その2
続きです。
M大学はM県下最大の総合大学である。
A市の郊外に位置しており、法学部、文学部、経済学部など八つの学部が存在している。その中でも医学部は県下に唯一のということもあって、県内で一番の医療水準を誇っていた。また併設する大学病院は、ガンや伝染病などの先進治療施設として地元の人たちの生命を救っていた。
圭吾は大学病院の病棟を歩いていた。教授の論文に必要な臨床データを受け取るためだ。目的の脳外科病棟の事務室に着くと、「高倉さん」と声をかけられた。振り返ると事務員の荻窪洋美が立っていた。白衣ではない事務服を着て、重そうなファイルを両手で抱えている。
「すいません、来てもらっちゃって。」
「いえ、いいんです。」
圭吾は教授の手伝いでよくこの棟には来ている。もちろん荻窪洋美もよく知っていた。洋美はこの大学の出だが、医学部ではない。年も近いので、洋美も圭吾に親近感を湧いているようだ。「少し待っててください」と洋美は事務室の中に消えた。
手持ち無沙汰の圭吾が待っていると、向こうから新見がやってきた。新見聡士は圭吾と同じ上之郷研究室の助手で、圭吾より一歳下だ。
「高倉さん、」新見は気づいて近寄ってきた。「教授の御用ですか。」
「ええ。」
高倉は答える。新見は高倉からみても優秀で、周りも評判がいい。高倉は先輩だが、なんとなく先輩面できなくて、微妙な距離を保っていた。
「新見は臨床か。」
「はい。一日何度も研究室と病院の往復ですよ。夜中もあるから大変で。」
新見は今、教授の研究論文の作成を担当している。高倉を差し置いて、新見が助手になるということからしても、新見の優秀さが分かる。
「高倉さんはどうして。」
「僕も教授のデータの受け取りだよ。」
「あの臨床サンプルですか。」
「…まあな。」
意地が悪いな、と高倉は思う。上之郷教授の研究の詳細は新見しか分からない。当然、高倉もだ。それを知ってわざわざ尋ねる新見はよほど意地が悪いか、天然素材かのどちらかだと思う。高倉は深く突っ込むのをやめた。ちょうどその時、洋美が事務室から出てきた。
「おまたせしました。」
「やあ、荻窪さん。」新見は洋美に声をかける。洋美はちらりと新見を目をやったが、すっと目を逸らした。小さな声で、「こんにちは」と挨拶した。
「では、失礼します。」
二人を残して高倉はその場を離れた。そのまま正面玄関へと向かう。M大付属病院は午後は外来診療をやっていないのだが、受付ロビーは人でごった返していた。その中を高倉を通っていく。患者が次々と声をかけてきた。そして高倉の前で頭を下げる。高倉は研究の合間に、病院で外来を担当していた。内科を受け持ったので、なにかと老人を相手にすることが多くなった。不思議とおじいちゃん、おばあちゃんは元気なときでも病院に来ることが多くて、高倉を見つけるとあれこれと話しかけてくる。高倉もそんな雰囲気が嫌いではなかった。今も、この前、肺炎の治療をしたおじいさんが、お礼にと魚を干物を持ってきてくれていた。高倉は苦笑いしながら遠慮していた。お礼を受け取ることは規則で禁止されているからだ。
不意に高倉の隣を影が通り過ぎた。爽やかな香りが高倉の鼻腔をくすぐった。高倉はそちらに振り向く。
「あ、あの人は。」
あの時、殺人現場にいたあの女性だった。女性は厳しい表情で玄関へ歩いていった。それを見送りながら、高倉は放心状態だった。
これは運命だ。きっとそうに違いない。
運命は回る。
休日、いつも高倉は昼過ぎまで寝ている。だらしないわけではない。研究室の助手はデスクワークで、残業も無いと思われがちだが、とんでもない。ひとつの論文を書き上げるためには、膨大な量のデータを処理しないといけない。それがかなりの時間がかかる。なまじデスクワークなだけに、区切りがつけられないから、気がついたら日が変わるなんてこともしばしばだ。昨日も休み前に片付けないといけない資料があって、終わったら、夜中の二時を過ぎていた。
「昼飯、買ってこよう。」
圭吾は起きると身支度を整えて外に出た。近くに24時間のスーパーマーケットがあるので中に入った。圭吾は自炊はしない。弁当でも買おうとぶらついていた。その時、不意に圭吾は声をかけられた。
「あの。」
振り返って、圭吾は驚いた。あの、運命の女性が立っていたからだ。
「あの…あの時、帽子を拾ってくれた方、ですよね。」
女性は申し訳なさそうに聞く。つぶらな瞳に吸い込まれそうになる。
「そ、そうです。」
「あの時は、ありがとうございました.]
女性は深々と頭を下げた。慌てて圭吾がそれを止めた。
「いえ、そんな、気にしないでください。」
「私、桐生笙子と言いますの。よろしければ、お名前を教えていただけませんか。」
「あ、失礼しました。僕は高倉圭吾です。」
「高倉さんね。高倉さんは学生さんですか?」
「いや、ええと、大学は大学なんですけど。」
「あら、学者さん?」
「まあ、そんなところです。」
「今日はお休みです?」
「ええ。」
「よかった。」女性は呟いた。「よければ、この前のお礼にお茶をご馳走したいのですけど、よろしいかしら。」
「えっ?」圭吾は驚いた。その顔を見て、笙子ははしたないと思ったのか、慌てて手を振った。
「いや、あくまでもお礼なんです。駄目ならいいんですけど。」
「そんな、」圭吾は慌てて、「では、お世話になります。」
「ありがとう。」
笙子はにっこり微笑んだ。
圭吾は緊張していた。
今、圭吾は桐生笙子の家にいる。リビングのソファーに座っているが、体はソファーよりもガチガチに固まっていた。笙子はシステムキッチンの奥でお茶を沸かしていた。笙子の家は白を基調としていてとても清潔な感じがした。窓も大きく開けられて、日の光も十分に入ってくる。欧風の年代を感じさせる調度品があるかと思えば、100インチを越える液晶テレビも置いてある。違う世界の人種だな、と圭吾は思った。
「無理言ってごめんなさいね。」
お盆にティーカップを乗せて笙子が戻ってきた。圭吾は「いえいえ、そんな」と言いながら、恐縮する。笙子はロールケーキの皿もいっしょにテーブルに置いた。
「お口に合えばよろしいのですけど。」
「これは、手作りですか。」
圭吾はしげしげとケーキを見る。ロールケーキの上に、生クリームとフルーツとで、きれいにデコレーションされている。まるでお店のケーキのようだった。
「今日、急に思い立ってケーキを作ったんですけど、試食してくれる人がいなくて。高倉さんには申し訳ないんですけど、ちょうど良かったの。さあ、どうぞ召し上がって。」
圭吾は紅茶に口をつけた。たぶん高級なアールグレイなのだろう。とてもいい香りがした。
「おいしい?」
同じくソファーに座って紅茶を飲んでいた笙子が聞く。彼女のその興味津々な顔はとてもかわいらしい。妹でも通るな、と圭吾は思った。
「はい、おいしいです。」
「うれしい。うちの主人だと、何も言ってくれなくて、つまらないの。」
「あの、ご主人さんは?」
「主人はね、出張中。中東の方に行ってるみたいなの。」
話し相手ができて嬉しいのか、笙子は楽しそうにいろいろ話してくれた。夫の誠一は桐生商事の専務取締役で、現在中東に商談に行っているという。桐生商事は誠一の父が経営している中堅の総合商社だった。出張中はほんとに退屈なのと笙子はにっこり笑った。
圭吾のことも聞いてきた。M大卒で、医学部研究室の助手をやっているのを圭吾が言うと、「すごいわあ」と笙子が喜んだ。
「うちの主人、言っても三流大学だから。」
「学歴は関係ないですよ。ご主人さん、専務さんですよね。すごいじゃないですか。」
「でも、コンプレックスは感じているみたい。」
笙子は楽しそうにケーキに口に入れた。
「実はね、私も高倉さんほどじゃないけど、主人よりはいい大学行ってるの。そのせいかしらね、うちでは威張ってるのよ。」
「内弁慶ですか。」
「ええ、そうなの。内弁慶よ。」
二人は笑った。
もう一杯どうかしら、と笙子に勧められ、新しい紅茶とお菓子が出てきた。それに圭吾が口をつけた時、玄関のチャイムが鳴った。笙子はインタホーンを出る。
「M県警の上村です。」
インターホンから声がする。笙子は不安そうな声で「はい」と告げると、玄関に向かった。なんとなく圭吾も後に続く。笙子が玄関の開けると、くたびれたジャンパー姿の刑事と背広姿の若い刑事が立っていた
「桐生笙子さんですか。」
若い刑事は高圧的な態度だ。それを年配の刑事が押しとどめるようにして、話を続けた。
「この団地の方、みなさんにお聞きしているんで、気になさらないでください。」
刑事は懐から写真を出した。
「この方に見覚えはありませんか?」
その時、圭吾は見た。一瞬、笙子が凍りついた表情を見せたことを。それは戸惑いではなく、何かの感情が垣間見えたような、そんな一瞬だった。その刑事もじっと笙子を見ていた。もしかしたらあの表情を刑事もみたのかもしれない。
「いえ、知りません。」
笙子はすぐに元の表情に戻って写真を返した。そうですか、と刑事は写真をしまう。
「もし、何かお気づきのことがありましたら、ご連絡ください。」
刑事は名刺を笙子に渡すと、軽く礼をして出て行く。若い刑事は笙子を睨んだまま、出て行った。それを固い表情で笙子は見送っていた。その様子に圭吾は疑惑を持った。彼女はこの事件について何か知っているのか。
それとも…。
桐生家を出て、車に乗り込む上村に、運転席の二宮が話しかけた。
「きれいな奥さんでしたね。」
「ああ。」
上村は上の空だ。
「どうしたんです、上村さん。出てきてから、なんかおかしいですよ。」
「そうか。」
二宮は不思議そうに上村を見る。そんな二宮そっちのけで上村は考えていた。あの顔
は、何だ。あの顔は…。
「二宮、桐生笙子を洗え。被害者との接点を見つけるんだ。」
「じゃあ、あの女、事件に関係してるんですか。」
「まあな。」
上村は煙草を取り出したが、車内禁煙なのを思い出して、渋々煙草をしまいながら言った。
「俺の勘だ。」
圭吾が桐生家をお暇するとき、笙子は笑顔だったが、やはり表情は固かった。その表情が圭吾に病院での彼女を思い出させた。圭吾はそのことを聞いてみたい衝動にかられるが、できなかった。できない分、彼女がどんな人間なのか興味が湧いた。
ふと棚に写真立てがあるのに気づいた。建物を背にしての集合写真のようだ。その建物には『白河スイミングスクール』と作られた看板があった。
その中の笙子はあの時の笑顔と同じだった。
まだ続きます。