3.
マーティンは暇なときに、愛用するスコープの手入れをすることで時間をつぶすことにしていた。
といってもスコープの中には不活性ガスが充填されているので、分解でもしようものならすぐに曇りやすくなり、ただのゴミとなってしまう。
そのため狙撃手にできることは常にキャップをつけてレンズ表面に異物が付着しないようにすることと、付着してしまったら速やかにブロワーブラシで空気をふきかけて排除することぐらいのものである。
だから手入れといっても、レンズ以外の部分をよく磨きあげることだけしかできないのだが、マーティンはことあるごとにスコープの手入れをしていた。
銃を構えたまま親指で開くバトラーキャップもなんどか取り換えた。
光の反射を抑える為のサンシェード、敵兵のレーザー光を反射させるハニカムなども何種類もっているかわからない。
愛用のレミントンそのものより、スコープの方に重点が置かれているといっても過言ではなかった。
狙撃手が誰にも見つからないようにするためにもっとも必要なのはスコープだ。
銃そのものばかり気にしてスコープの重要性をおろそかにすれば、すぐに発見されてしまう。
サプレッサーは射撃直後に見つからないようにするためには大切だが、その前に隠れ場所が突き止められるとしたら、レンズの反射ほど危険なものはないのである。
それに自分の目を疎かにするものはいないだろう。
マーティンはいつもそう考えていた。
「一」
マーティンは海兵隊にいた。
イラクの地で予想以上に機能しなかったものは海兵隊のスキルだ。
もっとも、海兵隊員個人の技術が未熟だったのではなく、当初は支給された通信器具の種類の多さによる停滞が大きな理由といえた。
上層部が目指した「完全シームレスな情報統制」のために、「あらゆる事態、あらゆる状況」に備えた通信システムが用意されたが、それは複雑極まりなかった。
簡単にいうと多種多様な通信機器の併用を要求されたのだ。
結果として、統制されていない多種のシステムを同時に運用するために、ヘルメット型のヘッドセットを被りながら、二つ以上の通信機器をぶらさげて、通信する相手によって選択する判断をしなければ作戦行動ができないという無意味さを招いた。
「この戦争で一番活躍したのはC3の車に乗った連中さ(C3=命令および戦場情報を徒歩の戦闘員に中継する指揮統制車両のこと)」というジョークがジョークにならないぐらいであった。
相互に直接連絡できないシステムを使って進軍しなければならないという状況は混乱を招き、どんなに歴戦の兵士でも難しいものとなる。
特に突出した侵攻に投入されやすい海兵隊にとってはハンデ以外の何物でもなかった。
そのためスナイパーであるマーティンは味方を保護するためにと言い訳をして、直接の上官と僚友以外からの通信をカットして戦場に挑んだ。
むしろ、その方がうまくいった。
マーティンはただ潜み隠れ、敵の位置を探り、味方に告げ、そしてチャンスがあったら排除すればいい。
彼は守護者だった。
誰にも悟らせず、誰にも見えない敵を始末する掃除人。
味方は戦場が戦場でなくなったあとに、マーティンが静かになにをしていたのかに気が付くのが常だったのだ。
それは戦争が終わり、イラク軍ではなくテロリストとの戦いに移行してからも変わらなかった。
タンスの中のブギーマンはじっと身を潜めて獲物を狩り続けていたのだ。
「二」
マーティンは自分の部屋のある狭いアパルトマンの窓から下を見た。
汚らしく狭い路地しか見えない。
あえて利点を挙げるとしたら、どこからも狙撃されないということだけだ。
部屋を借りるときにマーティンがこだわった条件はそれ一つだ。
スナイパーだったものが、どこからでも狙撃できるような場所に住むわけにはいかないだろ。
五階建ての窓から下を見ても三十メートルほどしかない。
敵が接近していたとしても、レミントンを使えば目を閉じていてもあてられる距離だ。
1000ヤードホルダーの彼からすれば、これほど近すぎる狙撃など子供用のバスケットリングにダンクをかますぐらいに容易かった。
「さて、仕事に行くか」
また独り言だ。
結婚でもすれば変わるかもしれないが、どうもそんな気にはなれない。
結局、孤独なスナイパーの生態が性に合っているということなのだろう。その意味では、現職もそれほど悪いものではない。
マーティンの職場は路地の裏にある細長い店の半分にあたる酒房の切り盛りだ。
ビールやらウイスキーやらを馴染みの店から仕入れ、たまに常連客のリクエストに応じた酒も仕入れておいて、それをグラスに注いで売るだけだった。
食い物は店の前半分を占める軽食堂のあまりものでこと足りる。
売り上げのほとんどは酒がしめているのだから。
忙しくはないが、たいして金にもならない仕事だった。
とはいえ、イラク復員兵の狙撃以外はなんの能もない中年男にとっては、仕事があるだけでもありがたい。
ほとんど酒も嗜まないマーティンなので、愛用のレミントンの弾丸が必要な分買えるだけ稼げれば、あとは食っていければ文句はなかった。
オンボロでも空調機が作用する客席ならばともかく、カウンターの中はいつも湿気が強く、毎日不愉快になれるのがよくない点だが。
派遣されたのが中東ではなくかつてのベトナムだったら、湿度に弱いマーティンは三日ともたなかっただろう。
引っ越して以来一度も洗ったことのないカーテンを閉めようとする。
たまたまさっきまで手にしていたスコープを手にとった。
パララックス(視差)を調整していないことを思い出したのだ。
マーティンの好みはフォーカスリングが横についたサイドフォーカスなので、左手で持って右手で回すことになる。
微調整は次の遊びのときにすればいいが、放っておくのはスナイパーとしてなんとなく気持ちが悪い。
身体を捻り、窓枠に腰掛けて、路地の反対側をスコープで覗きこんだ。
表通りまで300ヤードというところで、さらにその先のメイン・ストリートまで含めればマーティンの得意とする1000ヤード。
怪しまれたくはないので、今までは一度も外をスコープで覗いたことはなかった。
その日はたまたまだった。
1000ヤード先ではそろそろ家路に帰るものたちが通りをせわしなく行き交っている。
表通りよりも人が多いので目標もより取り見取り。
一人を標的に見立て、レティクルを合わせて鮮明に映るようにした。
長身で丸々と肥えた銀髪の紳士がいたので、彼を選んだ。
揃いのスリーピースにタイという姿は季節と色違いのサンタクロースのようであった。
プロのスナイパーなので視差の調整は一瞬で終わった。
狂ったギターの調弦よりも簡単な作業だ。
サンタクロースの顔もはっきりと見えたし、レミントンがあれば一発で仕留めることもできるだろう。
思わず口から出た。
「ばん」
空想の中で銀髪紳士はぶっ倒れた。
だが、そんな悪戯な気分もすぐに吹き飛ぶ。
マーティンはサンタクロースのすぐ後ろに忍び寄る影を見てしまったからだった。
昨日見た、あの嫌悪と不安を湧き立てる湾曲した四肢をもち、盛り上がった背中を持つ歪な黑い影を。
そいつは跳ねるようにサンタクロースの隣をすり抜け、そしてその手前を歩いていた黒人の子供の首に触れたように思えた。
マーティンの眼が剥きだされた。
次の瞬間、黒人の子供が前のめりに倒れたからだ。
まるで、そう、スナイパーにでも撃たれたかのように。
しかし、そんなことがある訳がない。
あんなに人通りの激しい場所で背も低い子供を狙えるスナイパーなどいない。
そして、何よりもマーティンにはわかっていた。
黑い影があの子に何かをしたのだ、と。
何よりも問題は子供が倒れたことに誰一人気づかず、驚くものすらいなかったということだ。
そのまま行き交う人の群れの中に子供は消えていった。
だから、子供がどうなったのかはマーティンの位置からはわからなくなった。
何よりマーティンは誰にも気づかれることなく撥ねるようにその場を立ち去る影をスコープ越しに追うだけで精いっぱいだったからだ。
10倍の倍率ではスコープの視野で追うことは難しい。
だが、1000ヤード先の光景を肉眼で追うこともまた不可能だ。
マーティンは必死に影の姿を追ったが、すぐに見失ってしまった。
掻き消えたわけではない。
ただ人混みに紛れたのだ。
誰にも気づかれず人間たちの群れにカメレオンのように変色するでもなく消えていく影をマーティンはなすすべなく見送るしかなかった。
「どうしたらいいんだ―――?」
またも目撃してしまった異様な怪異のせいで、マーティンは何かを考えることさえできそうもないほど疲れてしまっていた……