後編
ナサニエルがリゼットを誘う先は、昔スタンリーがリゼットを連れ出してくれたのと同様に、肩肘を張らずにリゼットが過ごせるような、豊かな自然の景色を楽しめる場所が多く、それもリゼットにスタンリーの記憶を思い起こさせた。そして、彼はいつも、リゼットの愛犬のスタンがついて来ることを笑顔で許してくれた。
ナサニエルと一緒にいると、リゼットは、まるでスタンリーと過ごしているような感覚になる。リゼットは、そのことに後ろめたさを感じながらも、ナサニエルと過ごす時間は、笑顔になることが多くなった。
降誕祭の日、多くの露店が並ぶ湖のほとりを、リゼットはナサニエルに腕を取られて歩いていた。2人の足元には、いつものように、スタンが戯れながらついてきている。
降誕祭は多くの若い男女で賑わっていた。ちょうどリゼットの目の前で、焦茶の髪を靡かせた、澄んだ琥珀色の瞳をした優しそうな若い女性の手を、艶やかな黒髪をした美しい青年が、楽しそうに引いていた。旅行者だろうか、この国ではあまり見掛けない服装をした若い女性の頬が、恥ずかしそうにふわりと染まっている。どうやら色白で童顔の青年の方が年下に見える、笑顔が可愛らしい若い2人の様子に、つられるようにリゼットも微笑んだ。
リゼットが、そんな2人を見て、無邪気に幸せな将来を信じていた昔に懐かしく思いを馳せていた時、ナサニエルも通りすがりの彼らを振り返ると、目を見合わせた2人に軽くウインクを送っていた。
湖を囲むように並ぶ露店の間を縫って、ナサニエルとリゼットが歩いていると、ナサニエルがある店の前でふと足を止めた。
「リゼット様、少しだけここで待っていてもらえますか?」
こくりと頷いたリゼットに、微笑んで店に向かった彼が何かを手にして足早に戻って来た。
「……これ、貴女に似合いそうだと思って」
ナサニエルが掌に乗せていたのは、青薔薇を模した髪飾りだった。
「素敵な髪飾りですね。いただいてしまっても、よろしいのですか?」
「ええ、もちろんです。貴女の髪に飾っても?」
リゼットが嬉しそうに頷くと、ナサニエルはリゼットの美しい金髪に青薔薇の髪飾りを留めて、笑顔になった彼女に眩しそうに目を細めた。
2人が手を繋いでゆっくりと歩いていると、次第に陽が傾いて来た。湖面が夕陽を弾き、辺り一面が橙色に染まる。
ナサニエルは、温かな橙色が、次第に夕闇に飲み込まれていく様子を眺めながら、リゼットに向かって口を開いた。
「ねえ、リゼット様。湖畔の、あの大きな篝火のある場所。あの場所で、立ち上る煙に向かって願いを託すと、精霊によって願いが叶うと言われていますよね。
降誕祭の最後に、よかったらあの場所に行きませんか?」
リゼットは、無言でナサニエルに頷いた。将来を誓い合う男女も多く集う、勢いよく燃える篝火の横で、ナサニエルに何を聞かれることになるのか、リゼットにも想像がついていた。
リゼットがそこで彼の言葉に首を横に振れば、そこで2人の時間は終わる。彼ともう会えないかと思うと、リゼットの胸には喪失感が込み上げて来たけれど、かといって彼と将来を誓うことができるのか、リゼットにはまだ確信が持てずにいた。
ナサニエルに手を引かれるままに、人混みの中を篝火の側まで近付く。ぱちぱちと勢いよく炎のはぜる音が聞こえる中、リゼットは空高くまで立ち上る大きな明るい篝火を見上げた。時々轟音と共に激しい炎が立ち上り、周囲からわあっと歓声が上がっている。
ナサニエルは、リゼットと一緒にしばらく炎を見つめてから、彼女に向かって口を開いた。
「リゼット様。そろそろ、貴女の答えを聞かせていただきたいのですが。けれど、その前に、貴女に伺いたいのです。
……もし、今、一つだけ願いが叶うとしたら、貴女は何を望みますか?」
リゼットは、ナサニエルの顔を見ることができずに、夜空を照らす炎の天辺に視線を向けたまま、深く息を吐いた。もしも、上を向いていなかったら、両目から涙が溢れてしまいそうだったのだ。リゼットは、震える声を絞り出した。
「ナサニエル様。……私は、7年前の今日も、この場所にいたのです。
当時、戦地に赴いていた婚約者を想って、どうか彼を守って欲しいと、そう心から精霊様に願いました。けれど、その願いは届きませんでした。それきり、降誕祭からは足が遠のき、例年の降誕祭の日には、ここを訪れることもありませんでしたが。あれから7年が経つ今日、前回ぶりの大祭の日に、ようやくまたここに来ることができました。
……皮肉なものですが、あの日と同じように燃え盛る炎を眺めながら、やはり、私は願ってしまうのです。もしも願いが叶うなら、またスタンリー様に会いたい、と。彼の声が聞きたいと」
ナサニエルにゆっくりと顔を向けたリゼットは、涙が頬を伝って行くのを感じながら、深く頭を下げた。
「ナサニエル様、本当に、ごめんなさい。こんなに、いつも、私に優しくしてくださったのに。貴方様と過ごした今までの時間は、すごく楽しくて、幸せな時間でした。でも、私はきっと、貴方様に、スタンリー様を重ねてしまう。本当の意味で、ナサニエル様を幸せにして差し上げることはできないでしょう。……ですから、ナサニエル様のお側にいる資格は、私にはありません」
ナサニエルがふっと小さく笑みを漏らしたのが、リゼットにはわかった。それが諦めを示すものなのか、顔を上げる勇気がないまま、しゃくり上げたリゼットの耳に、不思議な響きを帯びたナサニエルの言葉が聞こえて来た。
「……その言葉を、待っていました」
(……どういうこと?)
驚いたリゼットが顔を上げると、立っていた地面がぐにゃりと歪んだような感覚があった。目の前にいたナサニエルの姿が揺らぎ、スタンの身体からも白い靄のようなものが立ち上っている。篝火だけが暗闇の中に浮かび上がり、先程までの周囲の喧騒が嘘のように、辺りはしんと静まり返っていた。
つい先程までナサニエルの姿があった場所に、靄の中から現れたのは、神々しいほどに美しい、透き通った1人の男性の姿だった。彼が人間ではないことは、リゼットにも一目でわかった。
「貴方様は……?」
心の中まで見通すような瞳をしていると思いながら、リゼットは男性に問い掛けた。男性はリゼットの問いには答えないままに、優しく微笑んだ。
「ほら、貴女の横を見てご覧なさい」
大きく見開かれたリゼットの瞳から、ぼろぼろと止めどなく涙が零れ落ちる。そこには、リゼットが夢にまで見たスタンリーが、リゼットに向かって広げた両腕を差し出していた。
「スタン!! ……あなたは、本当にスタンなの? 私、夢を見ているのかしら」
「これは夢じゃないよ、リズ」
懐かしい彼の声に、リゼットは温かなスタンリーの腕の中に飛び込んだ。リゼットが見送った時よりも背の伸びたスタンリーの両腕が、彼女をきつく抱き締める。
次第に輪郭が薄くなっていく男性が、リゼットを見つめて静かに口を開いた。
「7年前の今日、私はあなたたち2人の願いを聞いていました。けれど、あの日、既に戦火の中で命を落としていたスタンリーを、助けることはできませんでした。
スタンリーの魂を掬い上げて、新しい命を与えようとしていると、彼は私に頼んだのです。リゼットの所に帰る約束をしているから、どうしても、彼女の側に行きたいのだと。動物の姿でなら可能だと彼に告げると、彼は即座に、それでも構わないと答えました。
子犬としての新しい命を得た彼が、今まで貴女の側についていたことは、貴女もご存知でしょう?」
はっとしたリゼットが周囲を見渡すと、もうそこには愛犬のスタンの姿はなくなっていた。
「……本来ならば人間として生まれ変わるはずだった彼があまりに不憫だったので、私は1つ、スタンリーに約束をしました。もしも、精霊の力が地上で最も強くなる、7年後の降誕祭の日まで、リゼットが彼のことを想い続けていたならば、新しい身体を与えようと。
リゼット、貴女は美しいだけでなく、芯が強くて一途な、素晴らしい女性ですね。……もし貴女がスタンリーではなく、私を選んでいたのなら、私はナサニエルとして、この世で貴女が生を全うするまでは、貴女の側にいるつもりでした。けれど、貴女はスタンリーを選びましたね。ですから、私はこれからお2人の幸せを、天から見守っていることに致しましょう」
リゼットが声の主を探すと、透き通って揺らいでいた姿は、最後に穏やかな微笑みをリゼットに残して、そのまま姿を消してしまった。
***
スタンリーの帰還に家族も歓喜し、スタンリーとリゼットとの結婚も、諸手を挙げて祝福された。
けれど、不思議なことに、リゼットとスタンリーを除いて、リゼットの父でさえ、ナサニエルの存在も、愛犬スタンのことすらも覚えてはいなかった。
リゼットは、あの数ヶ月、痛む胸を抱えながらも、スタンリーとよく似た優しい彼に包まれるように過ごした、穏やかな時間を時折思い出す。彼との時間が幻だったように感じることもあった。けれど、リゼットの選択を予期していたかのように彼が贈ってくれた、奇跡という花言葉を持つ青薔薇の髪飾りは、その後も毎年降誕祭の時期に、リゼットの美しい金髪を鮮やかに彩ることになるのだった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
実はカトリーナとラウルもちらりと登場しています(ご存知ない方は読み飛ばしてください)。もし気付いていただけたなら嬉しいです。