けたジェシカは、そこまで話し終えると話の合間にメリルが注文していてくれた紅茶を口に含んだ。

 喋りすぎて喉がカラカラだった。頼んでからそこそこの時間が経過していたために紅茶はすっかり温くなってしまっていたが、ぐいっと一気に飲み干したのでむしろ温いくらいで丁度いい。


 一夫多妻、というのは平民もある程度理解してはいた。

 だがそれは自分たち平民には縁のない話だなとしか思わなかったし、仮に妻を沢山もつにしても何やら色々な手順や作法があるらしいと聞いて、とりあえず面倒な事ではあるんだな、と雑に納得していたのだ。


 そしてお忍びで来ていた他の貴族たちは、公爵家の子息がまさかここまでアホの子だとは思いもしていなかった。ゴシップの気配はあったが、まさかここまでとは。そりゃ縁切られて家追い出されるわ。ローズマリーたち以外に忍んでいた貴族たちは全員がそう思っていた。


 いや、確かにね、一夫多妻が認められてはいるよ?

 でも、あれやろうとすると相当面倒だからね?

 実際に妻を複数もってる貴族って実はこの国そう多くないんだよ? だって色々と面倒だから。


 養子でどうにかなるものじゃない、確実にその血筋を受け継がなければならない王族はやむなく側妃を迎える事もあるが、あれも迎える際にはいくつかの条件がある。だからこそ王もなるべくなら迎えないで正妃とどうにか跡取りをと頑張るのだ。正妃が子を生せない身体であった、とかそうなったならもう諦めてその色んな条件のある面倒極まりない手続きやらをして側妃を迎えるわけだが。


 王族のそれに比べればまだ多少マシな貴族の一夫多妻制ではあるが、比べた結果があくまでもマシ、という程度で比べなくとも充分に面倒くさい。


 最初に妻を沢山持つ事が可能です、と一夫多妻制に関して教わる貴族の少年たちは、大半が将来のハーレムを夢見るのだが、そのための手続きやらルールやら作法やらといった必要なあれこれを教わっていくうちにそのほとんどがあまりの面倒くささに匙を投げる。そんなのやってる暇があるなら自分に割り当てられた仕事を終わらせて一人の妻とのんびりいちゃいちゃした方が余程有意義な時間を過ごせると思える代物だったのだ。


 政略結婚するにしても、何も一人しか相手がいないわけじゃない。なら、その中で愛を育めそうな相手を選んだ方が絶対にマシ。

 あと、有能な妻が複数いれば確かに家は切り盛りされるだろうし領地の発展もちょっと夢見る勢いで発展できるかもしれないが、その分夫になる自分にも責任が降りかかってくる。妻の数だけそれらは増える。


 そう考えれば、気軽にポンポン増やそうと思う者はそういない。

 いるのは都合のいい部分しか聞かず本当の意味を理解していない愚か者だけだ。

 面倒な事は全部妻たちにやってもらおう、とか考えたとしてもそれが上手くいくのはきっとほんの一瞬だけだ。妻が優秀であればあるほど、夫が無能であるのなら家に必要のないものとして捨てられる可能性だってあるのだ。そうやって滅んだ家が過去にいくつか存在している。


 かといって逆に無能な外見だけが取柄の妻を複数もったとして、結果はお察しである。綺麗に飾り立てる事だけしかしない妻が複数となれば、家の資産状況によってはあっという間に食いつぶされる。



 そういう意味では実際に一夫多妻を実行している一部の貴族はやり手であるだとか優秀であるだとか言われる事が多い。面倒極まりない色々をこなしている、というのがわかるのだから。

 だがステファンのようにロクに理解していない者がやらかした場合その評価は勿論逆になる。

 マトモな手続きもできないという時点でまず頭の出来を疑われるし、そんな状況で妻たちが上手くやれる事もまずない。そうなれば甲斐性無しのレッテルも貼られ、周囲からの評判は地に落ちる。社交界での肩身も勿論狭くなるだろう。更には職場での立場も評価は下がる一方だ。



「ところで、一体いつまでそうしているんですか? 邪魔なんですよね。まさか食べ物を恵んで欲しいだなんて言い出すつもりじゃないでしょう?」


 呆然と立ち尽くしていたステファンにミランダが告げる。

 そもそも今日は一連の事が終わって折角だし皆でお茶でもしましょうよ、という事で集まったのだ。ローズマリーたち三人だけなら誰かの家の庭でこぢんまりとした茶会でも良かったのだがジェシカがいる。彼女についてある程度知った三人は彼女を個人的な茶会に誘う事は構わないと思っているが、ジェシカが構うだろう。ガッチガチに緊張してきっと何を出しても味もわからないなんて事になりかねない。

 流石にそれは三人の望むものではないので、こうして貴族もお忍びで利用する程度にはそれなりにマシで、平民も利用できるところを選んだのだ。


 いや、実際ここに来たいな、という思いもあったのは否定しないが。


 だというのに彼女たちが面倒な事になってしまったあれこれを作り出した元凶にいつまでもいられると、色んな意味で台無しだし、水を差された気分にしかならない。

 周囲で耳を澄ませていた者たちもステファンの醜態に流石に大笑いできるようなものではなかった。いや、笑い話としては笑い話なんだけど、だからといって馬鹿笑いできるようなものでもない。

 公爵家のご子息、という意味でステファンと多少の関わりがあった者たちは、まさか彼がそこまで愚か者だと思っていなかったので衝撃が大きい。何かの冗談かと思った程だ。

 だが流石に彼の父が冗談で縁を切るなどするはずもない。


 大声で話題にするようなものではないが、それでもゴシップとしていいネタではある。だからこそ周囲にいた者たちはそれぞれが共に来ていた者たちとひそひそとステファンに関する話をしていた。

 そんな悪意に満ちた笑いに耐え切れなくなったのか、ステファンは踵を返し逃げるようにカフェテリアから出ていった。



 ――どこをどう走ったのかは覚えていない。

 けれどもステファンが気づいた頃にはどうやら街を出てしまっていたようだ。


 最悪だった。

 最悪の気分だった。


 婚約者が婚約者候補であってまだ正式な婚約者ですらなかったという事にさえ気づかなかった。

 いや、恐らくはそう告げられていたはずなのだ。けれどもステファンは候補という部分をあっさり脳内で変換して切り捨てていた。一夫多妻制については聞いていたし、婚約者が三人というのであればつまりそれだけ自分が期待されているのだろうとも。だって公爵家の跡取りだ。期待されないはずがない。


 ステファンはそうして本人も知らぬ間に驕っていた。平たく言うと調子に乗っていた。あまりにも目に余る態度であれば父も気付いて苦言を呈したかもしれない。けれどもステファンは表面上は良き息子、良き跡取り、良き貴族の青年であった。外面だけは良かった。だからこそ、婚約者候補たちは騙されたのだ。

 ステファンが女性に対して暴力を振るうタイプでなかったのだけが救いだった。いや、もしそうであったならもっと早くに事が露見していたに違いないのだが。


 肝心な部分がすっぽ抜けていたという事に、ジェシカが語って聞かせた話でようやく気付いた。だがこの時点で気付けたとしても完全に手遅れだ。何せもう縁を切られてしまっている。父の事だ、縁を切ると言って家を追い出した時点で既に必要な手続きは済ませているのだろう。つまり、父が縁を切るとかいう前に既に切られていた。


 過ちに気付いて悔い改め心を入れ替えるとしても、もう引き返せない状態からスタートしている。いくら間違いに気付いてローズマリーたちに謝ったとして、彼女らが許す事はないだろうし、ましてや父が縁切りを撤回するなんて言い出す事もないだろう。

 父に言われた時点で素直に荷造りをしていれば多少はマシだったのかもしれない。けれどもあの時のステファンは父がまさか本気であるだなんて思いもしなかった。縁を切られる理由がないと思っていたのだから。

 だがしかしこうなるとわかっていればあの時せめて売れそうな何かを選んで荷造りをしておくべきだった……と後悔しかない。

 どうするんだこれから。


 どうしようこれから。


 あるのは三日生きていけるかどうか微妙な金だけ。今着ている服を売って平民らしい服にすればもうちょっと金は増えるとは思うけれど、服以外は売れるものなんて無い。実質今着ている服こそが全財産である。

 街に戻ろうにも今戻ったらきっと噂は広まっているだろうから、いい笑いものだ。

 服を売るにしても、他の所じゃないと……それまでなるべく綺麗に保たないといくらいい素材だろうと売れなくなるかもしれない。ちょっとの汚れ程度ならまぁ大丈夫だろうけれど、ボロボロになるような真似だけは避けなければ。


 隣町までどれくらいの距離だったか……普段は馬車で移動するからそう長い時間というわけでもなかったが、徒歩となれば倍以上の時間がかかるだろう。とぼとぼとした足取りで、それでもステファンは歩き始めた。



 だが、まぁ。


 冷静に考えて無謀だった。笑いものになってでも一度引き返してなけなしの金で最低限の準備をするべきだった。食料も水も何も持たず、彼は舗装されているとはいえそれでもややデコボコしている街道を歩いていた。

 家を追い出されたのは昼を過ぎたあたり。そこからカフェテリアでローズマリーたちと会って、話をして。

 街を出たのはじきに夕方になろうという頃合いだった。

 間違いなく隣町に行くにしても夜までに辿り着けるはずもない。


 最後に食事をしたのは朝だ。昼は父が縁を切ると言い出したのもあって、ステファンは父が冷静になるのを待つために部屋にこもってしまったし、昼は食べ損ねてしまっていた。


 別に一食二食食べなくとも死にはしない。知識として知ってはいるが、けれども死なないからといって健康な状態で元気いっぱいというのが維持できるわけではない。これから隣町までどれくらいの距離を歩かねばならないのか、を考えると食事を抜いたままというのはキツかった。


 今からでも引き返そうか……いやでもここまで進んできたんだしまた引き返すとなったらここまで来たのが無意味だし……と普段であれば即決するような事もステファンはうだうだと悩んでいた。

 空腹のせいで集中力とか判断力だとかが遠ざかってしまっている。

 引き返したところで元の生活に戻れるわけではない、というのも悩む要因の一つだった。


 未来が見えない。お先真っ暗。

 そんな中で何かを決断するというのは、とても難しい事なのだとステファンは知った。


 そうして戻ろうかなぁ、でもなぁ……と決して早くない歩みで進みながらも考えているせいで、時間が経過すればするだけ引き返すと決めたら戻る距離もその分あるわけで。結局のところステファンは引き返す事を諦め進む事にした。けれどもだからといって歩みが早くなるわけでもない。


 何かの間違いだったって事で今からでも誰か引き留めに来てくれないだろうか……


 そんな事あるはずないとわかっていながらも、ステファンは現実逃避まがいにそんな事を考えてしまっていた。あるはずがない。でも、もしかしたら……そんな淡い希望に縋っている。今から誰かが馬車で迎えに来てくれて、家に帰してくれはしないだろうか……当たり前のように過ごしていた我が家が、今ではこんなにも懐かしく、また遠いものになってしまった。


 ステファンは一夫多妻の都合のいい部分だけしか見えていなくて、だからこそ家を継いだ後は妻四人と楽しく暮らせると信じて疑わなかった。聞けばローズマリーとミランダとメリルは親しい間柄だという話だし、それなら絶対上手くやっていけるとも。ジェシカは平民だけど、頭は悪いほうでもないし、あの気性は付き合いやすい。最初はともかくそのうちローズマリーたちとも上手くやっていけると信じていた。


 その部分に関してはステファンの思った通りではある。実際ローズマリーたちは婚約者の一件でジェシカと知り合い、それなりに良き友になれそうだと思っている。本来ならば知り合う事もなかっただろう者たちは、ステファンによって縁を結ばれた――と言えない事もない。


 まぁそのやり方が激しく間違っていたのでそこにステファンが加わる事はもう未来永劫ないのだが。


 歩いているうちに周囲はすっかり暗くなり、灯りも持たないステファンは時々足を縺れさせそうになるせいで余計に進む速度は遅くなる。

 街道から外れると道はもっと悪くなる。だが、こうも暗くなってきたのであれば、知らぬうちに街道から外れていてもおかしくはない。

 どうしよう、やはり引き返して一度宿をとって朝になってから出ていくべきだったのかもしれない。

 とても今更な後悔が襲う。

 今からでもよし! 引き返そう!! なんて思っても、暗くなってロクに道が見えない状態で戻るとなれば、ここまで来たとき以上の時間がかかるのは明らかだ。

 ならばやはり進むしか……とステファンはもう何度目かもわからない迷いを生じさせ、ふと何かに気付いて足を止めた。


 灯りが見える。


 もしかして隣町のだろうか?


 普通に考えてあり得ないのだが、ステファンはその時そう思ってしまった。

 馬車で数時間、という距離をのろのろと移動していたステファンが一日どころか半日もかかっていないうちから辿り着けるはずもない。

 普段であれば気付けたはずの事にも、しかし空腹からくる思考の低下のせいか気付けない。ステファンはもうあれが隣町の灯りだろうとしか思わず、足早にそちらへ近づいていった。



 そこは隣町などでは勿論なかった。

 街道に時折存在する旅人たちの休憩所のような場所だ。少しだけ開けた場所に、腰を下ろして休めるスペースとあとは質素ではあるが屋根もついていたため、雨などが降った場合一時的に雨宿りをするくらいはできそうな、それくらいしかない場所。

 昼の間であれば、こういったところで一時腰をおろして簡単な食事をとり、少しだけ休憩してから改めて出発するのだろう。


 ぽつん、とついていた灯りは屋根の近くに吊り下げられているランタンからのものであった。

 誰かがつけた、というのはわかるがそこには誰もいない。


 もしかしたら、こういったところに灯りをつける役目の者がいるのかもしれないな。


 ステファンは特に何も考えずにそう判断し、すっかりよろけた足でともあれ腰を下ろした。もう疲れていたのだ。腹は減るし、暗くてロクに足下も見えやしない。こんな状況で進んでいっても、本当に街道を進んでいるのかわからないし、もし明るくなってから街道から随分離れていた、なんて気付くような事になってしまったら。


 最悪迷子だ。

 しかも引き返す体力なんてロクに残っちゃいないだろう。


 ここは一応屋根がある。心許ないがランタンがある事で少し明るいし、その灯りによってステファンが安心したのもまた事実だ。

 あのランタンを借りて先に進もう、とはとても思えなかった。

 恐らくは、あの灯りそう長くはもたないだろう。それくらいはステファンにもわかった。そんなランタンを勝手に借りていっても、きっと明るくなるより先にあの灯りは消える。そうなれば完全な闇の中だ。月や星の明かりで真っ暗ではないかもしれない。けれど、天候次第では雲に覆われ明かりなんて一切ない真っ暗闇かもしれない。


 そんな中を進めるだろうか? と考えれば今のステファンには到底無理だったのだ。


 何よりとても疲れている。座り心地は決して良いとは言えないが、座ってしまった事でもう立ちたくないくらいに疲れていた。寝心地は悪いのが明らかにわかりきっているけれど、それでもステファンは疲れ果ててしまっていたのでそのまま横になった。

 こんなところで寝具も何もなしに寝るのは本来であればあり得ない事だった。けれども、今はもう疲れてしまっていて、身体はとにかく休息を求めている。


 季節が夏に近づきつつある今だからこそ、まだ良かった。これが秋や冬ならこんな風に外で寝るなんて無謀極まりない。冬なら凍死したっておかしくないのだ。


 恐らく起きたら体調は最悪だろうな、と思いつつも閉じそうになる瞼をどうにかするつもりはない。

 どうせこれから先の事なんて何があるかもわからないくらい先行きは不安のまま見通しもないわけで。ここで寝て明日の体調が最悪になっていたからとて、なんだかとても些細な事のように思えた。


 うとうととして意識が眠りに落ちようとしていたその瞬間、じゃり、という地面を踏みしめるような音が聞こえた気がした。





 ――ある、晴れた日の事。


 街の巡回を終えて戻ってきた兵士は、この後の仕事を引き継ぐために詰所で待っていた兵士に声をかけた。

「あ、先輩お疲れ様です。今日の担当は先輩だったんですね」

「おう。とりあえず報告書だけ提出してくれればあとはやっとくぜ」

「わー、流石先輩話がわっかる~ぅ」

 ヒュウ♪ と口笛なんぞを吹きながら兵士はいそいそと報告書にとりかかった。

 そうしてあっという間に書き終えると、それを手渡し「では、お先に失礼しまーっす」と頭を下げて早々に出ていった。片手を上げて応えたものの、まぁ確実にそれは見ていなかっただろう。


 先輩、と呼ばれていた兵士はざっとその報告書に視線を落として不備がない事を確認すると、何事もなかったようにデスクに報告書を置いた。


 次の巡回まではここで何かあった時のためにスタンバイしていなければならない。正直暇だが、外に出るという事は何かが起きた事になるので出ないままで済む事を祈る。

 先程の兵士に先輩などと呼ばれていても、彼もまだベテランとは到底言えないのだ。



「お、今日の担当お前だったかヴァン」

「あ、ロイドさん。お疲れ様です」


 新たに詰所に訪れたのは、彼が新米だった頃に色々と教えてくれた教官であった。大分年上のはずなのに見た目は若々しく、実年齢を聞いた時は思わず三度聞き返した程だ。今日も相変わらず若く見えるなーなんてヴァンと呼ばれた兵士はのんきにそんな事を思っていた。


「おうお前もお疲れ。いや、もしかして今交替したばっかか? じゃあこれからだな疲れるのは」

 はっはっは、なんて笑っているが、ヴァンは「はは……」と乾いた笑いを返すだけだった。

 その言い方だとこれから何かが起こるみたいなので正直勘弁してほしい。


「あの、ロイドさんはどうしてここに?」

 彼が普段働いている部署は、こことは違う。そういや先日この街の近辺を荒らしまわっていた盗賊団を壊滅させたとかいう話を聞いたが……


「あぁ、今休憩中でな。暇潰しだ。

 そういやお前、ステファンの事は知ってるか?」


 なんだやっぱり暇潰しなのか、と思いつつも次に出てきた名前にヴァンはしばし考えて……


「少し前にこの街を出ていった元貴族、でしたっけ?」

「そうそうそいつ」


 少し前、カフェテリアでちょっとした騒ぎがあったのはまだ記憶に新しい。

 お忍びでやってきていた令嬢たちと一人の平民女性。筋も通さず勝手に婚約者扱いして、妻になる女性の許可も得ないまま他に妻を増やそうとしていた、という不義理な話。


 あの時はたまたまヴァンも休憩時間だったので、休憩ついでに食事もしようとあのカフェテリアにいた。若い男女が多い中、一人だけ場違いかと思ったがあの日一番場違いだったのはお忍びらしさも何もない、あからさまに貴族とわかる姿のステファンだった。公爵家の次期跡取り……だったはずの青年はしかしあの時点で既に平民となってしまっていた、という事実。あれは中々に衝撃的な話だった。一夫多妻が認められている事はヴァンも知っている。綺麗な嫁さん複数侍らすなんて羨ましいよなぁお貴族様は、なんて考えていたけれど女というのは変わるものだ。子を産めば母となる。そうなるとどんなたおやかな女性であってもたくましくなるものだ。


 そう考えると、ヴァンは羨ましいとは思えなくなった。一人でも頭が上がらないのにやがては妻全員に尻に敷かれるかもしれないと考えると、なんだかとても疲れるだろうなと思い直してしまったので。

 勿論尻に敷かれていない夫婦もいるけれど、あの時カフェテリアにいたステファンの婚約者候補だった令嬢たちを見れば、多分力関係は向こうに軍配が上がるだろう。愛があるうちは夫を立ててくれるだろうけれど、愛が枯渇したら地獄だろうなとも。

 結果は婚約そのものがなかったことになったらしいので、ステファンがそういった地獄を見る事にはならなかったようだが、しかしその後逃げるようにカフェテリアから出て行ったステファンを見た者はいない。

 街から出て行ったのだろう、というのが大半の意見であったが……


「なんで今、彼の名前が?」


 今更だ。あの時に彼の話題が出るのであれば別におかしくもない。何せあの時はあれ以上に話題になりそうな話題がなかったのだから。けれども、ステファンの姿を見なくなって数日が経過し、更に一月が過ぎる頃にはもう誰も話題に出さなくなっていた。日々暮らしていれば他の話題が出てくるわけだし、いつまでもステファンの話をするにしても、新たな情報が出るとか彼のその後がだとか、そういうのはなかったのだから。


「それなんだが。先日盗賊団を退治してな。アジトもきっちり調べてきたわけなんだが」


 あれ、話題飛んだか? とヴァンは思ったがここで口を出すのはよろしくないと思って、とりあえず深刻そうな顔をして重々しく頷いた。


「そのアジトにいたんだよな。ステファンが」

「へー……えっ!? 盗賊になってたって事ですか?」


「いや……どっちかってーとあれは」


 話題に出したのはロイドからのくせに、しかし彼はそこで言い渋った。中途半端なところで黙られても気になるのだから、さくっと白状してくださいなんて言えば、あまり大声で言うような内容じゃないんだがなぁ……とロイドは渋面を浮かべつつ声を少しだけひそめた。

 この場にはヴァンとロイドしかいないので、他に誰が聞いているわけでもないのに。



 ロイド曰く、アジトに踏み込んで盗賊たちを拘束、あるいは討伐した時にステファンはアジトの奥まった場所で鎖に繋がれていたのだそうだ。小さな洞窟を更に掘り広げたようなところで、日の光もロクに差し込まないようなところだが、だからこそ今までアジトを発見するのに手間取っていた。

 とりあえず、といった感じで急遽そこに彼のスペースを作ったのか、それとも別の用途があった所にステファンが押し込まれたのかはわからないが、彼はそこで捕らえられ、盗賊たちの玩具になっていたらしい。


「玩具、って……」

「言葉通りだ。ステファンは割と細身で、顔立ちだって整ってた。ついでに穴がないわけじゃない。女の代わりをさせられていたって意味での玩具だし、それ以外でも気まぐれに殴ったり傷つけたりして反応を楽しむための玩具でもあった。

 見つけた時はまだ息があったがな、それでも手遅れだったよ」


 傷の手当だってロクにされていない。

 そうして化膿した傷はどんどん酷くなる一方。

 最初はともかく、あの時点で彼を女として扱っていた者も既に飽きていたのだろう。あばらが浮き出る程に痩せこけていたし、傷口は酷い色になっていたし、それでもステファンだとわかったのは、顔だけはそこまで傷つけられていなかったからだ。

 血の滲む痕、塞がっていなかった傷口には虫が湧いていた。あの時点でまだ生きていた事が奇跡だと思えるくらいには、酷い有様だったのだ。


「なんだってそんな事に……あ、いや、彼が街を出て行った時、もしそのまま出ていったなら身なりだけは良いとこのお坊ちゃんだ。金を持ってると思われた、とか?」

「いや、捕らえた盗賊に話を聞けば、彼は街道途中にある休憩所で眠っていたそうだ。最初は身ぐるみ剥いでいくだけのつもりだったようだが、他の仲間が他に使い道があるからって言い出してアジトに連れ帰ったらしい」

「あっちゃ~、よりにもよってそこでかぁ……」


 ヴァンは思わず天を仰いだ。とはいえ見えるのは詰所の殺風景極まりない天井だけだ。


 街道にある休憩所は元は旅人たちが利用するための場所だった。しかしいつの頃からか、そこで休んでいる者を狙って盗賊たちが襲い掛かるようになったのだ。

 確かに休憩している時は気が緩む事が多いし、狙うのであればそういった油断しているところを、というのは間違っちゃいない。けれども、だからこそやがて休憩所は利用する者が減少していった。使うにしても複数名で周囲を警戒するだとか、対策をとれる時だけだ。


 決して一人の時は使うべきじゃない。


 それは旅人たちの暗黙の了解となっていた。


 だが、普段街の中で暮らし、街の外に行くとしても馬車で移動する貴族の青年であったステファンがそういった暗黙の了解を知っているはずもない。知り合いに旅人がいたとかであればそういった話を聞いた事があったかもしれない。けれども、ステファンの交友関係はあくまでも貴族の中だけであったのだ。時々お忍びで訪れていた酒場で関わる平民とて、そこに旅人が交じっていた事はない。


 旅人たちの休憩所なんて銘打っているが、その実今はもう盗賊たちの狩場だ。そんなところで一人無防備に眠っていればどうなるかなんて火を見るよりも明らかだった。


 ステファンが街を出て行ったのは早い時間というわけじゃない。あの時間帯に外に出て、そして隣町にでも行こうとしたとして、普通に歩くのであれば丸一日はかかるはずだ。夏であればもう少し暗くなるまでに猶予があったかもしれない。けれどあの時はまだ夏になる少し前、日が沈むまで冬に比べれば明るい時間帯は増えていたけれど、それでも途中で暗くなるのは明らかだ。


 あの日、何の準備もしないまま街の外に出たのであれば、疲労と空腹によって見つけたいかにもな休憩所は彼にとって救いのように見えたかもしれない。そこが地獄の入口だとも知らずに。



 ステファンがしでかした事は、一歩間違うと複数の貴族の家の仲へ亀裂を入れる行為になりかねなかった。家と家の争いで済めばいいが、そこにその家を追い落としたい別の家がこれ幸いと手をだしてこないとも限らない。下手をすれば内乱一歩手前まで荒れる事にもなりかねない出来事であったのだ。まさかそこまで、とステファンだって思っていなかったのだろう。だがそれだけの危険性があったからこそ、メルシュミッツ公爵はステファンとの親子の縁を切った。それくらいの事をしていたのだ。


 彼が婚約者だと言っていた女性たちの仲は良好だった。だが、本来の正式な手順も何もかもを無視して成功例など作ってしまえば、それに続く愚か者が出ないとも限らない。そしてそういうものは大抵後から続いた者たちが盛大に荒らしていくのだ。貴族だけが潰れるならまだしも、その場合とばっちりは平民にまで及ぶ。


 家を追い出されたのはそういう意味では当然の事だった。

 だが、さらにその後の結末がこれとなるとヴァンは少々憐れに思った。やらかした結果被害が出ていればまだしも、ある意味で未然に防げたのだ。街を出るにしても普通に他の町や村まで行ってそこで細々と暮らすとか、そうであったならまだしもこんな事になるとはなぁ……と同情が芽生えるのも仕方がなかったのかもしれない。


「……ロイドさん」

「あん? どうした」

「直接伝えるのは無理だと思いますけど、メルシュミッツ公爵にこの事は」

「言わないさ」

「どうして」

「言えると思うか?」

「それは……」


 縁を切ったとはいえそれでもたった一人の息子だ。

 親なら、知らせた方がいいのではないか。ヴァンはそう考えたが、ロイドは静かに首を振った。


「知らされてどうするよ。悲しめってか? あんたが家から追い出した結果こうなりましたって? 公爵様ならそうなる可能性も考えてただろうさ。その上で、こういう決断を下した。死ぬ可能性を考えてたとはいえ、死んでほしいかってなればそりゃ積極的に殺すつもりもなかっただろうよ。

 そうだったなら貴族様の事だ、もう少し事態を悪化させておおごとになりかけたところで責任を取らせるって方法もとれたんだからな」


 ロイドの言葉は非情だが、理解できなくはなかった。自分が親であったなら、子がどうしているかを知りたいという気持ちがある。だからこそ、と思って言ってみたがロイドの言い分も理解できてしまう。

 貴族と平民は違う。そりゃあ、ヴァンだって幼い頃にあまりにもやんちゃが過ぎて母親に頭冷やしなさいと叱られ家に入れてくれなかった事もあった。あの時はなんだかんだ後になって家に入れてもらえたけれど、幼い頃のヴァンと今回のステファンの一件は似ているようで全然違うのだ。


 もしあの時自分が他の所に行って、そうしてステファンのような目にあって死んだとして。

 それを母に知らせてほしいか、となると是非! とは言えなかった。生きているのか死んでいるのかわからないからそこをはっきりさせたいというのならともかく、だが原因は家を追い出した貴方にあるんですよ、とか言われてしまえば。


 ヴァンの母親は数年前に病気で亡くなってしまったが、もしそんな風に言われるような事になったら。きっと死ぬまで後悔したかもしれない。ヴァンなら、そんな風に言ってきた相手を八つ当たりだとわかっていても恨んだかもしれない。


「それにな、報告書には一応書いてあるんだ。知ろうと思えば知れる。こっちが親切面してしゃしゃり出るもんじゃねぇよ」

「……ですね」


 公爵が「お前が教えたせいで!」とこちらに八つ当たりのような感情を向けてくるとは思いたくもないが、もし、虫の居所が悪い時にそうなってしまったら。

 不興を買ったとしてこちらにどんな罪を背負わされるかわかったものではない。

 ない、とは思っている。けれど、絶対ではない。貴族、それもかなりの身分の相手の不興を買えば平民である自分たちの人生なんて簡単に終わってしまう。


 だからこそヴァンは、ロイドが言うように何事もなかったのだと思い今回の件は胸の内にしまい込む事にした。


 父親相手であってもこの判断なのだ。

 かつての婚約者候補だった女性たちになんて知らせる以前の話だろう。むしろ、知らされたって困るに違いない。



 ただ、報告書を提出してからしばらく経った後、ヴァンが教会の墓地へ墓参りへ行った時に。


 片隅に小さな墓が出来ていたのに気づいてそちらを見れば、そこにステファンの名が刻まれてあった。

 あぁ、知ったのか、とヴァンはその時それだけを思ったのである。

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― 新着の感想 ―
[一言] これ、手続きさえちゃんとしていたらハーレム?に出来たんだろうなぁ やっぱり手続きや手順って大事なんだな
[良い点] こんな結末に!?と面白く読ませて頂きました。 ステファンは友人がいなかったんでしょうね…。いても追随するだけで…対個人の恋愛観では歪んでなくてまさか「全員好き!皆と添い遂げる!」ってぶっ飛…
[一言] ちょっと不義理はしたけど、その末路は可哀想
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