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凩(こがらし)

作者: 三毛猫

 都内郊外にあるこの学園の学園祭が今年もまた一つ片付いて、中学校では退屈ともいうべき二学期中間テストの時期に近づいた。

 教室にはまだお化け屋敷や模擬店、クラブサークルのためにところどころへ移動していた机やら椅子が散々として置かれている。浅葱あさぎは後夜祭と称して催される内輪のお祭りを抜け出して、ひとり教室の隅で帰り支度をはじめていた。午後の明るい時間を過ぎようとしている。体育館に集まるクラスメイトたちと、話しながら唄いながらともに過ごす時間は、浅葱にとって耐え難い。一刻も早く家へ帰り、ここ二三日の苦痛とオサラバして、もとの退屈な日々に戻ってしまいたかった。

 学校にいて楽しいことはひとつもなかった。勉強のできる奴らは塾通いで、本当の実力で学校を楽しむことをしない。先生はできる生徒には微笑ましく話をするけれど、浅葱みたいに金のない家に生まれて、勉強もできずに先生の話もロクに理解できない連中は無視された。そういう奴らはクラスで目立たない――いわゆる大人しい生徒という――ことを演じるのに必死だった。バカをしたり目立ちたがりはすぐにはやしたてられてツルされた。そんな恥だけはかきたくない。この学校にいる生徒はそんなどうでもない人ばかりだった。面白みを求めている連中がいくら粋がってみたところで、学校を荒らしていくような下劣なことしかできない。だから浅葱は、なにをするのも面倒で、できるだけみんなと一緒にいることを避けていた。

 カバンに学習道具一式をしまって、それを肩に担ぐとそのまま扉の前まで行き、のそのそと教室の扉を開けて出た。が、思わぬ人がそこにいて、浅葱は立ち止まった。目の前にはクセ髪の体格の良い青年がひとり、学ランに雪駄という奇妙なかっこうで、机の天板を重ねたまま、二脚一緒に持ち上げて立っていた。

「あの、これ。そっちのクラスの机……」

 そう言って浅葱を見た彼は瞳をおおきくパチパチさせ、驚いた表情を浮かべた。

 浅葱がはなだあおいと知り合ったのは学園祭の中日に当たる店番もないし、こんな外の学校の生徒も来ないようなくだらない祭りの自由時間だった。女生徒たちと楽しそうに会話するクラスメイトたちから離れて、水飲み場近くのピロティに出た。ほこり臭い校舎から出て晩秋の少し寒くなった風を吸いこむのはこのごろの浅葱の日課だった。クラスメイトであるウツボシがそれを見つけてはやし立てた。

「なにカッコつけてんの?」

 浅葱は少しムッとして、それから何とも言えない恥ずかしさを感じた。それはウツボシの後ろにもうひとり、浅葱の知らない生徒がニタニタと視線を向けて笑いかけてくるからだった。ウツボシみたいなテイの知れた輩はひとつ睨めばどうにでも気がおさまるけれど、そんな姿を他の人に見せるのはどこか恥ずべきことだった。

「バカみたいだな」

 ウツボシはそれだけ言ってすぐにどこかへ行ってしまったが、ニタニタと馴れ馴れしい彼は気安い面持ちで浅葱に寄って、話しかけてきた。


「なにしてるの?」

 彼があまりのも陽気であったので、浅葱は視線を逸らした。

 彼は柵に手をおいて寄りかかったまま話し続けた。浅葱を見ながら何でもわかっているとでもいうような口調で語るその話し方は、浅葱と同様、学校のクラスメイト達に慣れないこと、授業がつまらないこと、学園祭よりもピロティで暇を持て余している方が面白いということなどだった。彼は片手にテニスボールを持っていた。クラスの店番をスッポかして数時間ボールを投げ合いながら、好きな音楽や映画の話をした。疲れてボールを持つのも嫌になれば、ふたりとも柵に寄りかかって、あの先生はどうとか、あのクラスメイトはあれだとか話し、お互いに普段の鬱憤を晴らすのだった。浅葱は学校の中で同じ思いを抱いている人がいたことに喜びを感じ、縹も「そうか!」「ホントか!」などと驚き叫びながら同じことを思っていたと話した。


 浅葱は扉の前に立った縹を大げさな身振りで迎え、教室に招いた。机はそこらに適当に置いたままにして、昨日話題に出た音楽のCDを手渡した。

「これ、オレ持ってる」

 彼は収録されている楽曲の一覧を見てからそう言うと、自分の家の本棚には沢山のCDや映画ビデオがあること、自分の部屋がしっかりとあって、テレビも独占したひとつのものがあり、CDプレイヤーも置いてあると話した。そして浅葱はそれを羨ましくも思い、憧れもした。

「今度、家へ行ってもいいか?」そう訊くと〝今度〟と言って一応は返事をした。やはりまだ一度や二度しか話したことのない人間を家に招くのはどうなのか、わからないという感じで、彼は苦い顔をしていた。

 しかし浅葱は少しばかり縹を不審に思っていた。縹はピロティで話したこととは違い、多くの友人がいるようだった。彼は学校の授業からぬけ出してはその友人たちと校舎内にある更衣室やトイレに隠れて遊び、ガラス窓や扉を破り、非常階段で煙草を吸っているような不良だった。普段の浅葱であるならば、そんなことをしている輩を相手にもしないのだが、縹の話を聞いた彼は、ワルをする彼をどうしてだろうと考えていた。浅葱の中では彼のしていることが不良の真似事ではないかと思えた。それは少しばかり彼に気を許していたからともいえる。というのもどこまでが彼の本音になるのかは浅葱にはわからなかった。別段浅葱が考えている彼についての理解はピロティでの数時間にわたる会話の中でのことだった。その話の意に反して彼が不良仲間から手を引かない理由も良く分からなかった。しかしピロティで彼から聞くその仲間の印象は、彼自身の言葉から受け取っても良い関係ではないと断言するほどのものだった。――そして彼は早く手を切りたいとも話していた。


 ⁂


 テスト週間に入り、クラブ活動が全面禁止になったころ、縹とその仲間たちが縹の家に行く相談をしていた。浅葱はその話を聞きつけて、僕も連れて行けと言った。しかし彼は「事前に言ってくれ」と言い、浅葱が同行することを拒んだ。それは彼の仲間たちと浅葱を引き合わせたくないという彼自身の思惑にあったようだ。しかし真意の彼は不良仲間たちとの間にあって、縹にとっての浅葱は、彼の悪戯な感情の行き場にあるのではないだろうかというような疑念に彼はかられていた。縹の不良行為が本当に楽しくてやっているのであれば、彼が仲間たちの悪態をつくことはないはずだった。浅葱は彼自身の本当の心境を理解する術を持っていないことを感じていた。

「そしたら明日はどうだ?」

 突然の浅葱の申し出に縹はひどく躊躇したが、ここまで言われてしまうと仕方ないように思ったみたいで、軽くうんともいやともわからない表情のまま頷いたのだった。それはこの時の浅葱にとって、何の回答にもならない反応であった。


 翌日、テストが迫っていることもあり、教師の話も非常な焦りを見せるようになっていた。彼らはまるで怒りをぶつけるように浅葱たちに話していた。彼らかすればその講義は迷惑にしか思えなかった。声には怒気も感じられるようになり、まじめな生徒たちはそれに応えようと顔尾を赤くして一生懸命ノートを写しているようだった。しかしそうしたクラスメイトの焦りをよそに、浅葱自身は縹の人間性について思うことばかりで、授業はウワの空だった。

 休み時間、珍しく縹の方からやってきて、今日のことを話した。

「親がいるけど、大丈夫だ」

 浅葱は親という言葉にすこし体をこわばらせた。それは人の家に行くのだから親がいて当然なのだが、彼の言い方には何か得体の知れない動物を見せつけられたような嫌な気分のするものがあった。浅葱は縹に対するひとつの不信のほかに、それを解明する以上の恐怖心を彼に持たなければならなくなった。

 放課後、縹のところを訪ねた。一つの不信感を覚えて、声をかけられず立ちすくんでいると、彼は浅葱に気づいたらしくどうしたんだと言った。それに少し笑い返して緊張も何やら遠退いたが、不信感があるのはどうも仕方なかった。

 彼の家は学校から10分もしないところにあって、あまりの近さに複雑な気になってきた。浅葱には彼の家へ着く前に、彼自身が口にした親について訊くことにした。

 縹は浅葱の質問に対して、戸惑いながらも数年前から祖母の家に下宿して学校に通っているのだといった。両親は彼が幼いころに別れて、父親に引き取られたのだが、父親は仕事で転勤を繰り返しているので、それでは彼自身が不憫だろうということになり、祖母の住まうこの街に10歳のころから暮らしているのだともいった。

その話を聞いて浅葱は、なんだか今まで縹に対して、無理に迫って近づこうとするやり方をしていたのだと思い情けなくなった。しかしそれで何度か謝ったりすると縹は〝いいンだ、いいンだ〟と変に励ますように返事をした。浅葱の心境はそれでいっそう複雑になった。しかも今日その家にいるのは母親の方だというのだ。「せっかくじゃないか」と、浅葱が少し遠慮しはじめると、今度は表情も変えずに〝僕らのような年齢は、親に反抗するものさ〟とマセたようなことを彼は言った。しかし浅葱はその台詞に驚くというよりは可笑しくなって笑った。それから彼にそれ以上親の話をするのはよすことにした。何ら浅葱自身、まだ彼のことをよく知りもしないのだから――。そして彼はそれからしばらく黙ったままであったし、浅葱もそれ以上何を話すべきなのかも分からなかった。

 縹の家は二階戸建の瓦屋根で、この街に昔からあるもののようで外観は木造で古びた趣をしている。門周りは綺麗にされていたが家屋へと上がる階段の途中で「庭へは入らないでほしい」と彼はいった。隣家との間を抜けると庭があるのであろう。建物と建物の間の真っ暗な通り道、そこの鬱蒼と茂る雑草を見ると、何か薄気味悪いところのようにも思えた。彼は浅葱が遠慮なしにジロジロと家の周囲を観察しているのをよそに、ドアの鍵を開けて中へ入るようにと指図した。

 初めてくる他人の家へ対する好奇心というのは誰にでもあるものだが、彼の家はその好奇心を上回る意外性を持っていた。玄関に入り、まず迎えてくれたのは正面の壁一面に大きく張られた鏡だった。それからその鏡が扉となっていて、向こう側を開けると四畳半はある靴置き場がある。そんなわけないだろうと言って入る浅葱だが、確かにその四畳半ほどのスペースには壁一面に棚がこしらえてあり、何処にも隙間がなく靴がしまわれていた。

「これは父親の趣味で」と彼は声を鼻から出すような変な言い方で説明した。縹の父は美術系の大学で建築を学んだのち、なぜか靴のブランドデザインの仕事をするようになったのだという。

 ふたりがこうして玄関から家へあがるまでグズグズしている間に奥から「葵か、おかえり」と咽喉のかすれた少し咳込むような声があった。彼は大きく〝ああ〟とそれに応え、急に靴を脱いで「早く、行くよ」と浅葱を家へ上げた。

「誰? おともだち?」

 また奥から声がすると彼は面倒な顔をして「朝話したろ」と返した。

 案内されて彼の部屋に入ると、学校で話していたような八畳の部屋の壁の大部分は棚になっていて、そこにテレビやビデオデッキ、CDのプレイヤー、ゲ―ム機、本や雑誌、CDがぎっしりとしまわれてあり、さらに驚かされたのはベッドのわきに二人掛けの牛革のソファと、そのわきにはエレキギター、アコースティックギターが置かれていたことだった。

 彼は部屋に入るなり部屋着に着替えだした。浅葱は二つのギターの横に置かれている譜面台をいじりながら、彼がどういう人間であるのか、興味が湧いてくることを感じた。

 彼の母とも祖母ともその日、顔を合わせることはなかった。その日ふたりは共通の趣味である音楽を聴きながら、縹は夢中で棚のものを手にして、彼自身のことについて話したり、明日学校でする遊びの算段をした。


 ふたりは二週もするとほとんど毎日を一緒に過ごすようになった。時おりウツボシが茶化しに来たが、縹は上手く不良仲間たちと手を切った。放課後や中休みは学校の校舎裏の人目のつかないところでふたりきりになって、キャッチボールをするなりして過ごした。仲が深くなっていくに連れて、互いに不満も言い合うようになったが、それでもいつもこの校舎裏に来て放課後の遊びの話をするのだった。

 ふたりの遊びは、帰る途中で菓子を買いあさって公園で語らったりして別れると、それだけの日もあったが、基本的に縹の家に行ってからのことが多かった。毎度のようにプレイヤーで音楽を鳴らし、冗談を交わすなどをしてから、映画を見るなり、縹がギターを弾いて浅葱が歌うといったことをした。お金があればカラオケに出向くこともあった。街へ出て新しい映画のビデオや音楽のCDを買いあさり、それに飽きれば近くの公園でキャッチボールやフリスビーをして過ごした。そうしている時のふたりはとても充実感の伴う生き生きとした姿をみせた。浅葱は別段アクティブなタイプの人間ではないが、縹は身体いっぱいのパフォーマンスで会話やスポーツを楽しむタイプだった。そんなおどけともとれる縹を興味津々に見て反応することが浅葱の役目にもなった。そして浅葱にとっての縹はずっと大人にも見えるのだった。


 そのうち彼はこんなことを話すようになった。

「Aクラスのあのはどうかな?」

 浅葱は大して異性とのかかわりについては興味がなかった。特に女生徒に関しては口にすることもない。それは浅葱が女性に関して意識しすぎるために興味がないというふりをしているためである……。

浅葱に対する彼の不満というのはそういう時に現れた。彼は浅葱に言う。

「誰かいないか?」

 しかし浅葱は昔から女の人と上手く話せた試しがなかった。

 卒業をあと一年ともなると、学校にいる連中は、男女の交際に関して、それなりの経験をするようだった。あからさまに付き合いを自慢する奴もいれば、別れ話に未練がましくしている奴もいた。付き合う相手が欲しいのにコレという人がなかなか見つからないという贅沢なことを言う奴もいれば、女と付き合うのは面倒なものだとか嘆いている気障な奴もいた。しかし浅葱にはそれのイッサイも経験になかった。そのころ縹にも仲良くしている女性がいた。そのつながりで浅葱もその女性と仲良くしたが、実際は彼とのつながりがあっての付き合いでしかかった。浅葱が彼女に何かあった訳でもないし、彼女自身も浅葱にはほとんど興味がないらしかった。浅葱はそのためなのかはわからないが、うっすら彼にこんなことを訊いてみた。

「あれのどこがイイの?」

 彼は驚いた顔をして、しばらく浅葱を見ていた。そして浅葱の考えていることに反して「別にそういうのじゃないよ」と言った。

 しかし彼も実際素直な気質ではなかった。浅葱は彼と彼女が文通を交わしていることも知っていたし、最近は彼女とふたりでいることの方が多いぐらいだった。別段このころになると浅葱も彼と毎日遊ぶのにも飽きているくらいで、気にもしなかった。

浅葱は新年度の桜並木をひとりで歩いて、これからの身の振りようを考えた。周囲のクラスメイトたちはクラブ活動をやめて、受験のために本格的に浅葱の嫌いなオ勉強をするらしい。そして縹も高校受験のために英語の家庭教師を入れたと話した。彼はひとしきりまるで呪文を繰り返すように遊びの中で英語を口ずさんだ。「potato, ポタト? ポテト。Potatoだってポタト、ハハハハ」とか「machine, マーチン? あ、マシーンマシーン」と。Machine gunをマーチンの銃、と訳した。真剣ともドウでもイイともとりづらい彼の勉強熱心さは、しばらく彼自身の中で笑い草になった。そして浅葱にとってはどことなくそれは阿呆らしかった。

……いずれにしても浅葱は、ひとり取り残されたかのような気分になった。交際やオ勉強に夢中になっている連中をしり目にひとりで帰るのもどことなく億劫だった。そして居残って勉強するなり、男と女でイチャつくなりしているクラスメイトたちがいる中、放課後の時間、浅葱は何をするでもなくまた水飲み場傍のピロティで一人生暖かい風に吹かれている景色を眺めるばかりだった。


 中学の最後の一年で願っていた交際について、縹はいっさい手もふれず文通の彼女とは別れた。文通がいつまで続いていたのかわからないが、曖昧な関係が続いていることに、浅葱は呆れていた。しかしそんな浅葱の白黒はっきりさせたがる性格が異性を近付けない理由でもあるようだった。

 縹は高校受験で挫折を味わった。第一志望も第二志望もおとして、第三志望、いわゆる滑り止めのM男子高に入った。浅葱はそのまま勉強などには目もくれず、安易にもといた学園内にある高校へ進んだ。

 高校へ行ってからは、ふたりの間に少しの変化が現れた。縹は男たちばかりの学校で好き放題した。相変わらず先生その他友人に対する文句は絶えなかったが、中学のころのようにワルをすることはなかった。部活動も熱心に取り組んでいたらしく、剣道部と軽音部を掛け持ちするほどであった。縹のギターの腕は浅葱自身前々から良く知っていたことだからさして気にもとめなかったが、彼が家で剣道の竹刀を手にして「ヤー!」とか「アー!」とか発狂してしまったみたいに叫びをあげることだけを見ていると、不思議と普段目にするクラスメイトたちのバカ騒ぎと比較して、笑いが込み上げた。一方の浅葱は相変わらずの縹の活動力に感服しながら、新しい環境では少なからずの人付き合いをするようになった。しかし不思議なことに男の友人は少なかった。クラスではひとりでいることが多かったためか、時どき女子生徒が浅葱に話しかけてくるようになった。

 二藍ふたあい撫子なでしこが話しかけてきたのは5月の連休明けのことだ。

「いつもひとりだね――」と、クラスで前後の席になったために会話ができたのだが、浅葱は中学での縹との付き合いのポテンシャルをここで発揮することにした。

「ひとりでも僕は楽しめるから」などと言えば彼女は不思議そうな顔を見せた。

 二藍は清楚という言葉がそのまま当てはまる、美人というよりは可愛らしい女性だった。小柄で身長も胸もない彼女は、一見少女のような印象を浅葱に与えた。

「おとなしいんだ――」それが撫子のいう浅葱に対する第一印象だった。しかし実際浅葱はおとなしかったというよりただ面倒くさかっただけだった。人の機嫌を見て付き合うほどバカらしいものはないと思っていた。少しでも気を持てばすぐにくっつき、何かしら互いの意に反すればどうでもないことでも離れていくような軽い人間関係が許されるわがままな連中のことだから、親切にするだけ無駄だと思っていた。何をしようとも人間という関係ではない。それすらも遊びという気分が学園内にははびこっている。わざわざどうして気のない人間に気のある素振りをして仲良くする義理があるだろうか、浅葱には中学の時同様、高校も学校はつまらなかったし、勉強もできなかった。それでも二藍は浅葱を気に入ったらしく〝安心するから〟などと言って時どき浅葱と話をした。それは、けれども、浅葱にとってはどうでもないことだった。


 高校生活のはじめ、休日は縹と遊ぶ約束で埋めつくされた。浅葱はいつも彼の家を訪れた。彼は毎度眠ったまま浅葱を待った。雑草が刈られないままの通路を通って、彼の部屋の窓をノックすると、縹は夜具のまま現れた。クセ髪の彼にとって寝グセなどないようだ。目の周りだけ眠たい気分を思わせる。部屋に入ると待っていてほしいと言う。それがいつもの調子である。しかし浅葱にはそんなことは嫌な気にはならない。彼にとって縹との付き合いは生活の一部と同じようなものだった。

 浅葱は待つ間に彼の部屋の棚にある彼のコレクションを眺める。映画のビデオやサントラ、流行りの音楽CDが一辺の壁一面にずらりと並んでいるのを見ると何もない自分自身の家を思い浮かべる。そして彼は縹のことを少し羨ましく思った。

 彼は部屋に戻ると外行きの支度をはじめた。ふたりの変化は外に行って遊ぶのが増えたことにあった。しかし、それで実際何をするという訳でもない。最近の出来事を報告や、懐かしい話をしたり、新しい遊びを考えるなどしながら、街を歩いて、本屋、喫茶店、ファストフード、ファミレス、カラオケ、ビリヤードと、しかし結局互いに何か意味深いことをするでもなく、グダグダと休みを謳歌するだけのことだった。

 そのうちふたりにも自分たちのしていることがムダなのに気づいて、嫌気がさしてきた。外に出ても縹には金があったが、浅葱は遊ぶ余裕もないほど金欠だった。そのためにふたりの行動範囲は限られた。段々、喫茶店で話すだの、公園で話すだの、遊びは空想の中で行われるようになった。

 縹はM高の教師を真似てM高の教師を真似ておどけてみたり変なことばかりを浅葱に話した。一方浅葱は、旅行をしようと話して、浅葱は今までどのくらいの旅をしたか訊ねた。彼は箱根とだけ言った。浅葱にとってそれは意外なことだった。彼は旅をあまり経験したことがなかった。浅葱は親に連れられて、沢山の地を巡ったこと、各地の風景、食、人ガラ、など次々と彼に聞かせた。……しかし浅葱は話し終わってからハッとした。それは浅葱自身がしばし経験したというだけのことで、縹にはそうした経験をすることはあり得なかったということだ。浅葱はひとりでに暗い気持ちになった。しかし冷静な面持ちの彼を見、思いきって今まで訊かなかったことを、これを機に訊ねた。

「両親との記憶はないのか?」

 彼は少し眉をひそめて、しかしすぐに顔色を戻し、笑いかけた。冷静を装っているのか、それとも怒りのためか、しばらく沈黙が続いた。彼は鼻で息を吐くと、こう呟いた。

「祖母さん、もう、もたないらしいんだ」

 縹の突然の発言に浅葱は少し驚いた。しかし驚いたとして、どう驚くべきなのか言葉にできなかった。縹の家にいて祖母の話や父母のことを聞いた試しがなかったし、顔を合わせたこともないのだ。縹が親近間の話を口にしたのもこれがはじめてだった。

 ふたりは会話を失くした。お互い黙ったまま、何をするでもなく同じ空間を共有するだけになった。浅葱は彼が何を考えているのか、そして自身が何をしたらよいのか、分からなかった。しかし当の縹もそれについてどう考えたらよいのか、迷いあぐねているようだった。いままでの普段の彼の行いを考えると、家族に関して今更気を寄せるつもりにはなり辛いだろうし、それを話したところでどうにも出来ない。浅葱はまた何か言おうとして、しかし言葉は呑み込んでしまった。しかしそれは当り前のことのようにも思えるのだ。浅葱にとって縹の祖母は、会ったこともない知らない人だ。彼の生活に関してその祖母が、どのような役割を果たしているのか、浅葱には理解することもなかった。そしてしばらく縹とは顔を合わせない方がいいだろうと思った。


    ⁂


 数か月、浅葱はひとりですごした。学校ではそれなりに友人を作ることにした。男女問わず、ありのままに付き合った。しかし学校での友人付き合いでは縹を忘れることができなかった。やはりどこかしらもの足りなかった。

 やがて浅葱は不安になった。縹とはもう顔を合わせることもできなくなるのではないかと思い始めた。けれども浅葱の方から連絡を取るようなことはしなかった。彼にとっての生活に欠くことの出来ないであろう存在にあった祖母がいなくなるのに、その非情な事態に焦燥感を覚えるはずの彼が、何でもないような顔をして、死についてさらりと話して何にも動じていなかったからだ。そのためか浅葱は縹の心理をつかみかねたまま彼を引き寄せることは、彼にとって自分自身の我を通すだけのような気がして、やるせなかった。

 そんな時、浅葱は薄柿うすがきひわと青藤あおふじあかねに出会った――。ふたりは二藍撫子の友人で、三人でよく浅葱の話をすることがあるというのだった。三人は浅葱からして見て、とても美しかった。確かに縹なしの浅葱の陰鬱さを考えれば、三人はずっと陽気で生き生きしていた。たとえそれが世間一般で言う普通の女子生徒と呼ばれたとしても――。  

 浅葱はしかし三人が話しかけてきたことにどう応えて良いのかわからなかった。彼にとって今考えるべきことは縹とどうやっていくのか、それだけに重点が置かれていたためだ。

 このとき学校での浅葱は完全に駄目な生徒になっていた。勉強もせず、人付き合いも適当で、ひとりで何をするでもないし悶々と暇を持て余していた。そして浅葱は、誰に合わせる顔もなく、ヒドく人間恐怖に陥っていた。実際三人に声を掛けられても、言葉を返すこともできず、眉をしかめて睨めつけることしかできなかった。

「大丈夫?」

 しかし浅葱のそうした表情を気にもせずそう言ったのは薄柿だった。彼女は浅葱について尋ねてきた。それはどうしていつも苦しそうにしているのかということだった。だがそれを浅葱の口から話すには無理があった。そしてこのことは本当のところ、縹のためにあるという訳でもなかった。

 浅葱が他人をあまり寄せ付けないのには理由があった。彼には人のことを考えるよりも、自身のことで精一杯だったからだ。家には陰険な父親と、ヒステリーな母親、引き籠り兄がいた。そのために学校のことも家のことも生活がどうすれば成り立つのかわからないほど混乱していた。浅葱は自分のいままでしてきたことをすべて投げ棄てて、死ぬことばかり考えた。その中、この重苦しい思いを縹の批判的な言い草に重ねて葬り去ることで、悲壮な日々から安楽な日々を夢想できるようになったのは、浅葱にとって不思議なことだった。そして、彼の考えに同情する日々は浅葱にとってすべてだった。浅葱の生活のそれ以外は抑圧された死の世界だった。浅葱にとっての縹に出会う前までは、生きていること自体、常に許されない事実を受け入れるためにあった。

 ――例えば学校から帰宅する際、浅葱は電車を利用していた。これから帰宅するということを考えるだけで、抑えきれない感情のために待ち時間はプラットホームを端から端へ歩いて考え事をした。人は目につかなかった。これから先まるで頭に狂気を抱えたつもりで、途方に暮れた路を行かなければならなかった。その狂気というのは家で聞く、陰惨な台詞の数々を思い出すためだった。そして電車が滑り込む瞬間、騒音を聞いて、ハッとした。ヘッドライトがレールと並行にしかれたプラットホームのラインの奥で結ばれて、浅葱の心はそれに魅せられた。誰かのために警笛が鳴らされたのだとしたら、それは自分のためではなかっただろうか、と浅葱は思うのだ。……騒音が近付き、アナウンスが流れた。ホームの端に浅葱が立った。その時、浅葱には引き籠りの兄の声が響いた。

 ――ふざけんなよ

 それは苦痛の種であるはずなのに、我を忘れた時に不思議と浅葱の境遇を吹き飛ばす台詞に聞こえた。

 家に帰ればほこりだらけの部屋に兄がいて、ずっとリビングのテレビを占領している、昼間に録画した競馬の中継を見てホットカーペットの上でまるでブタのように寝ているのだ。母親は黙ったまま料理を作り、帰った浅葱には一言も話さない。何か物音を立てれば、兄がまた喚きだすからだ。帰宅するといつもこんなピリピリとした関係を彼は目にしなければいけない。そうでなくとも兄は母親に対して嫌悪感をムキ出しにする。

「飯はまだか」「いつまで時間をかけてるんだよ」「こんなヘタなもの食えやしない」「あんなもの誰でも作れる」「バカにしやがって」「オマエがオレに何をしてくれた」「オマエなんかいてもいなくても変わらない」「ジャマだから消えろ」「オマエがここにいても無駄だ」「ロクに家にもいないクセに母親ズラしやがって」「ふざけんなよ」……

 浅葱はその罵声の中、ヘッドホンをかぶり、音楽でも聴いて外界でおこること全てをなかったことにしていた。あからさまに母と兄のふたりのあいだの事情が見える。どう関係する術もない。口を出せば「テメエにはカンケーねえ」と喚かれるだけだ。なにかしようとすればそれも「うるせえ」といって兄は咎める。家にいて、浅葱も母も何ができるかといえば、兄の機嫌を伺いながらヒッソリと生活をするほか、プライベートはほぼ兄の思うままに支配され、まるで飼い慣らされた奴隷のようにこの監守に監視されているのだという意識で、じっとしているまでだ。勤めにいって、日中家にいない父親にはそれがわからない。父親が帰ればどうせ母は「なんとか言ってよ」というのだろうが、そんなことを説明もなしにいきなり言われたとして、父親が何を理解するのだろう。父は頭ばかりで兄を責めはじめ、兄は「お前に何がわかってるって言うんだ!」と結局何にもならない口論が毎晩続く。父の要領を得ない言葉がが兄を嫌にさせる。揚句父が言うのは「――近所迷惑だ」とそれに尽きる。しかし、何が悪いのかと言えば本当のところは兄が悪い訳ではない。父にはこどものことが分からない。母にはこどもをどうしてやればイイかわからない。こんなバカな親の相手をしていたら気が狂うのも当然である。兄は甘えたい精神が消えないだけだ。そして浅葱自身にもこの理解し難い状況のバカらしい家族関係をどうする気にもならない。何にしても家にいる時間がどれだけ浅葱にとって無駄だったか、そればかりでも彼をイライラさせる。兄の言うように食事もロクなものでない。時に食べられない料理が食卓に並ぶこともある。炒めきれていない半分なまの野菜炒め、表面だけ焦げて中身の赤いハンバーグ、塩のふられていない焼き魚、醤油漬けの煮もの、出汁の入っていない味噌汁――。何カ月も掃除はされていないほこりだらけの部屋、ゴミ箱周りは異臭が漂い、流しには今週一週間の洗われていない食器が山積みになっている。風呂も三月に一度しか洗わない。誰も湯船には入らずシャワーだけで日の疲れを取る。ウジの湧いた食器棚、照明周辺はコバエや蛾が飛び回っている。寝るのにも兄が朝まで悪態を叫び続ける。「バカ」「何なんだよ」「殺すぞ」――まともに眠れる時間はない。そしてその異常な生活をどうにもできない親が浅葱にはバカらしく思える。いまさら「家」や「世間体」などという理由でどうにか出来る話ではない。それにもともと会話のない家族だったのだし。――

 しかしこんな話を誰にしたところで何になるだろうか。……浅葱は薄柿にいつまでも苦い顔をしたままだった。何か言えるとすればコレくらいだった。

「君も家庭がいやそうだよね?」

 同情できうる気分は話さずともわかる時があるものだった。薄柿ひわに何かあって、そのために彼女が浅葱を気にすることも、ある直感でわかるのだ。それは嘘のようなことのようにも思えるだろうが、しかし、浅葱と彼女たちはこの一言で仲良くなった。




 縹から連絡を受けたのは夏休み前のことだ。駅前で待ち合わせてコンビニへ寄った。浅葱は食糧を買い、縹は煙草を買った。

「そんなものまた始めたのか」

 浅葱は縹が少し変わったのがわかった。

 彼は言った。

「二十歳から吸うより、今吸った方が早くに止められる」

 浅葱は呆れていた。

「だってそう言うものだろう?」

 縹は浅葱のケゲンそうな顔にそう応えて笑った。

 縹が既成の決まりに反抗して刺激を欲しがるそれを、浅葱はただのないモノねだりと言ってしまえば落ち着く話だった。が、それにしても縹のやっていることはあまりにも幼稚だった。M高の連中の文句が尽きれば次には気障な出来事を演出する他ないのだ。しかしそれでは、中学のころ彼が関わった不良仲間と同罪でだった。自虐は世間を動揺させる挿話にしかならず、そこには甘ったれていることの他、中身はない。しかし彼の親をよく知らない浅葱にはそれに気がつく術もないのかも知れない。そして浅葱は更に驚かされた。コンビニを出るとすぐわきの宝くじ売り場へ寄ったのだ。

 浅葱が「どうしてそんなもの」と訊くと、

「金なんて少しあったぐらいじゃ何にもならない」と縹吐き捨てるように言った。

 浅葱のイメージしていた昔の縹は、今は違うもののようになっていた。

 浅葱は縹がくじを買う間、その場限り彼に寄るのをよした。知り合いとも思われたくなかった。彼がくじを買う間だけ、通りの反対側で待つことにした。しかしそれが浅葱をよりいっそう不安にさせた。彼は縹を見ていた。彼は宝くじ売り場に腕をつけて寄りかかり、楽な姿勢でくじを手にするのを待っている。その様相が変にゲッソリしている。目が虚ろで見据えている先の視点がどこにもあっていない。浅葱は宝くじを買い終えた彼に寄って「大丈夫か? 体がすごくゲッソリしているぞ」と驚嘆して見せた。しかし彼は平然と「なにが?」と、からとボケたことを言った。

 浅葱は兄のことを思い出していた。粗暴で野暮ったい身なりをした連中、近づき難いイメージが目の前にあるようだった。

 彼はケゲンそうに見られていることを知りながらもいつものようにおどけながらヘラヘラして見せた。そして浅葱はどことなく不安感を忘れた。

 しかしそんなことでゴマカされた気になって、ヘラヘラふたりで彼の家に行くと、動揺せざるを得ないことが浅葱を待ち受けていた。

 縹の部屋はゴミが散乱して、脱ぎ捨てた服はそこらじゅう脱ぎ捨てられたまま、足の踏み場がないぐらいだ。綺麗に整理されていた棚にある彼のものもゴタゴタしている。浅葱がまた「どうした?」と訊ねると、このごろはあまり眠っていないこと、始発で学校へ行き、終電で家に帰るということ、食事を日に一度しかとらないこと、……そして、浅葱を一番怖がらせたのは、彼が左腕を突き出して見せてきたことだった。

「カッターとかみんな、刃物を母親に隠された」……

 浅葱は黙った。縹はソファーに腰かけ、薄笑いを浮かべながら見当もつかないところをみつめた。そして突然こう言い出した。

「誰か女の子の知り合いはいないか?」

 この年頃の男にとっては、そういった欲を覚えることは普通のことだ。しかし縹のこの申し出には別の意味が込められている。彼は口にはしないが、彼の祖母が他界し、家には彼の面倒を見る人がいない。彼がそのために孤独になったこと、生活が荒んでいることがなんとなしに浅葱には感じ取れた。そして縹は頼るアテが浅葱にしかないような素振りをするのだ。しかし彼の場合女性との付き合いはどれほどのものがあるのか、浅葱には計りかねた。中学のころをふたりがいくら多くの時間を過ごしたと言っても、縹が自身のクラスでどういった振る舞いをしていたのか、到底分らない。時おり、中学の頃つきあいがあった例の文通の彼女と、いまだに交際があるのだということも、どことなしに感じたが、それは彼のデスクに封筒がそのままにされていることがあるというだけで、中身は彼のデスクにある鍵付きの引き出しにでも入っているのだろうと浅葱は気にかけていた。そしてその他にも彼の口から出てくる女性の話は、彼の欲望というような卑劣さを感じさせた。しかし、実際彼は口が上手かった。浅葱が人とのかかわりについて悲観的であることに関して、彼は同情し、けれどもいつも、やめようと声をかけて、違うでしょう? といさめるように言うのだ。彼はそういう意味で優しかった。そして浅葱にはその優しさが足りないために人を避けるのだということもわかっていた。しかし今回の縹の申し出は浅葱を困らせた。浅葱は人との交際が少ない。知りあいもそんなにいないし、女性と言われても思いつくのはほんの数人だった。しかしそれでも病的な彼を見ていると、浅葱はどうかしなければならないという焦燥にかられるのだった。

 浅葱は二藍撫子を縹に会わせた。

 二藍には「縹を励ましてほしいんだ」と言って誘いをかけた。

 また「時おり三人で遊ぼう」と浅葱はそればかりを言った。しかしそれからというと、浅葱は不安で気が気でなかった。三人で、また遊ぼうなどということは、小学生同士のオ約束とでも言うべきもののようだ。つまり当然縹は浅葱の真意などにお構いはなかった。彼は二藍を自分のものにした。後日再び彼とふたりきりで会った時に彼はこういうのだ。「先週二人で会ったよ」と。

 ……これはいったいどういうことだろうか。縹は浅葱に女を口説いたことを自慢しているのだろうか。それとも一緒に喜んで欲しかったのだろうか。しかし浅葱には彼からそのことを聞く前から予想ができていた。あの上手い言葉遣いで、軽薄な口ぶりと戯けた姿で口説いたのは確かだ。縹は浅葱の予感に確かな答えを与えてしまっただけだ。しかし浅葱には二藍が縹のそれにノルような女性だとは思いもしていなかった。


 浅葱は二藍と学校で顔を合わせる訳にはいかなくなった。それは縹と二藍の二人に裏切りを食わされたように感じたためにあった。二藍は相変わらず浅葱に話しかけてきたが、それに対して彼は素っ気なくした。しかし縹に会えば、浅葱のその感情は一変した。縹の浮かれた行動にどこかしら恨みを持って浅葱は黙ったが、彼が笑いながらまたおどけてみせ、はやしたてると、どうしても彼を嫌うべき人間とは思えなかった。彼は縹を前にすると不思議と俺が悪いと思うのだ。それは浅葱が〝二藍〟と言葉で頭に張り付けていく度に、縹の存在が背景から現れるためにあった。二藍は縹のもの。縹は二藍のもの。くり返してその語を呟くように確かめると、それが浅葱にとって不思議と気分を悪くさせるのだ。

 そして縹とはこれ以降半年以上も付き合いがなくなった。

 となりクラスのY(彼はその口の語りようからこのアダ名だった)にこの話をすると、

「そういうヤツいますネ――。女ができると付き合い悪くなるヤツ」と語った。

 浅葱はそういうものかと思い、そして縹には二藍と仲良くやっていればイイとなげやりになった。しかし浅葱のオカシナところは、どうでもイイと感じながらも学校で二藍と対面すると怒りがこみ上げることだった。二藍を見るとそれに重なって嫌な縹が浅葱に現れた。浅葱と縹との関係は「女性」を間に入れると隔たりが生まれた。彼が中学のころ文通を交わした彼女がいた時にも、少しばかり同じような感情を抱いた。それを浅葱自身気付かずに二藍を縹に会わせた。浅葱は縹との関係が、女性を挟むことで遠のいていくのを、なぜだか非常に腹立たしく思った。二藍はそのうち浅葱の目の前から離れていった。しかしその顔には重い影がかかるようになった。浅葱にはそれがわかっていた。薄柿や青藤に二藍の話を持ち出されたとして、しかしどうしようとも思わなかった。特に問いただすこともなければ、もともと二藍との仲もないものとおなじだった。裏切りを食わされた気分の中で浅葱自身が何かするということはない。仲を取り持ちたければ何かしら向こうから仕掛けるべきだとも思った。

 そして浅葱は嘘をついた。

 浅葱が縹と久しぶりに会ったその日、公園のジャングルジムに腰かけて縹は二藍の話をした。

「彼女が、君に避けられるって、言ってたぞ」

「そんなこと、してるつもりはないけど……」

 いくら縹からそのことについて問われても、学校での二藍との関係を戻すきっかけにはならなかった。縹の口ぶりからは君でなんとかしろと言うような指図的なニュアンスを思わせたからだ。それにそのことについては二藍の思い違いのようにさせておけばイイと思った。実際、付き合いの仲を取り持ちたければ、そのきっかけを作らなければいけないのは二藍自身にあると浅葱は考えていた。浅葱の返答に彼はそれ以上何も思わないようだった。それともまたそういうふうに装っているだけなのか――。沈黙の中、浅葱は彼が話す女性像について考えた。浅葱が彼にそういうことを訊ねる時、その話に出てくる女性というのは下らないものという格付けがなされた。それは浅葱の気を引きとめるための焦燥感からくるようにも感じられることがあった。しかし彼にとって女性は欲望の対象でもあるのだ。浅葱にはまだその矛盾した気持ちは分からないにしても、その欲望には確かな重心を持って彼の身体を支えているもののようにも思えた。

 しかし彼が二藍のその悲しい訴えで浅葱を突き詰めて責めなかったことは、浅葱を楽な気にさせたのだ。それは縹の言う「女なんてくだらない」というのは何のためであったのか、浅葱には判別しかねたからだ。

 縹はその日「二藍、もう来ないかもしれない――」と言った。



 秋口、浅葱はまた彼と会った。彼はその日、浅葱がいつまでも口を利かないことに加え、何かに責められているとでも言いたげな気弱な態度だった。いつまでも浅葱が素っ気ないといったこの険悪な雰囲気に耐えかねて「二藍またに会いたい、二藍に会いたいんだ」とくり返して話した。――男だけの学校でやっていくにつれて、彼は浅葱に弱音ばかりを言うようになった。しかし浅葱は従来それを許してきたつもりだった。彼がよそで強がる代わりに、浅葱は彼の弱さを認めていたのは、中学のころに不良仲間とツルむ彼を見ていた時と同様のことだった。しかしそれは浅葱自身が弱いためにもあったし、それとともに彼が強がる装いとの裏腹に本当は弱い奴だという事実を知るのは、自分だけなのだという、どうでもない優越感のためにもあった――。

 一方、浅葱は自分自身弱いことを認めながら、それで何が悪いのかと思うことがあった。それが縹との決定的な違いだった。そしてそのために二藍と浅葱は決別した。それは顔も合わせなければ、話しかけもしないという単純なことだった。浅葱と二藍はそれだけの関係だった。そしてまた、縹が話すには彼の方でも二藍とは会えなくなったのだということだけだった、

「なあ、二藍に連絡を入れてくれないか。なあ」

 浅葱は事の顛末を、自分の意見として口にするのも面倒だった。縹に言われるがまま二藍のアドレスにメールを送った。当然のように返事はいつまでもなかった。浅葱は白々しい顔で縹を見た。縹は中学のころの女性との文通について後悔し始めた。

「二藍、あれ見たんだよ、ほら、前に話した手紙」

 いつしか聞かされた手紙がいまだに続いていることに少し驚きもしたが、それよりもこれほどに参っている縹を見るのも浅葱には初めてのことだった。そしてまた浅葱は、突然の心配に襲われた。彼がかける女性への思いは計り知れなかった。

 彼はまた浅葱に言うのだ。

「また女の子を、連れて来てよ」

 浅葱が拒むと彼は「ほら、ほら」と言って数枚の千円札を浅葱の手に掴ませた。コレは受け取れないというと〝良いんだ、良いんだ〟と、浅葱が返そうとするのを拒んだ。そして浅葱は、彼がそうすることで、まるで女を売っているのかという気分にさせられたのだ。けれども浅葱からしてみればそんなつもりではなかった。縹の異様な状態を見兼ねた彼は、ただ単に縹を励ますために二藍とともに彼を訪ねただけだった。しかしその真意を彼は裏切る形で二藍と付き合ったのだ。だからと言って、その後のことは二人の勝手な振る舞いであったのだから、浅葱は単に縹の強欲のためのゴタゴタに巻き込まれただけなのだとシラをきった。

 二藍を取り戻したければ自分からそうすべきだ。それができないのだから、縹はこうして頼むのだろうが、しかし浅葱にもそれはできないことだった。もともと浅葱はふたりが付き合うことに関してまで賛成はしていなかったのだし、触れる気もなかったのだから……。しかし浅葱がそういうふうに思って嫌がるのとは裏腹に、縹はその話ばかりし続けた。

 また別の時、縹は浅葱にメールをよこした。

「浅葱、死にたい」

 浅葱は何かしらの気力を失った。このまま彼とはどうしたらいいだろうか、関係をやめるのにも理由がなく、付き合う理由もなかった。もう浅葱と縹をつなぐのは、出会った当初の共感し得ることや、その当時の思い出が尾を引いているということだけにあった。そして縹は少しずつ狂っていった。


 縹は自分を非難した。それは弱音を吐くことを禁じることから始まった。疲れたと漏らせば、ハッとして浅葱に向かって「オレを殴れ」と言った。格闘映画の殴り合いのシーンをいく度となく見て「この腕、この筋肉、イイ!」とか言いながら、通販で手に入れた健康器具で「修行だ」とひたすら体を鍛え出した。暴力的な映画を真似て、公園にいる野良猫にエアガンを打って殺傷したり、夜中、知らない人の家の前でロケット花火を窓に向けて飛ばしたりした。また、はじめはどういうことなのかサッパリわからなかった浅葱も、いつしかそんな彼を茶化した。ふたりはそして、そんな犯罪的事実を共有する面白みに駆られた。そんなことはできない。と思いながら、否定的な表現は口に出る前に無視しなければいけなかった。縹は少なくともそうしていた。浅葱はこの友人を失うことを恐れていた。――心の中でやりたくもないことに拒絶感を覚えながらも心をすり減らしながら縹とともに行動を狂暴化させていった。それは中学の頃の不良と変わらなかった。そのうち縹の家の近くでは噂も流れだしていた。そして夜警がうろうろし始めた。浅葱は余裕を失っていた。縹は黙ったままつまらないとでも言いたそうにしている。二人は短いながらも悪さという冒険を味わい。その事実を公に裁かれるのではないかと妙な冷や汗に緊張していた。そのためになのだろうか理解できないまでも、悪さをした冒険からかまたなぜか、浅葱は縹に女友達を紹介したのだ。浅葱は高校のいく人かのグループでカラオケに行き、そこに縹を誘った。その中には薄柿も混じっていた。浅葱は縹に彼女を紹介した。彼はそこですぐに彼女と仲良くなり、そしてまた浅葱に「ふたりで会った」と言うのだった。はたして浅葱はまた呆れるほかなかった。ふたりの間柄は互いにヤケそのものだった。浅葱はそのうち今の縹を見るより、昔の面影だけを彼に求めた。薄柿と付き合っている最中でも時どき縹とは会ったが、女性と付き合い出せば相変わらず彼は何でもないというような白々しい態度になった。それにちょうど浅葱は悪さも続けられないだろうと思い始めていたころであった。浅葱は今までしてきたことをまるでなかったことのように思い、縹との付き合いを減らしていった。

 そして半年もすればまた彼は「もう会わないかも知れない」とボヤくのだった。

 そしてふたりは高校を出た。


 浅葱は平均レベルの大学へ、縹はO大学の映画科に入り、それぞれ別々の世界へ飛び込んだ。

 ところで薄柿と縹との交際だが、結局縹から薄柿を切ったようだった。

「近いうちに会えない?」

 薄柿から突然メールが届いて、浅葱は大学に入ってから数週間も経たないうちに再び元同級生と会うことになった。平日は彼女も専門学校へ通うために暇がなかった。しかし浅葱からしてみて、彼女のために自分の生活を打ち切って、遠い街へ移動することはできなかった。彼女には浅葱の住んでいる街まで来てもらえるように頼んだ。浅葱の家もこのころは母が家を飛び出して、兄が家を荒らすからという理由で、浅葱も父親も別の住居で生活をすることを余儀なくされていた。父はそれでも堅実に勤めを果たした。そのために浅葱は家の概念を持たない連中を軽蔑した。それは浅葱自身の家族に向けられた批判だった。浅葱は自ら兄のもとを離れ、彼の語る私見を排除し、兄をいっそう孤独に陥れた。しかしそれは内弁慶である兄自身が悪いのだということを知らしめるたにしたことで、彼からしてみれば当たり前に行われたことだった。浅葱はもともと言うべきことを言わないことで他人を撥ねつける気質があった。しかしその分、彼にとっての興味と好奇心を持つ物事は、いっそう根強く彼自身の心理とともに伴われるのだ。

 浅葱は薄柿と駅の改札で待ち合わせた。向かい合うなり彼女の身体は浅葱の身体へ飛び込んできた。浅葱が「いったいどうした?」と訊いたところで彼女は何も言わない。ただそのままの状態で泣き出した。浅葱はハンカチで彼女の顔を拭き、改札のハシのジャマにならないところへ彼女を連れていった。再び彼女が抱きついてくると浅葱も彼女を抱きよせた。彼は何度か訳を訊いたが、彼女は応えなかった。彼は少しの間そのままの態勢でどうしたものかと考えた。

 浅葱が「ここにいても仕方ない」というと彼女は胸に顔をうずめたまま、うんと頷いて、胸の中から少し離れた。浅葱は彼女の手をとって家まで連れていくことにした。

 家までの道のりで、浅葱が彼女と話したのはほんの二言三言だった。縹と別れたこと、それで僕を訪ねたのかということ、大丈夫なのかということである。彼女はどれにもうんとしか応えなかった。

 薄柿を家に招き入れると、浅葱は昼食を準備した。彼女は畳の部屋で寝転がった。浅葱はいつまでも寝たままでいる薄柿を見兼ねて布団を敷いた。

「昼食」と声をかけても彼女は起きては来なかった。彼は黙って食事を済ませると、彼女の寝込んだ布団の傍まで寄った。身体をゆすっても彼女は起きる気もないようだった。浅葱は彼女の手を握った。彼女はそれを強く引いた。そして浅葱と薄柿は布団の中で抱き合った。


 一方の縹は、薄柿と別れた後の沈痛に見舞われていた。

 縹は「あんな娘、親の顔が見てみたい」と言ったが、浅葱からしてみてその言葉は滑稽だった。吐き捨てた台詞は縹の顔色とはチグハグなのだ。浅葱は縹に薄柿の話をするのはよした。それでは縹と同罪だ。薄柿の父親は父親で、死別していたし、浅葱はクラスメイトであったためにそれをよくわかっていた。そしてこの女性がどこかで人に依存するような態度をとるということも。

「うちに来れない?」

 そうメールが来たのは深夜2時だった。浅葱は呆れる他なく、力なくして

「明日」と返すと、

「殺されそう」と返ってきた。

 誰に、どうして、と馬鹿らしく思いながら、胸中では何が彼女をそうさせるのか浅葱には気がかりでならなかった。高校のころに見た薄柿は非常に不安定な人物だった。授業中に急に泣き出したり、朝は大分遅くに登校したり、忘れモノが多いのもそうであるし、顔を合わせている時は笑ったりおおらかなタイプの人間を思わせたにしても、普段は無口な態度をとるのにもかかわらず、話しだすと嬉しそうに良く話をする。その要領を理解しい得ないまま縹と付き合いだしてすぐに別れた彼女が今度は自分の方へと向くというその真意が尋常ではないと彼は思った。メールが毎晩来ることにも浅葱は驚いたし、彼が休日に出かけている時でも、居場所を聞いてわざわざ訪れる彼女は不思議で仕方がなかった。

 翌日結局朝早くに彼女の家まで行くことになった浅葱は、教えられるままに世田谷の街にいた。駅前で彼女と待ち合わせ、家まで引かれていった。彼女の家は外観が教会みたいだった。階段を上ると玄関があり中へ入れば2階がそのままリビングで、第一級ホテルか何かの一室のようだ。南側は一面ガラス張りの窓であるし、かしこに観葉植物が置かれ、壁には数点絵画が飾られている。大理石風の床はひんやりとして、スリッパを渡されるまで浅葱は足の指を上下に踊らせていた。

「親は?」と訊くと、「仕事」と答えた。薄柿は半円を描くように並べられたソファーに座って浅葱を手招きした。中心に丸いテーブルがあり、下着と新聞が投げ置かれていた。なるままに浅葱がとなりに座ると、彼女は腕をつかみ彼の肩に頬をつけた。浅葱は不思議と安らぐ気分に包まれた。ふと彼女は顔をあげた。それを見た彼は、彼女の唇が紅くなり表情が火照るのに気がついた。高揚した胸の内で目のくらむ衝動にかられ、彼は思わず彼女の唇に接吻した。……


 それから長い時間を彼女は話に費やした。彼女の父はレストランを経営していた。六本木や恵比寿、表参道に店舗を構え、娘が幼少の時、父親はある建築家の持つ空き家を買い取った。それがこの家だった。小学校を卒業する手前で父親と死別し、母親が仕事をはじめ、居酒屋で飲んだくれる。その親を娘は小学生のころから介抱した。このごろは大分マシになった母親だが、それがどうしてなのかと言えば、その居酒屋で引っかけた男を毎晩家に連れ込むためにあるのだと言った。

「ママ水商売してたから」

「お父さんとはそこで?」

「知らない。聞いたことない」

 浅葱は上京した女の人がお金欲しさに水商売を初めて、水商売気分の抜けないまま結婚をしうまくいかなかったようなことだと、偏見を持った。そんな風に薄柿の母親のことを思った。しかしそれが単なる思い込みであったとしても、居酒屋で男を引っ掛けて、親でもない男を連れ込んでいる母親など良いようには聞こえなかった。

 そして彼女はこうも言った。

「ママ、時どき、こう言うの〝ヤッパリわたし、へんなのかな?〟って」

「親が子どもにそんなこと言うのも、面白い話だね」

 浅葱も相槌を打ちながら時どき簡単に意見した。

 居酒屋で引っかけた男は、毎晩誘いもしないのに家を訪れたという。母親は男に飽きて会うのをやめようとした。というより、娘のことを考えれば、また近所の眼を考えれば、男を連れるのは良くないと思うのが当然のようだった。そしてそれはまた、その男が暴力的な人間だったためにもあった。しかし男が来なくなったのは一時的なことだった。男は母親に冷たくあしらわれたとしても、しつこく何度も薄柿の家を訪れ、玄関で喚き散らし、庭まで来てガラス戸を叩いて脅しをかけた。娘は警察を呼んだ。しかし警察がきても男が「何でもない」と言えばそのまま帰って行ってしまう。結局、母はその男を家に入れるしかなく、娘は母親の勝手を「どうして入れてしまうの?」と責めたが「どうしてアンタの言うことを聞かなきゃいけないの?」と言われたのだと言った。浅葱は「そんなの母親じゃないんじゃないかな?」と返すと「あの男がいるのにはもう慣れた」と返した。けれどもどうしてそれなら、と浅葱は考えた。しかしこの家族にとって、外から来るものは受け入れるしかないのだろうとも思った。やはり女だけの家にいつ何があるかわからないと考えることさえありうることで、なにかあったにせよ、それが男を受け入れるだけのことだったのだとすれば、それは大した危害にはならないのだろう。それにもともと男を誘ったのは母親なのだ。その責任を簡単に娘のためと言って、打ち切るのは人としてあまりに身勝手であるし、そんなことで男が納得できるとも思えない。それに、いざこざを続けて問題になれば、この家族の方が危なかったのかも知れない。そしてこれは母親が悪いと決まっているのに、彼女がそれを責めることもできないのは、この娘がこの母の子であるがためであった。

「(男が)怖い?」

「わからない」

 それは本音のようだった。何も理解できることの範囲で決められた出来事ではなかった。娘にとって良くわからぬままに通り過ぎた事実であって、母親は男手を失くしたこの家をまるで動物のような意志で切り盛りしていたようだ。彼女は話の中でこうも言っていた「いやなことなんか沢山あったけど、それでも生きていることをやめられないでしょ」そしてしかし彼女の母親にとって、生きることに行き詰れば、男の存在が頭をよぎることもあるのではなかろうか――。この少女が浅葱を呼んだのも恐らくただ本能のおもむくままのことだったようにも思えた。そして彼もそれに関してなにかしら断りをいれることもなかっただけのことだった。

 夕方遅く薄柿は浅葱にご飯を食べていけと言った。浅葱はそれを断わり、帰る支度をした。彼女は玄関まで迎え出た。浅葱が「それじゃあ」というと彼女は「今晩ママ出張で、わたしひとりなの……」とドアから顔をのぞかせるような姿勢のまま浅葱を見ていた。



 大学の前期終了と同時に浅葱と縹のふたりはまた会う約束をした。とりあえずひとまず縹は、体を鍛えること以上に気狂いを演じるつもりになったようだった。大学に入ってからは縹の家にいて遊ぶのもくだらなくなった。ふたりは音楽やスポーツの芸のなさに悲観的になった。何か面白いこと楽しいことに熱中することを夢想し始めた。朝は縹の住む街の駅のそばにある踏切で待ち合わせ、すぐわきの喫茶店で遊びの算段をした。昼を過ぎればそこを飛び出して別の街へビリヤードなり買い物に出かけ、オレたちには何が足りないのかと話し続けた。縹は「オレたちには童心が足りない。キマジメにすることなんて無意味だしツマラナイじゃないか、大人になっても無駄だ。子どもみたいになんでも欲しがって、何でもやるべきだ」と言った。

 たまに家によると、縹の部屋は風船で埋もれていた。彼は「〝破裂する友人会〟という集まりを作ったんだよ」と、訳のわからないことを言ったが、確かにその風船にはどれにもおかしな顔が描かれていて、その顔の裏を返せば、ピーターやらポール、マリーとか名前がつけられた。彼は風船らの名前を呼びかけ、笑ったり悲しんだりとそのフリをするのだ。浅葱はそんな縹に驚くというよりも、その風船を部屋で埋めつくしたという発想に感動した。

 そのうち浅葱も煙草を知った。そして、ふたりして酒を飲むようにもなった。話の流れで、彼はまた「女の子を――」と話した。しかしこうなると恋愛だとか、下心よりも男だけの関係というものがあまりにも貧弱に思えるのだった。浅葱も「確かにオレたちの関係をオレたちで終わらせることもない」と訳のわからないことを言って話にノリ気だった。実際酒だの煙草だのシコウ品に手を触れ出すと、快楽がすぐそばにあった。口もまともにきけなくなれば「これからは多くの人間が相手だ」と彼は叫んだ。浅葱も半分我を忘れてそれならばと思ったが、……しかし実際勢いだけで突っ走った話の流れで、何も考えらていないその言葉からは望めるものはなかった(ふたりには街で見知らぬ女性を誘う度胸もなかった)。

 浅葱は今度こそ単なる平行線の付き合いができるだろうと考えていた。そして青藤を会わせた。黒すぎるストレートのロングヘア、深い色の澄みきった眼、暗い服装、青白い不健康な顔、高い背の彼女が、キリスト教の家の娘として生まれたことを話し、神々しさというものをある不思議な生気でもって示せば、ふたりの純粋な世界観はその神秘性によって驚かされた。

 そして彼は言った。

「この娘とは付き合う気にはなれないなあ」……

 浅葱は思った。縹は、もう昔の縹とは別の人間なのだと。


 その年の冬、浅葱と縹はいつものように踏切で待ち合わせた。踏切の傍の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで今までのことを話したり、縹は最近、映画の撮影で、由比ヶ浜で絶命の叫びをあげながら射殺されるシーンを撮ったと話し、浅葱はそれを無反応のまま返した。そして会話などそれ以上なかった。縹は、ひたすら大学でのことを話し、浅葱は中学のころに縹と唄ったり、聞いた歌を口ずさんだ。


両手には 小さな愛と

こぼれない程の 満たされた気持ち

くずれかけた 砂の家で

男と女が 暮しを始めた

幸福だよねと 笑みを絶やさず

懐かしい歌を 二人で口ずさむ


ささやかな夢は あくまで遠く

傷つきあう日は あくまで近く

淋しさ寄り添い 温めあえば

人と人とは ひとつと信じて

壊される前に 二人で旅たて

昔の友より 明日の二人


心を開く 隙間をもちたい

閉ざしたままで 時をおくるな

一人がいやで 肩よせた筈

子供のように はしゃいだ日々もいい

風にまかれる 人生がある

たくましさだけで 疲れるよりはいい


心はふたつ 身体もふたつ

ひとつになりたい 願いは同じ

青い空見て はぐれた雲の

行方を追えば 涙も乾く

運命があると 思えるならば

寒さをしのぐ 寝ぐらはひとつ


君の身体は 心を癒し

僕の心は 君を突きさす

くずれかけた 砂の家で

木の葉のように 舞うだけ舞えばいい

朝陽を見たかい 嵐の中にも

懐かしい歌が 聞こえてくるだろう


 気づけば店を出て白い息を吐きながら大通りを歩いていた。ふたりとも変に意気高揚として、会話をしていたけれど、何を話しているのかはわからなかった。縹は「二藍に会いたい」とそればかり言いだした。浅葱にはそれはできなかった。二藍はもう彼らの手からは離れて、別の男のところにいた。揚句、縹はある作家の話をした。受験前に読まされた小説の話だった。それは男が友人の交際相手を奪って友人を死なせ、その後ある決意で自身も自殺する話だった。縹はその話を何度も浅葱にした。初めて聞いた時は「そうか、そうか」などと大げさに話したが、今となっては大分昔の話のように思えた。浅葱は高校のころ教員に言われて同じものを読んでいた。しかし彼が読んだのは実際その小説の一部分だけであることを知って浅葱は不安を覚えた。その小説はある意味で教訓めいたもののはずだったが、彼はその後それをひたすらに「良かった、良かった」というのだ。浅葱は、恋愛で、ことに女の人のためだけに命を捨てられるものか? と思い、怒りがこみ上げた。しかし不安はいつしか浅葱の支えでもあった。ふたりがこうして訳もなく会うのもそのためにあったからだ。浅葱はそれを変に利用して、彼をツナギとめることばかりをしていた。浅葱にとって彼の不幸は喜ばしかった。彼が不幸になれば浅葱は彼と会う口実ができた。彼もそれをわかっていたかも知れない。それでも彼が浅葱を頼るのはなぜだかわからない。

 しかし、すでにふたりの間柄はチグハグしていた。それに気付きながらどうにもならないのは、ふたりがあまりにも長い時間を共有したからだった。

「二藍に会いたい。連絡取れるだろう? してくれないか?」

「メールしたって返ってこないさ、無駄だよ。諦めなよ」

 いくら堕落して、凶暴化して、狂気を帯びても、何らかの訳のわからない要因で、ふたりはひきあっていた。しかしそれも結局は懐古する日のための産物にしかならなかった。

「ほら、ほら! これを受け取れ――」

 彼はまた金を出した。狂気だと思った。何がそうさせているのか結局、最後まで浅葱にはわからなかった。

 いつの間にかふたりは踏切に戻っていた。突然縹は言った。

「…………今までありがとう」

 その時、浅葱にとっての世界が一変した。警笛とともに、電車が遮断機の向こうを滑って行く。

 浅葱は思った、これで縹とは永遠に会わないだろうと――。

 キーンという電車のブレーキ音が浅葱の意識の中で溶けていった。


 数日ののち、浅葱は薄柿とともに縹の告別式に出た。棺桶の中で眠る彼の顔を眺め、静かな憎悪を煮やした。薄柿も浅葱についたまま、棺桶の中の顔を眺めた。同級生や高校の友人らしき人物が幾人と、二藍も参列していた。

 死んでからもう何日も経っていた。死相は化粧も厚く、彼は人形のような顔で眠っている。――そこにいるのは彼ではない何かだ――とも思える。彼の体は事故の時に損壊がひどかったため、棺からは顔しか見られなかった。しかしそれでも顔を見ることができただけましだと思った。浅葱はいちりんの花を頬のそばに添えた。薄柿も同じくそうした。浅葱ははじめてこの時、縹の両親と面会した。浅葱が芳名帳に記載している際に、縹の母親らしき人が声をかけてきたのだ。まだ若々しい姿のふたりは、彼に寄ってきて、「いままでどうも、お世話になったみたいで」などと話したが、彼は何もないかのようにして「いいえ、こちらこそ」と軽い挨拶をした。しかし胸中では――アナタたちは葵のことをどうお思いだったのですか?――と思った。そして薄柿とともにその場から離れた。

 式場を出るとまだ茶色い葉の茂る並木道に出る。アスファルトの道はかたく冷たい色をしている。その上を浅葱と薄柿は歩いている。縹家という看板を横目に通り過ぎた。浅葱と薄柿は同じ空気の中に白い息を漏らしている。

 パラパラと枯れ葉が舞いおりて、空をこがらしが通り過ぎた。

 彼女は浅葱の腕につかまり、無表情のまま「寒い」と呟いた。そして彼はこの理解し難い心境から少し、口角を曲げたのだった。


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