その3
続きです。
白河スイミングスクールはA市の市庁舎の近くにあった。近くには小学校、中学校があり、もともとは子供達をターゲットに開校したのだが、しばらくして市職員や先生など、二十代から三十代の大人が、ちょっとしたスポーツジム感覚で入会するようになった。そのためスクール側も、大人対応の会員カードを発行し、大人会員の増加に取り組むようになった。最近は郊外のセレブを気取った奥様たちが昼の余暇を過ごすために多数入会していた。
「ああ、桐生笙子さんですね。」受付の女性は彼女を知っていた。個人登録ファイルをペラペラとめくる。「半年前から入会されてますね。週に三回ほどお越しになっています。」
「あの、彼女はどういった方ですか?」
「どういった?」受付の女性は圭吾をじろりと見た。「失礼ですが、桐生様とどういったご関係ですか。」
「あ、あの、」圭吾は不意に問われて戸惑った。何か言わないと怪しまれる。「実は私、出版社の者です。今度、桐生先生のエッセイが出版されますので、その巻末に掲載するプロフィールの取材をいたしております。ご協力いただくとありがたいのですが。」
今日の圭吾はスーツ姿だった。それが、安心感をあたえたのかもしれない。受付の女性は「あら、そうですか。桐生さんが出版を。すごいわ。」と信じてくれた。昔、上之郷教授の出版の取材に関わって良かったと、圭吾は心からそう思った。
「桐生さんは、非常に評判のよろしい方ですよ。いろいろな方と積極的に交流されてますわ。ちょっとおっとりされてますけど、聡明で、思いやりがあって、気遣いがあって。こちらには男性、女性、年齢も、職業も、様々な方がお越しになりますが、その中でも桐生様はとても人気がございますわ。ここだけの話ですが、実は男性会員の中には、桐生様のファンクラブもあるとの噂もございまして。」
お客様だからお世辞も多いと思うが、それを差し引いても、彼女は人気があるようだ。そんな彼女が殺人事件に関わることはないな。圭吾は丁寧に受付の女性に礼を言い(本人に内緒の取材なので、黙っていてもらうよう念を押して)、受付を離れた。彼女を信じられなかった自分が情けなく思いながら外に出ようとすると、不意に肩を掴まれた。びっくりして振り向くと、水着姿の女性が圭吾を睨みつけていた。
「あなた、桐生笙子の何。」
「あの、えーと。」
「はっきり言いなさい。あなた、何者。」
圭吾は慌ててしまいうまく答えることができない。掴まれた肩を振りほどこうとするが、全く動かなかった。彼女の上腕がしなやかに、しかし固く盛り上がって、まるで石のようだった。しかし、それ以上に、女性の大きな胸が目に飛び込んできて、圭吾を真っ赤にさせた。直立した人間は生殖器である尻を目線に出すことができなくなったので、前面にある胸を尻のように発達させた。進化論概論で教授が言っていた仮設を思い出した。そう、まさにこの胸は巨大な尻だ。
「言えないの。まあ、いいわ。どうせ、あなたも笙子の男なんでしょう。わかっているわ。あの女に言っときなさい。あんまり男をとっかえひっかえしてると、今にしっぺ返しを食らうわよ、てね。」
彼女は圭吾を肩を突き飛ばした。そしてプールに向かって去ろうとする。慌てて、圭吾は彼女をひきとめた。
「何よ。」
「桐生さんは男遊びをしてたんですか。」
「そうよ。」女性が声を荒げる。「あの女は、ここで知り合った男と不倫してたの。それもとっかえひっかえね。」
大声に、受付の女性がやってきた。「西脇様、どうされましたか」の声に、「何でもないわよ」と怒鳴りつけ、西脇と呼ばれた彼女はプールに入っていった。受付の女性に睨まれて、圭吾は慌てて退散する。
校舎の外を圭吾はとぼとぼと歩いていた。あの西脇という女性は何だったのだろう。桐生さんは本当に不倫をしていたのだろうか。圭吾はここに来たことを後悔した。何気なく、できたら疑惑を晴らすつもりで、ここに来たのに、より深い疑問に悩まされてしまった。
ふと、スイミングスクールの門を、桐生家で見かけた刑事たちが通ってくるのが見えた。まずい、圭吾は顔を逸らす。幸い、今日はスーツ姿で、伊達眼鏡で変装もしている。気づかないだろう。圭吾は通り過ぎることに決めた。少し距離をおいて、やり過ごす。すれ違う時はさすがに緊張したが、刑事は気づかずに通り過ぎてくれた。門を過ぎて圭吾は安堵のため息をついた。
それにしても、なぜ刑事がこのスクールに来たのか。圭吾は西脇の腕を思い出す。ここに来たせいで、疑惑が石のように固まってしまったじゃないか。圭吾は自分に文句を言った。
学校が終わったのか、子供達が圭吾とすれ違い、スクールへと入っていった。
毎月、第四水曜日はママ会だった。
午後二時に白河スイミングスクールの会員の奥様方が、いつものカフェに集う。そして夕方まで、お茶を飲んだり、おしゃべりをして過ごす。自然、この社交場で注目されることは、自らの虚栄心を満たすことになり。上流を意識する奥様方はここぞとばかりに着飾ってやってきていた。笙子もところどころに白金をあしらった上品な白いワンピースを着て、参加していた。
「桐生さん、今日も素敵ね。」
奥様の一人が、笙子に声をかけた。笙子より十歳ほど年上の、笙子をスクールに誘った女性だった。
「いえ、ひろみさんこそ、いつも素敵ですわ。」
「素敵じゃないわ。」
ひろみは紅茶に口をつけた。
「これでも家では三人の子供でてんやわんやしているわよ。月に一度のこのママ会だけね、私の安らぎの時間は。」
ひろみはおどけたように肩に手をやって揉んでいる。ひろみの夫はA市に本社を持つ一部上場の建設会社の常務取締役だ。それでも、ひろみはさばさばしていて、嫌味なところがない。笙子も彼女が好きだった。
「そうですわね、ひろみさん。」
取り巻きの奥様方が、次々ひろみに追随する。毎日、子供が中心で本当に大変だとか。家事のし過ぎで年をとってしまうとか。こんな時しか羽を伸ばすことができないとか。そして最後に、「桐生さんはいいわね。お子さんもいないし、ご主人も出張多くて。」と嫌味の混じったお世辞を笙子に言う。そして、「ねえ、西脇さん」と青いワンピースの女性に話を振る。「あら、ごめんなさい。西脇さんのご主人は先日、悲しい事件で亡くなったんでしたわね。ごめんなさいね。」とにやにやしながら謝った。西脇美佐子はものすごい目で彼女たちを睨みつけていた。西脇には高額の保険料が入ったという噂が広まっていた。それに対するやっかみもあった。
笙子はあまり気にしないようだ。
「みなさんのおっしゃる通り、今は自由ですけど、でもやっぱり子供は欲しいです。」
「あら、じゃあがんばんないとね。」
ひろみは応援した。
「でも、がんばってるんですよ。」
「へえ、どんなことを。」
笙子はにっこり笑った。
「内緒です。」
「まいったな。」
上村は額の汗を拭いた。
「出ませんねえ、足取り。」
二宮も汗でカッターシャツの背中がべっとり濡れている。
小林哲哉の足取りの捜査は難航した。小林は事件のあった日は休みを取っていた。当日、小林は昼にアパートを出ると、A市の中心街まで電車で行き、行きつけのラーメン店に行ったところまでは分かった。しかし、
「なんだこりゃあ。」
あらためて調べた手帳を見た。
「電車であっちこっち行って、タクシーを乗り継いで、地下鉄も使って。こいつ何やってるんだ。」
「結局、足取りも途中で分からなくなりましたね。」
「おい、こいつ、尾行でもついていたのか。」
「あっ、なるほど尾行を撒いていたのなら説明がつく。」
「しかしなあ。」上村は手帳の続きを見た。「最初の被害者、西脇幸太郎、三十四歳。総合商社の営業部長。陸上の選手で国体の経験もある。二人目は佐藤敬太。大学生。三人目は小崎信一。公務員。みんな、足取りがと途中で消えている。」
「三人とも尾行がついてるとか。」
「まさかな。」
「それにしても、今回の事件との関係性を係長に進言したけど、認められませんでしたね。」
「まあな。もっと捜査してからこいと言われたな。しょうがないだろう。状況証拠だけでは帳場は立たんさ。」
「共通点が無いですからね。足取りがおかしいだけじゃあ、共通項とは言えないし。」
「あれもあっただろう。」
「ああ、『白河スイミングスクール』ですか。確かにみなここに入会したり、見学に来てますけど。なんか薄いというか、はっきりしないですよね。」
「この前、ここに行ったとき、男とすれ違っただろう。」
「そう、でしたっけ。」
「そいつ、あの女の家に居た。」
「え、桐生笙子の家にですか。」
「ああ。」
「でも、あの女と被害者の接点は出てきませんでしたよ。」
上村はもう一度手帳を見た。
「この動き、尾行をまくというよりは、浮気を隠していると考えたほうが自然じゃないか。」
「ということは、被害者と桐生笙子は不倫関係。」
「証拠はないが、可能性はある。あの男は今の桐生の男かもしれねえ。」
上村は煙草に火をつけた。
「会ってみるか。」
M大研究室にいる高倉に連絡があったのは、午後が始まってすぐだった。
一階にあるピロティに下りてくると、あの刑事達がいた。
「M県警の上村と申します。」
年配の刑事が手帳を見せた。若い方は二宮と名乗った。
「高倉です。」
「高倉さん、どうも、はじめまして、ではないですなあ。桐生笙子さんのお宅と、白河スイミングスクールで。」
高倉は息を呑んだ。やっぱりあの時、勘付かれていたか。
「高倉さん、あなたと桐生笙子さんのご関係は?」
「ただの知り合いです。」
「知り合い、ねえ。」
二宮が手帳を見ながら、高倉をしげしげと見る。
「ここ数週間、頻繁に桐生笙子と会っていますね。」
「それは、お菓子の試食を頼まれて。」
「試食だと。ふざけたこと言ってると…。」
「まあ待て、二宮。ははは、そうですか。お菓子の試食とはいいですなあ。」
上村は二宮を押し止めると笑いながら高倉を見た。高倉も刑事を見る。刑事は笑っているが、目の奥は笑っていなかった。高倉の話など露ほども信用していない証拠だ。高倉はだんだん腹が立ってきた。
「用はそれだけですか。失礼します。」
高倉は歩き出した。その手を上村が掴んだ。
「何するんです。」
「まあ、落ち着いてください、高倉さん。」
上村の張り付いた笑顔に高倉は恐怖を覚えた。上村はその表情を崩さす、懐からA4の入る茶封筒を出した。
「今日は、これについて先生のご意見をお聞きしたくて。」
高倉は封筒を受け取ると中身を見る。見て気分が悪くなった。それは無惨な死体写真だった。
「僕は内科医です。死体の検案などできません。」
「参考意見でいいんですよ。見たままでけっこうですから、教えて下さいよ。」
高倉は写真に目を落とした。写真は死体の局部が大写しになっていた。しばらく高倉は見ていたが、ふとあることに気づいた。
「これは、あの時の死体ですか。」
「全部じゃないですが。」
「この顔の肉が剥ぎ取られている。しかし、この切断面、荒い。乱れている。そう、まるで、噛み切られているみたいだ。」
「そのとおり。さすがは高倉先生だ。監察医も同じ判断を下しました。おや、先生、どうしました?」
刑事の声は高倉に届かない。高倉はじっと写真を見入っていたからだ。この歯型、思ったよりも大きくない。ということは,まさか。
「お気づきになりましたか。そう、歯型の形状、大きさから推察すると、犯人は女性なんですよ。」
上村はニヤリとした。
「高倉さん、あなたに会いにきた理由を分かっていただけましたか。」
中東の出張を終えた桐生誠一が戻ってきていた。
「僕がいない間、変わったことはなかったか。」
「ええ、ありませんわ。」
にこやかな顔で笙子が言う。笑顔の笙子を見ていると、誠一はとても幸せな気分になる。桐生商事の営業部で、事務をしている笙子に一目惚れしてから、誠一は自分の人生にようやく光が見えたような気がした。それまではレールの敷かれた人生を生きていくことに諦めていた。反発もしたが、共感してくれる人がいなかった。みな、放っておいても社長になれる誠一のことを真剣に考えるような友人も、部下もいなかった。そんな時に、笙子に出会ったのだ。笙子は誠一と真剣に向き合ってくれた。しっかり支えて、理解してくれた。不思議なことに、笙子を得たことで、誠一は自分の人生に真剣に向き合えるようになった。会社の業績も上がり、誠一への信頼も大きくなった。今は海外進出に向けての大事な時期のため、笙子との時間もなかなか取れないが、理解してくれていると思う。
「また出張ですか。」
「ああ、すぐとんぼ返りだよ。全く、少しは親父が手伝ってくれてもいいのに、外国はわからんのひと言で、俺が長期出張さ。やりきれないよ。」
「いいじゃない。やりがいのあるお仕事なんだから。」
「笙子、いつも悪いな。」
「あら、じゃあ落ち着いたら、何かプレゼントしてもらおうかしら。」
「ああ、いいとも。何がいいか、考えておいてくれ。」
誠一はテーブルに座ると、新聞を広げた。ニュースはネットで見ることができるが、新聞はご無沙汰だった。渇きを満たすように隅々まで読んでいくと、見慣れた地名が出てきた。丹念に読んでみる。この辺りで殺人事件があったのか。ふと笙子がこの事件のことを自分に伝えなかったことが気になった。しかし、自分に心配をかけさせたくないからだろう。セキュリティを厳重にしとかないといけないな。ここ数日の休みの予定はそれに費やすことに誠一は決めた。
「明日、買い物に行こ…。」
新聞から目を外した誠一の顔が強張った。笙子がそこに立っていたからだ。その顔は
いつもの笙子の顔と全く違っていた。顔色は真っ青で、目が飛び出すかと思うくらい大
きく開かれていた。その焦点は合わずにあちこちに小刻みに動いている。口も半開きで
横から唾液がだらだらと流れていた。
「し、笙子…。」
突然、笙子は口を押さえて走り出した。トイレに駆け込むと音を立てて吐き始めた。
あまりの変貌に誠一が慌ててついていく。
「大丈夫か。」
吐く音が止まり、笙子は顔を上げた。いつもの笙子に戻っている。驚いた様子で誠一
に告げた。
「誠一さん、プレゼントもらっちゃったかも。」
一瞬、笙子が何を言っているか分からなかったが、
「えっ、笙子、もしかして子供が…。」
「あは、最高の贈り物をありがとう。」
誠一は笙子に抱きしめた。「これからは二人で待ってるわ」と笙子は神々しいほどの笑顔を誠一に見せてくれた。俺が守ろう。誠一は誓った。笙子も、子供も、会社も俺が絶対守ってやる。それが俺の生きる道なんだ。
今、誠一は最高に幸せだった。
上之郷研究室の教授室に高倉は呼ばれた。高倉が入ると、上之郷教授は「コーヒーでも飲むかね」と勧めた。教授はコーヒーが趣味で、いつも自分で淹れていた。
「これを見てくれ。」
コーヒーに口をつけた後、教授は高倉に書類を渡した。
「私の研究記録だ。」
高倉は書類に目を通す。教授の研究は新見が助手をしていたので、詳しくは知らなかった。書類は論文の原稿のようだった。
「新見助手はどうしたんですか。彼が担当していたと思いますが。」
「新見は辞めたよ。」
教授はコーヒーを飲み終えると、煙草に火をつけた。教授は大学の禁煙化に反対する最後の重鎮だった。よって研究室内は原則喫煙可である。
「突然、辞表を置いて出て行った。理由も告げずにだ。」
「理由も告げずに。」
「そうだ。青ざめた顔で、何も言わずに出ていった。」
新見は闊達な性格だ。そんな彼が何も言わずに辞めていくのは、どうもイメージに合わないような気がする。
「それでだ、高倉君。」教授は二本目の煙草に火をつけた。「新見君の後を高倉君にやってもらいたいんだ。いいかね。」
「分かりました。」
助手にとって、教授の研究を手伝うことは名誉なことだ。やがて出世にも繋がる。断る理由も無かった。
「よろしく頼むよ。臨床の患者は大学病院にいるから、後で診てやってくれ。カルテはその書類の中にあるから。」
高倉は書類からカルテを取り出した。
「これはひどい。」
多臓器不全、心機能障害、視力障害、聴覚障害、脳の疾患などあらゆる機能不全が発症している。まるで病気のデパートだ。生きているのが不思議なくらいだが、それでも彼女は生きている。教授はそれを研究しているようだった。
「非常に珍しい症例だよ。私は遺伝子に原因があると睨んでいるんだがね。これを研究していけば、今後の遺伝子治療に革命が起きる。ノーベル賞を取れるかもしれんよ、高倉君。だからしっかりデータ収集を頼むぞ。」
どうせ脚光を浴びるのは上之郷教授だけ。それが学会というものだ。高倉もそれが分かっていたから、無機質に「はい」と答えて、退出しようとした。しかし、ふと思ったことがあって、教授に質問した。
「教授、この患者にはかなり強い薬なども与えられていますが、家族などの反発は大丈夫なんですか。」
「それについては心配いらん。患者は身寄りがなくてな。唯一の肉親から、ちゃんと承諾も得ておる。その書類の中にコピーがあるはずだ。」
確かに書類の中に承諾書の写しが入っていた。内容は、表向きは病気の治療となっているが、要は患者にどんな実験を行っても、どんな強い薬を投薬しても、それが原因で患者が死亡することがあっても、一切病院に責任を追及しないという内容だった。高倉は何気なく署名を見て、思わず書類の束を取り落としそうになった。そこには高倉のよく知った名前が書いてあったからだ。
『桐生笙子』
病室は薄暗く、たくさんの計器が置いてある。それは一定のリズムで波形を刻んでいた。その波形がこの部屋の生命の全てだった。
高倉はベッドに近寄った。そこには人の寝ている影があった。頬はこけ、目は窪み、髪は真っ白である。しかしそのような異常を除けば彼女は人形のように色の白い美しい女性だと思う。高倉はカルテを見た。名前は水沢詩子。桐生笙子の双子の妹にあたる。幼い頃から病を患い、目も見えず、満足に動けないような状態だった。こんな娘を母親は嫌い抜いた。育児も看護も放棄したため、彼女は幼少期のほとんどを施設で過ごした。彼女はいつも一人で過ごした。そして五年前に症状が悪化し、寝たきりになった。そして今に至っている。
桐生笙子はそんな詩子を大切にしていたらしい。母の目を盗んで、よく二人で話をしていたらしい。心を開かない詩子が唯一笙子には自分の思いを話していた。それは両親が交通事故で亡くなってからも続いていた。妹が寝たきりになると、ここに入院させた。費用は桐生笙子が持った。彼女は1ヶ月に一度、妹に会いに来る。そしてしばらく病室に留まり帰っていった。看護婦によれば、その間ずっと、彼女は妹の手を握り続けていたらしい。「私も涙が出てきて」と看護婦も涙ぐんでいた。
そんな彼女が、こんな契約書に同意するのだろうか。
高倉はベッドに座った。彼女の妹の手を握ってみる。冷たい手だったが、ずっと握っていると奥にほんのり温かみを感じた。これなんだろうな。高倉は思った。彼女は、ここで妹が生きていることを確認して帰っていくのだろう。唯一の肉親がまだ生きていることが彼女の生きる糧なのかもしれない。そんな彼女があんな契約書にサインなどするものか。何か事情があったに違いない。救おう。高倉は決心した。教授の意に反するかもしれないが、必ずこの子を救おう。あらゆる治療を施して、少しでも治療しよう。それが桐生笙子に自分ができる手助けなんだ。高倉は詩子の手を握って、彼女に誓った。
…突然、手を掴まれた。
高倉は思わず手を引っ込めようとしたが、ものすごい力で掴まれて動けない。逆に引っ張られてベットにぶつかった。詩子の顔がすぐそばにあった。その顔を見て、高倉は悲鳴を上げた。
彼女の目が開いていた。
高倉は逃げようとするが、掴まれた手は外れない。気がつくとゆっくりと詩子は起き上がっていた。そしてじっと高倉を見ていた。彼女の真っ黒な眼窩には無機質な眼球が浮かんでいた。それがじっと高倉を見ている。見えているはずは無いのに、じっと高倉を見続けていた。高倉は恐怖で凍りついた。
「ハーベスト。」
詩子の顔がいつの間にか高倉の顔の横にあった。高倉を舐めるようにじろじろ見ている。
「ハーベスト。」
詩子は呟いた。悪魔のような濁った声だった。
「ハーベスト。」
高倉の頭を掴む。ものすごい力だ。頭が割れそうに痛い。
「ハーベストにはまだ足りない。まだ足りない。」
詩子が口を開く。頬がこけているせいか、信じられないくらい口が開いたように見えた。
「ハーベストに足らないのは…。」
高倉の視界が詩子の顔でいっぱいになった。
「お前だあ。」
「うわああ!」
高倉は意識を失って倒れた。
まだ続きます。