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その4

続きです。

 高倉の意識が戻ったとき、病室は元のままだった。

 どれくらい経ったかはわからない。高倉は回りを見渡すが、詩子は元のように寝ていた。計器の音だけが、彼女の生存を示していた。

「夢…だったのか。」

 さっきのは現実だったかどうかも自信がなかった。しかし、夢だとしたらいったいあれは何だったのか。「ハーベスト」と彼女は言っていた。「収穫?」収穫とは何だ。足りないのが自分だって。

「痛い。」

 右手に激痛が走り、思わず左手で押さえた。どこかで捻ってしまったか。高倉は袖をまくって驚愕した。青紫色に変色した手の痕がくっきりと残っていたのだ。

…あれは夢ではなかったのか。

 高倉は詩子を見た。しかし、真相を確かめる気にはならなかった。


「桐生さんですな。ええ、順調ですよ。もう五ヶ月になるので安定期に入りますね。」

 池野産婦人科の院長はえびすさんを思わせる福々しい姿をしている。ここなら安心して出産できますという奥さん方が多いらしいが、院長を見たら納得だなと上村は思う。

「いや、今日は桐生さんのことでは無くて、水沢和乃さんのことでお聞きしたいのですが。」

「水沢…和乃…。」

 院長は首を傾げる。覚えがないようだ。二宮から「桐生さんの母親ですよ。二十数年前にこちらで出産されたそうですが。」と言われて思い出したのか、「ああ、あの奥さんでしたか」と驚いた顔をした。

「覚えてらっしゃいますか。」

「ええ、あれは申し訳ないことをしました。」

 院長は、えびす顔が暗くしぼんでいた。

「申し訳ない?」

「ええ、あれは二十七年前でした。うちに水沢さんが搬送されてこられたんです。破水されたということで、危険な状態でした。私が取ったんですが、これが双子でした。」

「…双子。」

「そうです。私たちには二人ともかわいい赤ちゃんでした。ところが…そのうちの1人は肌の色や髪の色があまりに白く、げっそり痩せこけて、その…普通の赤ちゃんとは違っていたのです。」

 それが水沢詩子か、上村はこの前病室で見た寝たきりの女性を思い出していた。

「すぐに水沢さんのご主人がやってきたんですが。双子を見ると恐ろしい形相に変わったんです。そして面会もせずに帰っていかれました。」

「それはまた、どうして。」

「実は水沢和乃さんにはある噂がありました。そのせいで、ギリギリまで産婦人科に行けず破水したと聞いています。実は、奥さんにはある信仰というか迷信を信じておったようでして、その…性行為をした人の遺伝子が子供に受け継がれると信じておったようです。そのため、不特定多数の男性と関係を持っていたらしいのです。水沢さんの旦那様は資産家だったので、巷の噂は届いてなかったようでしたが、何か感じるものがあったようです。あの後、ご主人に詰め寄られました。双子は私の本当の子供なのか、と。」

 院長は、そのときのことを思いだしたのだろう、さらに表情が曇った。

「あの頃はDNA鑑定がまだ未成熟でした。私のような町医者がおいそれとできるものでもなかった。血液型での判定は親子関係を示していたので、そう伝えました。ただ完全ではない、と。すると水沢さんのご主人は不完全である根拠は何かと問い詰めてきたんです。もちろん、鑑定の誤差の件も伝えましたが、その時に、思わず、その…。」

「男性との交際の噂を話してしまった。」

「そうです。」

 院長はうなだれた。

「あくまでも噂とは言ったんです。しかし、ただの噂と、私のような医者が言うのとでは真実味が違います。そのせいで、ご主人は奥さんの不貞を疑い、夫婦仲は険悪になったと聞きました。世間体のため、離婚はしなかったようですが、奥さんや子供達に辛く当たったようです。本当に彼女には申し訳のないことをしました。」

「ご協力ありがとうございます。最後にお聞きしますが、その奥さんの噂は本当だったのですか。」

「わかりません。知りたいとも思いません。」院長はソファーに深く腰を埋めた。「本当に忘れていました。あの時はあんなに後悔していたのに。名前を聞くまで、本当に忘れてしまっていた。なんという私は罰当たりなことを。」

 二人の刑事は院長の後悔の言葉が終わる前に退席した。えびす顔の院長は帰るときには病気かと思うほどだった。どんな人格者でも心の闇を持っているな。それを暴くのが刑事か。上村はやり切れない気持ちで車に乗り込んだ。

「上村さんの目のつけた通りですね。」

 二宮は浮かれた口調で言う。こいつには刑事のやり切れなさは関係ないらしい。

「桐生笙子を洗ったらこんなところに行き着きましたよ。あの女、母親の話を聞いて、同じことを思ったんだ。だからガイシャ達と次々と関係を持った。これで決まりです。それにしても、なんてヒドイ奴なんでしょうね。許せないですよ。」

 二宮は憤慨している。上村はさっきの考えを訂正した。こいつはこいつなりに刑事にどっぷり浸かってやがる。 

「熱くなるな。まだ全てが分かっちゃいない。桐生笙子はなぜ関係した男を殺したんだ?なぜ一部分を噛み取ったんだ。殺害方法も、あれは男の力だろうが。共犯の線も出てないんだぞ。」

「共犯はあの高倉って男ですよ。こいつか桐生笙子を任意で引っ張りゃあ落ちますって。」

「だめだ。まだ連続殺人についても状況証拠だ。これじゃあ、引っ張れねえよ。」

「じゃあ、どうするんですか。」

 二宮はいらついたように言った。上村がなだめようとしたとき、携帯が鳴った。院長からだった。

「先ほどは醜態をお見せしてしまい申し訳ありませんでした。」

 おかまいなく、と上村は先をうながした。

「実はお伝えしたいことがございましてな。いや、笙子さんの事なんですが。」

「桐生さんのどんなことですか。」

「実はあの方は非常に知的な女性で、こちらが不審に思うようなことは言われないんですが。通院の時に一回、深刻そうな顔でおかしな質問をされまして。それが妙に記憶に残っておりますのでお伝えしとこうかと。」

「教えて下さい。お願いします。」

「笙子さんは、私にこう聞いたんです。」

『…赤ちゃんはどれくらいで赤ちゃんになるの。』


 一週間に一度、上之郷教授は水沢笙子の病室を診療する。今日がその日だった。

 看護婦はいない。いつもそうだ。この患者の存在をできるだけ隠したかった。なぜならこの女は私の人生を栄光へ導く大事な物だからだ。教授はかばんの中からアンプルを取り出した、先端を折り、開いた口に注射器を刺す。後ろを引くと、アンプルの液体が注射器に満たされた。少し押して針の先から液を吹かせると、教授は詩子の左腕に刺した。液がどんどん入っていく。

 この患者が運び込まれたときは、気づかなかった。検査結果を見て驚いた。彼女は様々な病気を抱えているのに、それに対して強靭に抵抗していた。しかも、この状況で、五年前は不自由ながらも動いていたなど奇跡に近い。この検体を研究し、その遺伝子が解明できれば、私の知名度も上がる。学部長への道も開かれる。しかも、この研究に使われる薬を製薬会社が売り込みに来る。採用すれば裏金が入る。寄付も入る。一石二鳥だ。これで俺も安泰だな。上之郷教授は計器の数値に目を向けた。

 そういえば、と教授は思いだす。つい先日、辞めていった高倉が言っていた。

「彼女は生きています。」

 当たり前だ、こいつは生きてるじゃないか。あいつはくだらないことばかり言っているから続けられないんだ。上之郷は鼻で笑いながら、データを取っていた。

 突然、計器の数値がゼロになった。まさか、死んだのか。慌てて上之郷はベッドに振り返る。そして驚いた。

「いない。」

 ベッドに水沢詩子の姿が無かった。布団が剥ぎ取られ、チューブが散乱している。バカな、と上之郷は辺りを見渡した。いない。まさか逃げたのかと、出口を見たが、開いてない。上之郷はあっけに取られていた。

 ポタッと上之郷の肩に水滴が落ちた。気づいた上之郷が肩に触れた。その手を見る。

 真っ赤だった。

 また落ちてきた。上之郷は恐る恐る天井に顔を向けた。

「ひいっ。」 

 天井に水沢詩子が張り付いていた。信じられないくらい指の力で天井を掴んでいる。強引に引きちぎったせいか、チューブの抜けた痕から血が滴り落ちている。気持ち悪い黄色の液体も流れていた。そして彼女の目は、網膜が破裂したせいだろうか、赤い涙がとめどなく流れ落ちていた。それがぼたぼたと上之郷に落ちていた。

「ハーベスト。」

 低い声で詩子が言った。

「収穫の時は来た。そう、時は来たのだ。」

 うわあ、と教授は出口に向かって走り出した。詩子は天井から上之郷に飛び掛った。背中に張り付くように教授を捕まえると、頭に拳を振り下ろした。何度も何度も振り下ろした。

「時は来た。」

 教授が動かなくなった。

「時は来た。」

 教授の頭が血溜りに沈んだ。

「時は来たのだあ。」

 計器の止まった薄暗い病室の中で、拳の音だけが響いていた。


 上之郷教授が戻ってこないことに不審を抱いた女性の研究員が、病室で血まみれの教授を発見したのは、それから一時間後のことだった。研究員は慌てて救急車を呼んだが、もうすでに事切れていた。頭部は原型を留めないほど破損していた。興味本位で見てしまった看護師が三人吐いていた。

 水沢詩子はベッドの上で死んでいた。ちゃんと布団もかけられていて、その寝顔は痩せこけた顔ながらも美しく、安らかな笑顔だった。たまたま居合わせた医者が彼女の検死を行ったが、「そんな、まさか。」と驚いた顔をした。

 彼女の死因は、老衰、だった。


まだ続きます

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