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ヒストリカル・ロマンス

待ち続ける女に奇跡は起きるのか

作者: 仁司方
掲載日:2022/01/18


 最先端機器であるフィルムカメラによって撮影されたポートレートは、色彩にこそ欠いていたが、まるで当人がそこにいるかのようであった。


「アイラ、その若者をどう思う?」

「高貴な身の上のかたのようですね。爵位をお持ちの、有力な家門のご子息でいらっしゃる」


 正面からの一枚のみ、説明書きはいっさいなしであったのに、被写体の身分を見抜いた娘の鑑別眼に、トマス=ラポートは内心鼻の穴が膨らむ思いであった。わが子ながら、よい目をしている。


 アイラが判断材料にしたのは、精細な写真を撮れる最新機材が使えるということと、着ている服の上等な仕立てであったが。

 写真の青年が成金(ブルジョワ)ではなく貴族だと見当をつけたのは、双眸の冷めた光からだ。

 代々つづく貴族にとって、使用人や出入りの職人はモノと同じだ。下手をすれば犬や馬以下である。写真屋に対して向ける笑顔を持たない、高貴な血(ブルーブラッド)の流れる由緒正しき御曹司であろう。


 表紙つきのフォトフレームを閉じ、アイラが卓上におくのを待って、トマスは話をさきへ進めた。


「ハルーヴァ侯爵家のリチャードさまだ」

「現王室よりも古くから存続している、名流ですね」


 裏を返せば、ブライトノーツ連合王国の前王朝であるノルーヴィ家を支えていた大貴族であり、現王統であるヴァイザー家からは、かならずしも親しみを持たれていないという意味でもあろうが。


「先方からは、おまえをリチャードさまの妻に迎えたいと、お話をいただいている」

「リチャードさまのご意志ではなく、ハルーヴァ侯爵閣下のお考えということですね」

「それがどうかしたか?」


 アイラは当年とって十六歳。正装して王宮へ参内し、国王夫妻に謁見を賜るという、社交界デビューの要件を満たしてはいたが、夜会にはお義理程度しか出席していない。

 ハルーヴァ侯爵家の御曹司とは、一面識もなかった。


 にもかかわらず、縁談が持ち込まれたということは。


「お金、ですよね」

「持参金の期待をされているのは、まあそうだろうな」


 今度は、内心ため息をつくことになったトマスであった。

 大貴族の御曹司が結婚を望んでいる、という話に、ロマンスのときめきを感じることはなかったようだ。

 常に実利から目算する、ラポート家の一員らしいといえばそうだが、いささか似すぎたか。


 アイラの看破したとおり、ハルーヴァ侯爵家の財政状況は、かんばしくない。

 侯家の所領は主に牧草地だが、羊毛製品はまったく売れないのだ。新大陸や、ブライトノーツの海外植民地からもたらされる綿製品が、衣料市場を完全に支配するようになったのは、前世紀も序盤の話。いまや羊毛の出番は冬場の上着だけ。それも、割高な国産羊毛の需要はごくわずかである。


 牧草地を畑に変えたところで、小麦も安い海外産が圧倒的シェアを占めている。ハルーヴァ侯の領地の産品でいまも変わらず売れているのは、新鮮さが命の牛乳くらいだ。冷蔵冷凍技術の発展により、乳製品すら、バターやチーズとなると輸入品に価格競争負けする。肉類も同様だ。


 そして、ラポート家こそが、安い輸入品を潤沢にもたらしている海運大手の筆頭なのであった。


 もっとも、船に乗って海を渡るのは、輸入品だけではない。ブライトノーツのすぐれた工業製品は、文字どおり世界中に販路を広げており、ラポート家は国富の増大に寄与してきた。


 貿易商の娘として、アイラはもちろんこれらの事情を知っている。


「持参金の名目でハルーヴァ侯へ多額の融通をして、お父さまの事業にどんなメリットがあるのでしょうか?」

「私が純粋に、娘のしあわせを願っているとは思わないのか、アイラ?」


 ため息混じりの父に対し、アイラはあっさりと首を左右に振った。


「それだけの理由でしたら、お断りになってください。わたしは大貴族の奥がたという役目をあまり上手にこなせる気がしませんし、なによりも投資としてメリットが薄すぎます」

「……やれやれ、おまえは困った子だな。もちろん理由はほかにもある。たぶん、わかっているだろう? 当ててみなさい」

「議会工作ですね」


 即答した娘に、トマスは微苦笑しながらうなずいた。


「正解。庶民院はこれまでに何度も貿易障壁撤廃法案を可決してきたが、貴族院でことごとく廃案にされている。ハルーヴァ侯は商務委員会の議長だ。いま必要なのは、高関税ではなく、低関税で諸国にブライトノーツ向けの商品をより多く輸出させ、その代金でブライトノーツの製品をより多く購入させることだよ」

「そういうことでしたら、よろこんで。きっと、ハルーヴァ侯爵家とラポート家の双方に利益をもたらしましょう」


 母譲りの大きな黒い眼をきらめかせてそういったアイラへ、トマスは父としての声を返した。


「最終的な決定は、おまえが自身の意志でするように。合わないと思ったら、遠慮せず断りなさい。わが商会の地所は海に面した世界中あらゆるところにある、ブライトノーツだけに縛られる理由はないからな」

「ありがとう、お父さま」


    +++++


 この一世紀のあいだ勢いが衰えているといっても、大貴族は大貴族、ハルーヴァ侯爵家の邸宅は「城」だった。


 そんな〈古き良き〉貴族社会の象徴へ乗り込むにあたり、娘のためにトマスが用意したのは最新の自動車(オートモービル)であった。

 国産のロイテン・ルイスは製造工程の多くを職人の手作りにたよっていて、性能は最高だがさすがに高すぎたので、新大陸の巨大工場で量産されているフォース社のモデルTに特注架装したものだが。

 社用車ということにして、ラポート商会の船で整備技師と運転手を兼ねた要員ごと運んできた。ついでに三台ぶんの受注をまとめたのが、トマスのそつのない商才であった。


 自動車そのものはもう珍しくもなく、貴族も馬車から乗り換えるようになって久しいが、運転台も客座もすべて密閉キャビンになっている最新型の偉容は、出迎えに居並んでいた侯爵家の使用人たちをたしかに驚かせたようだ。


「ようこそお越しくださいました、ラポート家ご令嬢アイラさま」

「ご丁寧にありがとうございます」


 ドアを開けた執事へ礼を述べたアイラだったが、従僕やメイドたちの口の端がわずかに動いたことに気づいた。


 おそらく、使用人に対して丁重すぎたのだろう。親近感を持ってもらえたのか、この下賤な小娘が次期当主の夫人なのかと嗤われたのか、どちらかなのかまではわからなかった。ついてきている侍女も、専属というわけではなく、臨時で役目を引き受けてくれたラポート商会の受付係りだ。


 とおされた客間で、出されたお茶を飲む。迎えるがわの席は空だった。大貴族の邸宅に招待されるというのは、こういうことだとわかってはいたが、作法を試されていると感じて、落ち着かない。


 しばらくして、はずしていた執事が、今度は奥の間のほうのドアから客間に入ってきた。ハルーヴァ家の人がやってくるのだろうと、アイラは出迎えるため立ち上がった。これが正しい作法なのかは、わからないのだけれど。


 戸口に姿を見せたモーニングを着た青年は、金色ですこし巻きぎみの髪に緑の眼をした、育ちのよさがひと目でわかる風采だったが、次期侯爵リチャードではなかった。

 アイラよりいくらか年長、二十歳ほどだろうか。


 客間へ歩を進めてきた青年が、優雅な所作でアイラへあいさつする。


「はじめまして、エドワード・ジョン=ハルーヴァです」

「お初にお目にかかります、アイラ=ラポートともうします」

「どうぞ、おかけになってください」

「エドワードさまは、リチャードさまの弟君でいらっしゃいますか?」


 父トマスに聞いた話では、ハルーヴァ侯家の跡継ぎであるリチャードは二十五歳だったはず。

 腰かけながらアイラが訊ねてみると、エドワードは表情を厳粛にあらためた。


「そのことでお詫びしなければならない、アイラ嬢。兄リチャードが、あなたと同席することを拒んでね」

「身分不相応であることは、こちらも重々承知していたことです。それでは――」


 この縁談はなかったことに、とつづけかかったアイラを、エドワードがさえぎる。


「とても印象的な眼をしているね、アイラ嬢。よければ、あなたのお母上のお国の話を聞かせてもらえないだろうか」

「わたしは、こちらで生まれてこちらで育ちましたので、ぜんぜん詳しくないのですけれど……」

「ぼくは海外に興味があってね。あなたのお父上の許しをえられるなら、海運の仕事を手伝ってみたいと思っているんだ」


 話のすじみちがなんとなく浮かび上がってきて、アイラはややうかがうような視線でエドワードの顔を見やった。


 ハルーヴァ侯爵が探してきた、裕福だが貴族ではない家の娘との縁談を、長男リチャードは拒否した。しかし、ハルーヴァ侯家としてラポート家からの持参金はふいにしたくない。

 そこで、兄よりは頭の柔らかいエドワードの出番となった、そんなところか。


 はたしてこの青年は、平民の上に異民族の血が混じっている女と、顔見せすら蹴った兄の代わりに、結婚する気があるのだろうか?


 間を持たせるのにちょうどよいので、アイラは両親の馴れ初めに関して、すこし話をすることにした。


「いまは療養のために実家に戻っていますが、母はよく、父と出会ったころの話をしてくれました――」


 アイラの母カシーシュは、ここブライトノーツから海路10000キロ、プラーナ亜大陸の一邦、ガルダ藩国をかつて治めていた王侯(マハラジャ)の娘であった。


 現在のプラーナ亜大陸は、そのほぼ全域がブライトノーツの統治下に入っている。しかし航海技術が未熟であった数世紀の過去においては、ブライトノーツ商人はじめ西方人のほうが弱い立場であり、莫大な贈物をした上で現地の有力者と縁を結び、交易の許可をえるのが慣例であった。


 ブライトノーツ辺境の港町で、船乗りたちの伝説を本で読んで育ったトマス=ラポートは、長じて自ら交易商となるにあたり、もはや不要となっていた古来の伝統に則ることを選んだのである。……裸一貫身を立てたばかりのトマスに、献上できる財宝はなかったが。


 トマスのいささか時代錯誤な求婚はカシーシュとその家族をしばし戸惑わせたものの、多くの西方人がプラーナの人々を下に見るようになっている中、実直なブライトノーツ人の駆け出し船乗りは、最後は好意的に受け入れられたそうだ。


 夫とともにブライトノーツへやってきたカシーシュは、ふたりの男の子とアイラを産んだが、故郷とはまるで異なる寒冷な気候に長年さらされたためか、三年ほど前に健康を損なって実家へ戻った。

 カシーシュに体調以外の問題はなく、月に一度は手紙のやりとりをしているし、トマスは業務も兼ねて、折りを見てはプラーナへ渡航をし愛妻を見舞っている。最新技術として電信もあるが、さいわいというか、急を要するような事態はいまのところ起きていない。


「――わたしも、いずれ母の国を訪ねたいと思っています」

「すてきな話だ。あなたのお父上は、ロマンチストだったんだね」


 そういって微笑むエドワードへ、アイラは肩をすくめてかぶりを振ってみせた。


王侯(マハラジャ)の義理の息子になって、海運業をはじめるための初期資本を出してもらおうとしてやったことです。ラポート家には財産らしいものがなにもありませんでしたし、知り合いや親戚中から開業資金を借りて回っても、プラーナへ渡航する片道ぶんしかお金は集まりませんでしたから。もし母と結婚できなかったら、雑用水夫としてブライトノーツの船に乗って帰ってくるつもりだったそうです」

「あなたのお父上に説得力のある計画と、なにより熱意があったからさ。打算だけでは、現地の有力者のお嬢さまを(めと)ることは許されなかっただろう」

「……エドワードさまのお心は、いかがでしょうか」


 ぶしつけと形容してもいきすぎではない切り込みをしたアイラに対し、エドワードは穏やかな顔ながら率直に聞こえる声で応えた。


「実際のところ、すこし腹が立ったよ、父にね。持参金がどうしても必要だから、次期侯爵が婿だと大きなことをいったんだ。兄はどうも、頭だけ先祖帰りしてしまっているようでね、父よりも保守的なくらいさ。だから父も、勝手に縁談をもちかけたところで、兄が首を縦に振らないことはわかっていたはずなんだ」

「エドワードさまは、ご実家を支える持参金のために、お兄さまの身代わりとなるおつもりでいらっしゃる、と」

「そうじゃないよ」


 エドワードはきっぱりと首を左右に振った。

 アイラの眼をまっすぐに見つめ、言葉をつづける。


「最初から正直に、ハルーヴァ家の台所事情が厳しいことと、相手は長男ではないが、アイラ嬢をいただけないかと、あなたのお父上へ頭を下げればよかったんだ。場合によっては、ぼくが直接お願いしてもよかった」

「なぜ、そこまで……?」

「うちの一族は、むかしは海賊をしてたのさ」

「海賊……?」


 野蛮さのかけらも感じさせないエドワードの口から思わぬ単語が出てきたので、アイラは目をしばたたかせた。


「正確にいえば、私掠船の運航だね。三世紀ほど前、イルパニアの覇権を打破すべく、わがブライトノーツは海上輸送の妨害に着手した。ノルーヴィ王家には大規模な海軍を整備する資金がなかったために、自費で武装船を調達できる者に対し、イルパニア船の積み荷を略奪する特許を与えた。わが一族の先祖であるエドワードは、功績によって初代ハルーヴァ侯に叙せられたんだ」

「エドワードさま。同じお名前ですね」

「そう。だからぼくは、ずっと海に興味があった。ブライトノーツとイルパニアが激突したのは新世界航路だから、プラーナ方面の旧世界航路とは逆だけど」

「ラポート商会の船は、いまは新大陸とのあいだを往復するほうが多くなっています」

「へえ、そうなんだ。かつて先祖が荒らし回った海を、平和に航海するのも、古代から多くの船乗りたちが行き交ってきた海路を進むのも、どちらもよさそうだ。……もし、アイラ嬢との結婚が認められなかったら、ぼくは商会に平の船員で入ることにするよ」

「父につたえます。わたしは、エドワードさまとお会いできてよかった。リチャードさまがお断りになってくれたことを、感謝するべきかもしれませんね」


 実質的に、アイラはもう心を決めていた。父トマスは約束を曲げる男ではない。次期侯爵夫人にはなれなくても結婚したいとアイラが訴えれば、認めるだろう。


 エドワードも、茶目っ気のある顔で、しかし眼には真剣な光を浮かべてこういった。


「ぼくも兄に感謝しないとね。こんなにすてきなお嬢さんを、ひと目も見ることなく袖にするだなんて。……もし兄が、あとからやっぱりアイラ嬢が欲しいといってきても、譲らないよ」


    +++++


 アイラは満ち足りた気分でハルーヴァ侯爵邸をあとにした。

 帰ったらすぐに父へ話そう。兄ふたりにも婚約を決めたとつたえて、母には手紙を書かなければ。


 エドワードはきっと、トマスの三人めの息子としてラポート商会をますます発展させてくれるに違いない。

 商会のプラーナ支社長となったエドワードといっしょに、母の実家の近くに住むことになるか、あるいは新大陸か――


 そんな、いささか先走った空想を頭の中で繰り広げていたところ、自動車(オートモービル)が急停止した。


 あやうく座席から転がり落ちかけたのはとなりの侍女のほうで、その身を支えながら、アイラは前方席の運転手へ訊ねる。


「どうしたの?」

「すみませんお嬢さま。いきなり前の馬車が。あー、車軸(シャフト)折れてる。しばらく動けないなありゃ」

「仕方ないわね。待ちましょう」

「馬をはずして、馬車を道のわきにどかして……五分で終わるかな。迂回しますかね」


 ――と、車が停まるのを見計らっていたのか、外側からドアが開かれるなり、十歳になるかならないかくらいの童子が運転席へ首を突っ込んできた。路上の物売りだ。


「お兄さん、なんか買ってよ。リンゴはどう? タバコもあるよ」

「なんだよもう」

自動車(オートモービル)に乗ってる人はお金持ちだって、父ちゃんがいってた」

「あのな、お金持ちは自分じゃ運転しないの。おれはおまえと同じく、下っぱ」

「同じ下っぱでもお賃金たくさんもらってるでしょ。自動車持ってるお金持ちの雇われなんだから」

「このガキャ――」


 下町なまりと新大陸なまりによる、うるわしきやりとりに、アイラはふたりに比べれば正調な発音で割って入った。


「新聞があればいただくわ」

「デイリーアイズがあるよ。二ペンス」

「高えな。スタンドの倍かよ」

「スリーヘイペンスのコインがあったころは一・五で売ってたって、父ちゃんいってた」

「いいわ、お釣りはとっておいて」


 アイラが渡した三ペンス硬貨を運転手から受け取って、童子はにんまりと笑った。


「まいどあり! そうそう、持てる者はこうでなくちゃ」

「さっさと失せろ。……なんだよ、うしろも詰まっちゃったじゃないか」


 材木満載の荷車を引いた馬が後続で停止しているのを見て、ため息をついてドアを閉めた運転手へ、アイラは感心して話しかける。


「こちらへ着たばかりなのに、ずいぶん馴れてるわね」

「銭勘定で気は抜けませんから。こっちはお金の単位が細かくって、難儀しますよ。……新聞、時間つぶしにはちょうどいいですね」

「ありがとう」


 路上売りの童子がおいていったタブロイド紙を運転手から受け取り、アイラは一面に目を落とした。


 くだらないゴシップや国内政治への愚痴のような記事ばかりが載る大衆紙だが、今日はシリアスな国際情勢を扱っていた。


『皇太子夫妻暗殺にセラデア情報機関の関与を断定、オストリヒテ帝国が最後通牒を発布』


 大見出しの下に悲劇的死を遂げた皇太子フェリクスとその后ゾラの写真が並び、さらにその下に、暗殺者カルロ=プッチの顔写真と、葬列で哀悼の意を表するため夫妻の棺が運ばれる沿道に集う、オストリヒテの一般市民の遠景が載せられていた。


 記事には、「暗殺事件の初報が伝えられた当日に、街頭で怒りや悲しみを訴えるオストリヒテ民衆の姿は見られなかったのだが」と、皮肉屋のブライトノーツ人らしい、オストリヒテ特派員のコメントが添えられている。


「物騒な世の中ですね」


 新聞を横目で見た侍女はそういうのみだったが、アイラは気鬱さを感じながら記事をすみずみまで読みとおした。


 強大国の隷属下におかれているという点では、プラーナもセラデアと同じだ。プラーナでもブライトノーツに抵抗する蜂起が勃発したことはある。もしブライトノーツの王室関係者がプラーナへ外遊したら、やはり暗殺の凶弾に狙われることになるのか。


「戦争になるのかしら」

「あのあたりはここ何年か、ずっとドンパチやってますからね。まあ2000キロくらい離れてるし海峡もある、こっちにまで影響はないでしょう」


 アイラのつぶやきにそう応じ、とおりぬけられそうな隙間が空いたので、運転手はギアを入れて自動車(オートモービル)をふたたび走らせはじめた。


 そういえば、運転手の母国である合衆国(ステイツ)も、戦争によってブライトノーツから独立を勝ち獲ったのだったと、アイラは歴史というものが人の業によって織りなされていることをあらためて思い返した。


 母の故郷プラーナも、宗主国の桎梏から逃れていまは対等となった新大陸の国々と同様、武器を()ることでしか自らの運命を決定することはできないのだろうか……。


    +++++


 アイラとエドワードの婚約はとどこおりなく正式なものとなった。多くの議員、貴族、富商を招いた婚約発表パーティが開かれ、財力はあるが古くからの権威とは縁遠かったラポート家と、格ではブライトノーツ有数だが実勢に陰りがチラつきはじめていたハルーヴァ侯爵家の結びつきが、政財界に広くアピールされた。


 ハルーヴァ侯爵家は伝統ある大貴族であり、婚約から結婚までに一年以上あいだが空くことになるのは、周知期間としてふつうのことだ。


 式を挙げる場所の候補を探したり、ハルーヴァ侯家の縁戚たちに顔見せをしたり、婚礼で着るドレスをデザインするところから仕立てはじめたりと、アイラにとっては、わずらわしさもあったが楽しい日々であり、いっしょにあいさつ回りをするうち、エドワードとの相互理解も深まっていった。


 母のカシーシュが、親戚たちとともにプラーナからやってきてくれるという、なにより嬉しい知らせもあった。アイラのために、伝統衣装であるサリーを準備してくれるとも手紙には書かれていた。サリーは厳密な採寸をする必要がないので、アイラが遠く離れたブライトノーツにいるままでも問題ない。


 ……その一方で、セラデアとオストリヒテの戦争は、周辺諸国を巻き込みながら急速に拡大しつつあった。


 セラデアの背後には、西方(オチデント)東方(オリエント)の狭間の大国であるリュースがあり、オストリヒテの同盟国は、民族としては同質であるプロジャであった。そして前世紀の戦争でプロジャに敗れ、復仇の機会をうかがっていたメロヴィグが、リュースと共同してプロジャ=オストリヒテ同盟を挟撃しようとしていた。


 かつては同胞民族の住まう土地すべてを統治していたオストリヒテの皇帝家だったが、いまとなっては雑多な少数民族を多数抱えた、崩壊しつつある脆弱な国をギリギリで結びつけている()()にすぎなかった。しかも、その()()はもうほとんど腐食しており、バラバラになるのは時間の問題であった。


 統治困難な民族虫食いの土地を老朽化したオストリヒテ皇統に押しつけ、より純度の高い単一民族国家を運営していたプロジャは、統治コストの負担を逃れて工業化に成功し、メロヴィグとリュースを同時に相手取れるだけの強大な国力を備えるようになっている。


 暗殺者の凶弾は、(ふる)い帝国の空中分解を、五年か十年早めただけのことだったのである。

 オストリヒテは火つけ役として()()に使われただけで、戦争がはじまって以降は主役ではなくなっていた。戦争はプロジャが望み、リュースとメロヴィグはこれあるを期していた。


 ただ、どの国も戦争を絶対避けようとまでは思っていなかったが、国内の不満をそらしたり、港の権益を獲得したり、国境を十数キロ押し出す以上のことをするつもりはなかったのであるが。


 当事国の思惑を超え、戦争は激しさを増していき、連鎖的に参戦国のリストも長くなっていった。


 メロヴィグ・リュース双方と協約を結んでいたブライトノーツもまた、海峡を隔てた大陸の戦争に背を向けることはできなかった。もしプロジャが全面勝利を収めようものなら、ブライトノーツ一国で到底立ち向かえるものではない。本土を捨て、新大陸へ逃れて合衆国(ステイツ)に間借りでもするしかなくなるだろう。


 ――アイラが将来の義父であるハルーヴァ侯爵に呼ばれたのは、戦況の一進一退が連日報じられているさなかのことであった。


 呼ばれるまま侯爵邸にやってきてはみたものの、婚約者のエドワードが同席していないことに内心で小首をかしげていたアイラだったが、眉間にシワを寄せた顔の侯爵が話を進めるにつれ、その理由が明らかになる。


「……前線にまで征く必要はないと説いたのだが、息子は老人の言葉を聞こうとしなくてな。志願するなとまでいう気はないが、将校の仕事は多い。後方であっても義務は果たせるのだが」

「エドワードさまは、ご自身で前線を希望なさっておいでなのですか?」

「困ったことにな。軍のほうは、現下の情勢で少尉が何人いても邪魔にはならんから、断るまい。港で弾薬箱を数える仕事も、基地で名簿と兵士の数がズレていないか突き合わせる仕事もあるというのに」

「わたしからエドワードさまにお話しするとして、どのように申しあげるべきでしょうか?」

「軍へ入るのは止めないが、前線へ向かうのはせめて結婚をしてからにしてくれ、といってくれれば。ひとつ身を縛るものがあれば、あれも無謀を慎むだろう」

「エドワードさまは意志の強いおかたです。説得できるかはわかりませんが、どうして前もってわたしにはひと言も相談してくれなかったのか、と切り出すことならできそうです。やってみます」

「たのむ、アイラ嬢」


 エドワードとは、週末に食事をすることになっていた。ハルーヴァ侯は次男が不在のタイミングを見計らってアイラを呼んでいたので、エドワードの帰宅を待つより、つぎに顔を合わせたときに話せばいいだろうと、アイラは侯爵邸から辞去しようとしていたが、屋敷の廊下でリチャードと出くわした。


 最初は顔合わせすら拒まれた侯爵家の跡取りだが、婚約発表パーティのさい、あいさつはしている。


「リチャードさま、ごきげんよう」

「なぜ父に呼ばれた?」

「エドワードさまが軍に志願なさったことについて、お話を」

「弟がもし戦死でもしたら、代わりに私と結婚しろとでもいわれたか?」

「まさか」


 冗談かなにかなのかと思って、アイラが大げさに首を左右に振ると、リチャードは鼻を鳴らしてこういった。


「それを聞いて安心した。持参金のために結婚するだなんてご免だからな。弟もけっきょくのところ、気が進まないから軍に行ったわけだ」

「エドワードさまは、なによりもお国のため、つぎにハルーヴァ侯爵家の名誉のため、そして、リチャードさま、継嗣ゆえ仮に望んでも前線へ赴くことは叶わない、あなたのぶんも戦うお覚悟でいます」

「女のおまえに、なにがわかる」


 忌々しげなリチャードの口調は、プライドを傷つけられたというより、図星を突かれた動揺が現れていた。跡取り息子だから従軍義務はない、そのことに安堵しているとアイラに見抜かれたと。


「リチャードさまがご自分をお恥じになる必要はありません。国家を支える名門各家の継承に配慮があるのは、当然のことです。ただ、貴族以外は長男であっても兵役を必ずしも免除されるわけではないこと、プラーナはじめとするブライトノーツ海外領土各地からも、大連邦の一員として出征する兵士たちがいることを、心の片隅にご留意ください」


 これでは、まるでエドワードが前線へ向かうのに賛成しているみたいだな、と思いながらも、アイラは義務的な礼をほどこして、言葉を失って立ち尽くすリチャードのわきをとおりぬけ侯爵邸をあとにした。


    +++++


 ……やはり、というべきか、婚約者であるアイラへ事前の相談をしないまま軍隊入りを決めたことについては謝ったが、エドワードは戦地に立つという意志を曲げることはなかった。


「きみとの結婚式は盛大に開いて、すべての人に祝福してもらいたい。そのためには、戦時中はふさわしくないよ。きみのお母さまたちも、出席しづらいだろう」

「式は、あとでもかまわないと思います。籍だけでも」

「この身になにかあったら、きみはいきなり再婚相手探しをすることになってしまうよ。きみの経歴に傷をつけるだけになることは、したくない」

「わたしのことを案じていただけるなら、後方の守備隊ですとか、管理官のお勤めではいけないでしょうか?」

「すまない。……だが、戦わなければならないんだ」


 アイラの手を取り、緑の瞳でまっすぐに見つめながら、エドワードは絞り出すように言葉をつづける。


「ハルーヴァ侯家の領地にも、百人を超える若者へ召集令状が届いた。自ら志願した者も多い。彼らだけを死地へ送り出すことはできない。ぼくが前線を希望すれば、何人かは目の届くところにおいておける。これは義務だ、貴族として、国家、王室に対して負っているもの以上に、領民に対してのね」

「……わかりました。でも、忘れないでください、エドワードさま、あなたの生命(いのち)は、あなただけのものではない。ご家族の、侯爵家の領民のみなさんの、そしてわたしの生命でもあります」

「わかっている。……いまでよかった、ほんとうに」

「よかった……?」


 眉をひそめたアイラを抱きすくめ、エドワードは耳元でささやく。


「もし、きみに加えて子供までいたら、ぼくは覚悟が決まらなかっただろう。郷里のみなが出征するのを見送り、その戦死公報が届くたびに、悲壮に見える顔を作って、ご遺族へお悔やみをつたえるだけの卑怯者になっていた」

「いまからでも卑怯者になってくれていい、心からそう思います」

「でもあなたは、ぼくを止めることはない。あなたにも、異郷とはいえ王家の血が流れているから」

「あなたが帰らなかったら、わたしは生涯独身ですごしますよ」

「絶対に帰ってくる。だから、そんな脅しでぼくを思いとどまらせようとするのはやめてくれ、とはいわない」


 互いの背に回していた腕を一度ほどき、エドワードとアイラは間近で向かい合った。揺るぎのない強い決意を秘めた緑の眼と、涙をたたえた、しかし見つめる相手への信頼に満ちた黒い眼。


 くちづけははじめてだったが、これからしばらく交わすことがないぶんまで埋めるべく、長く激しく重ねられることになった。


    +++++


 プロジャ西部方面軍は中立国をいくらか侵犯しながら、メロヴィグの国土を半ばまで制圧していたが、ブライトノーツの援軍によって一気に押し返された。


 戦線は膠着し、各国参謀本部が「数週間で終わる」と豪語していた戦争は年をまたぎ、終結の糸口さえも見えない泥沼へと嵌まり込んでいった。


 街から、工場から、農村から男手が減り、多くの女性たちが労働力の不足を補って外で働くようになった。

 アイラもまた、兵役についた男性職員の穴埋めで、ラポート商会の事務仕事をはじめた。


 皮肉なことだが、ハルーヴァ侯爵家の領地のような時代に取り残されていた旧世紀の農村が、貴重な生産地として食料供給を支えもしたのである。


 ラポート商会は海上輸送の重要な担い手として、多くの政府契約を受注した。輸送料は儲けなしの水準だったが、割当制となった燃料の供給優先権で軍艦のつぎを保証されることは、事業を継続する上で重要な点であった。

 ぜいたくを慎むとしても、衣食は変わらず必要とされ、海運会社の仕事が途切れることはないのである。


 仕事を教えるためにアイラを連れて港の倉庫街を歩きながら、父トマスは重々しく断言する。


「この戦争、ブライトノーツと合衆国(ステイツ)の連携があるかぎり、決して負けることはない。物量が違うよ」


 ラポート商会の船によって新大陸から運ばれてきた大量の物資は、戦地への転送が間に合わず、中継地であるブライトノーツに山積されていた。

 新聞では、プロジャによって生産と交通網の双方を脅かされているメロヴィグなど、大陸の窮状を連日報じていたが、ブライトノーツでは華やかさこそやや減じたものの、市民生活はおおむね滞りなく維持されている。

 圧倒的な新大陸の生産力と、海上の道を途切れることなく行き交う、ラポート商会はじめとする輸送船団に支えられ、ブライトノーツは盤石であった。


 木箱の打刻番号を見ては帳面にチェックを入れつつ、アイラはトマスへ訊ねる。


合衆国(ステイツ)は中立ですよね。プロジャへは武器や食料を売ったりしないのですか?」

「開戦当初はプロジャとの貿易に特に制限はなかったが、国境変更なしでの講和仲介を、占領地返還に反対するプロジャが拒否したために、合衆国はプロジャ=オストリヒテ同盟への経済制裁を決議した。いま心配なのは、プロジャの潜航艇(Uボート)だな。合衆国はもし民間船を攻撃したら宣戦布告と見なす、と息巻いてはいるが、実際のところ、議会は強気だが大統領はおよび腰だ」

「海賊行為ですか。かつてのブライトノーツの得意技が脅威となるというのは、皮肉ですね」

「略奪どころか、破壊して海の藻屑にしてしまう。海賊のほうがまだマシだよ」


 そういってトマスが肩をすくめたところで、自動車(オートモービル)のエンジン音が聞こえてきた。ラポート商会の車だ。運転手の青年はブライトノーツ国籍ではなく合衆国(ステイツ)の人なので、兵隊に取られることはない。


 倉庫の入り口で急ブレーキをかけた自動車から、運転手が血相を変えて飛び出してくる。


「社長、大変です!」

「マイクか。なにごとだ?」

「ルーテシア号が消息を絶ちました!」

「……プロジャの攻撃か」

「まだ断定はできませんが。ですが周辺は晴天、ティターニア号のように氷山が流れてくる海域を航行していたわけでもなし……ほかの原因は考え難いでしょうね」

「乗務員の家族へ連絡は」

「かたっぱしから電話をかけてます。まだ電話が引かれていないところへは電報や速達を」

「わかった。在庫確認はあとでいい、行こうアイラ」

「……はい」


 マイクの運転で、埠頭にある商会の事務所へ戻る。

 戦地のエドワードからは、無事を報せる手紙が届いたばかりだ。ハルーヴァ侯爵領からの出征者も、ラポート商会の社員の従軍者からも、負傷は出ているが訃報はまだ届いていない。


 まさか、非戦闘員である船乗りがまっさきに戦争の害を受けるとは。


 ……誤報であってくれ、という願いも虚しく、数日のうちに、破壊されたルーテシア号の船体の一部と、数名の遺体が収容された。行方不明者も多数。


 船員の半ばが合衆国(ステイツ)人であったため、合衆国の世論は沸騰したが、対外戦争に慎重な大統領周辺は、議会で与野党議員双方から「腰抜け」と罵倒されながらも、民間船への攻撃は繰り返さないと誓約するプロジャ政府の保証を取りつけて参戦を見送った。


 ただし、国外には報じられなかったが、プロジャ海軍の長官は通商破壊作戦禁止令に抗議して辞任しており、軍部が政府のコントロールから逸脱しはじめていた。


    +++++


 悪い報せというのは、立てつづけに訪れるもの。


 遺体すらないままの葬儀に何度も参列し、(ふさ)いだ心が晴れず喪服を脱ぐ間もないうちに、凶報が矢継ぎ早にもたらされた。


 ラポート商会の関係者とハルーヴァ侯領には戦地から複数の戦死公報が届き、海路では、かろうじて沈没こそ免れたがふたたび魚雷攻撃により船員に殉職者が出た。


 そして――

 昇進して中尉となっていたエドワード・ジョン=ハルーヴァが、激戦地ソーンにおいて消息を絶った――あいつぐ耳をふさぎたくなるニュースの掉尾に襲ってきたのは、アイラの目の前を闇で覆い尽くす、運命(モイライ)の悪意が結晶化したような報せであった。


「戦死の確報を受け取ったご遺族のことを思えば、この程度のことで休んではいられません。……エドワードさまは、きっとご無事ですから」


 アイラはそういって、気丈にも商会の仕事をつづけた。


 戦争のさらなる拡大は、戦死者のみならず多数の行方不明者をともない、不明者のうちの少なからぬ者は、遺体も残らない大爆発、あるいは乗艦、乗機の深海への沈降により、みなし戦没者とされた。

 エドワードの所在が知れなくなった直前の状況は、プロジャ軍による、毒ガス弾をふくむ猛烈な砲撃、爆撃でいちじるしい混乱が生じており、五万を超える未帰還者の生存見とおしは暗いものであった。


 死んだ、と断言してくれたほうがまだ気が楽だ――ソーンで行方不明となった兵士の家族の中には新聞へ投書してそう訴える者もあり、なぜ戦争をしているのか、これほどの犠牲を払うだけの意味が本当にあるのか、社会の中に、わずかずつながら疑問が広がりはじめていた。


 戦傷や休暇で母国へ帰ってきた兵士たちの口からも、戦場の悲惨な実態がつたえられるようになってきた。


「前線まで100キロはある場所までしか行ってないけど、それでもひどいもんさ。引き上げてきたやつの半分は、手足が一本以上ないんだ。最初は補給隊配属になるなら志願しなくても同じだったなって思ったが、いまは家業に感謝しかないよ」


 と、戦線後方の状況について語ったのは、ウィンフリー=ラポートである。


 ラポート家はブライトノーツにとって重要な半国策企業の経営一族として、貴族に準じる扱いを受け継承者の従軍免除を認められていたが、次男のウィンフリーは志願して兵舎の門をたたき、物流管理(ロジスティック)の実務経験を買われ後方梯団の下士官として遇されていた。

 長男のイシャンは、ずっとラポート商会の合衆国(ステイツ)支社を取り仕切っている。


 糊の効いた綺麗なままの軍服で一時帰宅したウィンフリーは、ひととおり土産話をしてから妹アイラの部屋を訪ね、彼女の婚約者エドワードの消息についてつたえた。


「調べられる範囲は全部調べた。収容された遺体の中にも、各野戦病院にも、中尉の姿はない。残る可能性は、負傷してプロジャの占領地がわにある赤恤救会で治療を受けているか、捕虜になったか。尉官クラスなら年末に捕虜交換がある。きっと帰ってくるよ」

「ありがとうウィン兄さま。わたしもエドワードさまの無事は疑っていません」


 もちろんふたりとて、損傷が激しすぎて判別できず、認識票も吹き飛んでしまったために身元を同定できない遺体が、最低でも10万体、安置所に横たわっているという事実を知らないわけではなかった。それ以上の数の遺体が、爆発で土中へ埋まり、あるいは戦闘が休みなく継続しているため野ざらしのままで、収容されていないことも。


 しかし、うしろ向きな可能性を考えて厭戦気分にひたることが赦される空気ではなかった。なにより、遺体どころか遺品のひとつもなしで、婚約者が死んだと信じることなどできようはずがない。


    +++++


 年末の捕虜交換の将校リストに、ハルーヴァ中尉の名はなかった。


 休暇を終え大陸へ戻ったウィンフリーは、兵站部の書類を取り扱える立場を活かして、ブライトノーツ派遣軍にとどまらず、メロヴィグ国防軍の戦死者、戦傷者にまで調べを広げてくれたが、エドワードの行方はおろか、生死すら(よう)として知れぬままであった。


 傷痍軍人のための寄付集めを兼ねて開かれた降誕祭のパーティのあと、アイラはハルーヴァ侯爵に呼び止められた。


「……最悪の事態を覚悟せねばならないときが、迫っているのかもしれん」

「閣下、お父上であるあなたがあきらめてしまっては、エドワードさまがなんのために志願なさったのか、わからなくなってしまいます」

「もちろん希望を捨てはしない。あくまでも、万が一の、受け入れがたい事実が、はっきり突きつけられてしまった場合の話だ」


 侯爵の(かお)と声ににじむ苦悩は、たしかに息子を心から案じる父親のものだった。アイラは沈黙をもって、義父となるはずの人の言葉を待つ。


「アイラ嬢、あなたの貴族たるに相応しい心の美しさと(つよ)さ、エドワードへの献身、じつに感じ入っている。ぜひ、わが一族へ加わってもらいたい。……もし仮に、エドワードが帰らなくとも」

「わたしは、人間としてのエドワードさまに惹かれ、その伴侶となりたいと望んだのです。……申しわけありませんが、ハルーヴァ侯爵家との結びつきは、わたしにとって、とくに意味があるものではありません」

「もちろん承知だ。あなたの高貴さと清廉さを、わが侯爵家が必要としていると感じているのは、私の存念だよ。持参金なしの条件でも、あなたが嫁いできてくれるというなら、心から歓迎する、アイラ嬢」

「過分なご評価痛み入ります、閣下。ですが、リチャードさまにわたしを妻となさるお気持ちはないでしょう」

「そのことだが、リチャードもあなたに対する見方をずいぶんと変えた。一度、話をしてみてもらえないだろうか?」

「リチャードさまが……?」


 アイラは小首をかしげた。リチャードとは以前の廊下での立ち話以降も何度かは顔を合わせているが、アイラへの視線は使用人に対するものと同様で、人間扱いされている感じはしなかった。

 とはいえ、大貴族であり、婚約者の父であるハルーヴァ侯のたのみだ。言下に断れるものではない。すぐに正式な招待状を送付すると侯爵がつけ加え、その日の話はそこで終わった。


 ――翌朝、アイラは父トマスへ、ハルーヴァ侯から思わぬことをいわれたとつたえた。


「……たとえ持参金なしであっても嫁にほしい、か。ずいぶん高く買われたな」

「わたしは……もし最悪の結末であったとしても、エドワードさまを忘れられるとは思えません」


 うつむいたアイラの肩へ、トマスは優しく手をおく。


「結論を急がなくていい。リチャードさまからなにをいわれても、その場で返事をする必要はないよ。エドワードさまは無事でいるさ。……最悪の可能性というのは、戦場で記憶を失ったエドワードさまが、助けてくれた、よそのお嬢さんと(ねんご)ろになっている場合くらいだろうよ。そうなっていたら仕方ないから、リチャードさまと結婚してやりなさい。持参金はもちろん出す、娘を没落貴族に嫁がせて、わびしい生活をさせるわけにはいかんからな」


 父なりの精一杯の冗談に、アイラは薄く微笑んだ。


「ありがとうお父さま」


    +++++


 正式な招待を受けてハルーヴァ侯爵邸を訪れたアイラを、リチャードが自ら出迎えた。


 アイラを邸内でもっとも格式の高い部屋へ招じ入れ、リチャードはこれまでとはまったく異なる態度で話を切り出す。


「アイラ嬢、弟エドワードのために尽力してくれていること、心からお礼を申し上げる。いまも、戦地においでの兄上と協同して、エドワードの消息をつかむために動いてくれているのだろう?」

「婚約者として、当然のことをしているだけです。エドワードさまの無事を一秒でも早く確認したいのは、ただわたしの、個人的なわがままですから」

「あなたの(つよ)さが羨ましいよ。……私には、覚悟がない。領民の子息たちが、次々と戦死を遂げている。その弔問をするだけで、心が押し潰されそうだ。エドワードの消息を調べて、調べて、その死に近づいているような気がして……」


 リチャードの言葉に、アイラは虚を突かれた。行方不明のエドワードの消息を調査することは、死の確定にもつながる――たしかに、リチャードのいうことも、一面としては成立しうる。


「……配慮が足りませんでした。戦傷者の調べだけにとどめて、戦死者の確認はやめたほうがよろしいでしょうか?」

「まさか。感謝しているんだ、私には恐ろしくてできないから。以前の非礼を、どうか赦してほしい、アイラ嬢」

「とんでもない。わたしは平民の娘、リチャードさまとは身分がちがうというのは、たしかなことです」

「私は不勉強で知らなかったが、あなたにプラーナの王族の血が流れていると、エドワードから教えられた。ブライトノーツ大連邦の君主として、陛下が戴いている冠のひとつが、プラーナ皇帝位だ。ガルダ藩国の姫であるあなたは、ブライトノーツの序列でいえばハルーヴァ侯爵家と同格だよ」

「リチャードさま、わたしへの見方を変えた理由が、血筋を知ったからだったとしたら、わたしはあなたをあまり尊敬できません。もしエドワードさまがお帰りにならないままであったとしても、リチャードさまとのご結婚はお断りします」


 ……そうか、最初からハルーヴァ侯は、持参金だけでなく、格としても釣り合っていることを知っていたのだな、といまさら気がつきながらも、アイラは貴族としての血の序列をはっきりと切って捨てた。


 だが、リチャードは怒らなかった。弟エドワードとよく似た、物静かな声で、応える。


「エドワードがあなたの出自を教えてくれたのは、最後に届いた手紙の中だ。その時点で私はもう戦争の恐ろしさに震え上がっていて、弟がどれほど高邁な勇気を持っていたのか思い知り、以前あなたが指摘してくれたことはすべて正しかったと、遅まきながら理解できるようになっていた。あなたの気高さの理由が血筋だとは、思わない」

「……もしかして、エドワードさまは、ご自身に万一のことがあった場合にそなえて、リチャードさまへ手紙でなにかを書き送られていたのでしょうか?」

「いいや。エドワードからの手紙にはこうあったよ。アイラ嬢がガルダ藩国の姫であることを明かした上で、絶対に帰るから、彼女が高貴な身の上だとわかっても手を出すなよ、とね」


 そういって、リチャードは肩をすくめつつも笑った。


 アイラは、エドワードが兄相手であろうと渡すまいと、自分を執念深いまでに愛していることと、なんとしても帰ると強い意志を保ちつづけていたことをあらためて確認し、胸が甘さと痛みで満たされていた。


「わたしは……エドワードさまだけを愛しています。エドワードさまだけに愛されたい」

「わかっている。だからひとつだけ、約束してもらえないだろうか。エドワードが帰ってこないという、どうしようもなく曲げがたい事実が出てきてしまった場合、修道院に入るだとか、ましてあとを追うだなんて、莫迦なことだけはしないでほしいんだ。代わりに私と結婚してくれとまではいわない」

「お気遣い、ありがとうございます、リチャードさま。だいじょうぶです、仮に生涯独身でいるとしても、父の仕事の手伝いなり、母の国で子供たちに勉強を教えるなりしますから。エドワードさまが守ってくれたこの生命を、無為にはしません」

「……みな、郷里と愛する人を守りたいだけなのにな」


 心にやるせなさと、しかし義理の兄となる人とのあいだに信頼を築くことのできた、ささやかな頼もしさを抱いて、アイラは侯爵邸をあとにした。


 ところが、運転手のマイクから、最悪でこそないものの、またしても気鬱な報せを聞かされる。


「お嬢さま、しばらく、お(いとま)をいただくことになります」

「どうしたの?」

合衆国(ステイツ)が参戦を決めました。おれは国へ戻って海軍に志願します。商会の船を沈めた潜航艇(Uボート)を、全部海の藻屑に変えてやる」


 これ以上喪服に袖をとおす機会を増やさないで――口に出しかけて、アイラはとどめた。

 マイクの怒りは正当だ。たしかに軍需物資になるものも運んではいるが、ラポート商会の船はブライトノーツはもとより、大陸の人々が飢えないように海路をつないでいる生命線である。プロジャ軍の捕虜だって、商会の船が運んだ新大陸からの食料がなければ腹にはなにも入らない。


 強大な国力をほこる合衆国(ステイツ)が参戦すれば、おそらく戦争は早期に終結するだろう。結果として、ラポート商会の船員の殉職者も、ハルーヴァ侯領の若者たちの戦死者も、これ以上増えないよう抑えられるはずだ。

 故郷へ帰るプロジャ、オストリヒテはじめとする同盟兵の数は減ることになるだろうが……。それでも、このさきも戦争が五年十年とつづくより、一年で終わらせるほうがいいに決まっている。


 ラポート商会の地所のひとつで、ささやかながら、合衆国(ステイツ)の援軍を祝い、マイクの壮行会を兼ねたパーティが開かれた。


「運転手の枠は空けておくわ。かならず帰ってきて」

「ありがとうございます、お嬢さま」

「私の読みでは、戦後はこれまで以上の自動車時代になる。ただ船で運ぶだけにはとどまらない事業もはじめるつもりだ。マイク、帰ってきたときのきみの仕事は、運転手ではないかもしれん。もっと大きいことを任せたい。戦争が終わったら、合衆国(ステイツ)で仕事を探さないですぐにこっちへ戻ってきてくれ」

「憶えておきます、社長」


 父トマスとともに、まぶしいまでにたくましい表情を浮かべるマイクを送り出してから、アイラは教会へ向かった。


 これまで、神を真剣に信じたことはない。しかし、祈らずにはいられなかった。


「神さま、本当にいらっしゃるなら、一日でも早く戦争を終わりにしてください。……そして、エドワードさまと再会させてください。彼が生きてさえいれば、それ以上望むことはありません」


    +++++


 合衆国(ステイツ)の参戦は均衡を崩した。


 プロジャ西部戦線には複数の穴が空き、メロヴィグは開戦前の国境を完全に奪回して、さらに敵国内へと攻め込んでいった。

 東部ではリュースが反乱によって分裂し、合衆国(ステイツ)と入れ替わりにブライトノーツ・メロヴィグとの協約から脱落したが、オストリヒテでも反君主制運動が高まり、同盟国プロジャにかまっている状況ではなくなっていた。


 プロジャ=オストリヒテ同盟の従属国が、晩秋の木の葉のように一国、二国と剥落していき、逆に協約がわには、合衆国(ステイツ)の参戦に時宜を見て、中立政策を捨てて参画する国が現れた。


 戦況が終焉へ向け動き出す中、アイラの兄ウィンフリーから、重大な報せがもたらされる。


「ソーン近郊で発見されていた軍籍不明の重傷者が、七ヶ月ぶりに明識困難状態から回復した。毒ガスの影響からかいまだ声が出ないが、ペンを渡したところ、エドワード=ハルーヴァと署名したという」


 戦線は大きく東へ押し出されており、ソーン周辺に危険はない。ハルーヴァ侯爵が自ら、謎の傷痍軍人がエドワード本人かどうかを確認するため大陸へと渡った。


 アイラは、父トマスとともに侯爵邸で連絡を待った。電話が鳴り、リチャードが受話器を耳へとあてる。


「……父上? エドワードは……たしかですか? よかった……」


 リチャードの目が、こぼれはしないまでもうるみを帯び、どうやら悪い報せではなさそうで、アイラも涙ぐんで父の肩へもたれた。


 通話を終えたリチャードが、受話器を本体へ掛け、トマスとアイラへ向き直る。


「エドワードは生きている。身体には不調もあるそうだが、生命に別状はない。ずっと、自分が何者なのかもわからない状態で、地元住民の世話になっていた。同盟か、協約か、どちらの軍人かわからないから、捕虜として扱われては気の毒だと、保護した老夫妻はエドワードのことを伏せたままでいたらしい。父の顔はひと目見ただけでわかった。アイラ嬢のことも思い出して、会いたがっているそうだ」

「……よかった。ほんとうに、よかっ……」


 言葉を詰まらせた娘を支えながら、トマスはリチャードへ事後策のプランを提示した。


「移送に問題がないなら、すぐに帰国していただこう。こちらから出向く必要があるなら、船を出す」

「動くことはできるようだから、父とともに戻るでしょう。シェルベリーからの帰国船は、おそらく順番待ちが多い。船を回していただければ、早く帰れるはず」

「わかった。すぐ手配しよう」


 ……二年ぶりに実家へ帰ってくるエドワードを迎えるため、ハルーヴァ侯爵邸の前庭に、手すきの者がこぞって集った。

 リチャードはじめとする侯家の人も、使用人たちも、領民たちも。トマスは業務から抜け出せなかったが、アイラはもちろん婚約者を出迎えるべくやってきている。


 枯れ草色の丘を越えて走ってきた自動車(オートモービル)のハンドルを握っているのは、半年ぶりの休暇に入るついでに、ソーンからハルーヴァ侯とエドワードを同乗させてきたウィンフリーだった。


 運転席から出たウィンフリーがドアを開いてハルーヴァ侯を降車させたが、エドワードは姿を見せない。

 ウィンフリーはさらに後部座席へ半身を乗りだし、エドワードを支えて車外へと連れ出した。


「エドワードさま……!」


 領民のだれかが、かすれた声を発した。


 エドワードの右脚は(うしな)われていた。事前に整えたのだろう金色の巻き毛は以前と変わらないように見えたが、美しい緑色だった両眼のうち右が、血の色に染まっていた。毒ガスの影響だろうか。おそらく、ものは見えなくなっている。

 やつれ、(はだ)色が悪くはあったが、右眼のほかに、顔には目立つ大きな疵痕(きずあと)はないようだった。


 ハルーヴァ侯が、アイラを手招きした。


 ウィンフリーへうなずき、アイラは兄に代わって婚約者の肩を支える。


「エドワードさま、かならず再会できると、信じていました。このさき生涯、わたしがあなたの杖となります」


 もう涙は涸れるまで泣き尽くした。アイラの声と眼に、ゆらめきはない。


 エドワードはアイラのほおを左手でなで、声の出ない口を動かした。「だいじょうぶ。きみに負担はかけない」といったようだが、アイラは、だいじょうぶ、までしか読みとれなかった。


 ウィンフリーがトランクから出した松葉杖を受け取り、エドワードは自力で身を支える。


 松葉杖をつきながら歩んできた弟を、リチャードは気遣いながら抱擁した。


「よく生きて、帰ってきてくれた。本来は私が負うべき傷だ。脚でも眼でも声でも、おまえに渡すことができれば……」


 エドワードは穏やかな表情でかぶりを振り、兄の心だけたしかに受け取ったことをつたえる。


 つづいて喪章をつけた婦人の前で立ち止まると、エドワードは自由の利かない身体でひざまづいた。

 彼女は、ソーンでエドワードとともに行方不明となり、その後戦死が確認された兵士の母だった。


 ――あなたのご子息をお守りすることができなかった。申しわけありません。


 口の動きに気づいた婦人は、エドワードの身を立ち上がらせながら叫ぶ。


「やめてください! うちの子は、エドワードさまを守ったんです、無駄死にじゃなかったんです! そう信じさせて。あの子の死には意味があった、だからエドワードさまはここへお戻りになった」


 ――ありがとう。あなたの息子は、ぼくの生命の恩人です。


「……ひとつだけ、お願いしてよろしいでしょうか。あの子が最後の晩に、なにを話していたか、お手紙に書いて、教えてください」


 婦人に対し、エドワードは深くうなずいた。


 ひとりひとりから、ねぎらいと見舞いの声をかけられ、声なき言葉を返し、昼すぎにはじまった、エドワードの帰還を迎える集まりは、夕方までつづいた。


    +++++


 エドワードが侯爵邸へ戻った三日後――


 車椅子にエドワードを乗せ、アイラは散策へ出た。

 春まだ浅いハルーヴァ侯領に花は見あたらなかったが、陽射しはぬるく、小鳥がさえずっていた。


 屋敷からすこし離れ、まわりに人の姿がないところでアイラは車椅子を止めた。

 前方へ回り込み、エドワードと正面から向かい合う。


 唯一、出征前からまったく変わっていない美しい左の眼に穏やかな光をたたえ、エドワードは婚約者を見つめた。


 アイラの中で、ふっと堰が切れた。再会してからは泣くまいと、涸れるまで流したはずの涙が、あふれ出す。


 アイラはエドワードにすがりつき、童女のように泣き叫んだ。


「――わたしが、わたしが、わたしがあんなこと祈ったから! 神さまなんてまともに信じたこともないのに、エドワードさまが帰ってきてくれれば、あとはどうでもいいなんて! 生きてさえいれば、それ以外はなんでもいいだなんて! エドワードさまがこんなお怪我をするくらいなら、わたしが死ねばよかった! わたしの脚がなくなる代わりにエドワードさまが無傷なら、わたしの声がなくなる代わりにエドワードさまがお話しできれば、わたしの眼が潰れる代わりにエドワードさまの眼が綺麗なままであったら! そっちのほうが、そっちのほうがずっと、ずっとよかったのに!!」


「アイラ、きみのせいじゃない」


 本当に聞こえたのか、幻聴なのかわからず、アイラは泣きはらした目を上げた。


「エドワード、さま……?」

「ああ、空耳じゃないよ。たしかにぼくの声さ」


 かすれぎみではあったが、落ち着いて優しい、間違いなくエドワードの声だった。


 驚きのあまり息まで詰まっていたアイラに対し、エドワードは存外こともなげだった。


「べつに意外じゃない。二度目だ、奇跡は」

「……奇跡、ですか」

「きみが神さまにお祈りをしたのは、一月の、七日じゃないかな」

「どうして、それを……」

「目が覚めて、ぼくがはじめて日付を意識した日だから。それまでは、眠っているのか、起きているのかもよくわからなかった。きみの声が聞こえた気がしたんだ。記憶の整理や状況の把握をして、自分の名前や所属をつたえられるようになるのに、二ヶ月くらいかかったけどね」


 諸手でアイラのほおを包み込みながら、エドワードは長い長い沈黙を埋め合わせるように言葉をつづける。


「ソーンでぼくが吹き飛ばされたのは、去年の夏のことだ。きみのお祈りを聞いて、神がぼくの脚をもぎ取ったわけじゃない。むしろ、きみが祈ってくれなかったら、ぼくの魂は身体から離れたままだっただろう。ぼくを地上へ呼び戻してくれたのはあなただ、アイラ。そしていま、声まで取り返してくれた」

「エドワードさま……」

「あなたの祈りがぼくを導き、救ってくれたんだ」


 アイラの両眼から、大粒の涙がこぼれた。悲しみや絶望ではなく。


「愛しています、エド」

「アイラ、愛しているよ」


 二年半ぶりのくちづけは、狂おしく、しかし、今後はいつでも機会があるので、必要以上に求めすぎることはなく、節度をいちじるしく逸脱はしなかった。


    +++++


 戦争は四年目には突入せず、終結した。

 合衆国(ステイツ)の参戦が帰趨を決定的にしたことは、揺るぎない事実であった。

 もし合衆国のためらいが長引いていれば、それだけ終戦も遠のいていただろう。


 平和が戻り――


 エドワード・ジョン=ハルーヴァとアイラ=ラポートの結婚式は、ハルーヴァ侯爵邸と、ブライトノーツ王都の最高級ホテル・アルビオンで、本式と披露宴にわけて執り行われ、国籍も階級も様々な、多くの人々が参列した。


 新郎エドワードの右脚が義足であることに、最後まで気がついていなかった人もいたそうだ。


 また、ホテル・アルビオンでの新婦アイラのサリー姿は社交界で話題となり、ちょっとした巻きつけ着ブームが到来した。


 エドワードは奇跡の生還を果たしたソーンの英雄として、退役軍人会の若き旗手となり衆望を集め、貴族院ではなく、庶民院の議席を獲得するべく一般選挙へ立候補し、圧倒的得票数で当選した。

 貴族院、庶民院、双方の有力者とパイプを持つエドワードはブライトノーツ議会改革へ乗り出し、議決齟齬のさいの貴族院優越規定を廃止させる。

 これにより、ブライトノーツはより一般有権者の意志決定が反映されやすい政治構造となった。


 アイラは、プラーナはじめとするブライトノーツ海外領土を、支配から対等な友邦関係へ遷移させる運動へ生涯を捧げ、その過程で、ふたたび迫った大戦の危機を回避して「オリーブの女神」と呼ばれるようになる。


 世界でもっとも愛の深い夫婦、ともいわれたアイラとエドワードは、こんな言葉を残した。


「夫婦のあいだに愛があり、家族が融和していれば、自ずと世界も平和になります」


 ――と。



     了



異世界なので地球の歴史より大幅にややこしさが削減されております。


私は「ダウントン・アビー」が、特に2期がめっちゃ好きです、はい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 20世紀に入ってからの貴族社会がモデルってなかなかネット小説やラノベでは見かけないですが 細かいところも興味深く描いてあって、面白かったです。書くのは大変そうですね [一言] BBCのドラ…
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