5.
全米における子供の行方不明の数は、多く見積もって八十万人前後と言われている。
アメリカ国籍を持つものだけではなく、不法入国したもの、移民、彼らの子供たちを含めての数字なので正確な数とはいえない。
州などの地方自治体、警察などの調べただいたいの数字というだけのことだ。
子供といっても乳児からミドルティーンまでと広く幅があるが、それでもまだ大人の庇護下に置かれている年齢層という区分による。
このうち、半分が経済的な理由からの捨て子、家出、四分の一が家族・親戚による誘拐、事故が八分の一、それ以外の何らかの犯罪にかかわりがあるか原因が不明と言われているものはおよそ一割前後と考えられている。
それでも八万人近い子供がいなくなっており、毎日二百人以上が謎の消えている計算になった。
あの、黒人の子供もその一人だったのだろう。
そして、金髪のジルも。
マーティンはそのシーンを偶然見かけてしまっただけだ。
どれほど奇跡的な偶然があれば、たった数日でそんな決定的なシーンに立ち合うことになってしまうというのか。
いや、逆かもしれない。
世の中では、あんなことは普通に起きているのかもしれないだけだ。
真昼間に、何百という人目のある場所で、小さな子供が襲われて消えている出来事が、ごく普通に行われている。
そんなことがあったとしても、子供の行方不明など日常茶飯事の世界にいれば誰も声を上げることはない。
声が上がらなければ誰もなんとかしようとはしないだろう。
なぜ、声を出さないのか。
無関心だからだ。
みな、自分のことが精いっぱいで誰かの存在から目を背けたがる。
近くにいても近くは視えない。
むしろ遠くにいるもののほうが事情を正確に把握できることがあるものだ。
そして、どういう訳か、マーティンは遠くから事態について目視してしまったというだけのことだった。
「……誰もおまえのことを知らないんだとさ」
マーティンは黒人の子供が消えた通りに立っていた。
朝の早い時間だ。
こんな時間から働いている労働者はアメリカにはいない。
通り過ぎるのは、ようやくありついた仕事にいくために二時間もかけるような元失業者だけだ。
職場に通う金もないし、車も持ってない貧乏人が安酒で痛む頭を抱えながらそそくさと歩いている。
それでも仕事があるだけマシというものだ。
ニューヨークであろうと金のない層はだんごのように集まっていて、多少目端の効く連中の餌食になるのが普通だった。
マーティンが酒場から帰る途中に立ち寄った大通りは、そんな閑散とした空気に満ちた場所である。
ウィル・スミスが飼い犬とうろついている映画の様に寂しい光景だった。
あの子供はここで誰にも気づかれずに消えた。
正確にいえばマーティンだけが彼の最期を知っている。
あのあと、どうなったのか、誰も知らない。
もしかしたら母親ぐらいは探してみたかもしれないが、それだって追悼にはならない。
なぜなら、彼がもうこの世にいないだろうことを本当に知っているのはマーティンぐらいしかいないのだから。
不可視の化け物に襲われて消えた少年。
何十万という数字のわずか1単位として消費されてしまった子供のことなど誰がきにするのだろうか。
マーティンは酒場から持ってきたシェイクの缶をそっと置いた。
夕方には清掃人ゴミとして片づけられてしまうはずだが、マーティンにはそれしか差し出すものがなかった。
「―――黒人だと神は偉大なりかもしれねえけどよ」
イラクで散々射ち殺した連中の神に祈るのは冒涜そのものだろう。
苦いものを噛みしめて、マーティンはその場を後にした。
住処まではたったの1ヤード。
十分とかからない。
ふと振り向いた。
ようやくわずかな車が走り出している。
大都会だというのに朝が遅すぎるだろう。
だが、それも仕方のないことか。
誰もが行き来する人目のある場所だというのに、あんなおぞましいものが闊歩しているのだ。
みんな、本当ならば外出したくもないはずだ。
でも、知らないから、目に映らないから、気がつかないから、恐ろしい危険しかない外へと出かけていくのだ。
子供を狙う妖怪―――ペ・デ・グラファがいるとわかっていないから、罪もない無垢な我が子を遊ばせてしまうのである。
いや、中にはわかっていて子供を解き放つものもいるに違いない。
貧しさに耐えきれずに、自分の子供を妖怪の餌食にしてしまうものも。
親や大人が子供を見捨てればもう誰も彼らを庇うものはいない。
守るものはいない。
あの熱砂の地で意味のわからない多くの装備を渡されて、祖国を踏みにじる悪党としてイラク国民に、原理主義の狂気に憑りつかれたテロリストに狙われ続けた海兵隊の仲間たちのように。
マーティンは顔を伏せて家路へとついた。
◇◆◇
「ジル、どうしたの、急に立ち止まったりして」
大好きな母親に言われて、四歳のジルは足を止めていたことに気がついた。
どうしてだろう。
耳元で変な音がしたのだ。
「うー」
繋がれていた手を離し、両耳を抑えた。
「耳がキーンとしたの」
音がしただけでなくてなんとなく耳の穴が痛かった。
こんなことは産まれて初めてだ。
四年程度しか生きていないけれど、ジルも生物である以上痛みというものには敏感だ。
「あら、気圧が変わったのかしらね。もう季節の変わり目だから」
キアツ、カワリメ、そんなことはしらない。
ただ、耳がキーンと痛くなっただけなのだ。
ジルは少しだけ涙が出そうになった。
わんわん泣くほどではないけれど、無性に厭な気分になる痛みだった。
いやいやをしながら公園の芝生にぺたりと座り込んだ。
「どうしたの、ジル? どこか痛いの?」
母親も膝立ちしてジルと目線を合わせてくれたが、それではすまなかった。
もうすぐお日様が沈もうとしている方角を見て、ジルはコワくなった。
そこに黒い靄の様なものが立っていたからだ。
過去形なのは、その黒いものがまるで煙のようにあっという間に消えていってしまったからだった。
ジルがたった数回瞬きをしている合間のできごとだった。
「!?」
さっきの痛みもそうだったけれど、たった四年しか生きていないジルには初めてのことばかりだった。
いったい、何があったのだろう。
涙目になりつつ顔を上げたジルは少し先の芝生から今度は白い煙がでていることに気がついた。
こちらもすぐに消えてしまったが、這い這いしつつそこに近づいてみた。
芝生の草がめくれていた。
小さな穴が開いている。
ジルがママからモグラさんの穴だと教えられているものだった。
思わず手を伸ばしてみた。
その差し出された手は、誰かが握りしめてくれるための手だった。
小さな芋虫のような指が堅い小さなものを摘まみだした。
なんだか温かい。
石にしてはちょっと硬くて異物感があった。
ジルは何故かそれを大切に掌に包み込んだ。
将来、彼女がこの小さな塊の正体に気が付くことは決してなかったが、どういうわけかずっと大事に捨てることなく宝石箱の片隅にしまっておくことになる。
そのちっぽけな.300 Win Magの弾丸は、彼女の御守りとなるのであった。
―――「いい腕だ。君の名は?」
「マーティン」